決して切れ得ぬ絆を
あたたかすぎる月の光は
冷えた部分を暴いていくのだろう
● ● ●
「宿、助かった」
おれがねぐらにしている廃寺を出ながら、風巻が振り返って言う。
「ううん。此処、歴代の家の中で二番だから! 此処に住んでる時でよかった」
そう答えながらも、出会った時の彼の姿が眼裏に浮かぶ。長い髪をたなびかせ、こちらを驚いたように見つめていたのだったな、と。1日だけで随分と距離を縮めてくれたことをありがたく思いながら、そっと微笑んだ。
風巻は目的地があって進んでいたようだが、その前に夕暮れ時を迎えてしまった。
烏天狗である彼は、鳥目。活動できないこともないが、できれば夜に移動はしたくないのだろう。泊まるところを探そうとしていた。
足止めさせてしまった申し訳なさもあり、それならばおれの使っているねぐらに来ればいいと提案したら、彼はそれに乗ってくれたのだ。「初対面の妖怪を縄張りに招くのかよ」と少し呆れ顔をされたが。
でも、もしおれを殺すのならば、とっくにできていたはずだ。それこそ土蜘蛛を退治していた時とか、その後おれの水を払ってくれた時とか。
だが彼は一切おれを狙う真似はせず、むしろ助けてくれた。そんな風巻がおれの寝首を掻くなんて思えないし、躊躇などしなかった。
「……百年近く劣悪な環境にいたんだな、お前」
しみじみと労わるように言って、風巻はすたすた歩いていく。おれは彼の後ろ姿を追いかけながら、ぽつりと思った。
そんなことはなかったよ、と。月読の村も、伊知郎の群れも、とても過ごしやすくていい場所だった、と。
だけど言ったところで彼の表情を曇らせるだけである気もして、言えなかった。
風巻は天狗の里の出身だという。『深山の里』とも言うらしい。巫女とは不可侵の協定を結んでいて、東国にいる天狗は大方そこの出身であるそうだ。
月読に訊いたことがあった気もするが、彼女が教えてくれた知識は害を及ぼす妖怪の方が多くて、あまり悪さをしない天狗の情報は少なかった。
固まって暮らしているということは、仲間がたくさんいるということ。ほんの少し前までいた伊知郎の群れのことを思い出してほんの少し胸を痛めながら、「いいなあ」と思わず零してしまった。
その物言いに、風巻もすぐに気づいたらしい。おれが『一夜にして滅ぼされた猫又の里』の出身であることを。
――跡継ぎが生き残ってても里がなきゃ意味ないよなあ。
肩を竦めたおれに、風巻はあっさりと言った。
――血が残ってりゃ未来にも繋がるさ。
すぐ、何でもないように相槌を打ったけれど。それがどれだけ嬉しい台詞だったか、彼が知るはずもない。
何処とも繋がれなくなってしまったおれ。故郷を亡くし、叔父の里を飛び出し、頼みの綱だった伊知郎の群れとも絶縁した。それでも、おれさえ生きていれば、また何かが起こるかもしれないって。そう思わせてもらえた。
与吉のことで沈み続けていた気持ちが、ほんの少し軽くなった、なんて。
きっと知らないのだろう。
だから、気づいたら自分が叔父の里を飛び出してきていたことをぽろりと口にしてしまっていた。あまり話すつもりもなかったのに。やっぱり、初対面の相手によく喋る、というような顔をされていたが。
その会話の流れで、風巻の目的地は『未開の地』であることを知った。
ねぐらの廃寺から丑寅の方向に向かった先に、未開のままで放置されている土地があるのだ。長い間、法師や巫女は妖怪を狩り続けている。おれたちの繁殖力もあるとはいえ、開かれないままでいるは妙だと彼は言うのだ。
――この辺りには法師殿たちも、巫女たちも多いので気をつけなさい。そして用もないのなら極力未開の地に近づいてはいけませんよ。あそこは、貴方にはよくない。
月読の翳った瞳を思い出す。
彼女の口から『未開の地』の言葉が出てきたのは、あの一度きりだった。もしかすると何かを知っていたのかもしれないが、無理に聞き出すのも嫌で、深くは探らなかった。それを今になってほんの少し後悔する。
巫女とか法師でも倒せない妖怪の縄張りだとか、もしくは強すぎて倒せない妖怪を封印しているだとか、まことしやかに囁かれているのを小耳に挟んだこともある。だけどそれも眉唾物なのだ。
――お前はそういう妖気、感じたことあるか? 妖気からして、お前は最上級だろ。それでも巫女や法師に喧嘩売られたことだってあるだろ、きっと。そーいう奴らが倒せないほどの妖怪なら、誰にだって妖気は分かるはずだ。でも、オレはそれほどの妖気、感じたことねぇよ。
風巻の言う通りなのである。おれは何度も彼ら妖怪退治の専門家に狙われているし、おれが狙われていないのに他の最上級が狙われない道理はない。そして現に、こうして近づいている今も、それほど強い妖気など全く感じられないのだ。
