毎夜見る幻夢の青年
『鶫』
誰かが鶫を呼ぶ。
『鶫、鶫』
ああ、これはいつもの夢だな――鶫は目を閉じたままぼんやりと思った。
『鶫。いつまで寝てんだよ、起きろ』
ぺしん、と軽く頭を叩かれた感覚がして、彼はゆっくりと目を開けた。
『やっと起きたか』
にっ、といった様子で楽しげに口の端を持ち上げている青年の顔が、まず初めに目に飛び込んできた。彼は鶫の頭の傍にしゃがんでいる。
精悍な整った顔立ち。自分と同じ、薄茶色の短髪。やはり同じ色の瞳。
身に纏っているのは、小袖というのだろうか、あまり現代では見ない形の着物だった。
ここまでなら、見た目は多少古めかしいくらいで人間と同じ。しかし、決定的な違いがあった。
耳は顔の脇にはなく、頭に生えている。猫にあるそれのように、尖った耳。
俗に言う『猫耳』なのだ。彼は。
『鶫も寝坊助か? おれと同じだな』
相変わらず楽しそうな表情をしたこの青年は、幼い頃から夢に見た。ここ最近、とりわけ高校に入学してからは毎夜出てくる。
『え、と……』
鶫はゆっくりと上体を起こす。それも夢だということは分かっている。だから本体は寝ているはずだし、今起きているのはその中の出来事だ。
しかし、酷くリアルだった。
鶫が辺りを見渡すと、草原と青い空がどこまでも広がっていることが確認できる。鶫は身近にこういった場所があるなど聞いたことがなかった。つまり非現実なのに、夢だと断言できるのに、リアルだとも感じられる。いくら矛盾していても。
明晰夢、と言うのだったか。そんなことを考えながら、鶫は目の前の青年に視線を移した。
『何だ、どうした。何か困ったことでもあったか?』
元気ない顔してるぞ、と頭を撫でられる。長い前髪が持ち上げられ、頬をくすぐる。
『……あなたは、誰なんですか?』
『ん?』
不思議そうな顔をしている彼を鶫は見上げた。
『最近は毎日毎日夢に出てきて、ぼくのことを励ましてくれるけど……誰なんですか?』
クラスに馴染める自信がない。宏基と喧嘩をした。
そんなふうに何か落ち込む出来事が起こって沈んでいると、彼はいつもこうして頭を撫でてくれる。
対して、楽しい出来事があったときには、一緒になって喜んでくれた。
まるで、友人の少ない鶫の話し相手になるように。
『誰だと思う?』
くすりと笑ったと思えば、今度は謎めいた表情を見せた。
鶫は少し考えてみるも、分からなくてすぐに首を横に振る。
何の手がかりもないのに予想しろ、というのも中々に難しいものがある。
ただひとつ分かるのは、不思議なことに、鶫が成長しても彼はずっと同じ姿だということ。
年を取らないし、服装も変わらない。まるで時が止まってしまったかのように。夢の中に出てくる人物だからなのだろうか。
ふと、青年が立ち上がった。鶫の視線を向けられながらも、ゆっくりと歩いていく。
するとその先に、突然大きな岩が現れた。腰かけやすそうな窪みがいくつかある。
鶫は驚いて目を瞬かせた。
『鶫もこっちに来い』
青年に手招きをされ、立ち上がって岩へと向かう。彼がぽんぽんと隣と叩くのに従って、そこへ腰を下ろした。
『月読に会った?』
懐かしそうな、そして同時に僅かな痛みを湛えたような笑みでこちらを見る青年。
ツクヨミ、とは、宏基が瞳子に呼びかけていた言葉だ。
『それってやっぱり、人の名前だったんですか?』
『そうだよ。月読尊って神様がいるだろ? 天照大神の弟で、月の神様の。その月読だ』
ツクヨミノミコト。鶫にも聞き覚えがあった。
昔、鶫が母親に読み聞かせられた日本神話に出てきた神だ。天照大神の弟であり、素戔嗚尊――スサノオノミコトの兄。
『あだ名……みたいなものですか?』
『ん?』
『だってそれ、神様の名前だし……』
あまり人の名前に使うとは考えにくいから、と、鶫はごにょごにょと言葉を濁らせた。
『察しがいいなぁ。あだ名、ってよりは、通り名、の方が適当じゃないかな。本人がそう言ってた』
『雪代さんが?』
月読というのが瞳子の呼び名、そして本人から聞いたというのなら、彼は彼女とも面識があるのだろうか。
夢の中で会うことを『面識』というのかは若干怪しいものがあるが。
『いいや。月読が』
またも、青年は不思議な笑みを湛える。
鶫はきょとんとして目を丸くした。
『だって、月読は雪代さんのことなんですよね? だったら、』
『瞳子は月読であって月読じゃないよ』
言葉を遮って、青年はかぶりを振った。
『え? それって、どういう』
『どうもこうも、そのまま』
『答えになってないです……』
項垂れる鶫に、彼はくすくすと笑う。優しく撫でてくる手は、とてもあたたかい。
『それに、最初の問いにも答えてもらってないです』
じっと見上げる。
きりりとした猫目と目が合った。変わらず穏やかだが、笑みと同じように不思議な感じがした。
どうしてこんなにも落ち着いていられるのだろう。
鶫は他人と視線を交わすことが苦手だった。それは親でも、兄弟同然に長い間親しくしている宏基でも同じ。
