愚かな業に怒る少年
鶫と瞳子が玄関で鉢合わせをしていた頃。透は、図書室にいた。
彼が初めて鶫と遭遇したのはやはりこの場所だったが、それは別に狙っていたわけではなかった。というのも、透もまた鶫に負けず劣らずの本好きであったからだった。
透が目にかかった金髪を払って見上げた先にあるのは、文庫本。彼は既に数冊抱えていて、その背表紙には夏目漱石やら芥川龍之介やら谷崎潤一郎やら、いわゆる『文豪』と呼ばれる人物たちの名前が刻まれている。
どうやら彼は、最近の作品よりもその人物たちが生きていた辺りの時代のものの方が好きらしい。
それを示すかのように、次に手に取られたのは梶井基次郎の短編集――明治から昭和を生きた作家のもの、だった。
何気ない様子でぱらぱらとページをめくった彼は、ふととあるページに目を留める。
「『桜の樹の下には屍体が埋まっている』――ね」
ひとりごちたかと思うと、ほんの少し口角を持ち上げた。
その一節は、かの有名な『桜の樹の下には』のもの。何か思うところがあるのか、透は短い文を指で繰り返し撫でる。
「オレたちが死んだのは、楓の木の下だったけど。どっちにしても風流なのかな。そんな風流、要らないけど」
肩を竦めてからその短編集を束の中に加え、彼はすたすたと歩き始める。
彼の脳裏には、久遠の姿が浮かんでいた。
――おれと一緒に目指してみないか? 妖怪と人間が共生できる世界。
もちろんその記憶は透のものではなく、透の前世である玻璃のもの。
玻璃は変わり者の妖怪だった。気まぐれで奔放な性格ではあったけれども、育ての親のような存在は人間で、そのヒトを異性として愛した。そして彼が現れなくなると、別人ではあるが、またも人間に恋した。
妖怪とも恋愛をしなかったわけではない。実際、三百年近くを生きた玻璃の生涯の中、人間に対して恋情を抱いたのはその2回きり。
しかし、切り捨てるにはあまりに彼女の中でその出来事が大きかったのも事実で。
二度目に愛した人間を悲惨な形で喪った玻璃は、どこか生に倦んでいた。そこに生きる気力を与えてくれたのが久遠だった。久々に興味が湧いたのだ。「この人の傍で生きていれば面白いことが起きるかもしれない」と。
妖怪と人間の共生など夢物語のようにも思えたけれど、そんな理想も久遠なら叶えられるかもしれないと思った。そう感じさせるだけの魅力があったのである。
自由に生きることを好んでいたはずの玻璃。だが、彼女は最期の最期まで久遠に突き従った。「面白そう」という思い以上に、久遠のことを尊敬していたから。
だが、もうひとつの理由があったことを、いったい何人が知っていただろうか。
そして一番知ってほしかったはずの人には気づかれることもなく、玻璃の一生は終わった。
「…………はあ」
貸出の手続きを済ませて鞄に本を詰めながら、もう『一人』の人物が眼裏に映ったことに気づいて透はため息をつく。
それは――宏基。ひいてはその前世である寒露だ。
――久遠サマの生まれ変わりは俺の幼なじみだ。だけど、あいつは何も知らない。俺たちみたいに記憶を持ってない。もしこれから先、お前があいつと会うことがあっても、何も言うな。知らないなら知らないままの方がいい。
中学時代に言われた台詞が蘇り、透はまた密やかにため息をつく。
「アンタはいつだって、久遠さまのことばっかりだよね」
呟いて、しっかりとジッパーを閉めた鞄を持ち上げたが、当然ながらその小さな声に周囲の生徒が気づくことはなかった。
透が宏基と初めて会ったのは、中学時代の部活動の大会の折だった。
目が合った瞬間、お互いに大きく目を見開いて固まって、口も利けなかったな――透は思いながら少しだけ吹き出す。
透は生まれながらにして前世の記憶を持っていて、小さな頃はそれを親に話すこともあった。当然信じてはもらえず、昔の出来事をまるで見てきたかのように話す息子の頭を「物知りだね」と撫でてくるだけだった。
少し成長してくれば、嫌でも分かった。この記憶たちは普通ならば持ち合わせているはずのないものなのだと。
また、『玻璃』は女性で、透は男性。たとえ同じように記憶を持っている人がいても気づかれないだろう。
そう、思っていた。
だけどその考えは呆気なく崩されることになった。
――玻璃……?
ようやく硬直から立ち直ったときに、宏基がそう言ったから。
「一発で気づいてくれたことは嬉しかったけど、玻璃の心情考えると、もう、ね」
靴を履き替えながらまた独り言を零す。下校のピークを過ぎて人影が見えない生徒玄関には、グラウンドから届く野球部のかけ声だけがぼんやりと響き、不思議と自分の声は吸い込まれて消えていくように透には思えた。
――露出しすぎだっつってんだろ。もう1枚羽織れ!
