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心を決めた少年少女

 鳥の声が遠い。何か大事なものを、見失っている気がする。

 鶫は窓の外をぼんやりと眺めていた。何を見るでもないというつもりでいるのに、視界の中に鮮やかに蘇ってくる赤く飛び散った液体。

「……何、やってんだろ」

 ため息をついて前髪を掻き混ぜる。独り言を拾う人は今、誰もいない。

 でもその無意識の行動で、自分の手にようやく感覚が戻っていたことに気づく。それに安堵すると同時に、また鮮やかに映像が眼裏で再生される。

 悲鳴をあげるひな子。地に沈んだ透。黒い笑みを浮かべる庸汰。どれも総て夢だと思いたいのに、悲しいかな、現実で。

 再び頭をぐしゃぐしゃと掻き毟ろうとしたところで、襖が静かに開く音がした。

「鶫さん、起きていらしたのですか……」

 ゆっくり振り返ると、そこには瞳子が立っている。ほんの少し驚いた様相をしているのは、つい先ほどまで眠っていたはずの鶫が上体を起こしていたからだろう。

「うん。……ごめん、心配かけて」

 感覚が戻っているのは手だけで、足は未だに痺れたような鈍痛がある。つまり全快とは言い難いが、気分はさほど悪くない。意識を失う寸前に感じたような苦悶も今はなかった。初めて変化へんげした時と同じである。

 彼女の手には、水差しの載った盆があった。鶫のためにと持ってきてくれたものであろう。

「透の具合は?」

 こちらへと近づいてくる瞳子の様子を見ながら鶫は尋ねた。

「透さんにはひな子がついています。目を覚ましたそうなので問題はないかと……傷は心配ですが、そこは彼の回復力を信じるしかないでしょうね。変化へんげは確実に体へ負担をかけるので禁止の上に、絶対安静です。傷の原因が原因ですし、様子を見るためにも数日この家に滞在していただくことになると思います」

「そっか……」

 人間の体に戻っても現れている、驚異的な治癒能力。源となっているのは恐らく妖力だが、法力はそれ自体を滅する。透の傷は、そんな法力によって負わされた、治癒能力が追いつかないほどの大怪我だった。

 加えて、仕込まれていた身体の組織を破壊し続ける術のことがある。瞳子が何とか解除してくれたとはいえ、破壊されたものはそのままだ。

 完治までにどれぐらいかかるか、正直なところは分からない。毒使いであり薬使いたる宏基の見立てでは、常人よりはるかに高い治癒力を以てしても、少なくとも一週間はかかるとのことだった。

 まだまだ安心できない条件が揃っているが、目を覚ましたということはとりあえず一区切りがついたらしい。ほっとして頷く。

「宏基兄は?」

「別室で少し祖父と話を」

「そっか」

 頷く彼を瞳子がじっと見てくることを、安心から徐々に醒めてきたことで自覚する。が、その視線を受け止めることはできない。

 分かりきっているからこそ、だった。彼女が厳しい表情をしている理由も、向けられる目を真っ直ぐに捉えられない理由も。

「――鶫さん」

 肩が僅かに跳ね上がる。顔ごと逸らそうとするがそれを瞳子は見逃さず、しっかりと肩を掴まれた。畢竟ひっきょう、真正面から強い眼で射抜かれることになる。

「どうして完全変化(へんげ)をしたのですか」

 鶫は言葉に詰まってしまう。

 透を喪うかもしれないことが恐ろしかった。透を、そしてそもそもひな子を本気で殺そうとした庸汰が、憎かった。胸の内に燃え上がった黒い炎は、鶫の体を一瞬のうちに支配し、容赦を一切排除した攻撃となって姿を現した。

「……透がいなくなってしまいそうで、怖かった。ひな子ちゃんや透を躊躇いなく殺そうとできてしまう庸汰が。憎かったんだ。……でも、本当はそれだけじゃない」

 仲間を思う気持ちはあった。それは嘘ではない。

 だとしても、自分の中に潜んでいた凶暴性が顔を現したのも事実だ――唇を噛みしめながら鶫は思う。

 記憶が物語っている。久遠は確かに争い事を好まず、妖怪としては珍しい穏やかな人柄をしていた。しかし決して穏やかなだけ、優しいだけ、などということはなかった。汚れを知らず、綺麗なわけでもなかった。

