問い直される覚悟は
優しい月の光の下で生きられたなら
どれほど幸せだったのだろうか
● ● ●
「お願いがある」と口にして以後、月読は少し迷うように唇を引き結んだまま何も言おうとしない。
膝の上でしっかり握りしめられた拳。その指は、強い力が込められているからか白くなってしまっている。
「……月読?」
おれはそんな様子に少し心配になりつつ呼びかけた。
反応して顔を上げた月読は、覚悟を決めたように懐へと手を差し入れる。
目を瞬かせると、布へ几帳面に包まれた何かが二人の間に置かれた。
眉を顰めてそれを見下ろしてから彼女に視線を戻す。月読はその視線を受け止め、淡く微笑んだ。
「私の、鏡です」
「鏡……って、いつも使ってる……?」
「はい。あの鏡です」
それは分かった。しかし、どうしておれに差し出すようにしてくるのだろう? 怪訝な思いが消せない。
月読は相変わらず淡く微笑んでいて、その顔は何か、憑き物が落ちたみたいにすっきりとしている。
嫌な予感が徐々に背中を這い上がってきた。
彼女が何を言おうとしているのか、分かるはずもないのに分かる。
「この鏡を、預かっていただけませんか」
聞き間違いだと思いたかった。だけど月読の声はいつも通りに凛としていた。聞き間違えようもないほどに。
「――どういう、こと」
深い呼吸を繰り返してどうにか冷静を装う。
月読がそんなことを言い出す意図を掴めない。
巫女は決して鏡を手放さない。それは常識である。巫女として生き始めたその日に与えられ、辛いときにも幸せなときにも常に一緒なのだと――分身のようなものなのだと。
そう語っていたのは誰でもない、目の前にいる彼女だというのに。
「今年の春ごろから予兆はあったように思いますが……はっきり感じ始めたのは夏からです。私の霊力は、徐々に衰えています」
半ば放心したように動けないおれに申し訳なさそうに笑って、月読は言葉を続けていく。
「察知できていたはずの距離にいる妖怪に気づかずに進入を許してしまったり、長の役目である国守りの結界をこれまでの強度で維持できなかったり……最近では、先見の力も失われてしまいました」
淡々と語られる事実は、本来ならとても大きなことだとおれでも分かる。だってそれは、彼女が『月読』たる理由を奪われているのと同義だから。
『月読』という名は「その時代で最強の巫女に与えられる」もの。彼女の力が十人並みにまで落ち続けたら、名乗ることは許されなくなるのだ。
彼女は生まれた時から強い霊力を持っていて、社に預けられた瞬間から『月読』となったと聞いている。つまり『月読』でない時を知らない彼女が、支柱たる「その名前を冠している」という誇りを無理矢理剥がされてしまったら、なんて、想像に難くない。
おれは『久遠』という名を継いだ者であるし、受け継いできた理想を叶えるために生きている。逆に言えば、その誇りを奪われては生きていくことができない。そういうところは似た者同士だと思う。
「いつまでこの名を私のものとしていられるか……分かりませんが。でも、今は『月読』であるからこそ、鏡を手放さなくてはと思いました」
「……ごめん、おれの頭が悪いのかもしれないけど、だったらなおさら手放さない方がいい。だって、身を護るものがなくなっちゃうじゃないか」
中央の団の縄張りは他の団に比べて遥かに広いし、確かに彼女へ手を出すような妖怪はいないだろう。
そうはいっても、武蔵国から見ればおれの力が及ぶ範囲など狭い。日ノ本となったらなおさらだ。
悲しいことだが、妖怪の総てが俺たちのような思想を持っているわけではない。総ての巫女の頂点と言っていい『月読』は、そういう奴らに真っ先に狙われるだろう。『最強』を倒したとなれば箔がつくだとか、彼女に親兄弟や仲間を殺されただとか、くだらないものから理解ができなくはないものまで、様々な思い故に。
いつも背筋を伸ばして月読は立っているけれど、その場所を支える土台は酷く脆い。もちろんたくさんのヒトから愛され、感謝や尊敬をされているが、その裏には妖怪たちからの逆恨みや憎悪が存在する。もしかすると、彼女の人となりをよく知らない他の巫女たちからの妬み嫉みだってあるかもしれない。
