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ただ雫へと願う少年

 どうしていつも、生き残るべき者が死んで、死ぬべき者が生きているのか。

 重たい雲を纏い、雫を降らせる空を宏基は見上げていた。

 六月ももう終わる。じめじめした毎日が続いているが、それもあとしばらくの辛抱だろう。

 とはいえ、暑いのは苦手であるので、夏が来ることは彼にとってさほど喜ばしいことではなかった。むしろ前世が蛟であるが故か、世界が水で包まれる雨模様の日の方がずっと落ち着いて息をしていられる。

 宏基はその瞳と同じ色をした傘から片手を伸ばし、雫を手のひらで受け止めた。降りはさほど強くはないが、小雨というほどでもない。当然、数回の瞬きという短い間でも手はしとどに濡れる。

 冷たさが思い出させる、前世が最後に感じたもの。

 ――はり……。

 寒露が最後に発した名前は、死なせてしまった妹のものでも、命の恩人であるヒトの少女のものでも、敬愛した久遠のものでもなかった。

 いつだってどこか醒めていて、いつだって嘘をついているようで、だけどその瞳は逸らしたくなるほど真っ直ぐだった、小憎らしくて愛おしい同志のもの。


 彼が最初で最後、その笑顔を見ていたいと願った人のもの。


「くっだらね……」

 こんな感傷なんて無意味だと知っているのに。

 宏基は小さく自嘲の笑みを漏らし、手を軽く振って水滴を払い落とした。制服のスラックスに手を押し付け、残っている水分も拭いきる。

 だが、そんなことをしても冷たい指の感触は消えなかった。

 いつからか寒露は玻璃のことをただの同志としては見られなくなっていたらしい。

 似た者同士で、しかし正反対だったからか。それとも、飄々として決して掴ませようとしないその態度に苛立つうち、目が逸らせなくなったのか。はたまた彼女の魔性に他の男たちと同じく惹き込まれたのか。

 生まれ変わりたる宏基には分からなかったし、恐らく寒露本人ですら分かっていなかったのではないだろうか。

 それに、彼は認めようとはしなかった。自分にすら嘘をついた。それでいいと思っていた。あんなことになるなんて予想だにしていなかったから。

 だが、崩壊は足音を消して近づいてきて、何があっても帰ってくると勝手に勘違いしていた人を容赦なく奪っていった。その痛手は、久遠はもちろん、寒露にも及んだ。

 不真面目な態度が腹立たしくて、尊敬する人が慕っているということに子供のような嫉妬心を抱いて、常に口喧嘩を仕掛けて――だけど、本当は信頼していた。他がどんなに揺らいだとしても、久遠が背中を預けただけの人物であると。

 風巻が死んだ。誰より生き残らなければならないと寒露が思っていたうちの一人が、一番初めに去っていってしまった。

 ――寒露!! 風巻が……!!

 団の者で、それまで強く強く肌を刺していた彼の妖気が掻き消えたことに気づかない者などいるはずもない。もちろん玻璃もすぐに気づいたらしい。

 彼女らしくもなく足音を鳴らして駆けてきて、襖が開け放たれて。それは分かっていても、心を覆った絶望は振り返る気力すら失わせていた。

 彼を里に帰さなければよかった。たとえ相討ちになったとしても、久遠にどれだけ幻滅されたとしても、双念を殺しておけばよかった。

 いくら後悔を吐き出したところで無意味なのに、言葉は溢れた。

 たとえ寒露がどんな手を使って止めたとして、風巻は帰ったに違いないこと。双念は総て把握した上で事を進めているのだということ。どちらもよく知っていてもなお。

 でも。様々なことを察していた寒露にも、ひとつだけ予測できなかったことがあった。

 ――貴方にも……死んでほしくなんて、ないのよ。貴方だけが手を汚すなんて、そんなこと、あっていいはずがないのよ!

 玻璃が未だかつて見せたことがないほどに表情を歪ませていたこと。彼女にそういう顔をさせているのが、他の誰でもなく、自分だったこと。

 風巻の死の衝撃は大きすぎて、寒露はまだ悲しみを感じるところまで至っていなかった。玻璃もそうだっただろう。

 だから彼女を悲しませたのは、彼の発した「どうして死ぬべき者が生き、生きるべき者がいつも死ぬのだ」という半ば独り言のような問いに違いなかった。

 近づいてきた彼女に抱きすくめられ、柔らかな唇が重なった。その瞬間、やっと寒露は悟った。自分の抱いていた気持ちは、自分だけのものではなかったこと。

 絡まり合った舌。体重をかけられて傾いでいく体。衿の隙間から入り込んできた手のぬくもり。どれもこれも拒絶できたはずなのに、寒露はそうしなかった。

 玻璃の悲しい様相が、悲しかったのだ。

 ――ごめんなさい。

 二人の乱れた息が落ち着き、汗が乾き始めた頃。上体を起こした彼女は小さく言った。

 ――忘れて、いいから。

 震えた細い肩が、向けられた白くて小さい背中が、思いとは裏腹な台詞だと語っていた。けれど、そう口にしなければならない理由もよく分かった。

 傷口の舐め合いだとしても、悲しみに埋め尽くされていたとしても、愛おしんだ相手と体を重ね合ったことは――確かに幸せだった。

 しかし風巻は死に、二度と戻っては来ず、幸せを感じることも二度とない。そして久遠は半身をもがれたような喪失感に悶え、団員たちは不安に駆られているだろうに、幹部たる自分たちは何をしていた?

