交わす盃は月だけが
月の光はときにあたたかく ときには冷たく
下にいる者たちを照らし出す
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初めて入ると言ってもいい、人間の大きな町。
おれが今まで関わってきたところは、どんなに大きく見積もっても村としか言えない程度の大きさ。人数だってさほどでもなかった。
だが町ともなればこんなにもたくさんのヒトがいて、賑やかに栄えている。生き生きと輝いて。
恐らく近くに殿さまがいることも関係しているのだろう。お城のお膝元は安定するというのが常だ。
「まだ驚き抜けてねーの、お前」
腰かけに座ってもなお、辺りをきょろきょろと見渡しているおれを笑う風巻。
「だってこういう店入ったことないし……」
そう。慣れない経験の上に意外な状況に陥り、中々落ち着かないのである。
風巻の交渉力が生かされ、小料理屋に入ることができたのだが。何と、この店は半妖の母とその子がやっている店だったのである。母親の仲間だろうか、半妖がちらほら見える。それどころか混じりけのない純粋な妖怪もいる。
これならおれもわざわざ猫に化けている必要性はない。そんなわけで、おれは人型の姿に戻っていた。
忙しく立ち働く母娘。楽しげに会話を交わしている客たち。どれもこれも、おれの知らない景色。
だが何よりも一番驚かされたのは、風巻だったのだが。
娘の方が客に対処するようで、おれたちのところにも彼女が来た。その時に軽口混じりに彼女をすらすらと褒めるのだ。
里では母や侍女たち以外に女の人と交流する機会はなかったし、月読の村だと皆家族のような存在で。伊知郎の群れでもおれはほとんど男衆としか関わりを持たなかった。だから余計に彼のそんな様子が際立って見えたのかもしれないが。
「おい、今度はどーした」
再び目を瞬かせているおれを見、当の本人は怪訝そうにしている。
「何で女の人とそんな、えっと、うん……」
どう表現したらいいか分からず、若干口調がもごもごとしてしまう。
だって、どう言ったらいいのやら。「口が上手い」では失礼のような気がするし、かといって他にどう表せるか、適当な言葉も浮かばない。
「何だよ煮え切らねぇなー。聞こえねぇぞ」
「えっと、褒め言葉とか、すらすら出てくるのかなって……ていうか何でそんなあっという間に仲良くなるのかなって……」
こちらに身を寄せてくる風巻に多少詰まりながら、仕方なく思ったままを伝えることにした。
すると、彼は一瞬呆気にとられたような顔をして、確認に近い口調で訊いてくる。
「……、お前、何つーか。そもそも女の子と喋る機会ってあったわけ?」
「妹と、母上と……侍女とか……あと母親代わりの人とか……えっと、親しくしてた村の人とは話したけど?」
一拍置き、風巻は「何か、納得」と呟く。実際にそういう表情をしている。こちらは全く納得できていないのだが。
「だからものすごく不思議で……」
頬を掻くも、風巻にはあまり上手くおれの心情は伝わらなかったらしい。
「オレからするとお前の言い分が不思議だわ……」
しみじみと言われてしまったから。
結局、何ゆえに彼があんなにも女の人と仲良くなれるのかの理由は判然としなかったけれど。どうやらそれぞれの育ち方が違うとこうも意見が分かれるらしい、ということはひとつ勉強になった。
間もなく頼んだものが運ばれてきて、挨拶をしてから食べ始める。料理の味はとてもよかった。久々に食べる美味しいものに、自然と顔が綻ぶ。
「にしても、ほんと色んな妖怪が喧嘩もしないでいるもんだ」
