呪に奪われゆく少女
瞳子は、縁側にぼんやりと腰かけていた。
庭の松に留まった鳥が穏やかな声で鳴き声を上げている。番で留まっているらしい。片方は地味な色をしているが、もう片方は青色の翼が綺麗だ。
「オオルリですね」
瞳子はひとりごち、微笑んだ。
居心地がいいためだろうか、それとも山の上にあるためか、彼女の幼い頃から様々な種類の鳥を見かけた。オオルリは特に、毎年近くにでも巣を作っているようで、美しい姿を見せ、心地の良い声で鳴いてくれる。
普段は風流さに目を細めるぐらいだが、今日はその軽やかな鳴き声が特に心に沁みた。
けれども、すぐに柔らかな感情は消え失せる。
「痛っ……」
右の上腕が鋭い痛みを発して、瞳子は思わず顔をしかめて押さえた。しばらくすると弱まったが、違和感は消えないままだ。瞳子は小さく唇を噛みしめた。
原因は分かっている。あの時意識を失くした理由も。
最初に目を覚ました時に飛び込んできたのは、今にも泣いてしまいそうな顔をした鶫だった。
「……瞳子」
心から安心した声は震えている。
瞳子を挟んだ彼の向かいには、ひな子と鼎がいた。ひな子も鶫と同じように今にも泣いてしまいそうな顔を、鼎は眉間に僅かに皺を寄せて厳しい顔をしている。
三人に共通しているのは、心配と安心がないまぜになったような雰囲気であるということ。
「あ、れ……私は、いったい……」
そんな彼らを戸惑ったように見上げることしかできない瞳子は、徐々に自分の置かれた状況について把握していく。見上げなければならなかったのは、布団に横になっていたからだった。
よくよく確認してみれば、ここは瞳子の自室だ。視線を巡らすと、襖の開け放たれた入り口には、そこに凭れるようにした宏基がいる。いつも以上に眉間に皺が寄っているが、彼が何を思っているのかまでは分からなかった。
どうやら彼女はいつの間にか意識を失っており、誰かしらに布団へと運ばれたらしい。
そこまでは分かったところで、痺れたように感じられる右手を何かぬくもりが包み込んでいることにようやく気づいた。
「よかった……」
正体は、相変わらずの震えた声でそう呟く鶫の手だった。
わけが分からないながらどぎまぎしてしまう。しかしここで何かを言って離されてしまうのもそれはそれで嫌で、瞳子は努めて知らなかったふりをした。
「瞳子。右手の調子はどう?」
「え……あ、少し痺れているような痛みがある、くらいです。多分問題なく動かせるかと」
しかし不意に彼から尋ねてきて、それと同時に手が離されてしまった。残念に思うも、言葉の通りであることを示すために拳をゆっくりと開閉させる。
鶫が何の意図を以て訊いたのか瞳子には理解が及ばず、眉を顰めることしかできない。しかも、答えを聞いても彼の表情は緩むことはなく、むしろ厳しくなった。
「姉さん、右腕から何も感じてない……?」
何も言わなくなってしまった鶫の代わりにか、控えめな調子で今度はひな子が尋ねてくる。
瞳子は不可解な思いが拭えず首を傾げた。妹が何を思って訊いてきたのかを確かめるために自分の右腕にそっと触れてみて、徐々に手を移動させていく。
やがて二の腕の辺りで何かの力を感じて、思わず目を見張った。馴染み深いとまでは言わないが、よく知った術者の力の痕跡があったからだ。
「瞳子は、呪詛を受けてる。双念――いや、庸汰の」
絶句している彼女の代わりに口にするかのように、鶫が小さく告げた。
「ぼくでも分かった。瞳子が倒れた時、体に痣を見つけて。それに触れたら……手が、焼けたから」
法力や霊力というものは、ヒトにとってはとても有用なものであるけれども、妖力を体内に宿している鶫にとっては有害なものとなる。妖怪がそれらの力に触れたときと同じような状態になったのだろう。火傷のような傷に。
だが、その力によって傷つけられるのは、妖怪やそれに近い力を使える鶫らだけではない。一歩使い方を間違えれば、妖怪だけでなくヒトにとっても有害となる。
