心交わす少年と少女
「英語の訳、ちゃんとやらなきゃまずいよなあ……明日当たり日だ……」
鶫はぶつぶつと呟きながら自分の下駄箱の扉を開けた。
6限目は英語の時間だったのだが。唐突に当てられて返答に一瞬窮してしまい、それが彼の中で随分と尾を引いている上、翌日は鶫の出席番号である『1』がつく日。教師から当てられるのが確実なのだ。
「予習、間に合ってないんだよ……」
出来れば早く、もう一度庸汰と会いたいのに――鶫の中で小さな焦りのようなものが生まれていた。
あれからもう1週間にもなる。
高校生活に慣れるにつれ課題も増えてきて、要領があまりよくない鶫は悲鳴を上げていた。そして定期テストもどんどんと近づいてくる。これではいつ都合をつけられるのか。彼はお先真っ暗な気分で仕方がなかった。
「とりあえず予習と課題やらなきゃ……」
小さくため息をついて靴を持ったところで、ふと隣に気配を感じた。
スカートの裾が見えたと思って顔を上げれば、さらさらと揺れる美しい黒髪が間もなく目に入った。
鶫の知識の中で、しかも同じクラスの中で、それほどの長さを誇る髪の持ち主は、一人しかいない。
「……あ」
鶫ともうひとつの声が重なる。
何とも言えない微妙な空気が流れ、鶫はまたも言葉に窮した。
それは相手の方も同じであったようで。どこか気まずそうに、そして俯き加減に彼の前に立っていたのは、瞳子だった。
「雪代さん……」
「朝比奈さん……」
互いの名を呼ぶタイミングがまたも被り、鶫と『相手』である瞳子はまじまじと見つめ合う。
そして、同時に吹き出した。
「何となく、お久しぶりですね」
「うん……そうだね」
会話が一度そこで途切れるも、今度は気まずい雰囲気が流れることはない。それは偏に、瞳子の声色がどこまでも穏やかだからだった。
今までこうして二人で向き合うときには、殺伐とした空気が流れていた。鶫はいつもそれに怯え、落ち着いて話すどころの状態ではなかったのである。
例外はつい先日の透の家の出来事だが、あの時の瞳子は混乱しきり、鶫も記憶を取り戻したばかりで、2人の間には大きな距離が隔たっていた。
だが今の彼女は、教室で見かけるときと近い雰囲気を醸し出している。いや、それよりは少しリラックスしていたかもしれない。
とにかく、鶫に全くと言っていいほど敵意を向けてはいなかった。それが彼には酷く新鮮である。
「朝比奈さんはバスですか?」
「あ、うん」
「ではバス停まで一緒に歩きませんか?」
微笑みと共に向けられた言葉に、少し戸惑って目を瞬かせた鶫。
だが瞳子は特に何も含みを持って言ったわけではなさそうだった。眉根が僅かに寄っている。不安げに。今の言葉は、彼女にとってもかなりの勇気を要したものだったのかもしれない。
「うん」
だったら自分も勇気を振り絞ろう、と精一杯の笑みを返す。ほっとしたように表情を緩める同じクラスの少女が靴を履き替えるのを待ち、彼はゆっくりと歩き出した。
並んでみると、瞳子は背が高めであることが鶫にはよく分かった。つい先日も傍を歩いたはずなのに、それだけ自分の考えに囚われていたということだろう。
そういえば月読もあの頃の女性にしては大きかったかな――と鶫は記憶を探り心中で呟く。
「色々と、考えてみたのです」
その時ふと、瞳子が小さく言った。
「え?」
「朝比奈さんがおっしゃったこと」
二人の目線が交わり、自然にどちらも足が止まる。そして、まるで誰かが見ていたかのように、風が巻き起こって二人の肌を撫で、髪を揺らめかせていく。
生徒たちの多くは、そんな彼らを見ても興味もなさそうにして通り過ぎていった。当の鶫と瞳子も全く周囲を気にしてはいなかったので、同じことだが。
「月読は貴方と共に、人間と妖怪が共生できる道を探していたと。そういう世界を創ろうとしていたと。……貴方に言われて、考えるだけで疲れ切ってしまうぐらいには、考えました」
恥ずかしながら昨日はそれで休んでしまったのですが、と僅かに肩を竦める。
「だけど、やっぱり分からなくて――」
言葉が途中で窄むように立ち消え、鶫はゆっくりと目を瞬かせた。
緊張からか僅かに頬を紅潮させ、じっと鶫の目を見つめてくる瞳子。それにまた更に目を瞬かせると、彼女は己の胸に右手を押し当てた。
「でも。思いついたのです。私の中にひとつだけ、どこにも繋がらない記憶がある。それがもしも、貴方とのものだとしたら、と」
「どこにも、繋がらない記憶……?」
よく分からずに彼が繰り返すと、瞳子は静かに頷く。
「朝比奈さん。貴方には、私と――『月読』と共に桜を見た記憶は、ありますか」
瞳子が告げた瞬間、ひときわ強い風が吹いた。見つめあう二人の髪を、今度は巻き上げていく。
鶫は前髪が上がり自分の視界がクリアになっていたのが分かったが、動けなかった。言葉を紡ごうとする唇が震える。
――久遠さん。あの日も桜が舞っていましたね。私、桜は散り際が一番好きです。
「ある、よ……」
痛いぐらいに、苦しいぐらいに、覚えている。大切に思っている。
鶫にとっての桜は、月読を思い浮かべるときには必ずと言っていいほど一緒に現れるものだった。
「月読と出会った日は、桜の季節だったでしょ? それから親しくなって、1年後の桜を一緒に見た。君は『散り際が一番好きだ』って言ってた……」