そういった者たちにもし霊力の弱体化という事実が露見し、一時に襲いかかられたとしたら、いくら月読とはいえ丸腰で敵う相手ではない。弱っているならますますのことだ。
「はい。久遠さんがおっしゃることもまた事実です。私も悩みました。ですが、どうしても預かっていただきたいのです」
行き場を失くしたように二人の間へと置かれたままの包み。おれの様相は確実に困ったようなものになっていると思うのに、月読は譲ろうとしない。
彼女の揺るがない一本の芯のようなものをとても美しいと思うけれど、今回ばかりは少しだけ憎らしく感じられる。簡単に揺らぐような人だったら恐らく彼女を愛おしむことなんてなかったと分かっていても、今回ばかりは譲ってほしかった。
「たとえばその時点で『月読』の座を失っていたとしても、一度はその名跡を継いでいた者の――『最強』の者が、直接武器として使っていた鏡です。強く力が残ります。悪事に利用しようと思えばいくらでも利用できるはずでしょう。この乱世、権力争いにだとて有用かもしれません」
おれたちは比較的穏やかに過ごしているから頭の端に追いやられてしまいそうにもなっていたけれど、人間の世は間違いなく荒れている。つい先ごろにも尾張国で大きな戦があったと聞いたばかり。戦乱は治まるところを知らない。
その余波が妖怪にも大なり小なりやってきて、影響を及ぼしている。好むと好まざるとに関わらず。
「呪術に多少なりとも知識があるような者であれば、人間妖怪に関わらず強い力を発揮できるでしょう。どんな流行病より、どんな飢饉より、きっと多くの死者をもたらす。思い通りに動かすことだって可能かもしれない。そのような事態は何よりも避けたいのです」
巫女は何のために存在するのか。何故戦うのか。どうして月読がおれたちと協力しようと思ったのか。
それはただひたすらに、『巫女として』皆を護りたいからなのだ。
「お願いします。たとえ死しても、私は巫女で在りたい――護る存在でありたい。誰かを傷つけるために鏡を利用されるなど耐えられません。誰に預けるか様々な人たちを思い浮かべましたが……貴方に、預けたいのです」
言い切ったのち、畳に手を突いて深々と頭を下げる。
それを見て、おれは困り果ててしまった。
抱えているものの規模は比べようもないけれど、上に立つ者としての思い。そして理想を掲げる者としての思い。そういうものを分かってしまう。
でもおれはその前に一人の存在で。月読をただの女の子として想っていて。命を守る手段を彼女がみすみす手放そうとしている状況を考えれば、受け取りたくない。
「月読、お願いだから頭上げてよ」
弱り切った情けない声は、ふたつの思いの間で揺れ動く心情をそのまま反映していた。
深く一礼したまま首を振る彼女は聞きそうもない。眉根を寄せて頭をがりがり掻いたが、その時ふと物音がした気がした。話に夢中になるあまり気づいていなかったけれど、風巻の匂いがごく近くからする。
「……風巻?」
襖の外にいるのだろうか。
立ち上がって開け放つと、確かに彼はそこにいた。そっと立ち去ろうとしていたところだったらしく曖昧な顔つきをしている。
「風巻……」
彼を見たら色々な思いが込み上げてきてしまって、何処か縋るように見てしまった。
「……最初っから説明してもらっていーか」
中へと入りつつも、風巻はやはり何とも言い難い顔のままおれたちを見比べる。
「鏡、を……おれに預けるって……」
絞り出すように呟くのに合わせたように、月読がゆっくりと顔を上げていくのが視界の端に映る。
「……、本気?」
流石の風巻も驚いたと見えて、吐き出した問いはかなり訝しげだった。
「はい」
そんな彼に対しても月読は揺らごうとしない。決意の固さをひとつひとつ確認していくたび、布にくるまれた鏡の存在感が大きくなる。主張してくる。「受け取らないわけにはいかないだろう」と。
「……あのな月読、妖怪はオレらだけじゃないんだぞ、分かって言ってるのか?」
答えを受け、少し考えるような素振りを見せながら義兄は尋ねた。