宏基とよく似ているけれど、ほんの少しだけ明るい声が木霊する。
寒露、と自分の中にいる玻璃が呼んだ気がして、透はそっと胸を押さえた。
久遠に招かれて『団』に入った後に玻璃が恋に落ちたのは――寒露だったのだ。
寒露は堅物だった。真面目で、融通が利かなくて、いい加減なことしかしないような人物にはいつも怒ってばかりいた。あらゆる意味で奔放な玻璃も、そのうちの一人だった。
最初はそんな彼をからかうことを面白がっているばかりだったが、彼の抱えているものを知っていくたび、そして久遠に対する揺るぎない忠誠心を見るたび、自分にはない要素を眩しく眺めるようになった。
だが玻璃は彼に対してとうとう素直になることができず、寒露も久遠に対する忠義を尽くすばかりでそんな玻璃の想いに気づくことはなく、最期の日を迎えた。
久遠を尊敬する気持ちの10分の1ぐらい、玻璃に向けてくれてもよかったのではないか。決して口にはできないと分かりながら、透は思った。
自分が玻璃の生まれ変わりであることには間違いないが、どうして男なのか、昔の透には疑問だった。
しかし今では何となく分かる気がする。寒露が恋愛事に興味がないのなら、せめて来世は同性の友人として繋がっていたい。玻璃はきっとそう考えたのだ、と。
彼女は寒露のことを好いてもいたけれど、もちろん久遠のことを大切に思っていた。だからこそ辛かったのだろう。久遠に八つ当たりなどしたくはないし、気恥ずかしさから寒露に想いを伝えることもできなくて。
周りには何も考えていないふりをしていたようだが、限りなく同一人物に近い透のことは誤魔化せない。
妖怪としての力が覚醒したのも、玻璃の想いが根底にあると透は睨んでいた。
陰からでいいから久遠さまを守りたい。対外的に覚醒の根拠だとしている思いは嘘ではないが、それだけが真実というわけでもないのだ。
無茶ばかりする寒露に、一人で戦わせたくない。そういう願いがきっとあったのだと思っている。
まあ今はお互いにただの先輩後輩の感情しかないし、何を言っても仕方ないんだけど、と思ったところで、あることに気づいて顔を上げた。
「…………、久遠さまの、妖気……!?」
鶫たちが乗ろうとしていたものとは路線が違うバスの停留所に向かっていた透は、後ろを振り返って目を見張った。
――いやありえない、だって朝比奈は覚醒なんかしていなかったはず。
だがますます強くなった妖気がビリビリと肌を焦がしていくような気がする。
「……、気のせいじゃない、ってこと」
透は全力で駆け出し始めた。
これが鶫の覚醒だとしたら、記憶を取り戻したことといい、宏基が祈っていた方向とは全く反対に事態が向かっているらしい。中学時代の宏基の横顔が蘇ってきて、透は小さく舌打ちした。
けれど、回り出してしまった歯車はもう、止まらないのだ。彼もそれはよく知っていた。前世のときと同じように、周りにいる者たちがサポートしていかなければならないのだと。
そういうわけで透はあの場に現れたのだった。
全身から力が抜けている鶫を担ぎ、近いから、と学校に戻った。今はそのまま保健室に鶫を寝かせている。
「……えと、雨宮くん、ありがと……」
きょときょとと落ち着きなく視線を動かす鶫に、「別に」と首を振る。
瞳子は息を潜めるように、それでいてその場から出ていくつもりもないようで、じっと立っている。
「具合が悪くなったのは、変化の状態から人間に戻るのは――体組成自体がまるまる切り替わるんだ。それがスムーズにいかなかったからだと思う。初めてだし当然だけど。今はそんなに気分悪くないでしょ?」
今の鶫から感じられる妖気はひどく微弱だ。先ほど透を驚かせたほどのものは発せられていない。つまり人間の状態に完全に戻っているということ。
「う、ん。力はまだ上手く入らないけど……だいぶいい」
ただの人間から前世の妖怪に変化したときのことを、自分よりはよく知る先輩である透に解説され、少し安心したのだろうか。鶫は少し柔らかくなった声で小さく応じる。
「そう。……あと、ひとつ注意なんだけど」
そんな彼を見ながら、そして瞳子の視線を感じながら、透は努めて声を落ち着けた。
不思議そうに首を傾げる鶫の片手を左手で取り、空いている右手だけを妖怪のものへと変化させる。鋭い爪が現れ、鶫は戸惑うように瞳を揺らせているが、反応にも構わず透はその爪で鶫の手に切りかかった。
