少しずつ表れる野望
月読、と呼ぶ声は、声にならない。
何も言わなかった彼女。今はそれをただただ悲しく思うけれど、もしかすると、言えなかった、のかもしれない。おれが弱かったからか。それとも彼女が弱かったからなのか。今となってはもう、分からないけれど。
彼女自身の生きる場所だったはずの巫女たちのそういう風習を、月読は厭うことしかできなかったのだとしたら――それもまた、とても悲しいことだ。
「――胸糞悪りぃな」
かなりの間に渡って流れていた沈黙を、風巻の呟きが割る。
「……まあね。でもまあ、妖怪も人間を捕らえて奴隷みたいにしたり、食ったりってするから……何とも言えないけど」
人間が捕らえられている状況には一度も遭遇したことはないが、救い出したことがあったらしい父がいつか教えてくれた。「本当に酷いものだったよ」と。
休息もほとんど与えられないまま働かされ、何かヘマをすれば命はないと脅され、結果的に弱り切れば食料として殺され。そんな生活の中、助け出されても精神が崩壊していた者が多かったという。
それに、食われる場面にはおれも何度か遭遇している。顕著だったのはあの、笑い般若。たまたまおれがあの場に駆け付けることができたというだけで、決して珍しくない光景なのだと知っている。
だから、おれたち妖怪の方がこんな惨い扱いを受けても、文句を言うことはできないのかもしれない。
「それはそれ。これはこれだろ。……確かに、人間に害をなしたら報復されることだってあるさ。それでも。どっちかが許されないんなら、もう片方も許される道理はねぇさ」
だが、風巻はかぶりを振る。
彼の言うことは正しい、のだろう。妖怪たちは多く人間を虐げるけれど、だからといって人間が妖怪を虐げていいわけではない。当然、人間に反撃されたからといって、妖怪がますます彼らを虐げてもいいわけではない。とても簡単なことだ。
だけど。
「強い者は弱い者を従えたがる。弱い者は、どんな手を使ってでも強くなろうとする。どっちも真理だからなあ……風巻は正しいけど、割り切れるものでもないだろ」
どうにか笑おうとして口元が少し引き攣れたのは、多分おれも分かっているから。
「妖怪が人間を傷つけることは許さない」という信条なんて、おれの利己的な感情から来ているだけで、「妖怪が元々そういう風にできている」のだとしたら、きっとその節理から反することを強要しているのだろう。
そして「そういう風にできている」ものにどうにか対抗しようと、法師や巫女たちがああいう方法を生み出したのだとしたら。それはこちらに跳ね返ってくる。
だが妖怪も殺されたくはない。強い力を持った者が弱者を従えようとするのは、ある意味でやっぱり摂理で。弱者は抗おうとして。そうして永遠に同じ場所を巡る環となるのかもしれない。
おれたちのように本能に従い行動することが多い存在とは違い、人間は自分を律することのできる理性も――その箍を一気に外すことのできる感情も持つから。ヒトがそういうものから逃れられずにもがくところを、おれは何度も見てきた。もういない人を悼む心があるからこそ、彼らは時に残酷な仕打ちさえやってのける。
「まあな……憎しみとかが割り切れたらこういうことも起こんねぇのかも、だけど。何が正しいかは考えとかねぇと、呑まれちまうんだよ。それこそ。少なくとも、オレはそう思ってる」
正しいことを考え、それを頭の中に留めて揺らぐことのないようにしておく。それがどれほどの強さを求められるのか、おれには分かる。何故って、おれはいつも迷ってばかりだから。
変えられない摂理かもしれないと分かっていて、何が本当に正しいのかを分かっていて。でもそれでもおれは、万にひとつかもしれない可能性を信じていたくて――そのくせ、「本当に信じていていいのか」と揺らいでしまう。
「風巻は強いなあ」
今度こそ心からの笑みが浮かぶ。素直にすごいと思ったのだ。
「ある意味ではそうかもな。ただ、信じるのだって別の意味では強さかもしんねぇぞ」
しかし、風巻が肩を竦めながらそんなことを言う。
彼は嘘をつかない。今まで見てきて、何となく分かっている。だから、やめてほしい。そんなふうにきっぱり言うのは。迷ってばかりのおれも少しは強くいられているのかもしれないなんて、勘違いしてしまいそうになるじゃないか。
「まあ、裏切られるのは普通に怖いけどね」
不意に熱いものが込み上げてきそうになるのを、けらけらと笑うことで誤魔化す。
いいのかな。ちょっとぐらい勘違いしても。
そして、さっきから頭の端を掠めている、途方もない願いを追いかけてみても。
「そりゃそうだろうさ。……お前、これからどうすんだ。見つかっちまったみたいだけど」
伊知郎の群れの一件で、おれは恐らく法師や巫女の中で早急に滅殺すべき対象になっているはず。真っ赤な嘘とはいえ、隣の村は「隣接する猫又の群れに村を荒らされて困り果ててい」たのだから。