「はい。今の私の状況では、これを誰かに利用されることの方が恐ろしいのです」
月読は変わらずはっきりと応じている。
彼の説得で月読が考えを変えてくれたらと期待している自分と、決して譲りはしないだろうと思っている自分がいて、せめぎ合っていた。
どちらを選んでも正しくて、どちらを選んでも間違っている。そして、どちらを選んでも確実に後悔するのだ。だからこそ迷って動けない。
「霊力が弱ってるっていうなら、自分の身を護るためにも手放さない方がいいに決まってる」
諦めを勧めて囁いてくる内なる声を聞かないように、考えを変えさせるための言葉を重ねた。
「弱ってる?」
初めて耳にする事実に眉を顰める風巻。
「……順に説明します」
先ほどのおれみたく困った笑みを浮かべてから、彼女は居住まいを正す。それを見て風巻をおれの隣へと促し、彼が頷いて座ったのを見届けた。
月読もそれを確認して、先ほどおれにしてくれたように順序立てて説明していく。
聞いている風巻が徐々に渋い顔になっていくのがよく分かった。多分、おれも聞いていた時は近い表情をしていたのだと思う。実際、もう一度同じことを聞いているだけなのに顔が歪んでしまっていた。
「……今、月読自身の霊力は、一般的な巫女と比べてどのくらい残ってる?」
聞き終え、風巻は静かに問うた。
「そうですね……歴代の月読たちの平均よりも落ちているのではないかと。多めに見積もって二十人分といったところでしょうか」
思案するようにしてから帰ってきた答え。
百人分とも謳われた彼女の力なのに、そこまで? 俄には信じがたくて、唇の内側を噛みしめる。
「……それ、自然に落ちたとは考えにくいんじゃないか」
「そう、ですね……しかし、気づいたら時すでに遅く、呪詛返しのできるほどの力はありませんでした。最強が聞いて呆れますね」
眉根を寄せた風巻と苦笑いをした月読が交わす会話が遠く感じられた。多分、受け入れたくないために。ただの逃避でしかないと分かっていても、事実の理解を心が拒否していた。
誰かが、月読を呪っている。
彼女の力の落ち方は尋常ではない。夏からということはたった二月三月でそこまで急激になど、人為的な可能性があると何となく考えていたことではある。
だが、目の前にその事実をいざ突きつけられたら、ずきずきと胸が痛んだ。呪詛を受けるということは、月読がそれだけ何者かに強く憎まれているということだから。
頭の隅で誰かがチラつく。その影を認めたくない。認めてしまったら動けなくなる気がした。
感じていたものが事実になっていくのが恐ろしくてたまらない。言葉には言霊が宿るというけれど、考えてしまったらそれも現実になるのではないか。
なんて、こう思う時点ですでに「考えている」というのに。
鏡の包みをじっと見つめる。
おれはいったい、どうするべきなのだろうか。
「呪の仕組み自体は分かるのか?」
「かけられた術を解くためには、同等かそれ以上の力が要ります。それに繋がる仕組みの解析もまた然りです。残念ながら」
猫又には複雑な術が何ひとつ使えない。それが歯痒い。彼女を追い詰めている状況から解放させてあげたいのに、それもままならない。
最強が聞いて呆れる、と月読は自分を笑ったけれど、おれだって同じような思いだった。団長と呼ばれ、皆から「強い」と尊敬されているのに、愛おしく思う人一人救えない。これでは何のための強さなのか分からないではないか。
「……ちょっとオレが見てみてもいいか?」
月読の申し訳なさそうな顔を見つつしばらく考え込んでいた風巻は、やがて言った。
「どうぞ」
彼女は頷き、「ちょっと、ごめんな」と近寄ってくる風巻を見ている。おれも釣られるようにして、術の解析をしようと彼女の額に手を当てている義兄を見た。
これで呪いが解ければ――そんな甘い考えは、一瞬にして打ち砕かれた。
触れた瞬間、バチリと音を立てて弾かれる風巻の手。
「風巻っ」
「大丈夫ですか!?」
他の団員に聞かれたらまずいとどうにか抑えたが、声が鋭くなった。月読も大きく目を見張って腰を浮かせている。
