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願いとは裏腹に進む

 ――恐らく私はもうすぐ……死にますので。

 先ほど聞いた月読の言葉が耳の中で反響して、消えてくれない。

 未来が複雑に分岐してしまっているからこそ、月読にも視えない。そう思う方に賭ける。あの時告げた気持ちに嘘はないし、今だってそう思っている。

 だが、漠然とした不安が消えないかと言われれば、全く以て別問題で。

「風巻、」

「……ん?」

 月読を送った帰り道。ふと呼ぶと、隣に立つ風巻はいつも通りの様相でこちらを見てくる。

 近くにいるはずなのに。彼が何処かに行ってしまうはずがないのに。でも、遠く感じる。どうにも説明できない感情が込み上げてくる。

 月読だけじゃない。風巻まで、遠くに行ってしまおうとしているのではないか、なんて。

「……風巻も、気をつけてね」

 仰いだ空は重たい色を孕んで、冷たく雫を落とす。おれの心が反映しているのか、それともそういう空を見ることで気分が沈むのか。どちらでもないようで、どちらでもある気がする。

 彼の答えを待たず、おれはただ歩き続けた。跳ねてきては枷のように絡みつく泥が鬱陶しい。そのくせ、足止めされるになっていたい気持ちもあって。相反する自分の感情を持て余す。

 おれはいったい、どうしたいのだろう。

 少しの間立ち止まっていた風巻はすぐに追いついてきた。間もなく、頭を撫でられた感触がして、馴染み深い大好きな温度を感じる。

 こうしてもらえることで安心するのに、不安にもなる。また一致しない感情だ。どうしようもない。

「どしたの?」

 笑顔で首を傾げると、彼は何とはないと言うように笑った。

「弟撫でるのに理由なんかなくっていいだろー」

「わーっ」

 思いっきりぐしゃぐしゃと髪を搔き混ぜる大きな手が、切なさを運んでくる。楽しいのに。嬉しいのに。理由なんてひとつも分からなかった。


 ただおれは、「帰るぞ」と背中を押される感触を、それをもたらしてくれる人を、護りたかった。護りたかったんだ。


「お前、この後何か仕事ある?」

 本拠地が見えてきた頃、不意に風巻が訊いてくる。おれは目を瞬かせ、少し考えてから首を振った。

「じゃー、ちょっと部屋寄ってって。渡すものがあってさ」

「分かった」

 笑んでいる彼に向かって自分も笑って返して、団員の妖狐の少女が持ってきてくれた桶で足を洗う。

 風巻に褒めて頭を撫でてもらって嬉しそうにしている彼女を横目に見、おれは微笑んだ。

 明日が戦だなんて思えないほど平和な光景。こうした毎日が普通だったはず。つい先日まで異常な光景などではなかったはずなのに、物珍しく感じてしまう。おれもきっと『異様』に染まってしまっていると考えると少し悲しくなった。

 二人並んで風巻の自室に向かって、促されて入った部屋の中でやはり促されるままに座った。放浪癖のために彼はこの部屋も空けがちだけど、団員がきちんと掃除をしてくれているからか埃臭さはない。

 胡坐を掻きつつ風巻の様子を見ていると、荷物から何かを取り出そうとしているらしい。不思議に思いつつもその格好のもままじっと待った。

「手ぇ出してみろ」

 間もなく、風巻はそう言ってこちらを振り返った。

「ん?」

 目を瞬かせたが、大人しく従って右手を出す。その手のひらの上に載せられたものに驚いた。


 それは、黒漆の鞘に納められた一振りの懐刀。


「……懐刀?」

「そう。今からお前のもの」

「おれに?」

 目を瞬かせると、風巻は笑ってみせる。

「約束したろ。いつになるかは分からないけどって」

 ――そんなに好きなら、次に時間ができたらお前に作るか。

 確か、彼が今腰に携えている刀を鍛えた直後、それを見せてもらいながらくれた言葉。おれがあまりに興奮して褒めちぎるからか、風巻はそんなことを零していたのだ。

 団の成立直後でもあって、北の団と縄張りの範囲を交渉していた頃の出来事である。もう三十年以上は前のことだろうか。約束は決して破らない風巻は、ちゃんと覚えていてくれたらしい。