あの廃寺が見つかるのも時間の問題かもしれないが、ぎりぎりまではいようと思う。あそこほどいい場所はそうそう見つからないだろうし。
「んー……またふらふらするしかないんじゃないかなあ? 見つかっても逃げればいいだけだし」
「……まあ、百年逃げたならお前のが上手かもな」
おれの返答に風巻は「呑気だな」と言いたげな顔をしている。
「呑気なのは生きる目標が特にないから、死ぬことにもあんまり怖さがないだけだよ。でもまあ、頑張って逃げるよ。風巻はどうするの?」
特にない、のではなく、失ってしまった、の方が適当かもしれないが。
理想の在り方のひとつだった伊知郎の群れがああいうことになって、おれは此処最近ずっと迷っていた。本当にヒトとの共生を目指すことができるのか――月影や月読との約束を果たせるのか。ヒトが好きには違いないけれど、結局裏切られてしまうのではないか。珍しく、後ろ向きな思考になっていて。
いっそヒトの手で殺されてもいいかもしれない、なんて、もしかすると意識の深いところでは思っていたのかもしれない。
「……もう少ししたら人を訪ねる用事があるから、それを前倒ししてひとまず西に上るかな」
答えに頷こうとしたら、
「――じゃあさ」
と言葉が続いて、おれはきょとんと首を傾げる。
「お前、もっかいオレと会うまで生きてろよ。約束約束、せーりつな、破んなよ」
思いついた、という顔で一息に言った後、まるで誤魔化すかのような投げやりな口調で言葉が続いた。だが、口にした内容は嘘や冗談ではないとその目を見れば分かる。
彼は本当に、色々と分かっていてやっているのだとしたら、きっと相当に狡い人だ。
「あはははは! 何その投げやり! でもまあいいや、約束」
目頭がかあっと熱くなったけれど、大声で笑うことでまたも誤魔化した。嬉しくて嬉しくて、一人だったおれと「また会おう」という約束をしてくれたことが、嬉しくてたまらなくて。
「おー、約束な。破んなよ」
「破るな」と繰り返す彼の笑顔を、また会う時まで決して忘れないでいようと思う。刻み付けて、逃さないようにしていたい――そう思っていたら、突如、胸の辺りで熱を感じる。怪訝に思って視線を落とすと、首飾りだ。
さっきは危機を知らせてくれたからと思って感覚を研ぎ澄ませてもみたが、おれと風巻以外はこの辺りにいない。
不思議な状況に僅かに眉を顰めたら、次には月影の姿が眼裏に蘇る。
――大切な人の真名を呼びかければ、その人が何処にいても見つけられるそうです。
刹那、目の前の霧が一気に晴れた気がした。
「風巻。待って」
まだ立ち去ってもらっては困る。呼び止めてから懐に手を突っ込んでごそごそと漁り、首飾りを外した。
「はい、これあげる」
そのまま、彼に半ば押し付けるようにして渡す。
「何だ、いきなり」
当然怪訝そうにしているので、にこりと笑ってみせた。
その首飾りは、おれにとってとてもとても大切なもの。それを彼に預けるのは、それだけこの人を信用したいと思っているからだった。交わったのはこんな短時間だけど、分かる。彼がどんな人物であるのかくらい。
「んー、何か元は母上の持ち物で、月影――妹からもらった。妖力高めてくれたり、会いたい人の真名を呼びかけたら居場所教えてくれたりするらしいよ」
「おい、それつまり形見じゃねぇか! 何でそれがオレにくれようって理論になるんだよ!」
『らしいよ』にほとんど被せるように風巻が鋭くツッコミを入れる。まあ、当然だろう。反対の立場だったら流石におれでも訊く。「本気か?」と。
「んー、おれが諱を教えれば、離れてても見つけやすいかなって。駄目?」
だが敢えて答えを外してそう笑った。
「駄目、って……それはオレが決めることじゃねぇんだろうけどなぁ……」
がっくりと脱力しつつも「つーか初対面に諱教えんのかよ!」と更にツッコミを入れることを忘れない辺りは、尊敬に値すると思う。こういうことを考えているところが彼に呑気と言われる所以なのかもしれないが。
「まあ今さら偉ぶって諱とか言っても意味もない気がするしなあ……」
「そーいう問題か?」
「最終的には風巻は悪い人には見えないっていうか、いい人だっていうのに集約される!」
更なるツッコミにはくすくすと笑った。
「お前、お人好しだな、それに尽きるわ」
風巻の方ももう諦めたのか、肩を再び竦めながら笑った。
「うん……? まあいいや。じゃあ、教えてもいいの? 諱」
『お人好し』が今の話に何か関係するのだろうか。よく分からずに目を瞬かせつつも尋ねると、今日だけで何度目かの呆れ笑いをされる。
「だから、オレが決めんのかよ。……まあ、口が固いことは約束するわ」
ほら、やっぱりいい人だ。
言ったらまた「お人好し」と言われそうな気がするので、思うだけにとどめて息を吸い込む。未だに、自分で言うのも何となく緊張するのだ。あまり口にしない名前だから。
「――春永」
