金糸を纏う美しい人
月の光が 下界を照らし
出会うべき者同士を導き合わせる
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地に落ちた葉が、這うように吹き抜ける風に揺られてカサカサと音を立てている。秋に入ってしばらくしたこともあり、肌に触れる空気は冷たい。だがつい最近まで暑かったことを考えれば、心地よくもある。
猪の姿を探し、おれは山の中を歩いていた。子供たちがねだったのもあるし、おれたち成体の妖怪もたまには精の付くものを食べなければ妖力を維持できない。
此処から五里ほど北に上れば、巫女たちのいる社がある。つまり、流石に見えることはないが、今の位置は本拠地の坤――南西の方向にあることになる。
本拠地のすぐ傍には森もある。しかし今日は猪を見つけることができなかった。それでこちらの山にやってきたのだが、やはりなかなか見つからない。猪は寒いのが苦手だし、もしかするともう少し日向にいるのかもしれない。
日暮れ前には帰りたいのだが、手に入れられずに戻ったら子供たちは確実にがっかりするだろう。もう少し粘ってみるつもりで、おれは木の枝に跳び乗った。
それに、久々に手に入れた一人の時間をもう少し楽しみたい。団の留守を任せられる寒露がいるからこそこういう真似ができるのだが、彼も随伴したがって仕方がなかった。
――団長が一人で出かけるなんて駄目に決まっているでしょうが!! 他の妖怪や巫女とか法師にでも会ったらどうするんです!?
それはもう怖い顔でにじり寄ってきて、流石のおれもたじたじ。それからしばらく言い合いをして、結局は寒露の毒を練って作ったらしい玉を持たされることとなった。お互いの譲れない部分を取り合った結果であり、おれの懐にはそれが忍ばされている。
過保護だとも思うけれども、それだけ心配され、大切にされるというのは嬉しくもある。懐に着物の上から触れ、くすりと笑んだ。
匂いを確認すると、どうやら近くにいるようだ。
跳び下りて匂いの方向へと音を出さないようにして走り始める。逃げられてしまったら意味がない。
しばらく走り続け、中腹の辺りでようやく匂いが濃くなってきた。
一度立ち止まると、その瞬間に猪を見つける。相手もおれの存在に気づいたようで走り始めた。その足は速いものの、おれが追いつけないほどではない。
脚に力を込めて跳び上がり、猪の逃げ込む先へと先回りした。構わず突進してくるその首っ玉に手刀を叩き込むと、骨が折れたような音の後、どすんと音を立てて巨体が倒れた。
「でっけえなぁ」
思わず独り言が零れた。対峙していた時は意識していなかったが、相当に大きい。これならしばらく困らないかもしれない。
よいせ、とかけ声をかけてから肩に担ぎ上げる。どしりとした重さを感じて体が傾ぎそうになるのをこらえて、何とか平衡を保った。
「あら、大きな猪ね」
その時ふと響いた柔らかい声。
おれは驚いてそちらを見、思わず跳びすさって距離を取った。突然に強い妖気を感じたからだ。
近くの倒木に腰かける、ひとつの人影が見える。
鈴を転がすような笑い声。ゆらりゆらりと揺れる『九つの尾』。
美しい女性の姿をした九尾の狐だ。
こんなにも近くに来られるまで妖気も気配も匂いも感じなかった。それだけで、どれほどの力の持ち主か分かる。
妖狐は炎と――幻術を操る。尾の数で妖力の高さを量ることができるのだが、九尾はその中でも最強である。恐らく、いつの間にか彼女の幻術の範囲内に入っていたらしい。知覚を惑わし、彼女が傍に寄っているのを気づかせないようにしたのだろう。
「おれに、何か用?」
でもそうすると、おれに対して何か話か何かがあったのだろうか。いや、もしかすると戦いを挑まれるのかもしれないが。その場合、寒露の心配性が現実と化してしまったということになる。