だが彼の目をまっすぐ見つめても、見つめ返されても、挙動不審にはならない。むしろ安心する。
――この人は、誰なのだろう。
彼が答えてくれるまで逸らされないよう、鶫は自分のできる一番強い視線を向けた。
同様の質問を幼い頃から何度もしてきたが、彼は一度も答えてはくれなかった。だから駄目元ではあるのだが、諦められない。
神秘的、と言い換えることもできる虹彩の奥。相変わらずの謎めいた笑みのまま、青年は再び鶫の頭を撫でる。
『おれはお前だよ。お前はおれ、って言いかえることもできるけどなぁ』
と、吐き出された言葉。
『……え?』
呆気にとられる鶫。
『もうちょい、手がかりを与えてもいいかー。寒露には怒られそうだけど』
愉快そうに轟笑した青年が軽く肩を竦めて立ち上がる。そのまま、鶫の前に立って見下ろした。
『寒露は、察しの通り宏基のことだ。二十四節気のひとつの寒露な。まあ宏基も、寒露であって寒露じゃないんだけど』
その寒露か、とそこは納得しつつも、訳の分からない彼の言い分に『はあ……?』と首を傾げる。それでもじっと話を聞いた。
『そして久遠は、おれのことだよ。久遠の理想、とかに使われる、久しく遠いって書く久遠だ。鶫』
微笑を向けてくる彼から目が離せない。引き込まれて、そのまま言葉を失ってしまいそうになる。
『その久遠……が、あなた? でも』
『瞳子はお前を久遠と呼んだ、ってか?』
鶫は頷く。
『だから、おんなじことだよ。お前は久遠であって、久遠でない。おれであっておれじゃないんだ』
言葉遊びのような台詞に彼は頭を抱える。
『もうちょっと分かりやすく教えてもらえませんか……?』
『うーん。それは駄目』
それじゃ意味がないから。そう言い切る青年――久遠に首を傾げた。
『お前が自分で知らなきゃ、宏基がずっとずっとお前を守ってきた意味がなくなるからな』
――宏基兄がぼくを守ってきた意味って何? 宏基兄は、雪代さんは、あなたは、いったい何を知っているの?
疑問がぐるぐると脳内を巡るも、久遠はよしよしとそんな鶫の頭を撫でるだけで、答える様子はなかった。
『……あなたが抱えているものは、宏基兄や雪代さんと同じなんですか?』
『ん? そうだな、ちょっと違うけど、大枠は二人と同じ。つまり、おれが知っていることは二人も知ってる』
夢だと一蹴してしまえばそれまでだが、これはきっと現実世界にも共通するものだと信じた方がいい。理由はよく分からなかったが、鶫の本能がそう訴えかけてくる。
『知りたければ、自分から二人に立ち向かわなくちゃならないんですね』
『そういうこと。物分かりいいな。いい子だ』
最初と同じ、にっという笑みを見せて、いつものように鶫の頭を撫でる。
それから、彼は草原に向かって一歩踏み出した。
鶫が戸惑うと、「そろそろ起きる時間だ」と久遠は体ごと振り返って笑う。
『深く眠るのはいいことだけど、この世界にあまりいすぎるのもよくないから。戻れなくなることはないけど、現実に帰りたくなくなるだろ? お前のことだから、きっと』
図星を指され、鶫は押し黙った。
確かにここは居心地がいい。よすぎるほどに。だからこそ、久遠はいつもそう言って鶫を送り出す。
だが今日は、常々とは違った。その後に言葉が続いたのだ。
『……まあ、そのうちお前には此処なんて必要なくなるだろうけど』
儚げに笑った久遠。鶫は目を剥いた。
『そんなこと!』
思ってもみなかった台詞を打ち消すように首をぶんぶんと振る。
鶫はこの場所も、久遠も大好きだった。どちらも優しくて穏やかで、そして大きくて。
弱くて惨めな自分でも、この世界にいてもいいのだと。鶫は久遠によって励まされていたのだ。
だが久遠は「そんなこと、あるんだよ」と、すがるような鶫の言葉を否定する。
『此処よりも大事な場所ができるし、おれよりも大事な人ができるよ。絶対に。寂しいかもしれないけど、それでいいんだ。そうじゃなきゃいけないんだ』
お前はおれであって、おれじゃないんだから。紡がれるものの意図を理解できない。
どういうことですか、と訊きたくても、意識が遠のいていく。こちらの自分が眠り、現実の自分が目を覚まそうとしていることに、鶫は懸命に抗う。
『もうすぐ、否応なしに知るべき時が来る。知らなくていいことから守ろうとして、宏基がどれだけお前を遠ざけても、それが運命だから』
遠くなる久遠の声。強い眠気が彼の姿や草原をぼやけさせてしまう。
『おれが誰で、お前が何なのか。宏基が、瞳子が――寒露が、月読が、お前にとってどんな存在なのか。知ってからどうするか。それを選ぶのは、お前だよ。鶫』
待って、といういとまも与えられず、鶫は完全にこの世界での意識を失った。
直後、眩しい光を感じて目を開け、上体を起こす。飛び込んできたのは辺り一面に広がる草原ではなく、見慣れた自室の風景だった。顔を巡らせて彼の姿を探しても、当然ながら見当たるはずもない。
「久遠……」
あれは夢だ。しかし、夢ではない。
それを刻みつけるように、鶫は何度も繰り返し呼んだ。
久遠、と。