 鶫が使っている力は、久遠に帰来するもの。彼から借りているもの、と言い換えることもできるかもしれない。久遠は争いを好まずとも戦い自体を好む気性は持っていたし、一度完全に敵と認識した者に対しては残虐にもなれた。


 認めたくないと鶫が何をどう足掻こうと、彼は紛うことなき『妖怪』。


 ――使い続ければ、この巨大な妖の力は君たちの身体も精神も蝕み、壊す。確実に。

 鼎の言葉が木霊する。

 力によって自分を形作っているもの総てが破壊されたとしたら、いったいどうなるのだろう。想像しても分かるはずがないのに、鶫はそんなことを思い浮かべては恐ろしくなっていた。

「目を覚ましてから、別のことで怖くなったんだよ。鼎さんは三度が限界だと言った。今回で二回。猶予はほとんどない」

 溢れてくる言葉が止まらなかった。肩にある瞳子のあたたかい手だけが現実へと彼を引き留め、逃避しようとする頭を呼び戻す。だけど、反応が怖くて彼女を見ることもできない。

 何と弱いことだろう。嘲るのに、それだけだ。ますます自分の情けなさを明らかにして苦しくなる。

「もう一度は問題なく完全になれたとして、じゃあ、更にもう一度変化(へんげ)してしまったら? ぼくは化け物になる。そんな気がする」

 だが問題なのは「化け物になる」ということではない。そうではない。


「……そんな不安に駆られても貴方は……絶対にもう完全な変化へんげをしない、という約束は、してくださらないのですね」


 その台詞にはっとして、やっと瞳子の顔を見た。肩から離された手は彼女の膝の上でぎゅっと握りしめられ、小さく震えている。

 瞳子の悲しげで悔しげな表情や姿を見てもなお、彼は何も言えなかった。

 言い当てられたからだ。化け物になることに対して恐怖を抱いているのは確かなのに、完全変化(へんげ)をしないとは言えないでいること。

「瞳子、」

「もし仲間の誰かが危険な目に遭うのなら、貴方はまた同じことをするのですか」

 声は強張っていたが責める色はなく、視線も強いままではあったが、問い質すような思いは宿っていない。鶫の自分勝手な解釈ではないはずだ。だから深くその言葉について考える余裕もあった。

「多分……ううん、きっと、すると思う。嘘をついたとしても、無意味でしょ? 断言できないことを、約束なんてできない」

 瞳子が、宏基が、透が、ひな子が――この先庸汰によって、命を失いかねないほどの危険に晒されたら。鶫はほとんど確実に、迷いなく持てる力の総てを解放するだろう。そうすることで、大切だと思う仲間を護ることができるのならば。

 瞳子は半ば項垂うなだれるようにしてその問いに頷いたが、少ししてふと顔を上げる。目を瞬かせて彼女を見ると、真正面から見つめられて視線を囚われた。

「それならば私は、貴方にそのようなことをさせないように見張り、そしてしっかりと生き抜きます」

 強い目。何があっても芯からは揺らがない。惑っても、躊躇っても、最終的にはしっかりと前を見据えて凛と立っている。彼女のそういう部分が鶫には酷く眩しかった。

 『瞳子』という名前は、彼女にはぴったりだ。苦しみを湛えながらも、強さを映して優しい光を灯す瞳。初めて対峙した時から変わらない。「退治する」と襲いかかられて怯えはしたけれど、その迷わない瞳には純粋に惹き込まれた。

 だからこそ、今考えていることを彼女には頼むことができる。鶫は、ふっと口角を持ち上げた。

 瞳子も鶫の考えを分かっていたのかどうか。ほんの少し眉を下げながら、言葉を続ける。

「しかしそれでも防ぎきれず、貴方のおっしゃるところの『化け物』へと貴方がなってしまったときには、」

「うん。君の思っている通りにしていいから。無視していいから」

 遮るように鶫は呟いた。


「ただの妖怪と、ただの巫女として、ぼくを殺して」


 じっと見つめると、彼女はきっと同じことを口にしようとしていたのだろうに、くしゃりと顔を歪ませる。本当に悲しそうな様子で。

「他の関係なんて、頭の中から全部取っ払っていい。その時は、ぼくらはまた、敵同士に還るんだ」

 彼女の思いも分かるからこそ、彼は更に言葉を重ねた。

 巫女は迷ってはいけない。前世の記憶の中、母代わりの巫女が何度も何度も口癖のように言っていたことを思い出す。

「……分かっています。でも、決してそんなことにはならないようにしてください。私は、嫌です。貴方は最後まで貴方として、命を捨てようとなどせずに、生きてください。最期まで足掻いてください。もう一度喪うのは、嫌です」

