想いを取り戻す少女
鶫が庸汰と再会したのとほぼ同時刻。瞳子は不穏な空気を感じて顔を上げた。
「瞳子?」
そしてそのまま立ち上がる彼女を見、隣にいた鼎が怪訝そうな様相で尋ねる。
「何がある……というわけではないのですが。何となく、結界内に不穏な様子が」
瞳子はこの神社の敷地全体を護るために結界を張っている。妖怪が入れないというのはもちろん、邪な考えを持つ人間にもまた居心地悪く感じさせ、すぐさまその場を去りたくなるような清らかさを保って。
それなのに、結界の内側に嫌な気配を覚える。
「……そういえば、鶫さんの姿が見えませんね」
「そうだな。どこまで行ってしまったのか」
沓脱石の上の草履に足を突っ込んで立ち上がり、鼎がきょろきょろと辺りを見渡す。だがすぐに見える範囲に鶫はいない。
「様子を見てきます」
瞳子が隣にあった自分の履物に足を伸ばしかけた、その時だった。
「い、っ……!!」
突然に襲いかかってきた頭痛。あまりの激痛に彼女は蹲ってしまう。痛む場所を反射的に押さえると、頭皮がびくびくと脈打っていた。
「瞳子!?」
鼎の声が瞳子の耳の奥では何重にもなって反響する。肩に触れてくる祖父に大丈夫だと言いたいのに、ますます強まる痛みのせいで呻くことしかできない。
きつく閉じた瞼の裏に、映像がちらつく。
――君は、無抵抗の相手を一方的に殺せるほど、鬼にはなれない。違う?
傷だらけなのに、優しい笑顔。
――巫女だとか、敵だとか、そういうものの前に。期待とか、自分が背負った責任感に押し潰されそうになっている、一人の女の子にしか見えない。
まっすぐに見つめてくる目。
――『巫女の代表たる人』じゃなくて……さっき見せてくれたみたいな優しい『君』の目で見てくれれば、それでいいんだよ。
普通ならば赤面してしまいそうな言葉をさらりと言ってのけてみせる真剣な表情。
――おれにも、分からない。分からない、けれど! 一緒に探すことはできる。だから……!
巫女にあってはならないはずの弱音のような悩みへ、真摯に向き合ってくれた態度。
酷い頭痛は吐き気すら催させる。だが、蘇ってくる記憶はどれも総てあたたかく、痛みが全くなかった。
その中心にいる彼は、よく見知った人物と見違えるような外見をしている。
――おれを、殺すの?
そうこちらに笑みを向けていた人と同じであり、今まさに捜しに行こうとしていた人物の前世。
「……くおん、さん……?」
ほとんど無意識に紡いだ言葉は、記憶に同調しているせいのように思われた。
「瞳子?」
傾いだ体を支える鼎が心配そうに瞳子を呼んでいる。だが、怒涛のように押し寄せてくる記憶たちを追うのに必死で、彼女は反応を忘れていた。
「久遠、は……久遠さんは」
ぼたぼたと零れ落ちてくる涙。目を見張る鼎の肩を掴み、瞳子は泣いた。
知らなかった。いや、そうではない。思い出せないでいたのだ。流れを止めていた堰が決壊し、一気に溢れ出す。
「悪者なんかじゃなかった……!」
振り絞った声は情けないほどに震えていた。
――月読。ほら、桜が。綺麗だね。
――本当に……今年も『 』さんと一緒にこの桜を見ることができて、嬉しいです。
微笑んで見せると彼は照れ臭そうにして、はにかんで見せた。その様相を独占できていたのは自分だけで、月読はそれが嬉しくてたまらなかったのだ。記憶に結び付けられた強い感情がそう教えてくれる。
――久遠さん。あの日も桜が舞っていましたね。私、桜は散り際が一番好きです。
――綺麗だもんね。おれも好きだよ。桜も蛍も、紅葉も雪も、季節を感じさせて『生きてる』って感覚をくれるものは、皆好きだ。何より目の保養になるしね。
にこにこと笑っている彼に言いたい気持ちを呑み込んだ。月読にはそんな年相応の不器用さがあった。私が桜を愛するのは、貴方に出会わせてくれたものだからなのですよ――言えれば何かが変わっていたかもしれないのに。
笑う久遠。少し困ったように眉根を寄せている久遠。団員たちに真面目な表情を見せる久遠。蘇る記憶の総てに彼がいる。瞳子が今まで見てきた月読の記憶の中でも、これほどまでに密度の濃いものはなかった。彼女はそれだけこの思い出たちを大切にしていたはずなのに。
穏やかで、ぬるま湯に揺蕩うような感覚を与える映像の再生は間もなく止み、徐々に不穏な空気を纏ったものになっていく。
――東の団と、ちょっと……ね。でも大丈夫。絶対勝つから。
言いにくそうに、だけども強い目で「勝ってみせる」と久遠は語っていた。
――月読さま。もしや、国守りの結界が維持できないほどに霊力が……?