そのひとつがこの呪詛――呪いだ。
「戦いの折……いつの間にか仕込まれていたのですね。恐らく、私の相対した式神にでも」
自覚をしたことで不快感が襲う。意識を失ったのは、かけられた呪詛が効力を発し始めた反動のようなものからだろう。
それにしてもどうしてこんな真似を、と問うたところで、答えは決まっているに違いないのだが。
「本気で、私を殺す気ですね」
零した言葉に、鶫のみならずひな子と鼎も表情を歪めた。
「瞳子。言わずとも分かっているとは思うが、その呪詛を解除できなければ、その痣は恐らく全身に広がり……」
「徐々に命を食っていって、最終的に体を覆い尽くしたところで死ぬでしょうね」
懸命に心を無にしながら淡々と述べようとしているらしい祖父に頷いて、瞳子はゆっくりと体を起こした。
「瞳子、まだ横になってた方が……!」
「教えてください。今、どのあたりまで広がっているように見えたのか」
押し留めようとした鶫を真っ直ぐに射抜いて問いかける。
彼は一瞬息を呑んで躊躇うように目を泳がせたが、瞳子が揺らがず見つめ続けることで覚悟を決めたのか、肩を掴んでいた手を離した。
「ひな子ちゃんが確認したら、右肩から二の腕の辺りにはすでに広がってた。進行速度は正直分からない……」
同時に、俯き加減にして事実を伝えてくれる。
私は死ぬのか。
心中で瞳子は呟くも、あまり現実味がなかった。俯いたままの鶫や、唇をぎゅっと引き結んでいるひな子、厳しい表情を続けている鼎、考え込むように腕を組んでいる宏基を見てもなお。
しかし、それは諦めているからでは決してない。
「呪いを解除してみせます」
気丈に笑ってみせると、三人は驚いたように目を見張り、ただ宏基だけがこちらをじっと見遣ってくる。
「彼の前世は確かに優秀な法師で、生まれ変わった今でも強大な法力を保持していらっしゃいます。ですが、私は負けているつもりなどありません」
月読がその名を誇りにしていたように、瞳子もその生まれ変わりとしての誇りがある。
「私はあの人には殺されません。絶対に。前世をもう一度繰り返すなど、御免ですから」
きっぱりとした口調に鶫たちは呆気にとられているのか、未だに言葉を失ったまま。
でも一人だけは、違った。
「瞳子」
聞こえてきた声に驚いて顔を上げると、その主である宏基と目が合う。
「あいつのやり口は、前世と変わってない。鶫の周りにいる奴らから徐々に徐々に奪っていくつもりだ。今世ではお前が最初に選ばれたってことだ」
初めて呼ばれた名に驚く暇もなく紡がれた内容に、瞳子は反射的に頷いた。それから前世で最初に久遠から奪われた周囲の人物を思い浮かべ、苦々しい思いで拳を握りしめる。
――おれは大丈夫だから。
月読の記憶が悲しみを訴えかけてくる。半身をもがれたような痛みを感じていただろうに、心配ないというように笑ってみせた。誰よりも傷ついていたはずなのに。
優しかった久遠。優しい鶫。あのような顔を生まれ変わっても再びさせてしまうなど、瞳子が耐えられない。
「あいつの思い通りにさせるんじゃねぇぞ」
入ってきた宏基は瞳子に何かを手渡してくる。小さな巾着袋だ。
「痛み止めだ。気休めだろうが効きはする」
目を瞬かせて見上げた彼の群青色の瞳は、恐ろしくなるぐらいに真剣だった。
どうしてここまでしてくれるのか。そう質問したかったけれど、言いたいことは言ったらしく宏基は踵を返すのを見て呑み込んだ。
瞳子を思いやる気持ちがないとは言わないが、それが大きな感情ではないと彼女にも分かったから。
「狐のところに行ってくる」
「あ、うん……」
言い残して消えていった後ろ姿に対し、戸惑ったようにしながらも鶫は返している。そんな様子を瞳子は眺めつつ、巾着袋を見下ろした。
宏基には呪いを解除することはできないから、その代わりというつもりなのかもしれない。