「そうねぇ……」
金の髪をさらさら揺らしながら、彼女は考え事をするかのようにゆったりと首を傾げる。
その仕草はいっそ優雅とでも言える様子だが、明らかに今になってその理由を考えているようなのである。
明確な意志を以ておれを足止めしたわけではないのだろうか。少し眉を顰めた。
「お兄さんとお話がしてみたくて」
満面に笑みを浮かべた彼女はゆるりと立ち上がり、そのまま近づいてくる。攻撃の意思は見えないので、おれはその様子を立ち止まったままで眺めた。
何処からか運ばれてきたらしい紅葉がおれたちの間で舞う。
「おれと話? どんな?」
おれが彼女に対してしてあげられる話などあるだろうか。しかも、そこまで長い時間いられるわけでもないのに。
さくり、さくり。草を踏みしめ、落ち葉を足で掻き分けながら彼女は近づいてくる。それをただ目で追っていたら、数寸の距離で歩みが止まった。
にこり、と華やかに笑んで、彼女は言葉を紡ぎ出す。
「ねえ。お兄さんは、あたしを殺すことはできるかしら?」
瞠目する。その台詞に驚いたのはもちろん、彼女の目尻に大粒の涙が浮かんで、柔らかそうな頬を伝っていくのが見えたから。
「何を、」
「もうたくさんなの。たくさん。あの人に縛られたまま生きるのは、もうたくさん……」
ふらふらと倒木まで戻って、身を投げ出すようにして再び腰かける。そしてもう零さないようにと思ってか、両手で顔を覆ってしまう。
おれはその場に仕留めた猪を降ろし、彼女に近づいていく。
何かを狙っているのかもしれない。こうして騙しておれの命を取ろうとしているのかもしれない。考えなくはなかった。
でも、彼女の瞳の奥にあった絶望は本物に見えて。それこそ「お人好し」と風巻に呆れられてしまいそうだが、おれの目にはそう映ったのだ。
つかず離れずの距離を取って、彼女の隣におれも座る。
「何があったの? 話してみる気はある……かな」
「話したら殺してくれるのかしら? もうこんな死んだ心を抱えて生きていかなくてもいいように」
「……それは、約束できないけど」
突飛なことを言う彼女にまたも驚く。
この距離まで来ても危害を加えようとしないのだから、彼女に攻撃の意志がないことは明らかだ。たとえ妖怪とはいえ、人間に悪さをしているのでもなくおれを襲おうとしているのでもない者を殺す気にはあまりなれない。
「何よ、それ。そんな中途半端な説得で話してもらえると思ってるの?」
九尾の狐はその尾を不審そうに揺らしたが、間もなく眉根を寄せていた顔を崩す。
「まあ、いいわ。貴方が殺してくれなくとも色々と方法はあるもの。それにきっと、最後に会うのは貴方だし、あたしがどんな妖怪だったのかを少しでも覚えていてもらえるのならいいかもしれないわねぇ」
彼女の袖口が涙で滲んで、湿っていく。おれはそんな様子を眺めながら、彼女が口を開くのを待った。じっと。ただじっと。
「人間っていうのは、自分勝手よね。お兄さんも感じたことはあるでしょうけど」
沈黙を割り、小さく響いた声。
目を瞬かせるおれを見て九尾はふっと笑い、「あたしの会った人間は」と気怠そうに顔を拭っていた手を降ろす。
「少なくとも、そうだった。とても自分勝手だったわ……とってもね」
生まれた時、彼女には名がなかった。
そんなものは皆そうで、当たり前であると人は言うだろう。生まれてから誰かに名をつけてもらうのだと。
だが彼女には、名どころか親もなかった。死んだのかもしれないし、彼女を見捨てて何処かに行ったのかもしれない。どういう理由を持って消えてしまったのかは分からないが、少なくとも彼女が物心ついた頃にはすでに存在しなかった。つまり、名付けてくれる誰かなんて、彼女は最初から持っていなかったのだ。
