ひとつも語らぬ少年
宏基と別れてから三十分ほど。鶫はその人物の家の前に立っていた。
これを渡したら、「どうして断らなかった」とか「面倒臭い」だとか言われて怒られるだろうか、とびくびくしながら呼び鈴を押してみる。
間もなく不機嫌そうな宏基が顔を出した。
「……何だよ。さっきの今で。学ばねぇのかお前は」
「学ばない? ……あ」
何のこと? となりかけ、思い出したのは、すっかり頭から消え失せていた口論したという事実。
クラスの女子から押し付けられたカップケーキを何と言って宏基に渡そうか、そればかりを考えていたら、先ほどのことがうっかりすっかり抜けていたのである。
「……ちっ」
やぶ蛇だったことに気づいたのだろう、宏基は舌打ちを隠そうともしなかった。
「し、舌打ち……酷い……。と、とりあえず、それ以外の話をしたくて来たから入れてほしいんだけど……」
「断るっつったら?」
「えっ」
ショックを受ける彼を見て、宏基は深く嘆息する。それはそれは面倒臭そうに。
これは「帰れ」と言われるか。身構えたが、続いた言葉は「……入れよ」だった。開け放たれたドアに安心して、「お邪魔します」と一礼してから中に入る。
履物を脱いで上がっていく宏基の後を追い、廊下を進んだ。
鶫も宏基も両親は共働きだ。猫がいるから鶫は寂しくないものの、宏基の家の昼間はひっそりとしていて、寂しくないのだろうかと少し不安になる。
「で、何の用だよ。どうせろくなことじゃねぇだろうけどな」
「う。察しがいいというか何というか……」
少し頬を掻いてから、昼休みに渡されたカップケーキの包みをそっと差し出した。
「カードが入ってたから渡さないわけにもいかなくて……」
尻窄みになっていく言葉。何かとばっちりがやってきやしないかと身を竦める。
「……ったく。渡すなら直接渡しにこいっつーの、めんどくせえ……」
が、宏基もいい加減慣れたのだろうか、鶫に対しては何も言うことなく受け取ってくれた。
「そしてこんなカード入れてくれるぐらいなら好き嫌いのリサーチくらいしろよ」
いかにも甘そうなカップケーキを日本の指で摘まむようにして持ち、逆の手でメッセージカードを持っている宏基を、空笑いしてからじっと見つめた。
「……だから。男が男をガン見してくんなって。気持ち悪いっつってんだよ」
「宏基兄も大概酷いよね……」
「お前が言うところの『幼なじみだから』だろ」
「う」
何か飲むのか、と訊かれたので、お茶を所望した。
宏基はいったん部屋から消え、すぐにペットボトルのお茶を持って戻ってくる。お礼を言って受け取ると、彼は向かいに腰を下ろしてカードの文面を眺め始めた。
既に制服から部屋着に着替えていた彼は、あたたかそうな格好をしている。それに加えて青色のブランケットにくるまっていた。
彼は昔からとても寒がりだった。そして重度の暑がりでもある。日本という国で生きるにはいささか不便な体質だ。
「相変わらず寒がりだね……」
「お前もだろうが。そして水も苦手で炬燵と魚が大好き。猫かっつーの」
「う。来世は猫に生まれたい、かも」
「馬鹿は黙っとけ」
一蹴である。結構本気だったのに、と鶫はしょんぼりするが、言い放った本人はカップケーキの処理を考えていて気づいていない。
「どうするの? それ」
「一、丸呑み。二、廃棄。三、お前の口に押し込む」
真顔で選択肢を淡々と上げる宏基。
「どれもこれも不穏だね!? ていうか、押し込まれるくらいなら自分から食べるよ……。丸呑みは胃に悪そうだからさせたくないし、廃棄とかあの子が可哀相だし」
苦笑いして、差し出されたものを受け取る。
こんなにおいしそうなのに、と眺めてからかぶりついた。甘い味が口の中に広がり、幸せで目尻が下がる。
「……ねぇ、宏基兄?」
何口かに分けて食みながら、ガラステーブルの中心に視線を落とす。
「何だよ」
メモ用紙に何かを書いていた彼が顔を上げるので、鶫もその目を射抜いた。
「どうしても、教えてくれないの? さっきの雪代さんの言葉の意味」
宏基の穏やかだった顔は一気に不機嫌な様相に変貌した。
「……言わねぇっつってんだろうが」
「どうして? 知る必要がないって言われても、納得できないよ」
彼が強情であることは充分に理解しているが、疑問がぶり返してしまった以上、尋ねずにいられようか。
「じゃあ、逆に訊く。何でそんなに知りたがる?」
珍しく、宏基が鶫の目を真正面から捉えた。慣れないことに思わず視線を泳がせてしまう鶫。
「俺が知らせたがらないのは、知る必要がない以前に、お前に暴かれたくないから、だとは考えねぇのかよ」
鶫の逃げ道を塞ぐように、宏基は息つく間もなく言葉を続ける。
「何を聞いても後悔しないって言えるのか? 知ったらその前には戻れない。知ってから後悔するんじゃねぇの?」
お前は昔からそうだろ、と頬杖をつく宏基に、何も言い返せない。
「とにかく、俺は何も言うつもりがない。諦めろ」
束の間交わっていた視線は外される。
反論したくとも、彼の性格を正しく理解した上での攻撃では、鶫にはひとたまりもなかった。
弁論だとか、徹底抗戦だとか、そういうものは苦手なのだ。宏基も分かっているからこそ、この手段を取ったのだろう。
「……分かった。もう訊かない」
そう吐き出すしか、鶫にはもう道が残されていなかった。
「分かったなら帰れ。お前の親もそろそろ帰ってくる時間だろうが。……それとこれ、そのケーキの女子に渡しとけ」
頷いて、お茶のボトルを持っているのとは逆の手で、差し出されたメモ用紙を受け取った。つい先ごろ、宏基が何かを書いていたものだ。
「……もしかして、返事?」
「あー。だから忘れんなよ」
「……分かった」
もう一度頷き、お邪魔しました、と言い残す。階段を下り、玄関から外に出た。
夕焼け色に空が滲んでいる。
美しいのに、なぜだろう。鶫にはそれが、濃い血の色に見えた。
不気味ではない。ただただ、悲しかった。胸の奥底から痛みが湧きあがってきて、鶫は訳もなく泣きそうになってくる。一日の最後に煌めく太陽もその光を反射して赤く染まる雲も、拍車をかけた。
「……紅霞……」
紅色の霞。夕焼けでその色に染まった雲。
辞書的な意味からすれば、たったそれだけのことなのに。
これまたなぜだろう。『紅霞』というその単語が、ますます切なさを呼んだ。