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忠義深さを憂う少年

 青い顔。周りに飛び散った赤い血。ぴくりとも動かなかった手。

「ほんと、馬鹿」

 呟きを聞き咎める者はいない、と思っていた透だったが。

「誰がですか?」

 振り返ると、そこには瞳子の妹のひな子がいた。その手には湯呑みの載ったお盆があり、怪訝そうな顔をしている。客である透に、と持ってきたものであろう。

「別に」

 すぐに視線を庭へと戻した彼に、ひな子は相変わらずの顔のまま、湯呑みを差し出す。透はそれにお礼を言いつつも、視線は向けない。

「真田さんはまだ目を覚ましてないみたい、ですよ」

 声が固い、というよりは、上の空。なぜならば、彼女はちらりちらりと庭の方――並んで歩く鶫と姉の姿――を気にしているからである。

 透は納得し、頬杖を突きつつ湯呑みを持ち上げた。口に入った緑茶はまろやかで、深い味がする。きっといい茶葉を使っているのだろう。彼にはそんなことを考えていられるだけの余裕があるが、ひな子にはないらしい。

「そう。……あと、あっちがそんなに気になるの?」

 訊かれた彼女は一瞬答えに詰まったようにし、「当然じゃない」と毒づいた。

「ふうん。だったら行けば?」

「そういう雨宮さんこそ、こんな縁側なんかで見てるんなら何で行かなかったんです」

「そんな無粋なことしてらんないでしょ。でもまあ、一応見張ってはおかないと文句言われそうだから。真田先輩に」

 何を話しているのかまでは聞き取ることができないものの、二人はぎこちない距離を空けたまま、静かに会話をしている。

 落ち込んでいる鶫を励まそうとしているように見える瞳子の表情は、真剣だった。鶫の方も、宏基のことが気にかかっているのだろうが、そんな瞳子に柔らかい目を向けている。

「どう見てもいい雰囲気でしょ。あれを邪魔したら怒られるよ」

「怒られる、って……誰にですか?」

 ひな子が怪訝そうにするのをちらりと横目で見、かつて久遠だった人を見つめた。

 鶫は思い出していないのだろうか。誰より結びつきの強かった『彼』のことを。

 事実、鶫の口からは一度も『彼』の名前を聞いていない。透にとって、それは奇妙で仕方のない事実。だがこちらから訊くことで妙な事態になるのも嫌で、何も言えないでいた。

 もしかしたら、わざわざ口にしないでいる可能性だってないわけではないのである。

「アンタの知らない人」

 だから、敢えて名前を出すことはしなかった。万が一にも鶫に聞こえないよう気を配ったのだ。

 透の脳裏には、長い髪を揺らして楽しげに笑う男性が浮かぶ。

 『彼』なら絶対に言っただろう。「そんな無粋な真似できねーよ」と。そして寒露がそういうものを解さずに突っ込んでいくから、『彼』と玻璃はよく呆れた目で寒露を見ていたのである。

「前世に関わりがあった人ですか」

 問いかけに、初めてひな子の目を真正面から捉えた。

 瞳子よりも少し気の強そうなつり目。短く切り揃えた髪が、首の辺りでさらさらと揺れている。そして、いかにもスポーツが得意そうなすらりとした肢体だ。

 外見から総合して、頭はよくないだろうな、と勝手に判断していた透は、少し意外な思いでまじまじと彼女の顔を見る。

「そういうこと。ふうん、勘は悪くないんだ」

「……どういう意味ですか」

 言外の意味を察したらしいひな子は、ひくりと頬を引きつらせる。

「はっきり言ってほしいの?」

「……イラッとさせますねあなた……!」

 言いながらも、「確かに学校の成績は散々ですけどね!」と続けてしまう辺り、素直なのかやはり馬鹿なのか。

「ああ、自分で言っちゃうんだ。まあ予想通りだけど」

 ふっと思わず頬を持ち上げた透。ひな子は何やらそれを見て固まっている。

 たっぷり30秒ほどが経っても、彼女はそのまま。こういう態度に慣れていないわけではないが、透は流石に眉を顰めた。

「……何。人の顔じっと見て。あんまりガン見しないでくれる? 不快」

「べ、つ、に!!」

 はっとしたらしいひな子が上げた叫びは、彼の耳がキーンと音を立て、庭の二人が振り返ったほど。

 不審そうな顔をしている鶫に、「何でもないから」と言う代わりとして、透は手をひらひら振ってみせる。腑に落ちなそうな様相であるものの、彼らはまた庭の散策に意識を戻したようだった。