「ありがと!!」

 嬉しくて嬉しくて、つやつやとした鞘を何度も撫でる。気持ちが高揚しているせいで己の声が少し大きくなっていることを自覚していても、全く気にしていられないぐらいだった。抱きしめるようにして持つと手にしっくりと来るし、彼の腕のよさが端的に示されている。

「どーいたしまして。せっかくだから抜いてみたら」

 いつものようにけらけらと笑った義兄の言葉に従い、ゆっくりと鞘を取り払う。

 あの日に見せてもらった刀と同じだ。感嘆の吐息が漏れるほど、総てが美しい。

「綺麗だな……」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

 見入りながら思わず零すと、風巻は再び笑った。

「風巻が鍛えたなら綺麗に決まってるよ」

 視線を彼に移して大真面目に言う。

 彼はそれにまた笑うけれど、彼の手に触れれば分かる。職人然とした、少し硬くて厚い大きな手。そういうものを持っている人が、作品に妥協することなど絶対にない。どれほど学び、そして試行錯誤しながらひとつの作品を作り上げるのかを理解することはおれにはできないけれど、それだけは分かるから。

「職人冥利に尽きるわー。そういえばその刀な」

 風巻の語調が少し変化した。首を傾げると、真剣な目がおれを射抜く。

「さっき月読に渡した鏡みたいに、持ち主を守るシュがかけてある。それが発動する機会なんかそうはねぇだろうけど、誰かに一瞬でも貸したりするなよ? いざってとき発動しないからな。幹部の誰かでも、月読でも、簡単に渡しちゃ駄目だからな」

 言い聞かせるようなのは、もしかすると彼も嫌な予感を覚えているからなのか。おれのように。

 確かめるために自分の不安を口にすることが怖い。言の葉という形に変えてしまえば、もう何もなかったことにはできないし、それこそ本当になってしまう気がしてたまらなかった。

 おれは、弱い。

 今さら自覚した事実が肩にずしりと伸しかかる。強く在らねばならないこんな時期に、おれはいったいどうしたというのだ。

「分かった。風巻の言うことなら絶対守るよ」

 結局触れず、もうひとつの真実の気持ちを以て誤魔化した。

「そっか。まあ、見せるくらいなら構わないしさ」

「うん」

 懐刀を元通り鞘に納めながら頷く。その様子を眺める義兄の視線を感じながら、いつも通りに笑ってみせた。

「里の皆は元気?」

「元気元気。……人里の方はちょっと病が流行ったけど、幸い死人は出なくてさ」

 病というのは初めて聞いた。驚いてまなこが大きく開き、表情が歪む。

「そうなの? それならよかったけど……」

 そういえば、帰ってきた時に「遅い」と寒露が文句を言ったら、彼は少し浮かない様相を浮かべていた。それに寒露はもちろん俺も驚いたけれど、それがなかなか帰ってこられなかった理由なのかもしれない。

 風巻の出身である深山の里は、人里の近くにあるという。彼にとってはそちらの人々も家族のようなものだろう。そこで流行病となったら、心配になるのは当然だ。

「もうみんなぴんぴんしてるよ、心配すんな」

 おれの顔を見てか、うりうりと力を込めて撫でられた。満面に笑みを浮かべるおれを見て彼が笑って、おれはそれが更に嬉しくて。

「……なぁ、久遠」

 しばらくそんな時が流れたが、ふと風巻がおれを呼んだ。

「何?」

 首を傾げると、彼は少し遠くを見るような目をしている。それに目を瞬かせた。

「昔、父親に言われたことがあってさぁ」

「うん?」

 唐突とも思える話し始め。でも、今持ち出したということは何かしらの意図があるはずだ。だからただじっと言葉の続きを待った。

「オレが里を出るより少し前にさ。『ここで人間と平和に暮らせるなら、それほど幸せなこともない』って。……まあ、それに満足できなかったからオレは今ここにいるわけだし、それを後悔したことはないんだけどさ」