――誰にも言ってはいけませんよ。
妹分のような存在の、心配に染まった表情が蝋燭の明かりで揺らめく。
気丈に振る舞いながらも、月読の心も不安で仕方なかった。今まで容易に張ることができた範囲に結界を維持できない不安、簡単に察知できていたはずの距離に妖怪が侵入しても察知できなくなっていく自分。先見をしても真っ暗闇が覗くだけで、何も見通せなくなっていく状況。確実に弱体化していく、歴代随一とも謳われた力。
そんな状況の中で消えてしまった、ひとつの大きな存在があって。
――久遠さん……! 今、大きな妖気が……風巻さんの妖気が!
駆け付けた時、久遠は自室に一人座り込んでいた。
――分かってる。でも……嫌な予感、感じてたから。ごめん、団員たちを落ち着かせて来ないと。
消えました、と言おうとした月読の方がむしろ慌てていた。彼は大切な義兄を亡くしてもなお微笑みを絶やさず、長という存在であろうと気丈に振る舞っていた。
だけど月読は見逃さなかった。彼の手が微かに震えていたことや、顔色が真っ青だったことを。
そんな彼を見て、月読は心底願った。
「月読は、久遠さんを、支えたかった……!」
誰にも甘えることが許されない久遠を、護りたいと思っていたのだ。恋い慕っていたから。愛おしかったから。
あれほど激しかった頭痛が嘘のように引いていく。先ほどまでのものはまるで「思い出したくない」と月読が最後の悪足掻きをしていたかのようだ。
映像の再生が終わっても、胸が張り裂けそうなほどの悲しみは残っている。
「あの日の月読は、風巻さんが亡くなって間もなくで、憔悴しきっていた久遠さんを少しでも力づけたくて。寒露さんと玻璃さんも一緒に、風巻さんとも約束していた紅葉狩りに行って」
「瞳子、どうした」
「紅葉を見て、少しでも久遠さんに元気になってもらえればと、それだけを願っていて。それなのにっ……」
「どうしたんだ、瞳子!」
おかしくなってしまったと思っているのか、鼎が切羽詰まったような表情で瞳子の肩を揺すった。頭は正常だと主張するために瞳子は勢いよくかぶりを振るも、ますます以てどうしたのか理解できないようで、彼が大きく目を見開く。
「私は一人はぐれてしまったのです。いえ、あえてはぐれた。式神が飛んできたから」
主語が『月読』から『私』へと変わってしまったことに気づかないほど、瞳子は記憶と同調していた。絶望感が心を覆う。
あの日最後尾を歩いていた月読の肩先に留まったのは、小鳥の式神。よく知る人物が好んで使う形だった。
「内密に話があるからと伝言があって、こっそりとその場を離れて。霊力が低下し始めたのは彼に出会ってからなのに、それに気づくこともできず、疑いなんて一切持たずに会いに行って。私は……!」
瞳子は自らの体を貫く強い衝撃を感じていた。本当に何かの攻撃が彼女を襲ったわけではない。しかし幻と断じることもできない。それは確実に月読が体験したことでもあるから。
「何も分からないままに、何かが胸に突き刺さった。意識は急に遠のいたけれど、ちゃんと最期に見えた。笑顔だった!! あの人は、最初から私たちを殺すために近づいてきたんです!!」