「あのさ、声大きすぎ。オレ、うるさい女が一番嫌いなんだよね」

「あんたの好き嫌いなんて割とどうでもいいです!」

「だからうるさいってば……」

 距離を取るも、これ以上何か言えば十中八九やぶ蛇だ。透は自分の鞄から文庫本を取り出し、ページを繰り始めた。

 ひな子はひな子でそんな透には興味もないようで、姉の行く末が気になるのか、落ち着かなそうにしている。その場でぐるぐるぐるぐると上半身を動かして姿を追っているのを、透も最初は無視していた。が、いい加減視界の端に入ってうざったい。

「だからあのさ。そんなに気になるなら行けばいいじゃん」

 少なくとも、ここで鬱陶しい真似をされているよりはずっとましだ。集中できやしない、と嘆息する。

「あなたが言ったんじゃないですか……無粋、だって」

「アンタの方はそうも思ってないんでしょ? じゃあいいじゃん、勝手にしてよ」

 いかにも面倒臭そうな顔をしていたためだろうか、元気のいい彼女といえども落ち込んだらしい。眉を下げ、肩を落としている。

 静かになりはしたが、流石の透もこれはこれでいい気持ちがしない。

「言い方きつかったなら謝るけど、そんなに落ち込まないでよ」

 本を閉じて目を覗き込めば、勢いよく首が振られる。「別にあなたの言葉で落ち込んだわけじゃないです」と言いながら。

 じゃあ何なのだ、と脱力したら、彼女が力いっぱいといった感じで拳を握りしめているのに気づく。

「あたしだって、姉さんには幸せになってほしいんです。朝比奈さんが何かいかにも頼りなさそうだから不安なだけで。だから、邪魔するのはあたしも嫌なんです」

 鶫にとっては何とも御挨拶に違いないが、透もそう簡単に否定してやることはできなかった。

 変化へんげすれば久遠の性格が顔を出すようで少しは違うけれども、普段の鶫はおどおどと自信がなさそうにしている。

 あれをやめて少し背筋を伸ばすだけで違いそうだけど、と思ってはいるものの、言う気はなかった。今のひな子が話の中心に置こうとしているのは、彼のことではないだろうから。

「だって、このままじゃきっと、姉さんは『巫女』であることに徹してしまう。孤高の存在であろうとしてしまう」

 俯きながらひな子はぽつぽつと語る。その言葉にふと、透の中に蘇った記憶。

 ――久遠さまに好きだって言わないの?

 ――私は、巫女ですから。

 瞳子の前世、月読。当時の巫女の中で最強を誇る人のみ、という、栄誉ある名を名乗ることを許されていた人。

 団にたびたび顔を出すようになってから、月読は明らかにだんだんと久遠に惚れていた。久遠の方も同じだったが、どちらもその思いを告げることは最期までなかったはずで。

 玻璃は一度だけ、月読に尋ねたのだ。好きだとは言わないのか、と。けれども月読は、その短い言葉で済ませた。総てを語ってしまった。

 恋愛に限らず、巫女が何かに心を奪われることなどあってはならない。崇高な意志の下に在らなければならない。そういう掟があることは、玻璃も知っていた。

「……巫女だって人間でしょ。誰かを好きになったって不思議じゃない。でも、その『誰か』と一緒にいるかどうかを選ぶかそうじゃないかは、その人次第でしょ。その人の自由でしょ」

 透は前世で告げたことをもう一度繰り返す。今も昔も、それが本心だった。

 いくら誰かに押し留められようと変わりはしない。それが本物の感情であるのならば。だがそれを自分の中で認めるかどうかは、結局のところ本人なのだ。

 今の瞳子は、月読とは違い、巫女として生きる道しか許されていないわけではない。ただの人間として生きる道も選び得るのだ。ただ、選ぶのかどうかは本人次第であり、いくら姉妹と言えど第三者が口を出せる問題ではない。

