離してしまった手を
爪閃斬を初めて習ってから、さらに八十年と少し。おれは人間で言うところの十二歳ほど、月影は九歳ほどの体になっていた。
その頃のおれは、父から稽古を毎日受けたおかげか、里の中でもそこそこ戦えた。
ぬるま湯のような日々。だが、崩壊は目の前に迫っていた。
戦える、という自信――言い換えれば慢心が招いた結末に、おれは後に打ちのめされることになる。
その日は皮肉なぐらいによく晴れていて、美しい星空が広がっていた。
「長! 長!!」
ばたばたと屋敷の中を駆ける音が聞こえて、おれは目を覚ました。
父の側近たちや使用人たちが慌てた様子である。普段は気配さえ感じさせない動き方をする彼らにしては珍しい状況だった。
そっと寝所を抜け出し、父が普段執務に使っている部屋に足音を忍ばせて向かった。
「法師が群れとなって里へと向かってきております……!」
「長、どうなさいますか!」
おれは目を見張った。
妖怪退治を専門の職とする人間には二通りある。巫女と法師だ。
前者は妖怪たちがヒトに害をなさない限り、基本的に特に表立った攻撃をしない。うちの里も不戦協定を結んでいるくらいだ。
だが、後者はそうはいかない。
ヒトに手を出そうが出すまいが、彼らは妖怪たちに攻撃を加える。最後の一匹、女子供だろうと容赦なく殺そうとしてくるのだ。
彼らの中で通る教えは「妖怪は殲滅すべし」。巫女の「ヒトに害なす妖怪を許すな」とは大きな開きがある。
ここ最近、法師たちの動きが活発化していることは知っていた。だから父も見張りを増やして警戒を強めていた。
この里は東国の猫又の群れの中で最大のまとまりだ。失うわけにはいかない。
けれどもとうとう法師たちは此処を見つけ、襲撃しようと向かってきているらしい。
父は「誰であろうと人間を殺してはならない」と言い聞かせてきた。
しかし多数の法師の襲撃など、きっと彼も初めて直面する状況だろう。
いざとなったらあの優しい父でも非情な決断をするのだろうか。
一旦考えてしまうと彼が何と言うか知るのが怖くて、おれは物陰から固唾を呑んで見守った。
他の皆も同じだったらしい。全員の視線が集まっている。
「――女子供、老人、人型をとれない奴らを逃がせ。逃がす時間を稼いで、里を守るぞ。俺も前線に出る。だが、法師たちは決して殺すな。急げ」
父の目は、いつもと変わらず強いままだった。
一斉に返事が飛び交い、足音荒く出ていく。
「父上!」
おれは我慢できずに物陰から飛び出した。
「若!」
残っていた数人が驚いたようにおれを見ている。
彼らには構わず父の前に向かっていった。
「おれも残って戦う!!」
「駄目だ」
睨みつけるようにして叫んだ言葉は即座に否定された。おれは鼻白む。
「どうしてですか!!」
「お前には絶対に生きていてもらわなくちゃならないからな」
父は笑い、立ち上がった。そのまま屋敷を出ていこうとするので慌てて追う。
「おれも戦えます。戦わせてください」
「駄目なものは駄目だ。お前は母上と月影と一緒に逃げろ」
「逃げるなんて、」
「逃げるのは弱いことじゃない」
歩みを止めて振り返る父に、おれはまたも目を見張った。
「お前は逃げて、二人を守ってくれ。強くなったお前ならできるだろ」
笑顔を浮かべてみせる彼は、『おれの父親』でもあったが――それ以前に、『この里の長』だった。それをおれに気づかせる顔だ。
おれはもう何も言うことができなくなってしまう。
「分かりました。……父上」
首を傾げた彼に一礼する。
「……ご武運、を」
戦場に向かうことのできないおれには、祈ることしかできない。
『二人を守る』のは父が望んだこと。これでいいのだ、と自分を納得させた。