 徐々に胸の中で渦巻き始めた悲しみと襲い来る罪悪感に耐えられるだけの余裕は、あの時の二人にはなかった。

 自分たちの想いが赦されることも、絶対にない。

 顔だけ振り返った玻璃の瞳は、震えていた。

 何も言葉を交わさなくとも、金色と群青色を交わすだけで意思の疎通は叶った。

 何もなかったことに。

 その約束は、最期の時まで破られなかったのだ。

 そこまで考えたところで、宏基は脳内を支配する記憶を追い払おうと頭を軽く振った。

 ――お前らを信じてる。

 だけど、再び耳元で声が響く。

 信頼を裏切った。護ると誓ったのに護れなかった。

 ――……オレもそろそろ落ち着く時期が来たってことかね。

 そして彼の決意も破られた。

 何を、どこで、どうして間違えてしまったのか。

 傘が近くにあった植木の枝を掠めて、ばらばらと雫が降ってくる。その音で宏基は思考からようやく浮上した。

 葉から滴り落ちる水滴を防いでくれている傘布を眺める。彼の瞳と同じ色のこの傘は、数年前の誕生日に鶫から誕生日のプレゼントとして贈られたものだった。

 ――おれはお前の目、好きだよ。夜空の色だ。

 ――宏基兄の目は、夜空みたいで綺麗な色だよね。

 生まれ変わっても、何も覚えていなくても、久遠は久遠だった。護りたいと思った。

 『宏基』として物心つく前から、『寒露』の記憶が強く強く訴えてきたこと。

 今度こそ護らなければいけない。

 それが『寒露の思い』ではなくて『宏基の思い』になって、鶫の隣にいる意味になって、自分が生きている価値になって。記憶を取り戻した彼が不意に見せる久遠と同じ真っ直ぐな目だとか、迷わない背中だとか、そういうものを宏基は今世でこそ護りたかった。

 ――忘れて、いいから。

 そして、想い合ったことに対し、大切な人がもう罪悪感など抱かなくてもいいように。

 瞳子の隣で照れ臭そうに笑う鶫と、冷たい風を装いながらも柔らかな視線でひな子を見る透が眼裏に浮かぶ。

 幸せに。幸せに。どうか、幸せになってほしい。それだけが宏基の願いだった。

 ――宏基くん。君はもう一度完全変化(へんげ)をしたら……。

 ――分かってる。そうでもしねぇと誰も生き残れないって状況にでもならない限り、する気もねぇよ。

 鶫が目を覚ますのを待つ間に鼎と交わした会話が続いてよぎる。

 彼にはもう総て見抜かれているらしかった。「化け物になってしまう」までにはあと数回の猶予があるのに、もう二度と完全変化(へんげ)をするなと言われた時点で、諦めもつく。ただ、他の誰にも言うなときつく念押しすることしかできなかった。

 しばらく空を見上げていた宏基は、込み上げてくる咳に気づいて口元を押さえた。どうにか宥めて深呼吸を繰り返したところで、ふと気配を感じてゆっくり振り返る。

「――今世では、クソ巫女からと見せかけて俺からかよ」

 先ほど曲がってきた角の方に向かって呟きながら。

「何だ、バレてたんだ」

 慌てた様子もなく物陰から姿を現した人影は、有名私立校の制服姿で、一見柔和な笑顔を浮かべている男――庸汰だった。

「むしろバレねぇと思ってたのかよ」

「ううん。あんまり。だって君も、強い強い妖怪の生まれ変わりだもんね?」

 楽しそうにくすくすと笑う彼は、ゆっくりと宏基の方へと近づいていく。その姿を見かけたのは、一週間前の神社での戦闘が最後だった。鶫に深手を負わされていたというし、すぐに次の手を打ちたくとも打てなかったのだろう。

「あいつに呪いをかけたのは、目眩ましか」

 問いかけにくすりと笑った庸汰は、次の瞬きの後には錫杖を手にしていた。

「双念の名の下に、寒露、君を退治するよ」

 しゃらり。遊環が鳴き、錫杖の頭部を鼻先へと突きつけられる。

 宏基はふっと口の端を持ち上げた。

「やれるもんならやってみろ」

 再びスラックスで手を拭ってから一気に妖力を解放し、毒気を硬化させた棒を相手の鼻先へと向け返した。

「言っただろ。今世では俺が、お前を殺す」

 睨み合いのような時間は、間もなく終わった。

「どっちが先に命を取れるか、競争ってところかな?」

 口先だけで笑った庸汰は、地面に石突を叩きつける。遊環が再び派手に鳴くのを聞き、宏基は棒をしっかりと持ち直した。


 生きるべき者は生き抜いて、死ぬべき者が死ななければならない。何があっても。


 眩い法力の雨が降り注いでくるのを見上げながら、傘を手放して地面を蹴る。

 そんな彼の太腿には、一か所、血を拭き取ったような痕が残っていた。

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