食べる合間、風巻がぽつりと言って店の中を見渡す。
それはおれも思っていたことだった。
蛟に土蜘蛛、犬妖怪。そして雪女。様々な種族が入り乱れ、しかし喧嘩もせず楽しそうに笑い合いながら会話している。きっと母娘の人徳のなせる業なのだろうけれど。
「ねー。こんな場所創れたらいいなあ」
どの種族も争わず、笑い合って――更には助け合えるような場所が存在したならば。そんな場所を創ることができたならば、どんなにかいいだろう。
「こーいう場所が好きなのか」
風巻が反応してくれたのが嬉しくて、満面に笑みを浮かべながら頷いた。
「うん。人間とも共生したいし、なるべくなら妖怪同士も争いたくないなーって。だって争ったら、他を巻き込む場合もあるし。もちろん売られた喧嘩は買うけどさ」
人間とは争いたくないけれど、妖怪相手にそんなことを言っていたらこちらが舐めてかかられる。それはすなわち、妖怪世界ですら追われることを意味するから、多少は仕方ない。だが無益な殺生をするつもりはなかった。
「種族もなーんも関係ない世界、ってわけか」
「うん。まあ夢物語だけどね」
頬杖を突く風巻に再び頷く。
「まあ、それはそうかもな。同じ種族だって仲たがいはするし」
人間も人間同士で争う。おれたち猫又も、兄弟同士ですら意見が合わなくて里を分けた。蛟は同族同士で食い殺し合う。他の種族だって大なり小なりそういう事情を抱えているはず。
「でも、そういうのも含めて同じ種族どうしみたいに、ってんなら分かんねぇかもな」
人間と妖怪を隔てているものは何なのか。妖怪同士でも、種族と種族を隔てているものは何なのか。頭が熱くなってしまうほどに考えても、きっと正しい答えは浮かんでこないのだろう。
だったら、その答えすら丸ごと呑み込んで、おれは変えていきたい。
「そうだよね。だから、そういう世界を創れたらいいなあって。やっぱり夢物語だけど」
妖怪同士が共生できるようになったなら、人間との共生も近づくんじゃないかな、とか。夢みたいなことを思っている。
「それは、叶わないって意味での夢?」
ふと、風巻が首を傾げた。
叶わない、のだろうか。確かに難しいことだとは思う。だけど夢物語で終わらせてしまうのは嫌だ。
「んー……野望? 願い? そんな感じ」
風巻と未開の地を訪れた後、おれは心に決めたのだから。人間も妖怪も理不尽に傷つくことのない世界を創らなければ――と。
「なら、追ってみるのもいいんじゃね?」
彼は笑わないでいてくれた。微笑んでくれた。それが嬉しくて「そうかなあ?」と首を傾げる。
「何か、お前は賛同をひとつも得られなかったとしても諦めなさそうだし」
「賛同してくれないの?」
ちょっと不安になって眉根を寄せると、「今のそう取るか?」と少し苦笑いする風巻。
「賛同云々つーか、そーだな。他の奴が言ったら流すかもな。でも、お前が言うと何か本当にそうなりそうだわ」
不思議そうな様子だが、何とも嬉しい言葉を言ってくれる。それはおれならできると思ってくれているということでいいのだろうか。
たった一人にそう思ってもらえているというだけで、こんなにも力が湧いてくる。おれは割に単純なのだと思う。
「風巻がそう思ってくれるなら充分かな」
今のところは。まだ、何をしたらいいかは分からないでいるから。
皿の上のものを綺麗に平らげたおれたちは、お勘定を済ませて店を出た。もちろん、おれは猫の姿に戻り、風巻の肩に載せてもらって。
何をするでもなくふらふらと店を見て回るうち、日が暮れ始めた。人間の時間は徐々に終わりを告げ、妖の支配する時間がやってくる。
「寝るとことか目星つけないとか……?」