親を知らず、名前を知らず、言葉も知らず。他の妖怪たちに殺されそうになりながら、彼女はそれでも生きた。
何の知識も持たない彼女にとって、奪う以外に生きるすべはなくて。妖怪たちから奪い、人間たちから奪い、どうにか毎日毎日を生き続けたのだという。
そして何故かということを理解することはできずとも、幸せそうな親子を見つけると心底腹が立った。妖怪人間関わらずに、そういう者と遭遇するたびに化かし、炎を放った。
あるときそれが、巫女に目をつけられる要因となる。
彼女が言うには、巫女には手足となって情報を集める協力者がいるらしい。『枯野』と名乗るその協力者の一人が、彼女の前に姿を現したのだ。
「当時のあたしはそんなこと知らなかった。突然に人間の男が目の前に現れた、ぐらいにしか思っていなかった。そしてその男は、あたしに『玻璃』という名を与えて、自分の持つ知識を与え始めた」
時折現れては色々なことを教えてくれた『枯野』に玻璃は懐いた。だがある頃突然彼は現れなくなってしまう。
「何かあったのかと自分なりに彼を探してみたりもしたけれど、十年二十年と時が経つうちに薄らいだ。『枯野』という名前まで忘れてしまうほどに」
そしてもう一度、『枯野』と名乗る男が――しかし別人となって現れた。
「後で知った。二度目の『枯野』は、最初のヒトの孫だった。何せ名前も顔も朧ろになっていたぐらいだから、あたしは気づくことがなかったの。そのまま、時折体を繋げるだけの関係を四年続けた」
その頃の玻璃は、元々何人かの男と戯れては食料などを貰うような生活を送っていた。『枯野』はあくまでその中の一人であり、それなりに楽しんで毎日を過ごしていたという。
おれは黙って聞きながら、これから先に何が起こるのかについて予測がついて、分からないように唇の内側を噛んだ。
「その予感は、多分当たりよ」
でも上手く誤魔化せていなかったようだ。目の縁を赤くしたままの彼女は、痛々しく笑う。
「でもあたしは、いつの間にか『枯野』に溺れていた。でもそれは、飄々として見えた『枯野』も同じだった。彼は、協力していたはずの巫女を裏切って、でもあたしの元からも逃げていった」
巫女の協力者だということを玻璃に知られ、しかし玻璃を殺されることを受け入れることもできず、彼は自らの命を以て交渉の対価とした。巫女たちに玻璃を殺させない代わりに、自分をこの世から抹消したのだ。
「『生まれては つひに死にてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける』――」
――生まれたならば最後には死ぬということだけが、定めのないこの世で定めであったことよ。
その歌には聞き覚えがあった。確か、平氏一門の人間、美貌の貴公子と謳われた平維盛の辞世の句だ。もう四百年近くも前、平氏の都落ちの際に死んでしまっているはず。
おれが怪訝に思っていると、玻璃は再びぼろぼろと涙を零し始める。
「『枯野』は真実を記した文をあたしに残したのよ。その最後に、その句が書かれていた」
つまり彼自身がそれに共感して遺して逝ったのか。
「あたしは……あたしの心は、死んでしまった。あの人が死んで、あらゆることはどうでもよくなった。それでも生きていた。ただただ、あの人のことを想うばかりの毎日。何も失わない代わりに、何を得ることもなく生むこともない」
それはどれだけ苦しいのか。おれにはほんの少しだけど分かる気がする。死んで行ってしまった人を――特にその死の直前におれを守った月影を、おれは繰り返し繰り返し想い続けてきたから。
もう失わない。代わりに、何も生み出さない。その通りだ。
「あの人は、死ぬことによって自分自身にあたしを縛り付けていった。だけど、もうたくさん。あれから五十年生きた。充分でしょう」