本当はついていきたくてたまらない。何となく、父と会えるのはこれがこれきりのような気がしたのだ。おれの勘が訴えかけてきていた。
「ああ、行ってくる」
嬉しそうに表情を緩めた父はわしわしと頭を撫でてきて、それからおれの肩に手をのせる。見上げると、父は不思議な笑みを湛えていた。
「……俺が死んだら、次の『久遠』はお前だ。励めよ」
言葉を返すのを待たず、父は地面を蹴って跳び上がり、あっという間に見えなくなってしまった。
『久遠』は代々の長が継ぐ名だった。それを継ぐときとはつまり、父が死んだとき。
唇を噛んで、くるりと向きを変える。
「母上は何処にいらっしゃる!? 月影は!」
「お、奥方さまと姫さまは御寝所の方に……!」
「起こしてくれ! そしてすぐに出立の用意をまとめろ!」
奉公人たちに言葉を残し、自分も今しがた飛び出してきた寝所に駆け戻った。簡単に荷物をまとめ、また飛び出す。
「兄さま!」
そこで、ほとんど寝間着だけの状態の月影を見つけた。
「月影、行くぞ」
「母さまは……」
「大丈夫だ。ほら、後ろにいるから」
戦いはもう始まっていた。あちこちで法師の放つ法力が弾け、閃光となって辺りを照らしている。
「行くよ、月影」
いつものように妹を背負い、母が傍に寄ってくるのを待って物陰を駆け始めた。
母や奉公人たちと話し合い、いくつかに分かれて森の中を紛れて進むことにした。まとまって動いたのでは捕捉されやすいと考えた末だった。
奉公人たちは父には及ばないまでも充分に強いし、母も父が惚れ込んだ強さを持つ実力者だ。見つかったとしても捕まるはずはない。
そして父は里の中で一番強いのだ。おれの勘違いで、きっと父は笑顔でおれたちの元に帰ってくる。
そんなふうに思っていた。
狭い世界しか知らなかったおれは、両親よりもずっとずっと強い存在がいることを知らなかったのだ。
しばらく進んで、里の戦闘音が遠のいた。月影は不安そうに何度も後ろを振り返っている。
「兄さま、父さまはご無事でしょうか……」
ちらりとそちらを見ると、曇った表情が見えた。柔らかく笑んで、安心させようと試みる。
「父上が強いこと、月影も知ってるだろ。大丈夫だよ」
実際、戦っている父の強い妖気が、里からだいぶ離れているのにはっきりと感じられる。父は生きているのだ。
それなのに。いつもなら「そうですね」と笑う彼女が、今日に限っては硬い表情のままだった。
どうにかして月影を安心させてやらなければ。そう思い、後ろにいる母を振り返る。
そして、気づいた。
「……! 母上! 近くに法師がいます!」
法師特有の匂い。彼らが衣に焚き染めている香だ。
逃げるのに必死で、近づいてきていることに気づけなかった。
「……急ぎましょう」
母が表情を険しくし、おれの背を押して進めていく。
月影の不安が伝播したのか、おれの心の中にも暗雲が立ち込めていく。
父や皆が逃げた皆の方には来ないように全力で戦っていたはずなのに。どうして。
だがさほど進まぬうちに、目の眩むような光がおれたちに襲いかかってきた。
それは先ほどまだ里にいた時にも見たものだった。
法師の攻撃。悟ると同時に血が凍るような感覚がする。
おれの体は硬直してしまった。
月影が何度も呼びかけてきている。逃げなきゃ、と本能では思うのに、足が地面に張り付いてしまって動かない。
と、母が動いた。二人まとめて抱きかかえられ、全力で放り投げられる。
「母上!?」
危うく舌を噛むところだったおれは叫んだ。
「逃げなさい!!」
その言葉に唖然としながらも、新たに飛んできた光を飛びすさることでよけた。おれたち兄弟の身代わりになった植物は幹や葉を溶かされている。
ぞっとするものを感じながら、月影を背負い直した。