咄嗟に手を引っ込めたらしい風巻は手を軽く振っていた。火傷を負ったらしく、嫌な臭いがおれの鼻をつく。彼の身に何かあったらと血の気が引いていくのが分かって、意識的に呼吸を深くした。
「風巻、見せて。酷いようなら寒露呼んでくるから……」
「あー……、……大丈夫だろ。指も全部あるし」
しばしの間右手を眺めていたが、徐々に治り始めている。確かに問題はなさそうだ。ほっとして息が漏れる。
ただし、治りが遅い。彼に傷を負わせられる妖怪などそうはいないし、たとえ負わせられたとしてもすぐに治る。つまり、月読にかけられている呪は妖怪ではなく、法師か巫女によってもたらされたものだ。
「――で、だ、他人による解呪はできないようになってると。抜かりねぇな……」
おれが拳を握りしめている傍で、小さく呟く風巻。
犯人の目星はついたとしても、彼にも解くことができないという時点で状況が悪いことには変わりない。最悪だと言ってもいい。
「お手を」
心配そうな顔をしたままの月読は、そっと彼の手を取った。目を瞬かせるとほぼ同時、淡く彼女の手が光る。呪いの力を吸い取っているのだ。
おれはそんな彼女が気がかりだった。
「あんまり力使うなよ。名残くらいそれこそオレだって何とかできるんだから」
間もなく光は消えて手も離されたものの、思いは風巻も同じだったようで、困ったような顔をしている。
「すみません……つい、反射で。しかしこれぐらいならまだどうにかできます」
眉を下げて笑う彼女の様相が、切なくて。本当に切なくて。
彼女は優しい人だ。そして人を護ることができる力を持っていることを誇ってもいる。それなのに、『護る』ことがままならない。どれだけもどかしいだろうか。
「……鏡を手放したいってのは変わらないか?」
またしばらくしてから風巻が尋ねる。
「はい。恐らく私はもうすぐ……死にますので」
彼女はまたも迷いなく頷いて、それから少しだけ躊躇って――そう言い放った。
「そんなこと、……っ」
言うな、と言いたかった。言いたくてたまらなかった。
でも敢えて口にするということは、相応の覚悟を以てしてだと分かっていた。だから言えなかった。
彼女は言葉を軽々しく吐き出すような人じゃないとおれはよく知っている。拳をきつく握りしめ、飛び出してきそうになる言葉を懸命に呑み込んだ。
「呪に侵されて?」
「それはどうか……これが最終的に命を奪うほどの呪なのかさえ分からないので」
あくまで冷静に問いを重ねる義兄と月読の遣り取りに耳を傾ける。どれだけ絶望に心が覆われようと、最後まで希望を捨ててはいけない。まだ大丈夫だと信じるための一筋の光明を探していた。
「ただ、先見の力が失われていなかった時でもこの先の未来を視通せなかったことを考えれば、恐らく死自体は動かせないのだと思います。どんな死に方をするにしろ」
未来が覗けなかったことは何を意味するのか。彼女の言うように、彼女が死を迎えるからなのか。それとも、もっと違う何かがあるのか。
おれはそもそも先を見ることはできない。だからこそ思う。
「単に私の力では総てを見通せない、つまりひとつの選択で大きく揺らいでしまうほど複雑に未来が分岐しているのかもしれませんが」
月読がそう語るものの可能性の方が高いのではないのかと。
時の流れには生きる人々の想いや選択が絡んでくる。大きな能力を持つ彼女でも、総てを見通すことなどできない。「死ぬ」という未来を視なかったのならば、まだ決まったわけではないのだとおれは思う。そう信じたい。
「なら、まだ分からないってことにしとこう。死ぬ、なんて、言わない方がいい。言葉には言霊が宿るって言うしさ」
風巻の言ったことにおれも同感だった。
時は操れない。総てを視通すこともできない。何度だって思い、信じる。何も決まってなどいないのだと。
「鏡が呪に浸食される可能性は? 巫女や法師にはそういう呪があったりするのか」
「私が知る限りではないとは思います……しかし言い切ることもできないのが何とも辛いところです」
「……鏡を持つ利益と不利益、手放す利益と不利益、その辺をよくよく考えた方がいいと思うんだけど。それに、鏡を手放して、その後はどうするつもりなんだ」