切なさが一気に押し寄せてきて、鶫の声が詰まる。瞳子はそんな彼を見て瞳を揺らし、またも俯いた。そのままゆっくりと歩き出す。
慌てて鶫が後を追うと、彼女の唇はきつく噛みしめられていて、何かを話しかけられるような空気にはなかった。
だから黙っていると、沈黙が訪れる。
鶫の目的のバス停が見えてきた頃、瞳子がようやく口を開いた。
「確かに月読も……今の私も、散り際が一番好きです。だから恐らく、貴方の記憶に間違いはない」
だとするとやはり。呟かれた意味深な言葉。鶫は本日何度目か、目を瞬かせ、首を傾げる。
「『やはり』……?」
その言葉で覚悟したかのように、瞳子がぐっと拳を固く握りしめ、じっと彼の目を射抜いた。涙は一滴も溢れていなかったが、今にも泣いてしまいそうな――そして同時にどうにかして笑おうとしているような、複雑な表情をしている。鶫が戸惑い、「どうしたの?」と声をかけてしまいたくなったほど。
「私の記憶は、改竄されてしまっています」
振り絞ったかと思えば、両手で顔を覆って下を向いてしまう。鶫はおろおろとして、迷った挙句にそっと背中をさする。
「改竄って、誰に?」
それでも聞き逃せない言葉だけはしっかりとキャッチして訊き返した。
「分かりません……けれど、きっと誰にでもありません。私自身が、自分を呪ってしまった」
「呪って、って」
「呪ったのです」
無意識なのか、瞳子はそう言いながら彼女の肩に手を置いている鶫の腕を掴む。その力は痛いほどだったが、彼には気にしている余裕がなかった。
呪うとはどういうことなのか。そんなにも泣きそうな声で、自分に何を伝えようとしているのか。動揺と関心が雑多に混じり合い、言葉にならない。
「こんな記憶、失くなってしまえばいいと――そんなふうに『月読』が思ってしまったから、『瞳子』である私も、失ってしまった。貴方たちを憎むことしかできなくなった」
この腕を掴んでいなければ堕ちてしまうとでも言うように。彼女の手の力は緩まなかった。
鶫の脳裏によぎったのは、庸汰の言葉。
――月読殿の力の強さを僻んだり、その『共生』の意見に反感を持ったりする人が、特に法師に多かったのは事実。
――そういう人たちの策略に、月読殿も久遠殿たちも嵌められたのかもしれない。
今、この言葉を伝えたら、瞳子はますます思ってしまうかもしれない。共生という夢を持ったがばかりにこんな目に遭うのならば、忘れてしまいたい――前世の自分がそう願ったに違いないと。
そして、その仮定に則れば総てに納得がいくと鶫自身思ってしまっていた。
元々共生の願いを持っていたのは久遠で、それを周りにいた者たちに広めていった。つまり、巻き込んだのだ。月読がもうそんなのはこりごりだと思ったとしても責めることはできない。
だが、だとしたら。
「――雪代さん」
鶫は肩に置いた手に力を込め、そっと顔を上げさせる。ぎこちなく微笑んでみせると、彼女は当惑したように目を丸くした。
「確かに、前世の君はそう願ったのかもしれない。それはぼくにも、君にも分からない。だけど、そうだとしたら。君は、まっさらな未来を与えられたんだよ」
瞳子がぽかんと口を開ける。
乗ろうと思っていたバスがすぐわきの道路を通り過ぎていくのが分かったが、鶫は気に留めることなく彼女から手を離した。今、何も言わなければ、自分自身が後悔すると思ったのだ。
「君は、何の因果か、最初から記憶を与えられた。だけどそれは前世の願い故に曲げられていた。だったら、それは普通の――今世の記憶しかない人間と同じように人生を歩めるようにしてもらった、とも言えない?」
思ったことを懸命に述べようとしても、普段から人との会話が少ない鶫には難しかった。つっかえそうになりながら言っているくせに、上手く言えなくて支離滅裂で、もどかしさを感じる。
「だから、気にしなくて、いいと思うよ。まっさらなその目で、ぼくらをもう一度見て。そして確かめて。記憶は改竄されているのか。それとも、そっちの方が正しかったのか」
それでも伝わってほしくて、心臓が痛いほどに鼓動しているのを感じながらも言い切った。
瞳子の戸惑った顔が頭の中心に熱をもたらす。蘇らせる。
――どういう意味ですか?
不審そうだった月読の声、顔。
そうだ、おれたちは初めから総てを分かり合うことなんてできるわけがなかった。話し合って、ぶつかって、詰り合って。それでようやく手に入れたんだよ。貴重な、『最強の巫女』の理解を――。
『久遠』の声に心の中でだけ頷く。今まで知りもしなかった誰かと一朝一夕に、しかも完全に打ち解けるなんて、無理だ。たとえそれが前世の自分だったとしても。
「元々持っていなかったから、ぼくも確かめたいんだ。本当にぼくの中に在る『久遠の記憶』は正しいのか……」
揺らいでいた瞳子の目に光が灯る。それを目にして、鶫はほっとした。いつもの彼女に戻ったと分かって。
「何のためにぼくらが前世の記憶なんてものを与えられたのか、ってことも、ちゃんと知って――自分自身で選びたい。これからの道を。ぼくは『久遠』だったけど、『久遠』ではないから。『朝比奈鶫』だから」
君も『月読』だったけど、今は『雪代瞳子』でしょう? と笑うと、瞳子はしっかりと頷いた。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、鶫が初めて見る晴れやかな笑いを浮かべて。