そんな妖怪がいたとしてもそれはそれで楽しみだしな、と笑った風巻は、かなり好戦的な部類らしい。まあ、そうでなければそもそも未開の地に行こうなどとは思わないだろうが。
おれも気になる思いはある。それでも同時に何となく彼を引き留めたい気がしたのは、月読の言葉のこともあるけれど、もうひとつ理由があって。
月読に付き添って妖怪退治に行った折、たまたま一度だけ近くまで行ったことがある。その時、何だか嫌な感じがしたのだ。上手い表現が見つからないけれど、ぐにゃぐにゃした感覚。いや、むしろ感覚がぐにゃぐにゃすると言う方が適切かもしれない。
そうだ、あの時だ。月読が未開の地に言及したのは。そしてそれきり決して口にしなかった。何故だか分からないけれど。
「あ。法師だー」
彼女の言葉を裏付けるように気配を感じ無意識に呟いたら、風巻に呆れ顔をされて少し焦った。
「大丈夫そんな目で見ないでよ、三里ぐらい先だって」
「いやまあ、距離は分かるけど、お前が呑気だと思ってな……」
言い訳すると更に呆れ顔をされ、彼はどんどん進んでいく。
昨日の晩、食事をしながら風巻とは色々な話をした。
漬物を出したおれに、「物々交換だ」と言った彼は、糒を使って雑炊を作ってくれて。それを共に食はみつつ、お互いの里のこととか、家族のこととか。
久しぶりに話し相手がいたこともあって、おれが喋りすぎた気もする。特に、思想の話は長くなった。人間と妖怪の共生を目指したい、と言う願いが、一番。
「いい法師もいるし、悪い巫女もいるよ?」
呑気、と言われても仕方がないかもしれないが、おれはどちらか一方を悪者扱いはしたくなかった。法師が総て妖怪を見たら攻撃してくるわけではないと思うし、反対に巫女が人里に近づいてもいない妖怪を殺すかもしれないのだから。
「それは会うまでわかんねーだろうが。だったら会わずに目的地まで行けた方がいいだろ……」
「うーん、確かにそれも一理ある……けど会いたいから仕方がない。でも風巻が避けるなら避けるけどね!」
脱力している風巻を見て、おれは笑った。
「お前いつか騙されるぞほんと」
何度目か、風巻が呆れた顔になる。
尤もかもしれない。今まで何とか生きてこられているのは運がいいだけで、死んでいたっておかしくはなかった。現に、伊知郎の群れとの決別は人間からの裏切りで起きた。
「うーん、それは今のところ自分だけの範囲で済むからいいかなーって」
今のおれは、何処にも繋がらない『一人』だ。他の誰かが犠牲になるわけでもないのだから。
「お前の考え方は理想的だけど、オレには無理だわー」
風巻が首を振りつつも注意深げに辺りを見渡している。未開の地の手前まで辿り着いたから、だろう。
「おれだって憎いものも恨めしいものもあるよ?」
おれも深い森になっているその方向を見つめつつ、首を傾げた。
何事もないように会話しているが、全身の感覚が「気持ち悪い」と訴えかけてくる。いつぞやに感じたぐにゃぐにゃとしたものは、あまり変わっていないらしい。むしろ悪化しているかもしれない。
「まあ、そこまで考えなしだとか言ってねーよ。だからこそオレには無理って話」
彼が妖気を探っているのを見、「そっかー」と応じることでおれは話を打ち止めにした。これからは多分、心情面だけでもいつも通りでは駄目である気がして、風巻には気づかれないように気合を入れ直す。
「そっかー……とりあえず今のところ妖気は感じないね。もしかしたら隠す妖怪なのかもしれないけど」
「まあ、何かあったら撤退すりゃあいいわけで。よし、進むか」
あっけらかんと言い切ってさっさと進んでいく風巻に、ちょっと笑えてしまった。
呑気とはまた違う。竹を割ったような性格、と言うべきか、おれは彼のそういう部分がますます好きになった。
「だよね!」
応えておれも進んでいくと、日光はあっという間に遮られ、おどろおどろしい景色が目の前に広がる。蔦や蔓が進む道を遮っていて、おれたちはそれを掻き分けながら進んでいくしかなさそうだった。
「日の光、あんま入んねーな。下位が好みそうだ」
陽光は妖力の弱い妖怪にとっては毒でしかない。だから彼らはいつでも薄暗いところにいる。
「確かに。まあこういう雰囲気嫌いじゃないけど。何か方向感覚狂いそう、いつも以上に」
悲しいかな、元々方向感覚が鋭い方ではないので、あまり気にもしていないが。
「実質一人旅と同じかよ……」
ため息をつきたそうな様子でひとりごちる彼は、懐から小刀を出して蔦や蔓の処理をしている。おれとは違って爪で切ることができないからだろう。
