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狭間に揺れ動く少年

 失われたように思われた日の光は

 それまであったあたたかさをまざまざと示す



   ● ● ●



 いつも凛としていた群青色の瞳が、歪んでいた。

 いつもぴんと伸びていた大きな背中が、丸まっていた。

 ――帰さなければよかったのか?

 弱々しい声なんて聞きたくなかった。一人きりで消えていってしまいそうで、捕まえたかった。それまでだって充分苦しんでいたはずなのに、彼は自分の手で自分自身を追い詰めるから、辛くてたまらなくて。

 ――こんなことなら、久遠サマがあいつを連れてきたあの日に、俺が殺しておくべきだった。

 感情の籠らない瞳。平板な声。何か声をかけたいのに、言ってあげたいのに。いつもなら薄っぺらな台詞がいくらでも浮かんでくるくせに。肝心な時に喉が詰まる。

 ――どうして死ぬべき奴が生きていて、生きるべき奴が、いつも死ぬんだ?

 呟く調子は尋ねているようなのに、独り言でもあった。

 胸が痛くて、痛くてたまらなくて。そんな言葉聞きたくないのに、止めるすべのひとつさえ持たなくて。

 だって、分かってしまうから。同じだったから。生きてほしい相手が死んで、生きていなくてもいいはずの自分が生きている。分かってしまうのだ、その気持ちは。

 だけど。

 ――……たし、は。あたしは、あたしだって、風巻に死んでほしくなんか、なかったけれど。……貴方にも……死んでほしくなんて、ないのよ。貴方だけが手を汚すなんて、そんなこと、あっていいはずがないのよ!

 抱きすくめて、半ば無理矢理に唇を奪う。畳へと倒していけば、掴まれた肩へ僅かに力が籠ったけれど、突き放されることはなかった。


 見開かれたその群青色だけが、あの時の自分にとっては真実だった。


 後にも先にも一度きりの――けれど、悲しみだけに埋め尽くされた肌の触れ合い。

 体なんて色々な男と何度も重ねてきて、一人一人の記憶なんて曖昧なくせに、あの時の熱だけは消えなかった。命の尽きるその瞬間まで。

 ――はり……。

 命が消えていくのをまざまざと感じる中で、小さく聞こえた呼び声。真っ黒になりかけた視界に、最後、群青色が見えた気がした。感覚の消えかけた手に、冷たい指が絡んだ気がした。

 でも二人は最後の最後まで、好きだという言葉は、交わさなかったのだ。



 透は、抗うかのように重たい瞼をゆっくりと持ち上げていった。見慣れない天井が視界に入る。いったい自分は今どこにいるのかと疑問に思いながらも、頭がぼんやりとしていて思考がまとまらない。

 夢の残滓が脳裏にこびりついている。いや、夢は夢だが、ただの夢ではない。玻璃の記憶だ。手放したいと願いながら忘れたくないと祈った、想いだ。

 右手にまだ死に際の温度が残っている気がして落ち着かない。

 今の自分は、『玻璃』ではなく『透』だ。

 心の中で言い聞かせながら、その感覚を忘れるために握ろうとする。しかし少し指が反応しただけで上手く動かせなかった。そして曖昧だった意識が徐々に覚醒していくにつれて、腹部を激痛が襲う。

 なぜ腹が、と思いかけて、ようやく思い出した。庸汰と戦いになったこと。そこでひな子が殺されようとしているのを見て、反射的に体が動いて、飛び込んでいったところまでは記憶がある。つまり、そこまでしか記憶がない。

 あの後どうなったのか。殺されようとしていたひな子は? 鶫は、宏基は、瞳子は。起き上がりたくとも、痛みのせいでそれが叶わない。少しだけ頭を持ち上げただけで枕へと戻す。ため息を吐いたところで、

「雨宮先輩……? 目、覚めましたか?」

襖が開く小さな音と共に、控えめな声が鼓膜を揺らした。目線だけを動かしてそちらを見遣ると、細く開いた隙間の向こうにひな子がいた。

 無事だった。予想以上の安堵がやってきたことを怪訝に思いながらも呟く。

「……ヒヨコ」

 酷くしわがれた声に自分で笑ってしまいたいところだが、ちょっとでも動けば腹の傷に響くのを悟って結局やめる。

 ひな子は透の声を聞いて襖を自分が通れるだけ開け、部屋の中へと足を踏み入れてきた。

 透は自覚もしている通りにぼろぼろである。けれども、こちらへと近づいてくるひな子の方は、上から下まで眺めてみても然したる怪我はなさそうだ。それに再び安堵して彼女の顔を眺める。