声に出した直後、喉がからからになっていたのに気づいて慌てて唾を嚥下する。どうやらかなり緊張していたらしい。誰かに教えたのは月読の死の間際が最後だったから、恐らく余計だ。
風巻は、少しの間何も言わなかった。おれはそれにまた緊張していくような気がして、ただじっと黙っていた。
「……つまり、永遠、ってか。久遠も、春永も。いい名前じゃん」
――『久遠』は末永い、永遠、って意味だ。この里の平和が永遠に続くように、って先祖が選んだらしい。
――『春永』も永遠って意味なんだ。『春』は穏やかな空気が満ち溢れてるだろ? だからお前には永遠に穏やかな日々が訪れるように、そしてお前自身が永遠の穏やかさを周りに与えられるようにって、考えたんだよ。
風巻の言葉がきっかけになったのか、父の言葉が蘇った。
長い間思い出すことのなかった記憶。どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なことを。
今日は風巻に泣かされそうになってばかりだ。本人にそんな意識は全くないと知っているから、何も言えないけれど。
「わーい、初めて呼んでくれた!」
だから、もうひとつの嬉しさに紛らわせて、満面の笑みを浮かべる。風巻は「それがそんなに嬉しいのか」というような顔をしている。
だって、しばらくの間、誰にも名前を呼ばれていなかったから。自分の声すら忘れてしまうような生活をしていたから、嬉しいのだ。
こうなってみると思い知る。名を呼ばれるというのは、どれほど貴重であるのか。
風巻には色々なことを気づかされてばかりだ。
「久遠は代々里長が継いでる名前なんだけどね。おれ、春に生まれたらしいから。永遠を願ってたのに……ってところがまた皮肉だけど、おれは好きだよ。この名前」
里長たちの願いは、叶わなかった。父の願いも、今のところ叶いそうにない。それでも、思うのだ。あの願いが、思いが、あたたかくて――愛おしくてたまらない。それだけ大切にされていたのだと教えてくれるから。
すると、彼が言う。
「……まだ、続いてるんじゃねぇ? 代々受け継いできた想いとか、そーいうのは残ってるんだから」
続いて、いるのだろうか。そうだといい。それなら、嬉しい。おれの中に生き続けているのなら、それはまだ、終わりじゃない。
「……そうかもね……ううん、そうだね。ありがとう」
おれもいつか、この人みたいに優しい台詞を誰かに言ってあげることができるだろうか、なんて、仕様もないことを考える。
「礼を言われることでもねぇよ――あ、そうだ。久遠」
兎に角、首飾りを受け取ってくれたようでよかった、と思ってたら、今度は風巻の方が呼び止めてきた。
何だろうと目を瞬くと、にっと笑ってから彼は話し始める。
「教えられて教えないのは何か落ち着かねぇから。風巻ってのは、刀匠としての名前だ。生まれた時からの名前じゃない」
刀匠、つまり刀鍛冶。それに色々と納得する部分があった。先ほど一緒に戦っている時、刃物を上手に扱っているところを見かけたことを思い出して。もしかしたらあれも自作だったのかもしれない。
「――紅霞。オレの名前」
明るく笑う風巻に重なる色――猩々緋。大陸の妖怪、猩々の血の色。この世で最も鮮やかな、紅色だ。
紅霞というのは、夕焼け空やその色に染まった雲のことを言う。おれはあの色ほど鮮やかで、でも泣きたくなるほど優しい紅を見たことはない。
「……ぴったりだな。燃え盛るような紅色」
心からそう思う。彼の中で燃えている猩々緋が見えるかのよう。あたたかくて、優しくて、でも厳しくもあって。激しいのに穏やかで。
「おー、ありがと。なるほど、そーいう見方もあんのか」
「え。違った?」
「いや。同じ色でも、見方だって千差万別だからな」
ということは、彼は違った印象を受けているのだろうか。首を傾げ、訊こうかと思った。しかし彼が直後に翼を広げたのを見てやめておくことにする。
「――そろそろ行くか。あんまり立ち止まっててもここまで逃げた意味がねぇしな」
それもそうだ。きっとまた会えて、その時にでも訊けるから。大丈夫。おれは、約束を破らない。月影が、月読が、そして風巻が、おれのためにしてくれた約束は全部守りたい。
「じゃあ、またね」
笑顔で手を振る。
「ん、またな」
風巻も笑顔で手を振り返し、ふわりと飛び上がる。おれは手を振り続けながらその様子をじっと眺めた。
彼はあっという間に高度を上げて小さくなっていき、やがて完全に見えなくなる。
それが分かっていてもなおしばらく手を振り続け、たっぷり時間が経ってからゆっくりと手を降ろした。
おれも、帰ろう。
そして少しずつ考えよう。おれの中に浮かんだ願いを叶えるためにはどうすればよいのか。
共に生きるだけじゃ駄目なんだ。人間も妖怪も、傷つくことのない世界でなければ。そういう世界をおれの手で作りたい。
途方もないかもしれないけれど、諦めなければ敵うはずだと――もう一度、信じてみたいから。