これ以上揺らいではいけないと分かっているが、頬を伝う涙は止まることを知らない。瞳子は耐えきれなくなり顔を覆った。
「あの後に久遠さんたちが殺されたのだとしたら、私は誰よりも愛おしく思っていた人が殺されるきっかけを作ってしまった!!」
貫かれた痛みより自分が死んでいく絶望感より、己の行動のために久遠が奪われたという事実が心を抉る。
「いったい、誰が……?」
耳に馴染んでいるはずの瞳子の祖父の声は、未だかつてないほどに掠れていた。
その人物の生まれ変わりとは一度だけ会っている。前世の記憶の中に全く見つけることができなかった人。それを不思議だとも思わせなかった、久遠とは別の意味で過去の出来事における鍵となる人物。
どうして思い出さなかったのか。式神という形とはいえ、二度も彼の法力に相対して、触れていたというのに。
「双念、殿」
その名を口にした瞬間、轟音。あまりの大きさからか地面がビリビリと揺れている。瞳子と鼎が驚いてそちらの方向を見遣ると、白煙が上がっていた。
「何だ?」
鼎が立ち上がって煙の方を半ば呆然としながら見つめる。そんな自らの祖父を目にしつつも、瞳子は別のことに気を取られていた。
「――双念殿の、法力?」
けれども双念はもうこの世のどこにも居はしない。つまり、その生まれ変わりである庸汰が放った術ということだ。
今度は誰を殺そうとしている? 血の気が引き、瞳子は急いで庸汰以外に誰か傍にいるのかどうかを探る。
「鶫さん!」
すぐに強い妖気を感じ、座り込んでしまっていたのにも拘らず腰が浮いた。久遠と同じ妖気ということは、鶫が変化している。
「瞳子、急げ! お前が感じた嫌な気配といい、不気味すぎる!」
驚きから動けないでいた瞳子の背中を押すように鼎の大きな声が響いた。
勢いをつけて縁側から降り、今度こそ履物に足を突っ込む。迷うことなく走り始める。力を感じる方へ。妖気と法力の気配がだんだんと近づいて、はっきりとしていく。
「何が起こったというのです」
ひとりごち、濡れたままだった頬を一直線に拭った。強く在らねばならないのだと改めて気合いを入れ直して。
だが、頭の隅に張り付いた映像が混乱した頭の中でも悪寒をもたらす。
――掟破りには似合いの最期だ。
まるで氷を見つめているかのような気分になる、冷え切っていた瞳。嘲るように口角は持ち上げられていた。それが月読の最期に見た景色だった。胸に何か衝撃を受けたという程度の認識のまま死んでいった。
こうして冷静になれば、法力に貫かれたのだと分かる。でも、当時の彼女にすれば理解できない状況だっただろう。今まで味方だと思っていた人が虫けらを見るような目でこちらを見つめていて、突然胸に何かが当たったと思ったら意識が遠のいていく。ひとつも分からないままに生涯を終えるしかなかった。
双念が最初から月読の命を狙っていたのだとしたら、彼女は久遠を巻き込んでしまったのだ。双念を紹介したのは月読だから。大切な人の命が奪われるきっかけの種は、月読自らが蒔いてしまっていた。
だとしたら。今世では庸汰に鶫を奪わせたくない。
瞳子は両の拳を強く握りしめ、白煙の立ち昇る方へと足を速めた。




