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異形に対す少年少女

 鶫は自らの手を見つめていた。

 今は何の変哲もない、いつも通りの人間の手。だがそのうち、「変化へんげしよう」と思っただけで、この手の爪は鋭く伸びるようになる。

 変わるのは爪だけではない。耳も、本来あるはずのない尾が生えることも、そして妖術が使えるようになるのも、総てその『変化へんげ』のうち。

 繰り返していくうちに、この手が普通だと思える日は来なくなるのだろうか。こちらが異常で、妖怪のものになったときが普通だと。そう思ってしまう日が、来るのだろうか。

 そしてもし、自分が人間であることを異常と感じるようになったなら、その時には宏基と透はどうなっているのだろう。

 考えても仕方のないことだと。でも彼は考えずにはいられなかった。

「朝比奈? 何してるの」

 廊下に立ちつくしていた鶫は、その声にゆっくりと顔を上げる。

「あ、雨宮くん……」

「もうそろそろお暇しようって真田先輩が言ってたよ」

 トイレを借りてから中々戻ってこないのを心配して見に来たのか、透がこちらに向かってくる。他の皆はまだ道場にいるらしい。

 不審そうな透の顔を見て、初対面の時の記憶が蘇る。

 ――アンタは何も知ってちゃいけないはずだ。真田先輩が全部遠ざけてたはずなんだから。

「――雨宮くんは、宏基兄と部活で知り合ったんだっけ?」

 中学時代の宏基は、当時のクラスメイトに強引に誘われて将棋部に所属していた。近隣の中学校とも交流があったというし、別の中学校の出身である透でも出会うチャンスはあっただろう。

「……そうだけど、何?」

「宏基兄はその頃にはすでに力を使えてたんだよね? 今とその頃、何か違いはある?」

 訊きながらも、馬鹿みたいだ、と自嘲の笑みを鶫は漏らした。答えなんてもう分かっているようなものなのに。

「そんなの、アンタが一番分かってるんじゃないの」

 そうなのだ。彼の一番近くに一番長くいたのは、鶫。その彼が変化へんかを見つけられなかったのだから、何も変わっているはずがないのに。そのはずなのに。何故かこんなにも胸騒ぎがする。

「心配でもしてるの? ……流石に、真田先輩だってそこまで馬鹿じゃないでしょ。今回雪代のじい様に言われたことは、オレだって何となく分かってたことだよ。真田先輩が気づいてないはずがない」

 透の言うことが尤もであることも、よく分かっていて。それでも鶫の胸騒ぎは止まらない。

「朝比奈?」

 浮かない顔のままであることに怪訝そうにしている透。鶫は首を振った。

「……そう、だよね。そうに決まってるよ」

 全部、気のせいだ――鶫がそう自分に言い聞かせて微笑んで見せたのに、透は足音荒く近づいてきて頭を叩いた。

「い、った!?」

「ほんと、何て言うか成長しないよね、そういう部分」

 間もなく治癒能力のおかげで痛みは消えたが、彼の険しい表情に鶫は目を瞬かせた。

「久遠さまも、呑気に見えて……思ってることをあまり話してくれなかった。不安に感じてることは、なおさら」

 保健室に運んでくれた折にも透が見せた、悔しそうな顔。あの時よりも更に勢いを増して燃え盛っているように見えるその感情。鶫は言葉を失った。

「久遠さまよりも顔に出やすいんだから、隠すなんて無理なんだよ。何考えてるの。真田先輩にも言えないなら、オレに言えばいいじゃん」

 透は怒っている。何も言わない鶫に。

 ――久遠さま。隠すことは美徳でも何でもないですよ?

 浮かんでくる懐かしい姿。強い瞳でこちらを睨む、長い金の髪を揺らして立つ女性――玻璃だ。

 いつもは飄々として掴みどころがなかったくせに、時折見せる激しさがとても美しかった玻璃。そのねめつける瞳と透の瞳は、同じ色をしている。

 変わっていないのはどちらだ。鶫は思いながら口角を持ち上げた。

「……『完全変化(へんげ)』をしなくても、力を使い続ければきっと、鼎さんが恐れた状況は緩やかにやってくると思う。それを、とっくに発現させていた君も、もちろん宏基兄も、気づいてないはずがないと思った」

 呟く彼をじっと見つめている透は、無言を以て肯定する。その通りだ、と言うがごとく。

「雨宮くんがどれぐらいの頻度で力を使ってたかは、ぼくには分からない。でもきっと宏基兄は、それなりに使ってると思うんだ。ぼくに何も知らせないために。守るために」

 それは彼が選んだことだから、責任を感じるのは間違っている。分かっていても、鶫は胸を痛めずにはいられなかった。最初から自分が記憶を持っていれば、宏基は何もあそこまで意固地になって鶫を守ろうとはしなかったのではないか、と。

「……分かってるだろうけど、それについて責任を感じるのは間違ってるよ。たとえアンタが総てを覚えてたとしても、あの人はきっと変わらず護ろうとしたはずだし」

 出会ってから間もないと言うのに、まっすぐに見つめられても鶫は恐くなかった。

 きっと、玻璃の生まれ変わりという懐かしさもあるだろう。だがそれ以上に、真剣だからだ。どん臭さや迷い続けるさまを揶揄するような色はなく、ただただ誠実に向き合おうとする姿勢があるだけだからだ。