「よく、効くと、思うよ。宏基兄、あんなんだけど……寒露と同じで、優しいままだから」
そのまま動かないでいた彼女を見たからか、鶫は小さく笑った。
「はい。分かっていますよ」
笑い返す。
よく知っている。寒露の薬の効き目が素晴らしかったことも、不器用だけど優しい人だったことも。月読がそう教えてくれている。
つい昨日まではどうしても思い出せないでいたことなのに、こんなにもあたたかいのは――その総てに、久遠がぬくもりを与えてくれているから。
瞳子の答えを聞いて、鶫はまるで自分が肯定されたかのように嬉しそうに笑う。いや、『久遠』と『寒露』としては強い絆で結ばれた主従であり、『宏基』と『鶫』としては兄弟のような関係である存在を認められることは、彼にとって自身が褒められるよりも嬉しいことなのかもしれない。
それだけ強い感情を持たれるなんて、宏基さんは羨ましい。内心で呟いたところで、慌てる。こんな状況でいったい何を考えているのかと。
「呪を解除するためにも……庸汰にはもう一度、確実に会わなくちゃならないね」
顔には出さないように繕う彼女には気づいていないらしく、鶫は独言した。意識したくない事実を、自分にも周囲にもまざまざと示すように。
その驚くぐらいに真剣な表情は、彼女の目の奥に強烈に焼きついた。
そして今、瞳子の手の中にはあの時に宏基から渡された巾着袋がある。
一夜明け、怪我が酷く動かせない透を残し、鶫と宏基は一旦帰宅していた。
色々なことが起こった昨日が遠い昔のように感じられてしまう。呪いのことも、未だに現実味がなかった。こうして今においても蝕まれているというのに。
霊力を右腕に集中させることで進行はどうにか抑えている。それでも限界はあり、じわじわと広がる痣は痛みを絶え間なくもたらした。時には息が止まるような激しさで。
小さく息を吐き出し、袋から丸薬をひとつ取り出して飲み込む。少しして痛みが嘘のように引いていく。
だが、それは呪いが消えたことにはならない。
着物の袖を静かに持ち上げると、赤黒い痣が不気味に存在している。ただし、二の腕から肩にかけてではない。
常に携帯している鏡を懐から取り出して、自分を映し出す。それから着ている白小袖の衿を少しだけずらすと、そこにも痣は存在していた。
前腕の中ほどから首筋の近くまで。ひな子が確認したというときよりも確実に広がっていた。
二度目のため息をついてから、鏡を覗き込みつつ詠唱する。先見――未来を垣間見るための術。
「……予想通り、ですね」
しばし鏡面を眺めてから、解除の詠唱をして鏡を仕舞った。
「姉さん……」
それとほぼ同時に後ろから声がかかり、瞳子はゆっくりと振り返った。
眉を下げて不安げな表情で立っているひな子へ、瞳子は笑ってみせた。安心させるように。
「透さんの具合はどうですか?」
応じて隣に腰かけてきた彼女に尋ねてみた。
「動き回れないのが不満みたいだけど、とりあえず動き回りたいっていう元気はあるし……大丈夫じゃないかな? 今、母さんがお昼ご飯用意してくれてるから、それ待ってるところ」
「そうですか、それはよかった」
頬を緩ませると、ひな子も笑って頷く。
自分を庇って怪我を負わせたという負い目のようなものがあるのか、彼女は透の看病を進んで引き受けていた。他が手伝うときももちろんあるけれども、ほとんどをひな子が行っている。
だがそれは本当にただの負い目からか、と思いかけて、瞳子は少し笑ってしまった。余計な邪推である。本人たちの問題なのだから、姉とはいえ口出しは無用だ。
「……何か見えたの?」
姉の内心など知る由もない妹は、少しして躊躇いがちに尋ねてくる。
瞳子は何と言うべきか迷い、結局そのままを伝えることにした。
「何にも。いえ、正確には、真っ黒な闇のようなものしか見えません」
ひな子は動揺したように目を瞬かせて、何事かを呟く。聞き取れずに首を傾げた。
「ひな子?」
「そんなこと、今まで一度だって……」