「言ってくれればそれぐらい切ったのに」
ちまちまと切っていくのが面倒で、小規模ながら閃爪斬を放って道を広げた。
「そりゃありがたいけど、妖力使うのは極力控えた方がいいんじゃね? 不気味なくらい、妖気も他の気配も感じねーし、確かに感覚狂いそうだわ」
まともなことを言いながらも躊躇なくずんずん人進んでいく辺り、彼も相当だと思うのだが。
その後も注意を払いつつ進むが、植物と不気味な空気があるだけで、全く何も起こらない――と思っていたら、後ろから飛んでくる何かの気配がする。
「って、不意打ちしたつもりかよ」
蹴りを入れてから確認すると、どうやら妖狐だったようだ。しかし、一尾。尾の数が増えるごとに強さも増す種族である妖狐の中では最弱の個体だった。
「……雑魚にしても妖気全く感じなかったんだけど。不気味」
呟くと、風巻が頷いた。
「確かにな。ぐにゃぐにゃってつまり、こういうことか」
持っていた小刀で木の幹に小さな蛟を縫い止めながら、である。
「蛟か……食えないな、毒有りだし……ったく、土蜘蛛は形が気持ち悪いんだって何でカサカサ動くんだよ」
最近食べることに飢えているせいかそんな言葉が出てきて、自分でも呑気だなと思ったが、次第に雑魚妖怪が湧いてくる。小さな土蜘蛛を一匹八つ裂きにしたら、わらわらと次々に同じぐらいの大きさのものが現れ始めた。
「虫だし。……これ、力使うなって言ってる場合でもねぇかもな」
直後、急に風が起きて辺りの蔦や小枝ごと土蜘蛛とか吹き飛ぶ。風巻の力であるのは明らかだった。
「風巻一人で、この未開の地ぐらい全部開墾できそうだね……あーめんどくせ! 狐火も使えないような狐が猫に逆らうなっつの!!」
今度かかってきたのは一尾ではなくて二尾だったが、同じことだ。妖術もまともに使えないような妖狐などおれの相手にはならない。腹を貫いて一発で片づける。
「――おかしいよな。何で下位がオレらに向かってくる?」
半ばひとりごちるように言いつつ、風巻は鉄鼠――鉄の牙を持つ巨大な鼠の妖怪――を蹴飛ばした。
その答えを探すように視線を巡らせると、案外近くにあったことが分かった。
「……これ、呪だと思うけど」
今しがた殺した二尾の妖狐の血液が、まるで意思を持っているかのようにおれの手に絡みついてくる。弱い個体のせいかその呪シュも充分な効力を発揮できないようで、腕に妖力を更に込めたら、押し負けたのかただの血に戻った。
「呪か……厄介だな」
鉄鼠のものか、風巻にも血液が向かっていく。だが間もなくそれは急速に勢いを失って地面にばたばたと降り注いだ。恐らく、天狗の持つという不思議な力である神通力によるものだろう。
「こりゃ、相手に血を流させない方が勝ちだな。的がちっせーからめんどくせえ」
次の蛟には拳を叩き込んで気絶させた。戦いで気分が高揚して口調が荒くなり始めているが、気にしないことにする。人間との戦いではこんなふうに盛り上がることはないが、おれだって妖怪の一員。妖怪などみんなこんなものだ。
「どーでもいいけどお前、同一人物?」
普段とあまりに差があるからだろうか。体術に切り替えて戦う風巻には、訝しげな顔をされてしまったが。
二人ともしばらくそのまま戦い続けていたが、気絶させても割にすぐ復活するし、殺せないしでだんだんと面倒になってくる。
「気絶から復活の間、短すぎんだろうよキリねーよ! あーめんどくせ、爪閃斬!」
両手で放つと、あっという間に周りの妖怪は消えた。しかし血液が束になって向かってくる。本当にそれ自体が意思を持っているみたいにぐにゃぐにゃと、おれを呪い殺そうとでも言うように。
しかし心配してはいない。何故なら、
「頭に血ぃ上ってんじゃねーか!」
そう言いつつも術を無効化してくれる人物がいることを知っているから。
「天狗いるんだしこの方が建設的かなーって。ついでにかなり道作ったし、許して」
行き当たりばったりなのは否めないが、一応作戦のようなものだ。行く手を阻むものは一掃できたし、道も開けた。一石二鳥のようなものだと思う。
「ま、別に負担ってほどではねぇけど……」
「こいつ……」という顔をしている風巻にけらけらと笑った。
「風巻強いし、天狗さんなら神通力あるし」
「そこまで考えてたんなら別にいーか……」
どうやら考えなしにやっていると思われたらしい。失礼な。
とりあえず、おれたちは次に進むことにした。何が待っているかは分からないし、また今のように奇妙な状況に遭遇するかもしれないけれども、進まなければ一生判明しない――お互いにそう思っていたと思う。
その後、酷く胸糞の悪い事実を知ることになるなんて、おれも風巻も、知りはしなかったから。