 口調は普段と変わらない。訥々(とつとつ)と話す風巻をじっと見つめ、彼が何を言わんとしているのか聞き逃さないように耳を澄ませる。

「まあ、言いたかったことは分かってる……つもり。一度争いに足突っ込んだら、戻れなくなるんだよなぁ、きっと。オレはそれもありだとは思うけど。――お前は?」

 戦いに限らず、一度手を伸ばしてしまえば、もう二度とそれ以前の状態に戻ることはできない。迷っても後悔しても、進むしかないのだ。だけど、それ以前に、おれはひとつ自分自身にも刻み込んでおかなければならない。

「……後から戻りたいと思うようなら、最初から決断しないよ」

 微笑むと、風巻は優しく背中を叩いてきた。

「そっか。それだけ聞けば十分だ。頼むぜ総大将」

 彼の目に、声に、立ち姿に、おれは今までどれだけ助けられてきただろう。風巻がいつも迷わないからこそ、真っ直ぐに前を見据えて立っていられるのだ。背中を預けていられる人がいるからこそ、おれは振り返らないでも安心していられるのだ。

「そっちこそ、頼むよ奇襲部隊」

「りょーかい。任せとけ」

 笑い合い、肩を叩き合う。彼の笑顔が視界の端に焦げ付くようだった。むしろ焼き付いて離れなければいいとも思う。この胸に渦巻く嫌なものが消えてなくなってくれるのなら、それで。

「……風巻?」

 そんなことを思っていたからだろうか。自分でも無意識に彼を呼んでいた。

「ん?」

 袖口を摘まむおれの手を見ながら、風巻は首を傾げた。

 優しい顔を見ていたら、何だか無性に泣き出したくなる。やはり自分でも意味が分からない。己の感情を律せないなんて、子供のようだ。

「…………、ごめん、何でもない」

 言わないと決めたなら、封じ込めなければ。いつも通りに笑ったけれど、風巻にはすべてお見通しだったようで。

「……何でもないって顔じゃねぇぞ」

「んー……弱音みたいな感じだから」

 困ったように頭を撫でられ、おれもそれに困ってしまい眉を下げる。

 だが、風巻はいつだっておれの想像の向こう。

「言えばいいじゃん」

 一点の迷いもない言葉。

 ああ、おれは、彼のこういうところにどうしようもなく憧れるんだ。

 それでも、しばらくは口にしていいものかどうか逡巡した。本当に現実になってしまわないか、それだけが怖い。他の何を失ったとしても、風巻だけは嫌だ。嫌なんだ。

「…………何処にも、行かないでね」

 溢れ出した思いを形にしたものは、酷く掠れていた。

 驚いたように目を瞬かせる風巻を見、言わなければよかったかとほんの少し思うも、優しく背中を撫でられておそるおそる顔を上げる。

「……行かねぇよ」

 何処までも柔らかい声に、また目頭がじわりと熱くなった。

「行ったら来世でも恨むからな」

 それを隠すように彼にしがみつく。背に触れる手は変わらずあたたかい。

「怖いこと言うなよなー。そりゃオレはふらふらしてるけどさ、最後にはちゃんとここに帰ってくるよ。いつもそうだろ?」

「風巻は約束破らないもんな」

「破んねぇよ。破ったことないだろ」

 黒いものが、徐々に払われていく。そうだ、何をそこまで怯えていたのだろう。風巻が決して約束を破らないこと、知っていたのに。

「おれも、何処にいたってお前を見つけるよ」

 だからおれも、風巻には嘘をつかずに向き合っていたい。

「何だよ、探しにまできてくれんのか」

「おれ、一人が一番嫌いなんだもん」

 笑いながら本心を紛れ込ませる。

 一人は、独りは、寂しい。

 里を喪った時の絶望も、翠子と永遠に別れた日の胸の痛みも、与吉にさようならすら言えなかった苦しさも、全部忘れられずにこびりついている。あんな思いはもう二度と御免だ。

「じゃあもし戻るに戻れないときは、いっぱい引き連れて探しにきてくれるか? そうすれば行きも一人じゃないだろ」

「もちろん。皆で探し出してみせるよ。で、寒露に怒られるんだ」

 冗談めかすと、風巻は真顔になって「寒露は別にいいや。玻璃と鈴菜と月読が怖い」と呟いた。確かにその女性陣は怒らせたらだいぶ怖いし、おれもあまりその場面は想像したくない。