「だからアンタも、早いところ姉さん離れしたら? 最終的にどうにかできるのは自分自身でしかないんだよ」

 ひな子は何も言えないようになって、また庭の方に視線を向ける。透も釣られて見遣ると、二人は照れ臭そうに笑い合っていた。

「姉さんのあんな顔、初めて見た……」

 こぼすその顔は、嘘をついているようには見えない。今までの瞳子はそれだけ、『月読の生まれ変わりであること』に縛られていたのかもしれない。

「真田先輩とおんなじ」

 ついつい口に出して呟いていたようだ。

「何がです?」

 不思議そうなひな子。

 透は少しの間言葉に迷うが、結局上手い言葉が見つからず、そのままを伝える。

「……前世に縛られたまま、動けないでいる」

 大きく目を見開くひな子を見て、彼は言わなければよかったと軽く舌打ちした。またぎゃあぎゃあと騒ぐだろうと思ったのだ。

 が、予想に反し、彼女は静かなまま。

 意外に思っていると、すがるような目で見てくる。

「真田さんも、なんですか?」

「さあね。オレにはそう見えるだけ」

 そんな表情をしている意味が分からず、とりあえず率直に答えた。だが驚かないし騒がないということは、彼女もまた、ずっとそう感じていたのだろうか。

「あたしはあなたたちとの前世に関わりはないから、こんなこと言うのは無責任かもしれないけど……姉さんはもう、月読じゃないのに……? あの人も、もう前世じゃないでしょう? 生まれ変わってるのに」

 ――もう、前世じゃないのに。

 ついさっき見た宏基の姿が想起される。

 忠義をかけ、ひたすら敬服していたあるじの、久遠。その生まれ変わりである鶫。確かに鶫は久遠ではあるが、久遠そのものではないのだ。

 そんな彼をひたすら守ろうとする宏基の姿は、透からしてみれば愚かである。

 自分を省みずに、どんな時でもかつての主を一番に考え、身を挺してでも護る。たまらなく愚かだ。

 愚かだ、けれど。その気持ちも分かってしまう以上、透にも責める資格はなかった。

 だからこそ、瞳子が変化していく様を見るのは、ほんの少し眩しい。

「馬鹿だね。でも……アンタの姉さんは、ちょっとずつ変わろうとしてるんじゃないの」

「……そう思う?」

 少なくとも透の目にはそう見えていた。

「変わらないのは、あの馬鹿だけで充分だよ」

 肯定の代わりにそう呟き、組んだ手の上に顎を載せる。

 問題は、宏基なのだ。

 変われない宏基。前世に振り回される鶫。そしてそれを結局のところ見逃してしまおうとしている透。このただれた関係が変わる日など来るのだろうか。

「真田さんが心配なんですか? 確かに、朝比奈さんのためにあそこまでできるってびっくりしましたけど」

 式神しきがみの襲撃からもう1時間ほど経つが、宏基が目を覚ましたという報せはまだない。それほどの力を、鶫を守るためだけに使ったのだ。

 前世で関わりのないひな子の目には、あの時の彼の行動はさぞ異常に映ったのだろう。

「あんな馬鹿、心配なんてしてないよ。ただ馬鹿だなって思うだけ。それに、オレが言ったところで変わらない。あの人を解放してあげられるのは鶫だけだ」

 鼻での笑いに隠した、本当の気持ち。

 ――もう、久遠さまだけじゃなく、周りを見てよ。

 ひな子は苦笑していたが、透は構わなかった。

「雨宮さんって、素直じゃないっていうか……けど」

 言葉が不自然に途切れる。反射的に彼女を見遣ると、切なそうに笑っていた。


「……全部知っていて、でも言えないっていうのは、辛いんですね」


 目を見開く。

 彼女は前世での関わりはなく、今日が本当の初対面のはずなのに、どうして分かったのか。透は咄嗟に反応できず、しばし放心してしまう。

「……アンタ、一番厄介かも」

 頭が悪そうに見えるくせに、と彼は悪態をついた。なぜ唐突に毒を吐かれたのか分からない彼女は、当然「はぁ!?」と不快そうに顔を歪める。

「心の中にずかずか踏み込んでくる。そしていつの間にか見抜いてる――暴いてる。一番厄介で、一番怖いよ」

「何ですかそれ」

 思いっきり眉をしかめている様子からして、本当に分かっていないらしい。

 彼は拍子抜けした思いでしばしその顔を見つめ、やがて大きくため息をついた。

「分かんないの? ……ふうん、やっぱただの馬鹿か。買い被って損した」

「意味分かんないです! 説明してくださいよっ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐひな子に向かって、虫を払うように右手をしっしと振る。そうしながらも左手で本を開いた。

「何その虫でも払うような手!」

「うるさい虫を払ってる。ああ、ごめん。ひな子だからヒヨコか。ぴいぴいうるさいヒヨコを払ってる」

「失礼すぎると思うんですけど!? ていうかヒヨコじゃないし!」

 ただし、読もうとしたわけではなく。その緩んだ口元を、文庫本で覆い隠したのだった。

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