さあ殺して。そう言うかのように、すうっと息を吸い込んで目を閉じてしまう。
だからこそおれに近づいたのか。殺してもらうためだけに。
――なあ、此処で会ったのも何かの縁だろ? そうなんだろ? だったらもう、俺を殺してくれよ。
蘇ったのは、再会したての時の寒露の姿。
どうしておれの周りには、こうも死にたがる奴らばかりなのか。そう思ったら少しだけ笑いが込み上げた。気取られぬよう、どうにかそれを呑み下す。
「前にもおれに似たようなことを言った奴がいた」
それでも目をつぶったままの玻璃。
そんなに死にたいのかと思うと、少し悲しくなる。会ってからさほどの時間を共にはしていないけれど、理由もよく分からないけれど、おれはこんなにも彼女に生きていてほしいと思うのに。
「だからおれもその時と同じことを言うよ」
彼女の前にしゃがみ、そっと目を開けさせる。
「その命、捨てるならおれに寄越せ」
彼女の金の瞳がゆらりと揺れた。
「何、を、言ってるの」
「何も変なことを言ってない」
真剣さが伝わるように、まっすぐに彼女の目を射止める。揺れても、逸らされそうになっても、ひたすらに追いかけた。それが俺の魅せられる誠意だと思ったから。
「おれの名は久遠。妖怪が人間と共生できる世界を創る、っていう目標を持ってる。おれと志を同じくする妖怪を集めた団を創って、その長をやってるんだ」
おれの理想を叶えるために、そしてその願いを叶える協力をしてくれると言う者たちを守り、導くために、あの団は存在するのだ。
「ちょうど幹部の座が空いてる」
創設から数年が過ぎてだんだんと団員の数は増えているのだが、流石におれと寒露では回らない大きさになってきていることは否めない。風巻はいつもいるわけではないし、最上級と呼ばれる妖怪を新たに幹部に欲しいと思っていた。
その座に、彼女が座ってくれたら――そう願うのは、いけないことだろうか。
「玻璃の体験は、きっと共生ができる世の中だったらする必要のなかったものだ。君と彼は好き合ってた。それなら幸せにだって慣れたはずなのに」
彼女の目に、光が灯る。おれが彼女に何をしてほしいのかを悟ったのだろうと思う。
淡く微笑んで、立ち上がった。そして手を差し伸べる。寒露のときと同じように。
「もう二度とそんな悲しいことが起こらないように、おれと一緒に目指してみないか? 妖怪と人間が共生できる世界」
玻璃の視線はおれに釘づけだった。迷っている、のかもしれない。
彼女がどの道を選ぶのかは自由。この手を取らずに何処かに行ってしまっても、おれには責める気はない。
「手を取ってくれるなら、おれは君の幸せを、全力で守るよ。死以外の方法で」
かなりの時間、彼女は放心したように立ち尽くしていた。
彼女の中で色々な感情がぶつかり合っているのが、手に取るように分かるみたいで。迷いは差し出されたままの手を穴が開くほど見つめているのを見れば、簡単に察せられる。
緊張から心の臓が激しく脈打っていた。
彼女は一体、どうしようというのか。どう在ろうとするのだろうか――。
忍耐強く手を伸ばし続けると、やがて、小さな手がしっかりと握ってくる。
「……ついていかせてください、久遠さま」
彼女の目から、迷いは消えていた。
おれはしっかりとその手を握り返し、そのまま引っ張って抱き寄せる。
彼女の味わった苦しみは他人事ではない。おれに限らず、大なり小なり団員は味わってきている。
それはつまり、玻璃の痛みは分かってもらえるということ。癒す方法が見つかるかもしれないということ。
「もう、大丈夫だから。君は独りぼっちなんかじゃ、ないから」
おれも寒露も決して独りではなくなったように、おれたちが君の寂しさや悲しさを消していけるように努力するから。
何かをこらえるように肩を震わせた玻璃が、腕の中で小さく頷くのが分かった。