 当のひな子は、水差しの載せられた盆を枕元に置きながら、どうしてか唇を噛むようにしている。透の布団の傍に膝をつく間も彼女の表情は暗かった。

 それに再び怪訝な思いが浮かぶが、顔を覗き込まれたのに気づいてゆっくりと瞬きをする。

「痛み、どうですか? いや、痛いには決まってるでしょうけど……」

 彼女も彼女で、透が一応口を利けるほどの元気はあることに対しては安心しているらしく、まなじりが下がっている。

「まあ……痛いけど、我慢できないほどではない」

「それならよかった……。真田先輩の痛み止め、効いてるみたいですね」

 その言葉で宏基が無事だということは確認できた。

「鶫と……巫女は?」

「瞳子って名前があるんだからちゃんと呼んであげてください。姉さんは怪我ひとつしてません、大丈夫です。朝比奈先輩は、」

 そこで不意に途切れる言葉に、少し眉を顰める。きちんと動かせていたのかどうかは分からないが、ひな子の瞳が揺れたことからして雰囲気は間違いなく伝わったのだろう。

「――完全変化したので、負担が大きかったみたいで……まだ、寝てます。真田先輩と姉さんと、祖父ちゃんもついてるので、大丈夫です」

 目を見張る。意識を失った後に何があったのかがさっぱり分からない。

「なに、やってんの、あの馬鹿……」

 思わずこぼれた言葉に、彼女は俯けていた顔を弾かれたように上げた。

「で、でも! 朝比奈先輩が、あの、水無月さん、を、追い払ってくれて……! じゃなきゃ、もしかしたら、今ごろ……っ」

 ひな子の声が詰まる。何度目かそれを怪訝に思うも、彼女の目から流れ落ちる雫に気づいて更に目を見開く。

「ヒヨコ、何で、」

 泣いてるの、という言葉は、口にできなかった。それよりも先に、ひな子の存外小さな手が布団の端を掴んでいたから。

「死んじゃうかも、しれなかった、んですよ! なんで、何であんなことしたんですか……! 先輩こそ馬鹿です!!」

 先ほどあんなにも堂々と敵を伸していた手は、今は頼りなく震えている。ぽたぽたと降ってくる熱い雨が頬を濡らして、透は本気で困惑した。

「あんなこと、しなくたっていいんです……! 助けてもらったことは、感謝してるし、生きてることは、嬉しい。でも、それで先輩が代わりに死ぬなら、あたしは嬉しくなんかない。何にも嬉しくなんかない」

 自分だって姉を庇ったじゃないか、とか、何でそれでそこまで泣いているんだ、とか、色々な思いが去来するけれど、声にはならなかった。


「少なくともあたしは、姉さんを助けても、死ぬ気なんてありませんでした。でも先輩は違うでしょう? 死んだっていいって思ってたでしょう? じゃなきゃあんな無茶、できるわけない……!」


 頭を殴られたような衝撃と共に思い出すのは、縁側で交わした会話。

 ――……全部知っていて、でも言えないっていうのは、辛いんですね。

 あの時感じたものが、鮮やかに胸に蘇る。

 見抜かれたことが意外だった。同時に恐ろしくもあった。誰にも悟らせなかったのに、どうして会って数時間しか経っていないはずの、何も分からない相手に悟られてしまっているのかと。

 ひな子は、本当に厄介だ。

 馬鹿そうなくせに、と毒づいても、間違いなく図星であることは揺るがしがたい。

 透は体が反射的に動いたあの時、間違いなく思っていたのだから。命なんてどうでもいいと。


 久遠なら、きっと同じことをしたはずだから。


 自覚させられると、精神的に来るものがある。囚われるのは宏基だけで充分だと思っていたのに、自分自身も同じなのか。今まで無意識に目を背けていた事実と真正面に向き合わなければならないのは、中々に辛い。

 それに、と未だぽろぽろ涙をこぼしているひな子を見つめる。

 彼女がなぜ泣いているのかを全く分からない自分の鈍さのようなものに苛々する。ただ阿呆のようにじっとまなこを向けていることしかできない。

 視線を感じたのか、ひな子はぐっと口を引き結んで涙を止めた。泣きたかったわけじゃないのに、と言いたげな表情で。

「先輩の怪我が治ってないのは、治癒能力が上手く働いてないわけじゃありません。身体の組織を壊す術が仕込まれてたからです。術は姉さんが解除しましたけど、既に破壊されてたところは、自然に治癒するのを待つしかありません」

 話題を変えるように、頬に残っているものを拭いながらぽつぽつと語る。どこか淡々とした口調なのはそうとしか話せないからだろうか。

「真田先輩が治そうとしてましたけど、止めました。こないだ無茶したばかりなのに、この傷を治そうと思ったらかなりの力を使わなきゃならないですし……」

「……そう。それは、助かったよ。却って」

 宏基なら確かにやろうとするだろうと透にも想像がついた。そしてそれをかなえが諫める様子も。折衷案として痛み止め程度にとどめられたのだろう。

 彼に無理矢理治されたのでは、それこそ罪悪感が付き纏うところだった。

「しばらく絶対安静、ですけど、おうちへの連絡……こちらからしますか?」

「いい。やめて」

 透の家は両親が共働きで家を空けがちであり、年の離れた姉が面倒を見てくれている。彼女に心配をかけるのは嫌だった。怪我をしたこと自体、あまり知られたくはない。少しくらい怪しまれたとしても、完全に治ってから顔を合わせるようにしなければ。

「自分で何とか理由捏造して連絡入れておくから、大丈夫」

 ひな子は心配そうにしつつも頷いたが、その目の縁は未だに赤い。

 ――どうして死ぬべき奴が生きていて、生きるべき奴が、いつも死ぬんだ?

 前世に投げかけられた言葉に対し、今でも同意する自分がいるのに。

 ――先輩が代わりに死ぬなら、あたしは嬉しくなんかない。何にも嬉しくなんかない。

 同時に、これほどまでに動揺させられている自分がいる。つい先ほど零された涙に。

 未だ少し湿ったままの頬に触れ、事実だと悟らされた以上言えもしないのに、「違う」「そんなことはない」と言いたい。

 その理由が分からない自分が、酷くもどかしかった。

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