「炎と鈴と霊力が迫ってくるよ、頑張れ」

「女の子には逆らわない方がいいんだよなぁ」

「それだけ風巻は皆に好かれてるってことだよ」

 肩を竦める彼に腹を抱えて笑ってから、心から思っていることを紡ぐ。


「その前にお前の味方だけどな」


 笑いながら返された言葉にどれほど胸が震えたかなんて、彼は知る由もないだろう。

「おれだって風巻大好きだもん。団の中じゃ負けないよ」

「そりゃ嬉しいなー。オレもお前の味方だから決着つかないんだけどなー」

 頬を挟まれうりうりとされる。おれの頬が柔らかいからか、風巻は昔からこうすることが割と好きらしい。

「両方とも一番ってことで!」

「それが平和だな」

 もがもが変な声を上げているおれに楽しげな様相をしつつ、風巻の手は離された。温度も遠のいて、また少し寂しくなる。それを打ち消すようにして彼の目を真正面から射抜いた。

「……だから、絶対絶対帰ってきてね。約束、破るなよ?」

 ――お前、もっかいオレと会うまで生きてろよ。約束約束、せーりつな、破んなよ。

 いつかの台詞のお返しのようなものを発して笑うと、風巻の脳裏にも浮かんだようでけらけらと吹き出すように笑い声を上げた。

「分かった。約束」

 彼の返答にほっとして頬を緩めると、

「久遠さまー風巻ーご飯ですよー!」

そんな鈴菜の声が響いた。

「夕餉だ。行こう」

「そうだな」

 頷いて頭をうりうりと撫でてくれる彼にまた笑い、大部屋へと向かう。

 挨拶の後、一生懸命に食べる子供たちを見守り、いつも通りにおいしい食事に舌鼓を打った。

 食後は明日の細かいことについて幹部たちと話し合って、早く寝るように団員たちに促して。そうやってひとつひとつをこなしていくうちに、更に実感させられていく。戦は近いのだと。

「終わった?」

 奇襲部隊である天狗たちと話し合っていた風巻がこちらによって来るのを見、首を傾げる。

「ん、とりあえずは」

「じゃあ部屋戻る? 皆には早く寝るように言ったんだけど」

「そうだな。しっかり休んどいたほうがいいし」

 頷く彼ににこにこと笑顔を向けながら、自室の方に歩いていく。並んで歩く彼を見上げるようにしてじっと見た。

「ねーねー風巻」

 これから言おうとしていることの内容からして、少し内緒話をするかのような調子になってしまう。

「ん?」

「今日一緒に寝てもいいー?」

 耳を寄せてくれたので、そこに向かってまた囁くようにして尋ねた。

 風巻は吹き出すようにして笑い声をあげてから頷く。

 こうして兄弟として過ごすことのできる時間はとても貴重で、大事だと思っているけれど、もしかすると久々の大規模な戦の前で緊張しているのかもしれない。自分でも意識してはいなかったが、多分――揺らがない風巻の傍で、安心したかったのかもしれない。

「やったー」

「じゃあ準備して来たら」

「うんっ」

 おれのあまりに嬉しそうな様子に彼はますます笑っていた。視界の端でそれを確認しながらも一旦は自分の部屋に入り、布団を彼の部屋へと運び込む。風巻の寝床が用意された隣におれも寝床を作り、おれはそのまま潜り込んだ。

 風巻は床に入る前に明かりを消しているらしい。その気配を感じながら、天井を見つめる。

「ねぇ風巻?」

「……ん?」

 隣に寝そべった彼が、こちらを見ている。分かっていたし、言いたいこともちゃんとあるのだけれど、喉の奥で突っかかったようになって出てこない。

「……やっぱり何でもない」

 仕方なく、本日二度目のそんな台詞で誤魔化すことにした。

「絶対何でもなくないだろ」

 しかし風巻には当然ながらお見通し。即答され、躊躇のために押し黙った。

「久遠?」

 いつまで経ってもおれが何も発しようとはしないからか、風巻の声色は心配そうだった。そんなふうに気を遣わせてしまうのが申し訳なくて、でも相変わらず言葉は雁字搦めに自分の身体に絡まったままで。