 鶫は目を見張った。

 しっかりと握られた手が熱い。小刻みに伝わってくる震えは、もちろん彼女のものだった。

「『もう一度』……」

 思わず口に出して繰り返す鶫に対してしっかりと頷いてくるその姿は、やはり眩しい。彼は思わず目を細めて瞳子を見遣る。

「確かに前世は前世、今世は今世です。庸汰さんの前で、自分でも申し上げた通りに。でも、こうして私たちが導かれ合ったのは、きっと前世が願ったからです。もう一度逢いたいと」

 小さな声なのに言葉は突き刺さった。心の奥、深く深くへ。ただ黙って彼女を見つめ、言葉を待った。それしかできなかった。

「せっかく、こうして会うことができたのに。私は嫌です。前世と同じように過ごしたいなどという幻想は言いません。新しい生を得られたのですから。未来は、決まってなどいないのですから」

 熱が皮膚を伝って、血管を流れて、鶫の心臓にさえもあたたかさをもたらす気がする。自分が大切にしなければならないものは何なのか、考え直せというように。

 気づいたら、握られた手を握り返していた。彼女の指は細く長く美しい。手のひらは柔らかくて、泣き出したくなるぐらいに優しい温度を持っていた。

 久遠が最後に握った月読の冷たい手を思い出して胸が苦しくなる。だが、まだ生きている。生きている。鶫も瞳子も、生きているのだ。

「前世と今世が別であるからこそ、あの時護れなかったものを今世では護りたい。そう思うのは、いけないことですか? 絶対にしないという約束は望みません。ただ、簡単に人間としての生を手放すような真似はしないとだけ、約束してください。今度こそ、大切にしたいのです」

 返す言葉など、決まっていた。見つめられたその瞳から目を逸らせない時点で。

「いけなくなんか、ないよ。ぼくが馬鹿だった。約束、する」

 宏基にも透にも、勿論瞳子にも、簡単に生を手放してほしくないのだから、鶫一人に許される道理はない。絶対に捨てないという約束はできないけれど、捨てないための努力はできる。


 ――どっちかが許されないんなら、もう片方も許される道理はねぇさ。

 ふと頭を掠めた言の葉。

 口にしたのは、いったい誰だったのだろう。


「……よかった」

 トリップしかけた彼を引き戻したのは、安堵からか酷く柔らかい、そしてどこか幼さを湛えた、瞳子の笑顔だった。

 半ばそれに見とれるようにしていると、瞳子はそっと手を離した。また彼女によって現実に連れ戻された形になる。

「宏基さんが上手く誤魔化して、一晩はうちに泊まることができるように手配してくださっています。安心して休んでください」

「そっか……明日が土曜でよかった。ていうか、ぼくらで客間占領しちゃってごめん」

「いいえ、いいのですよ。お腹に優しい食事を母が用意してくれているので、持ってきますね」

 鶫の苦笑いに優しく笑んで見せる瞳子に、彼も釣られて笑った。最初は険しい表情しか見せてはくれなかった彼女が、今は鶫たちを親しげに名で呼んでくれる。それが鶫には何よりも嬉しかった。

「ありがと……落ち着いたら透の顔、見に行きたいな」

「そうなさってください。では少し待っていてくださいね」

 微笑んで背を向ける彼女を見送ろうとしたが、叶わなかった。

「……ッ瞳子!?」


 一歩足を進めた瞳子が、唐突にその場へと崩れ落ちたからである。


「瞳子!」

 力の入らない足をどうにか不自由に動かして、傍に駆け寄って抱き起こした。意識を失っているのか、土気色をした顔は苦痛に歪んでいるように見える。

「瞳子!? どうした、瞳子!」

 揺さぶっても声をかけても反応がない。彼女の纏う白い小袖の衿口から覗く肌に、視線が縫い止められた。

「んだよ、これ……」

 白磁のように美しい肌にはあまりにも不釣り合いな、赤黒い痣が存在したからだ。

 少し躊躇ってから鶫は瞳子の袖を引き上げた。すると、その痣は二の腕の辺りを基点として広がっているのが分かる。

 鶫は言葉を失い、ぐったりと目を閉じる瞳子を見下ろすことしかできなかった。

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