「だけど、護られるままになるかは、アンタ次第じゃないの」

 ――選ぶのはお前だよ。

 久遠の声が耳に反響する。

 いつだって迷ってばかりの自分。足を止めては歩いてきた道を振り返ってしまう自分。その背中を押してくれる人が必ずいることを、鶫は深く感謝した。

「うん……ありがとう、雨宮くん」

 宏基にばかり背負わせるのではなくて、自分も背負いたい。それは決して、壊れて人間をやめてしまいたいというマイナスな意味で、ではない。自身の存在を粗末にしたいわけでもない。

 ただ、大切な人が自分を守ろうとしてくれるのなら、それ相応のものを返したいのだ。

「……その雨宮くんっていうのいい加減どうにかしない? 透でいいよ」

 ぷいっと顔を逸らした透がトゲトゲした口調でぼそりと言う。どうやら誤魔化そうと思ったらしい。

 変わっていない部分もあるけれど、やはり彼と玻璃は別人だと思って、鶫は笑った。それは何も性別だけでない。玻璃は人をからかうのが好きで、褒めてもお礼を言っても上手くいなすことが多かったが、彼は照れ屋であるようだから。

「だったらぼくも鶫でいいよ。――透」

 吹き出しながら言うと、「何笑ってんの?」とますますトゲトゲな鋭い調子で睨まれる。鶫は慌てて笑いを引っ込めた。

「ほんと、馬鹿みたいに無邪気。そういうところも久遠さまから変わってないよ、鶫は。早く戻るよ」

 肩を竦めて廊下を進んでいくかつて玻璃だった人にまた少し笑って、鶫はその後を追おうとした。

「――?」

 しかし、何か焦げつくような臭気が嗅覚を刺激し、立ち止まる。その正体を探ろうとした。

「透!!」

 だがすぐにその必要もなかったことを悟り、鶫は少し前にいた透の腕を掴んで後ろに跳び退いた。あまりに勢いがよすぎたためか尻餅をついてしまい、その上に透が落ちてきて一瞬息が止まる。だが文句を言っている暇はない。

式神しきがみ……こんなところにまで何で……!?」

 透が放心しながら呟いた。

 鶫にもわけが分からなかった。だが、「式神がこちらに向かってきている」という事実は動かせない。

 彼らの前に現れた数体の式神は、今までと同じくゆらりゆらりと不気味に体を揺らしながら近づいてくる。

「透、そこの窓開けて!!」

 今さっき覚えたばかりの制限の仕方で妖力を六割ほどまでに抑え、鶫は変化へんげした。法力を放とうとしていた式神を引っ掴んで床に押し倒し、動きを止める。透が反射的に従って窓を開け放ったのを確認して、勢いよく上体を起こす。その勢いのまま、外に式神を放り出した。

 こんな狭いところ、しかも室内では何を壊すかもしれなくて戦えない。鶫は瞬時に考えていた。

 透はそれを見て、鶫の意図を察したらしい。近くにいた式神を、鶫と同じように外へと引きずり出して飛び出していく。何体かはそれを追いかけていくものの、その場に留まって攻撃を加えようとする者もいる。鶫は後者を力が放たれる寸前に引き裂き、攻撃を止めた。

 だが予想通り、跡形もなく消さなければ分裂するだけ。舌打ちして自分も窓の外に飛び出そうとした時、宏基と瞳子の声が響く。

「鶫!!」

「朝比奈さん!!」

 そして複数の足音。どうやら騒ぎを聞きつけたようだ。

 まだまだ湧いてくる式神が、そちらの方にも向かっていく。皆殺しにするつもりであるらしい。外に出た透の方にもかなりの数がいるらしく、戦っている音が鶫の背後に響く。

 瞳子が鏡を構え、宏基が変化へんげしているのが視界の端に映った。

 後から現れた者たちに何かを言う間もなく、目の前に現れた敵が法力の槍で腹を突こうとしてくる。

「あっぶ、ね!」

 鶫は辛くも躱すが、外に出ようと窓枠に足をかけていたのが悪かった。

 足が滑り落ちてバランスを崩し、体が傾ぐ。それだけなら問題はない。猫は平衡感覚に優れている。体勢を立て直すのは容易だが――その隙を、敵が見逃すはずはなかった。

 法力の塊が降下してくるのが見えて、鶫の血の気が引く。バランスを取るのは後回しにして技を放とうとした、刹那。

 鼻を突く臭気。これは前世でよく馴染んだ、懐かしい、けれども今嗅ぐことのできるはずがないもの。


 寒露が「魂すら滅せるほどの猛毒」「最後の奥の手」と語っていた、毒の臭い。


 鶫は強かに腰を打ち付けたが、痛みを感じることはなかった。治癒能力のためではない。ほとんどの感覚が総て意識の外へと失われているから。

 そう、視覚と嗅覚以外は。

 式神は、鶫を襲っていた者どころか、透や瞳子たちに向かっていた者すら、掻き消えていた。痕跡すら残さずに。

 これは。これほどの力は。制限された妖力で使えるわけがない。でも、だけど、そんなこと。真っ白な頭で鶫は懸命に逃げ道を探そうとする。

「こう、き……にい……」

 掠れた声。交わされた視線。感じる『寒露そのもの』の妖気。

 宏基は、怖いぐらいまっすぐに鶫を見ていた。

 しかし間もなくその目は鶫から外される。

「宏基兄ッ!!」

「真田先輩!?」

「真田さん!」

 彼が血を吐き、その場に倒れ込むことによって。

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