「一応、新たな鏡は持ちます。馴染んだものではないので扱いにくいでしょうが、その分呪に利用されても被害は少ないはず。社から離れる回数も減らして通常は祷り場に籠るようにしようかと思っています。……この鏡が、分身に近いことが問題なのです」
「でも、霊力の名残さえないものが月読の助けになるかっていうと、さ」
髪を掻き上げたり考えるような表情を見せたりして悩む風巻と、迷いなく言葉を呟く月読。会話を聞きながら、じっと考える。おれがどうするべきなのか。
「分身に近いから、傍に置いておいてはいけない」。月読は何度も何度も繰り返していた。おれとだけ話している時にも、今もこうして。
「……月読が譲らないのは、さ。呪が自分だけじゃなくて周囲に……下手をすれば日ノ本の総ての人に対して利用される可能性があるからでしょ?」
この辺りに生きている者たちだけでなく、もっともっと多くの人たちに対し、絶望を植え付けてしまう。助けることを生き甲斐としてきた彼女は、予測できているのならば防ぎたいのだ。傷つける可能性など絶対に残したくないのだ。
「力の強い者に利用されれば、ありえない話ではないかと。先ほど久遠さんには申し上げましたが……それこそ権力を握るのにも有効かもしれません」
彼女の答えを聞いて、おれの心は、決まった。
「……月読はどこまでいっても『月読』ってことかね。そうなると、オレは説得の言葉なんかもう持たないんだけどさ」
「すみません」
風巻が小さく笑った。月読が申し訳なさそうに笑みを返すのを見つつ、どう伝えたものか思案する。
「久遠?」
それに気づいたらしい問いかけを聞きながら、ゆっくりと顔を上げた。先に風巻へと笑ってみせてから、月読を真っ直ぐに見返す。
「……分かったよ。預かる。ただ、預かるだけ。おれは、未来が確定していないからこそ何も見えなかったんだって方に賭ける。呪が解けて霊力が戻ったら、その時には返す。それでいい?」
それがどれだけ分の悪い賭けでも、信じ抜いてみせる。
「――はい。お願いします」
微笑みを見ながら、しっかりと頷き返した。
少しの間、静かな時間が流れる。多分三人とも、何を言うべきか考えていたのだと思う。
沈黙を破ったのは、風巻だった。
「……じゃあ、さ。二人とも、ちょっとここで待っててくれるか。すぐ戻るから」
言い残して部屋を出ていく彼の背中を怪訝な思いで見送る。月読も目を瞬かせていた。
宣言通り、彼はすぐに戻ってきた。しかし、出ていった時とは異なり、何かを手に持っている。
「はいただいま。月読、手ぇ出して」
「え? あ、はい」
それは素直に差し出された彼女の手のひらの上へと載せられた。
「久遠が預かりものを返すまでの、代わり」
彼女がいつも持っているものによく似た、けれど少し古ぼけた鏡。それが風巻の渡したものだった。
どうして妖怪たる彼がそんなものを、と少しは謎に思った。でも何処かで納得しもする。顔の広い彼なら、巫女の一人や二人知り合いにいたところで別におかしくはない。そもそも巫女が母親代わりであるおれが言えた義理ではなかったが。
「え、……これは……しかし、どなたかの形見なのでは」
「うん、まあ……さすがに、先々代は会ったことない……どころか月読は生まれてもないよなぁ……。話くらいは聞いたことあるかもしれねぇけど。……力はそんなになかったけど、呪の扱いは上手な人でさ」
しかも、彼が関わりを持っていたのも『月読』だったという。何とも奇妙な縁で結ばれているものである。翠子から数えたらだいぶ後の人だろうけれど。
だがそう考えると、巫女の模範たる存在なのに、『月読』には案外変わり者が多いのかもしれない。いや、おれや風巻が変わり者だから、変わり者に出会うのかもしれないが。
「それは伺っております……先代から少しだけ。ではこれは先々代の……?」
「そ。ちょっと縁があってさ」
目を繰り返し瞬かせている彼女に首肯して、風巻は言葉を紡いでいく。