呟く風巻。どうするのかと思って眺めていたら、
「そこの色男さん寄ってかない?」
「肩に猫載せたおにーさん」
という華やかな声が聞こえてきてぎょっとする。恐る恐る見ると、やはり遊女である。
「おー、こりゃまた美人さん」
風巻の受け答えを聞いて嫌な予感がする。まさか、まさか寄らないよな、と思っていたら、見事にその予想は裏切られた。
宿が借りられるか確認した後、宥めるような頭の撫で方に嫌な予感は倍増して、抗議の声を上げようとした、のだが。
「じゃあ、せっかくの誘いだし乗ろーかな」
一歩間に合わず。おれは強く鳴き声を上げたが、風巻は完全に無視したのであった。
「久遠ー、起きてる?」
襖を開ける音の後、囁くような声が聞こえる。風巻が宴会から戻ってきたようだ。それに小さく鳴き返すと、静かに足音が近づいてきた。
結局おれは宴会には参加せず、猫の状態のまま宿のために用意された部屋で休ませてもらっていた。
と言っても、襖一枚隔てただけ。どんな様子だったかは総て聞こえていたので、何もしていないのに疲れた気がする。
「酒もらってきたけど、いる? つーか、皆もう寝に帰るつってたし猫じゃなくってもいーぞ」
だいぶ呑んでいたはずなのに、風巻の様子は変わらない。どうやら相当に強い方らしい。まあ意外ではないが。
「うん……」
言葉に従い、人型に戻る。風巻はおれの声に力がないのを聞き咎めたようで、「何だ、元気ねーな」と言いながら盃を渡してきた。
「聞いてるだけで疲れたっていうか……」
礼を言って受け取りつつも、思ったままを告げる。すると注いでくれながらけらけらと笑われてしまった。元凶の一人だというのに。少しだけ恨めしくなった。
注いでもらった一杯目を呷り、今度はおれから先に彼へと注ぐ。
「お前さー」
「ん?」
「誰かに恋とかしたことあんの」
唐突な台詞に吹き出しそうになってしまった。
「ないよ!」
全力で否定したら、「何つーか、違う世界」と呟かれる。むしろ風巻が遊び過ぎなのではないか。というかおれの場合、恋だとかそんなことを考えている余裕がなかったのである。生きるのに精一杯だったのだから。
「それはこっちの台詞だよ……」
苦笑い混じりに言うと、風巻はまたもけらけらと笑う。
「それもそーかもな? でもさ、これから誰か好きになるかもしんねぇじゃん」
誰かを、好きに。そんな日が本当に来るのだろうか。
その時脳裏にちらついたのは、月読の姿。そんな光景なんて見たこともないのに、父上の隣にいて幸せそうにしている様子が浮かぶ。
それは多分、最期の最期に彼女が見せたあの表情のせいもあるのだと思う。幻覚かそれとも本当に父上の魂が迎えに来たのかはおれには分からないが、あんなにも嬉しそうに彼女は笑った。恋をするというのは、ああいうことなのかもしれない。
「さあー……どうだろ」
だがそういう人がおれの前に現れるかどうかは別問題だ。
「誰か一人くらいさぁ、いるんじゃね? まあ、今はそりゃ何とも言えねぇけど」
「かもしれない、ね。きっと当分先な気がするけど?」
色恋を考えている余裕がなかった、というよりは、今でもあまりない。恋愛ができるとするのならば、その『余裕』が生じて初めて、だろう。
「それこそ分かんねーぞー。出会うのは明日かもしれねぇし。まあ、もしかしたら最後の最後、ってことも有り得ないではねぇけどな。出会いなんて」
確かに、そうだが。
今の状態じゃ、そういう人と出会ったとしても護ることすらできない。根無し草みたいな状況なのに、自分を護るだけで精一杯なのに、それでどうやって自分以外の誰かを護れるだろう?