「母さま……!」
泣きそうな声を聞きながら、分断されてしまった母たちの方を見る。
「逃げなさい。早く」
「で、でも!!」
「いいから早く!! 月影と一緒に逃げるの!」
妹が泣いている。おれも泣きたくなってしまい、ぐっとこらえた。
「お父上から『久遠』を継ぐのでしょう。生きるの」
「嫌だ!!」
「聞き分けなさい!!」
聞いたことがないほど鋭い声におれは竦んでしまう。
「いたぞ!! 里の生き残りだ、滅せ!!」
間もなく聞こえてきた男たちの声。特有の香り。間違いなく法師たちの団体だ。
おれは絶望的な思いで母を眺めた。
彼女は優しく微笑んでいる。この状況においても、おれたちを遊びに送り出すときと同じように。
「逃げるの。そして絶対にお父上と再会しなさい。分かったわね?」
「待っ、」
待って、と言い切ることもできなかった。
「母上えええぇ!」
「母さま!!」
おれたちの声は虚しく響いた。
母が皆を庇うように前に立ち塞がり、真っ先に光の中に沈む。
彼女の小さな体では大きな攻撃から庇うことなんて不可能で。皆の体も後を追うようにしてばたばたと倒れていく。
美しかった母の面影はもはやない。みな、火傷のように爛れて引きつれている皮膚や裂傷を抱え、圧倒的な死を見せつけていた。
明らかに誰も助からない。
彼らの鮮血が飛沫となって散り、おれや月影の頬や着物にかかった。
即死できたならまだいい。致命傷を負いつつも死にきれず、痛みと苦しみで呻いている者が多数で、耳を塞いでしまいたくなる。
「あ、ああ……か、あさ、ま。母さま!!」
月影が錯乱して、間違いなくすでに絶命している母親の方に向かおうとするのを必死に止めた。
法師の攻撃は、おれたちの生命の源である妖力を滅する。軽い傷でさえ治りが遅くなるのだから、もうどうにもしようがなかった。
「兄さま、離してください!! 母さまが、母さまが!!」
「駄目だ!! 母上は逃げろって言ったんだ。逃げなきゃ母上が死んだ意味がない!!」
暴れる彼女を押さえつけ、木々の間に紛れながら駆ける。
「生き残りがまだいるぞ、追え! 子供だろうと容赦はするな!」
散っていたらしい法師たちが集まってきている。
その時のおれは必死だった。
月影を逃がさなければ。父との約束を守らなければ。もう一度会ったとき、恥ずかしくないように。そんな思いだけで頭がいっぱいだった。
母を守れなかったのだ。その上月影にまで何かがあったら、合わせる顔がない。
束になって飛んできた法力の槍のひとつが脚を掠める。それに一瞬怯んだところで、別のひとつが深く太ももに突き刺さった。
激痛が体中を駆け巡る。
「兄さま!」
「大丈夫だ、しっかり掴まってろ!」
悲鳴を上げる妹に怒鳴り、手の皮膚が焼け爛れるのにも構わず槍を引っこ抜いた。中々治らない足を引きずりながらも走り始めるが、明らかに速力がだんだんと落ちていった。
痛みが限界に迫ろうとして、脚が悲鳴を上げる。止まりたい。だけど止まることはできない。
父にもう一度会いたくて、謝りたくて。
強い感情がおれを突き動かしていた。
――しかし結果的に、その思いは仇となった、というのが動かしがたい事実。どんなに目を逸らしたくとも。
「……父上……?」
思わず足が止まる。
「兄さま?」
妹の声にも反応できない。
だが間もなく、彼女も何が起こったのか悟ったようだった。
父の妖気が掻き消えていた。
ずっと慣れ親しんできた彼の妖気。おれにも月影にも、どれだけ離れたところで感じられる自信があった。
実際ついさっきまでは、確かに弱まってはいたが感じられた。その意味すること。分かっていたけど分かりたくなかった。
父上が、死んだ?