「それ、持ち主を守護する呪がかかってるんだと。それから、人を呪おうとすればその鏡は力を失うんだってさ。後者は戒めのためにかけたものだって言ってたっけな……何をどうやってんのか全然分からねぇんだけど。まあ、嘘つけるような人間でもなかったし、多分確かだと思う」
かいつまんだ説明は、意図が分かりやすかった。
風巻は彼女を護ってくれようとしてくれているのだ。自分の防御のための物を、自らひとつ手放してまで。
「そんな大事なものをお貸しいただくわけには」
当然のように月読もその思考に至ったようで、慌てて風巻に返そうとしている。
だが彼は首を振った。
「それこそ貸すだけだしさ。つーか、貸せるものがあるのに貸さないなんてそっちの方がさ、オレがあの世に行ってからめちゃくちゃ怒られるってわけ」
冗談めかしてはいたけれど、そう言われては月読もきっと受け取らないわけにはいかなくなる。それを風巻はよく分かっていたのだろう。
案の定、迷ったように瞳を揺らしていた。気遣いを受け取るべきか、否か。どちらが風巻を困らせずに済むのかを恐らくはよく考えている。
「すみません……」
ほどなく、彼女はそっと鏡を抱きしめるように持った。その仕草は、自分と同じ名で呼ばれていた人の形見を愛おしんでいるようにおれの目には映った。彼女の優しい心根を端的に示していると思う。
「いーんだって。その代わり、絶対生きて切り抜けて、オレに返して」
「はい」
優しい微笑みと即座の返答は、おれの安心を呼ぶには充分だった。
「……最後に訊いとくけどさ、最強の巫女に呪をかけられるほどの人間、もしくは妖怪……心当たりは?」
空気が僅かに緩んだところで、ふと風巻が一石を投じる。
おれと月読は顔を見合わせ、互いに思案した。
「――、伊勢の神職の方々、本山に住まう僧の方々……などでしょうか。少なくとも同等以上の力はないと難しいかと」
先に答えた彼女の挙げた中には、双念の名前は、なかった。
それで分かる。彼女はうすら寒さを感じてはいないのだと。
もしくは、おれがおかしいのだろうか。双念を警戒する自分と、あの微笑みを信じたい自分と――月読が信じた人を疑いたくない自分と、揺れている。
ぐちゃぐちゃな内心を総て覆い隠して、ただ同意するように頷いた。
「……そっか」
風巻はそれだけを小さく言った。
「……あんまり考えすぎても仕方ねぇよな」
「ええ。分からないですから」
思考を停止することは愚かだけれど、分からないことを考えようとしても分からないことには変わりない。そして、悪い方向に考えてしまうのもよくない。
交わされる言葉を聞きながら、預かった鏡をそっと懐に仕舞った。
「さて、さすがにこれ以上遅くなると心配されると思うけどな?」
風巻の言葉に外を見ると、雨模様であることが災いして確かにかなり暗くなり始めていた。『逢魔が時』である。妖怪たちが活発になり始めることだし、早く戻るに越したことはない。
「はい。お暇致します」
「送ってくよ」
一礼した彼女に笑ってみせた。
「オレも行くかー。土砂降りだし、どっかの猫に雨よけくらいつくってやろ。月読も、せっかく着物乾いたんだし、また濡れたらいけないから」
「わーいじゃあ笠も蓑もいらないや」
「すみません。ありがとうございます」
からかうような台詞に笑いながら立ち上がって歩き始めると、二人は笑って追いかけてくるようだった。
優しくて穏やかなあの時間が、大好きだった。ずっと続いてくれたならそれでよかった。ずっと続くと思っていた。
幸せが失われたのは、ある種、おれの慢心のせいだったのかもしれない。
心配をかけたくないから黙っているべきだと。彼が彼女が聞かれたくないことなら訊くべきではないと。自分一人が思っていたらいいことだと。自分一人が考えていればいいことだと。全部勝手に決めつけて解決させていた。
おれに心を読む力はない。周囲にいた人たちにもなかった。だったら何よりも話し合わなければならなかったのに。
しかも、この両手で何とか出来るものなんて高が知れている。手を借りるべきだった。求めるべきだった。
おれは結局のところ、「思い上がるな」という翠子の叱咤の意味を、何も分かっていなかったのかもしれない。