振り絞った声もまた、消えそうなほどに掠れていた。
ひな子には先を読めるような力はない。だが瞳子は昔から未来を占い、未来を大幅に改変してしまうことがない程度の注意なら、家族などのごく身近な存在にはしていた。今日の体育の時間は気をつけなさい、だとか、今日参拝してくださる方の中に吉報をもたらす方がいらっしゃいます、だとか。
確かに瞳子が視ようと望んで視えないなどということは、ひな子が知る限りは一度もなかっただろう。
「あるのですよ。一度だけ。……ただし、月読だった頃に、ですが」
読める者が先を変えることはできない。知ったところで時の流れに干渉することは難しい。視えているものが本当に訪れる未来なのか分からないし、「誰かが知った」ということで変わってしまうことだってあるのだ。
「その時は、どうなったの……?」
驚いて目を見開いたひな子は、恐る恐ると言った様子で訊いてきた。
ここまで言っておいて誤魔化すのは無理だ。そう判断して、淡々と続ける。
「死を迎えました。彼女自身も、彼女が大切に思っていた人たちも」
相変わらず楽しげに囀っているオオルリの番。絶句しているひな子とは対照的で、彼女の絶望のようなものを更に色濃くさせる。
「でも。私には未だに分かっていません。月読は鏡に映る景色が真っ黒になってしまったことを『己が死ぬからだ』と思っていました。でももうひとつの可能性も感じていた」
横顔を見つめられているのが分かっても、瞳子は番から目を離せなかった。生を高らかに謳歌する彼らから。
「視通すことができないほど複雑に、道筋が分岐していたのだとしたら――と」
悲しみと絶望に支配されていたひな子の目に光が戻った。それに微笑んで頷いてみせる。
「私はそちらに賭けます。一度ならず二度までも、私たちの運命が双念殿によって支配されるなんて……絶対に嫌ですから」
楽しげに歌いながらオオルリが飛び立つ。二人は揃ってそれを見つめた。黙ったまま、遠くに消えていく二羽をただただ見ていた。
完全に見えなくなってもなお、青い空を眺める。
「ねえ、姉さん?」
しばらくしてから、流れていた沈黙をひな子が破った。
今度は瞳子が彼女の横顔を見つめる番だった。
空のどこか一点をじっと見つめているひな子は、呼びかけたきり中々続きを言おうとはしない。目を瞬かせながらも、瞳子は待った。
「――朝比奈先輩が、好き?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。半ば放心しかけて、それから頬が一気に赤く染まる。
それを目にしたひな子はくすりと笑い、沓脱石にあった突っかけへと足を入れ、立ち上がる。大きく伸びをすると、すらりと背の高い彼女の両手は天まで届きそうに見えた。空の明るさと妹の眩しさが一気に目を刺した気がして、瞳子は目を細める。
「だったら、余計にあの人の好きにはさせないよ」
跳ぶようにして庭へと降り、くるりと振り返ったひな子。彼女は真っ直ぐにそんな瞳子を見つめてきた。
「あたしは、姉さんには誰より幸せになってほしいから」
――風巻には、誰よりも幸せになってほしかった。
ひな子の言葉と久遠の言葉が重なり、瞳子は大きく目を見張る。
「……駄目ですよ。皆で幸せになるのです」
彼は自分の幸せなんてどうでもよかったのだろうか。ふと疑問が頭をよぎり、切なくなる。
誰か一人、では駄目なのだ。
「誰一人欠けずに、幸せになるのです。安心してください、ちゃんと呪いは解除してみせますから」
不思議そうにしていたひな子は、しっかりと頷いてくれた。それに微笑みを以て応じて、室内へと戻るために立ち上がる。
決意は変わらない。揺るぎもしない。だが、ただ一点、黒いものが頭の端に浮かんでしまったままこびりついて離れなかった。
久遠があんなにも大切に思っていた義兄の風巻。彼のことを鶫から一言も聞いていないことに、ようやく気づいたのだ。