「いっ……!!」
「あ、雨宮さん!?」
突然の行動に、鶫も瞳子も悲鳴に近い声を上げる。鶫の手の甲には一直線に傷ができており、血が今にも流れてしまいそうなほどにじわじわと滲しみ出て、玉のようになっている。
「2人ともうるさい。よく見てよ」
だがばっさりと透は言い捨て、手の変化を解いた。
言葉の意味が把握できず怪訝な表情をしている二人の目の前で、鶫の傷が端から癒えていき、そして間もなく完全に消滅する。
「え、っ……!?」
鶫は自分の手を矯めつ眇めつ眺め回し、瞳子も呆然と彼を見つめていた。
「変化できるようになることの弊害。人間の状態でいるときも、傷が癒えるようになっちゃうんだ。かく言うオレもそうだし。――雪代、朝比奈から感じられる妖気も上がってるんじゃない?」
彼女は透の台詞に、「そういえば」という顔をしている。
「理由は、人間のときに発する妖気が上がることが遠因にはなってるだろうってことぐらいで、オレもよく知らない。でも、気をつけて。もしも一般人の前で転んで怪我したりしたら、大ごとだよ」
そうなった場合の光景が容易に想像できたのか、鶫は青い顔でこくこくと頷いた。
透はその反応で分かってくれたと安心し、口を噤んだ。
沈黙が流れかけたが、「えっと、雨宮くん?」という声によって破られる。
「……何?」
首を傾げると、彼は迷うようにますます視線をきょどきょどさせている。透が焦れかけると、「あのね」とようやく言葉が続いた。
「何か、怒ってる……?」
髪の隙間から覗く鶫の形のいい猫目が、こちらを不安げに見上げてくる。驚きで透は言葉に詰まった。
「声が、何か怒ってるような声だな、って、思って」
懸命に悟られないようにしていたのに、聡い彼には総てお見通しだったらしい。何かまずいことを言っただろうか――そんな心の声が聞こえてきそうで、大きくため息をつく。
「怒ってるよ。怒ってるに決まってるでしょ。むしろ何で怒らないと思ったの」
ぐしゃぐしゃと自分の前髪を掻き乱しながら、もう一度ため息。
「アンタが悪くないことは知ってるよ。でも、何でオレたちを呼んでくれなかったのって思っちゃうんだよ。危ない真似して、しかも覚醒までしちゃって。真田先輩の気遣いとか全部木っ端微塵にしたのに、怒らない方がおかしくない?」
一度堰を切ってしまえば、次から次に言葉が出るわ出るわ。鶫がだんだんとしょんぼりしていくのを分かっていても、止まらなかった。止めることができなかった。
でも、違うのだ。本当はそうではないのだ。鶫は悪くない。こんなふうに拗ねたような感情が浮かんでいるのは、全部自分の心情のせいなのだ。
――玻璃。
穏やかな久遠の呼び声と、柔らかい笑顔が思い出されて苦しくなる。そして彼に絶対的な忠誠を誓う寒露の姿がそのすぐ脇に見える。
「……除け者にされたみたいで、面白くなかったんだよ……」
本音がぼろりと零れて、透は穴があったら入ってしまいたい気分だった。
鶫がぽかんと固まっている。
透は驚きすぎて何も言えないような彼の様相にますます羞恥を煽られ、一気に顔が赤く染まった。
「オレたちは、いつだってアンタのこと――久遠さまのことを思い出して苦しくなるっていうのに、アンタはずっと月読のことばっかりで」
一方的に押し付けても仕方がない。分かっているし、駄々をこねる子供みたいだと自分でも思うのに、やはり言葉は止まることを知らない。
「オレらはどうでもいいわけ? オレたちの方がずっと仲間だったのに……!」
一気に言い切ると息が荒くなり、ぜえはあと肩で息をする。鶫はその間も固まったままだった。
気まずい沈黙が舞い降り、透は逃げ出してしまいたい気分になる。しかも無意識のうちに鞄に手がかかっていて、本当に逃げてしまおうか、と半ば本気で考えていた時。
「……ごめん」
小さな声が沈黙を割る。
「謝るのも変な気がするけど、ごめん。自分のことでいっぱいいっぱいだった……これからはちゃんと相談、とか、するから」
不器用な笑み。だが玻璃の記憶の中にいる久遠の自信たっぷりな笑みともどこか重なって、俯いた。
「当然、でしょ……。前世のオレは、アンタを信じたからこそついてこうと思ったんだから」
呟きを聞き、鶫はとても小さく、しかし優しい笑みで透を見つめていて。
透は何だか酷く泣きたくなってしまい、ゆっくりとかぶりを振るだけで精一杯だった。