だったらおれは出会わなくたっていい。大切な人を喪うなんて、もう嫌だから。
でも、風巻のような考え方をしている人もいる。そう考えると新鮮だ。今まで知らなかったこと、想像もつかなかったことを教えてくれる人がいる。
「……そう考えると変だよなぁ、考え方も種族も違う奴とどうして一緒に宿借りてんだか」
その呟きは不思議そうで、でも楽しそうで、おれも釣られて笑った。巡り合わせというのは本当に奇妙で、でもあたたかいものである、と。
それから数回盃を交わし合ううちにふと、とあることを思い出した。
「そういえばさ、風巻。盃見てて思い出したんだけど」
「ん?」
「兄弟盃っての、あるんだよね」
伊知郎の群れの傍にあったあの村で、兄弟盃の場面を一度だけ見たことがある。人間の村長と伊知郎が交わしていたのだ。
二人は対等な存在であると同時に、村と群れは兄弟分であるということをお互いに認め合うために。人間側の提案でなされたことらしいが。
「あー、人間の習わしで、あったな。そーいう契り。同じ盃で酒呑むんだっけ」
「面白いよね。分け合う割合によっていろいろと変わるみたいだけど」
村長と伊知郎が交わしていたのは半分半分だった。そうすればどちらが上でも下でもない、らしい。差をつけたい場合は、兄貴分が呑む量が多くなればなるほど、反対に弟分の呑む量が少なくなればなるほど、兄が主で弟が従という色が濃くなるとも聞いた。
「何か仲人を立てるやつとかもあったよな。聞いたのが随分前だったから、うろ覚えだけど」
「ね。対等なのもあったよね」
「それは……五分、だっけ。半分ずつ。これ、どうやって半分とか分かるんだろーな」
風巻がまじまじと盃を眺めているが、おれにも分かりかねる。
「何かこう……目分量?」
自分でもいい加減だとは思うが、他にどうやるのだか知らない。何せ一度見かけただけなのだ。細かいことを知るはずもない。
「つーか、呑み方も決まりがあんだろ。何だっけ、紙で樋作るとか」
「こんな感じ?」
手近にあった紙を追って樋のようなものを作ってみる。だが確実に零してしまいそうである。
「そーそー、絶対零すよなーこれ」
風巻も同じことを思っていたようで、おれは「零してもいいのかな?」と笑った。
「まあ……結果的に呑んだ量が一緒ならいいんじゃね」
「まあ五分であればいいんだもんね?」
「五分五分ってことならな?」
二人して何ともぞんざいである。おれも風巻も細かいことを気にしない性格なのが大いに関係しているだろう。
「やってみる?」
くすりと頬を綻ばせつつ訊くと、風巻は何と言うことはないように頷いた。
「それも巡り合わせ、ってとこか。いいんじゃね?」
おれは何とも軽い返答に肩を震わせながら、盃に酒を注ぐ。その間に風巻はもうひとつ樋を用意していた。
確か最初に二人の中央に置いてから、とか、同時に呑むには傾けなきゃ無理だよな、とか試行錯誤しつつ。
「まあ、一回中央に置いた、ってことでいいんじゃね? 二人で持って傾けりゃいーんじゃね、せーので」
「それでいっか! じゃあせーのでいこう、せーの」
最終的にはそんなやりとりで片付き、二人で端と樋をそれぞれ持ちながら、風巻のかけ声に合わせて同時に盃を傾けた。
予想通り、酒は上手く喉を通らず、かなりの量が口の端から垂れて首を流れ落ちていく。
あっという間に盃が空になった。しかし多分、本来はこういうものじゃない。確実に違う。
「横髪めちゃくちゃ濡れたぞこれー。つか半分だったのか?」
「半分だったってことにしよう!」
「まあそれしかねーよな!」
またもいい加減なことを言い合い、あまりの可笑しさに二人して笑い転げた。
けれども、晴れて風巻とおれは義兄弟となったわけである。
「天狗と猫又の義兄弟とか、なかなか聞かねぇ話だなー」
「ね! 中々どころかここぐらいじゃない?」
同族ならまだしも、異種族同士で義兄弟など。多分他の妖怪が聞いたらぽかんと固まる。賭けてもいい。
風巻が愉快そうに破顔した。
「いーんじゃね? 異種族同士がおんなじよーに、ってお前の夢の第一歩ってことでもさ?」
そうだ。おれの夢は、きっとあの日から目標に変わった。
生まれも育ちも考え方すら違う相手とだって、義兄弟になれる。だったらきっと、おれの思い描いていることは夢なんかじゃないって――そう思ったんだ。