 風巻の腕をぎゅうっと掴む。何処にも行ってしまわないように。約束してくれたのだから、と思う自分がいるのに、しつこく胸に居座り続ける不安。

「どうしたんだよ」

 大きな手が頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。いい加減言わなければと何回か呼吸を繰り返し、ようやく言葉は飛び出した。

「ちゃんと首飾り持ってる?」

 翠子が作り、父へ贈られ、母から月影へと渡り、最終的におれが風巻に預けたあの首飾り。

「持ってるよ」

 すぐに頷いてくれたことにほっと息が漏れる。

「なら、よかった」

 妖力を高め、何処にいても大切な人を見つけてくれる。この首飾りにおかげで、おれが本拠地にいないときでも彼はきちんと見つけ出してくれた。

 そしてもうひとつ、重要なことがある。おれはあれを持っている間、危ない目に遭いながらも生き延びた。きっと翠子の守護の念のようなものが込められているのだと思う。

 おれを守ってくれたのなら、風巻のことも守ってほしい。おれから大切な人を奪わないでほしい。もう二度と。

「お前、今日なんか変じゃねぇ?」

 笑ったからか彼もまた笑ってくれるが、当然ながら表情から怪訝そうな色は消えない。

「さっき言おうとしたこと、本当にそれだけか?」

 繰り返し頭を掻き混ぜる手の力を感じるたび、眼裏に双念の影がちらつく。月読と話している彼の瞳に見えるくらさが。

 あの昏さが、風巻にも向けられたら?

 想像をしてしまってから後悔する。思わなければ、気づかなければ、まっさらでいられるのに。

「風巻大好き!!」

 打ち消してしまいたくて、彼にしがみつくようにしてぎゅっと腕に力を込める。

 こうしている間中は、消えてしまったりしない。ずっと此処にいるのだ。言い聞かせて、刻み込ませて、他の嫌な想像を消し去りたい。

「あーはいはい、忙しいなお前は」

 しがみついた彼の肩があたたかい。繰り返し頭を撫でてくれる手もあたたかい。

 冷たくなった翠子の手を思い出してしまってから、何とか嫌な考えを打ち消した。

 こんなにもあたたかいのだから、彼女と風巻は違う。

「――風巻は、絶対幸せになってね」

「……何だよ、ほんとにどーした」

 聞き取ってもらえるかどうか自分でも分からなかったものを、しっかりと拾い上げてくれる義兄の、優しい声。

「おれは幸せだから」

 こうして一緒に寝てくれて、穏やかに言葉を交わすことができて、あたたかさに微睡むことができる。これ以上幸せなことなんてあるだろうか。

 おれは一人になる怖さを知っている。寂しさを知っている。誰かが『あたたかい』ということが、どれほど貴重なことなのか、分かっている。

 大切なものをたくさんくれる彼には、同じぐらい幸せになってほしいのだ。

「……そっか。オレだって幸せなんだけどな。……それと」

 声が眠そうだったからだろうか。寝かしつけるように背中を叩いてくれながら、風巻は呟くように言う。

「ん……?」

 抗えない眠気に意識を浸食されながらも、言葉が半端に途切れたことは分かった。瞬きを繰り返して睡魔をこらえながら、風巻を見つめる。


「あんまり考えすぎんなよ。オレも他の奴も、お前の判断についてくのは自分がそうしようと思ったからだ。春永はるながが迷ったり不安に思ったりするなら、オレらも一緒に考えてやれる。だから、自分だけで抱えるなよ。な」


 その名を呼ばれて紡がれる言葉は、ずしりと胸に響く。もはや彼しか知らない名前。決して普段は呼ばれることのない、本当の名前。

 真名に恥じることがないように生きたい。こうして何度でも呼ばれたいし、彼の真名も呼んであげたい。呼ばれることがなくなってしまえば、忘れ去れてしまえば、そもそも存在しなかったことになってしまいそうで嫌だから。

「……ありがと、紅霞こうか……」

 おれには春永と呼んでくれる風巻が――紅霞がいる。一人じゃない。

 しっかり心に留めてから答えるとほぼ同時、意識を手放した。深い深い夢の世界に向かって。



 ――そうしてとうとう、戦いの朝が来る。

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