表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/96

ひとつも語らぬ少年

 宏基と別れてから三十分ほど。鶫はその人物の家の前に立っていた。

 これを渡したら、「どうして断らなかった」とか「面倒臭い」だとか言われて怒られるだろうか、とびくびくしながら呼び鈴を押してみる。

 間もなく不機嫌そうな宏基が顔を出した。

「……何だよ。さっきの今で。学ばねぇのかお前は」

「学ばない? ……あ」

 何のこと? となりかけ、思い出したのは、すっかり頭から消え失せていた口論したという事実。

 クラスの女子から押し付けられたカップケーキを何と言って宏基に渡そうか、そればかりを考えていたら、先ほどのことがうっかりすっかり抜けていたのである。

「……ちっ」

 やぶ蛇だったことに気づいたのだろう、宏基は舌打ちを隠そうともしなかった。

「し、舌打ち……酷い……。と、とりあえず、それ以外の話をしたくて来たから入れてほしいんだけど……」

「断るっつったら?」

「えっ」

 ショックを受ける彼を見て、宏基は深く嘆息する。それはそれは面倒臭そうに。

 これは「帰れ」と言われるか。身構えたが、続いた言葉は「……入れよ」だった。開け放たれたドアに安心して、「お邪魔します」と一礼してから中に入る。

 履物を脱いで上がっていく宏基の後を追い、廊下を進んだ。

 鶫も宏基も両親は共働きだ。猫がいるから鶫は寂しくないものの、宏基の家の昼間はひっそりとしていて、寂しくないのだろうかと少し不安になる。

「で、何の用だよ。どうせろくなことじゃねぇだろうけどな」

「う。察しがいいというか何というか……」

 少し頬を掻いてから、昼休みに渡されたカップケーキの包みをそっと差し出した。

「カードが入ってたから渡さないわけにもいかなくて……」

 尻窄みになっていく言葉。何かとばっちりがやってきやしないかと身を竦める。

「……ったく。渡すなら直接渡しにこいっつーの、めんどくせえ……」

 が、宏基もいい加減慣れたのだろうか、鶫に対しては何も言うことなく受け取ってくれた。

「そしてこんなカード入れてくれるぐらいなら好き嫌いのリサーチくらいしろよ」

 いかにも甘そうなカップケーキを日本の指で摘まむようにして持ち、逆の手でメッセージカードを持っている宏基を、空笑いしてからじっと見つめた。

「……だから。男が男をガン見してくんなって。気持ち悪いっつってんだよ」

「宏基兄も大概酷いよね……」

「お前が言うところの『幼なじみだから』だろ」

「う」

 何か飲むのか、と訊かれたので、お茶を所望した。

 宏基はいったん部屋から消え、すぐにペットボトルのお茶を持って戻ってくる。お礼を言って受け取ると、彼は向かいに腰を下ろしてカードの文面を眺め始めた。

 既に制服から部屋着に着替えていた彼は、あたたかそうな格好をしている。それに加えて青色のブランケットにくるまっていた。

 彼は昔からとても寒がりだった。そして重度の暑がりでもある。日本という国で生きるにはいささか不便な体質だ。

「相変わらず寒がりだね……」

「お前もだろうが。そして水も苦手で炬燵と魚が大好き。猫かっつーの」

「う。来世は猫に生まれたい、かも」

「馬鹿は黙っとけ」

 一蹴である。結構本気だったのに、と鶫はしょんぼりするが、言い放った本人はカップケーキの処理を考えていて気づいていない。

「どうするの? それ」

「一、丸呑み。二、廃棄。三、お前の口に押し込む」

 真顔で選択肢を淡々と上げる宏基。

「どれもこれも不穏だね!? ていうか、押し込まれるくらいなら自分から食べるよ……。丸呑みは胃に悪そうだからさせたくないし、廃棄とかあの子が可哀相だし」

 苦笑いして、差し出されたものを受け取る。

 こんなにおいしそうなのに、と眺めてからかぶりついた。甘い味が口の中に広がり、幸せで目尻が下がる。

「……ねぇ、宏基兄?」

 何口かに分けてみながら、ガラステーブルの中心に視線を落とす。

「何だよ」

 メモ用紙に何かを書いていた彼が顔を上げるので、鶫もその目を射抜いた。

「どうしても、教えてくれないの? さっきの雪代さんの言葉の意味」

 宏基の穏やかだった顔は一気に不機嫌な様相に変貌した。

「……言わねぇっつってんだろうが」

「どうして? 知る必要がないって言われても、納得できないよ」

 彼が強情であることは充分に理解しているが、疑問がぶり返してしまった以上、尋ねずにいられようか。

「じゃあ、逆に訊く。何でそんなに知りたがる?」

 珍しく、宏基が鶫の目を真正面から捉えた。慣れないことに思わず視線を泳がせてしまう鶫。

「俺が知らせたがらないのは、知る必要がない以前に、お前に暴かれたくないから、だとは考えねぇのかよ」

 鶫の逃げ道を塞ぐように、宏基は息つく間もなく言葉を続ける。

「何を聞いても後悔しないって言えるのか? 知ったらその前には戻れない。知ってから後悔するんじゃねぇの?」

 お前は昔からそうだろ、と頬杖をつく宏基に、何も言い返せない。

「とにかく、俺は何も言うつもりがない。諦めろ」

 束の間交わっていた視線は外される。

 反論したくとも、彼の性格を正しく理解した上での攻撃では、鶫にはひとたまりもなかった。

 弁論だとか、徹底抗戦だとか、そういうものは苦手なのだ。宏基も分かっているからこそ、この手段を取ったのだろう。

「……分かった。もう訊かない」

 そう吐き出すしか、鶫にはもう道が残されていなかった。

「分かったなら帰れ。お前の親もそろそろ帰ってくる時間だろうが。……それとこれ、そのケーキの女子に渡しとけ」

 頷いて、お茶のボトルを持っているのとは逆の手で、差し出されたメモ用紙を受け取った。つい先ごろ、宏基が何かを書いていたものだ。

「……もしかして、返事?」

「あー。だから忘れんなよ」

「……分かった」

 もう一度頷き、お邪魔しました、と言い残す。階段を下り、玄関から外に出た。

 夕焼け色に空が滲んでいる。

 美しいのに、なぜだろう。鶫にはそれが、濃い血の色に見えた。

 不気味ではない。ただただ、悲しかった。胸の奥底から痛みが湧きあがってきて、鶫は訳もなく泣きそうになってくる。一日の最後に煌めく太陽もその光を反射して赤く染まる雲も、拍車をかけた。

「……紅霞こうか……」

 紅色の霞。夕焼けでその色に染まった雲。

 辞書的な意味からすれば、たったそれだけのことなのに。

 これまたなぜだろう。『紅霞』というその単語が、ますます切なさを呼んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