背負っていた月影がおれの支えを失い、ずるずると落ちていくのが分かっても、構うことはできない。
「うそだ……」
誰より強かったあの人が死ぬはずがない。そんなの、有り得ない。有り得ないのに。
「ああああああぁぁああぁ!!」
頭を抱え、狂ったように叫ぶおれを月影がどんな顔で見ているかなんて、確かめられなかった。確かめたくなかった。
「兄さま……!」
悲痛な呼び声と同時に手を引かれる感覚がして、足が強制的に動く。
「逃げるのでしょう! 逃げなくては!」
先ほどまでべそをかいていた彼女とは思えない強い瞳。
連れられるまま歩けば、木の洞に辿り着いた。
「兄さまが久遠になったのです。生きてください」
ぼんやりと声が聞こえた直後、何かが首にかけられる。
「月影……?」
「母さまに頂きました。守り石です」
不思議な色を湛えて光る半透明の石。その向こう側に妹の笑顔が見える。
「妖力を高めて治癒力を増させてくれる。兄さまの傷の治りも早くなるはずです。少しでも傷を治して、一緒に逃げましょう」
確かに、脚の傷の治りが早まっていた。それを理解すると共に正気に帰る。
父も母も死んだ。おれに残されたのは月影だけだ。守らなくちゃいけないのに、おれは逆に彼女に救われた。何と情けない。
「……それと、もうひとつ。大切な人の真名を呼びかければ、その人が何処にいても見つけられるそうです」
にっこりと笑った月影。今の状況と関係のないことを語ることで、おれを元気づけようとしてくれているのだろう。
健気な妹を抱きしめる。
「じゃあ、月影ともしはぐれても、安心だな」
「……はい」
はい兄さま、と着物の背中が掴まれた感触がした。
「逃げよう」
生き残るために。
続けると、月影は頷いた。おれも頷き返して、洞から外に出る。
法師の松明が近づいていた。早く逃げなくては。
月影の手をしっかりと握り、まだ完全には癒えていない足を引きずるようにしながら必死で走った。
けれど、いつでも神さまというものは残酷なのだ。
「見つけたぞ!!」
そんな言葉と同時に飛んできた法力。月影を庇いながらであっても、辛くもよけられたが、続いて飛んできた球体状の力がおれたちを分断しそうになる。
「走るぞ!」
声をかけ、少しでも離れるために走る。しかし法力は何処までも追ってくる。必死になるおれたちを嘲笑うように。
「逃がすな、追え!!」
脚からの痛みが増し、もつれ始める。出血の量が限界に達そうとしているのか視界が歪む。
「きゃあ! 兄さま……!!」
月影もろとも転んでしまい、おれは何とか上体を起こした。
「ごめん、月影……」
聴力すら衰え始めたのだろうか、近くにいるはずの法師たちの足音が遠い。もう立ち上がれそうにない。
「おれはいいから逃げろ」
月影は何も言わず、肩を組むことでおれの体を持ち上げ、また走っていく。
「月影、」
「嫌です!」
何を言おうとしたのか察したらしく首を振り、小さな体でおれを担ぎながら必死で進んでいく。
だがすぐにその足も止まった。目の前に崖が広がっていたからだ。
後ろは法師。前は崖。絶体絶命――それはおれを連れているから。月影一人ならば身軽になって、逃げることも容易になる。
「今なら間に合う、おれを置いて逃げろ」
諭すように焦った口調で告げた。耳も鼻も役には立たないが、法師が近づいてきているのは知っていた。
「嫌です」
「月影!」
「嫌です!」
怒鳴り声に怒鳴り返した月影は、見たこともないような激しい形相をしていた。
「生き残るのは兄さまです。兄さまさえいれば、里は終わりじゃない」
「そこまでだ!」
妹の不可解な言葉と法師の声が響いたのは、ほぼ同時だった。
そしてすぐに真意を知ることとなる。
「さようなら、春永兄さま」
呼ばれた真名。驚きで体が硬直した直後、体が宙に浮く。
突き飛ばされたのだ。逃がすために、月影によって。
「月影――ッ!!」
右手を伸ばし、彼女の手を取ろうとした。
取ろうとしたのだ。
しかし地面に引っ張られる力には逆らえず、ぐんぐんと妹が遠のいでいく。
――お前は逃げて、二人を守ってくれ。強くなったお前ならできるだろ。
待って。おれが月影を守ると約束したのに。
たとえ約束なんかなかったとしても、おれは月影にこそ生きていてほしかったのに。
記憶の中の笑顔――愛しい思い出がぐるぐると頭の中を回った。
「父さまの理想、叶えて――」
最後に見た彼女の顔は、神々しいくらいの笑顔だった。
喉が張り裂けるほどに慟哭する。地面に当たり体が跳ね、新たな痛みを生じさせても、なお叫んだ。
勢いよく転がり続けたおれは、やがて崖下に行きついた。
打ちつけたところが痛い。
だがそれ以上に、おれの心情と裏腹に美しく輝く朝焼けが目を焼いて痛い。
月影、月影、月影。
どうしておれを庇った。どうして生きようとしなかった。
いくら呼んでも彼女はもう戻らない。笑ってはくれない。あの心地よい体重を感じることも呼び声を聞くことも、二度とない。
絶望に染まりながら、おれは意識を失った。