唯一無二との出会い
何があろうと季節は容赦なく巡る。
冬は終わり、春が来て、夏が来て。そうして、秋が来た。
群れにいた頃は実りの時期としてとして賑わっていた季節。もう、そんなこと、何の関係もなかったけれど。
おれはもう、あの群れにとっては最初から存在などしなかった者で。憎まれるべき存在だから。それでいいと、自分で思ったのだから。
「よいしょ」
言いながら重石に使っている石を持ち上げ、漬物桶の蓋の上に置く。これでとりあえず当分の食糧には困らない、と、収穫の終わった畑を見ながら汗を拭った。
群れを飛び出して以来、おれは偶然見つけた廃寺にいた。随分と荒れ果て、ところどころ屋根や壁に穴が開いていたりもするが、雨風を凌ぐには充分だ。月読に会う前の洞穴などのねぐらに比べればずっと居心地がいい。
まさか妖怪がこんなところにいるとは法師も巫女も思わない。それに加えて、法力の名残がおれの妖気を上手い具合に隠してくれているらしかった。
空いた場所に畑を一から作り、作物を育てた。たいしたものは育てられないが、月読の村、そして伊知郎の群れで教えてもらった技術は、確実におれを助けてくれている。
数日間に分けて、収穫し終えたものを長期的に食べられるように漬物にし終えた。これで今年も冬を越すことができそうだ。
「……そういえば、紅葉は色づいたかな」
床に体を投げ出しながら、誰に声をかけるわけでもなく小さく零す。こうして独り言でも発しなければ、話し相手もおらず、声の出し方すら忘れてしまいそうだ。
「見に行くか」
勢いをつけて起き上がり、履き物に足を突っ込む。そのままもう錆びついて開かない門を飛び越え、おれは近くの楓の群生にふらふらと向かった。
此処に居ついて以来、ずっと気になっていたのだ。秋になれば見事に赤く色づくであろうあの木々を。
「綺麗だなあ……」
里にいた頃は月影と一緒に見たっけ、と感傷に浸る。
月読とも、与吉とも見た。その日々が、もうこんなにも遠い。思った途端、何かが込み上げてきそうになって俯く。
「此処で泣いたら、弱い」
呟いて自覚させることで、弱さを追い払った。
もう一人きりでしかない以上、弱くなったらおれは、死ぬのだ。
だけどおれが生きている意味って何だっけ? 死んだ皆との約束を守りたくて、でも結局いつもいつも守れなくて。
里を再興するという月影との約束。幸せになるという月読との約束。おれはどちらも実現できていない。
これからも、実現できそうにない。
だったらおれに生きている意味なんて、本当にあるのだろうか。
そんなふうに終わりの見えない泥沼な思考に足を取られた時――ある匂いと、妖気を感じた。
偶然だった。探っていたわけではないし、見つけたいと願っていたわけでもない。
だけどおれは、見つけたのだ。
引き寄せられるように駆け出す。何故だろう、止まらなかった。
走りたいわけじゃない。だけど、走るべきであるような気もする。
肌がビリビリと痺れるほどの強い妖気。そして、この匂いが示すもの。
紅葉の木陰からひょっこりと顔を出すと、絶句しているような雰囲気を醸し出している一人の妖怪と目が合った。
同時、風が巻き起って、地面に散っていたものとひらひらと浮いていたものをぐちゃぐちゃに合わせる。止んだ瞬間、紅葉はまるで雨のように降ってきた。
眼の前に立つ『彼』のまとめられていない長い髪は、風の名残で揺れている。男性にしては派手な色味をした着流しの裾が軽くはためいていた。
年の頃は、おれより少し年長。こちらと同じように妖気を感じていたのか、登場に対しては全く驚きがないようである。だから、恐らくおれの何かに驚かされたのだろうけれど、分からないので一度脇に置いておくことにする。
「強い人発見!」
言いながら笑った。警戒されていないわけはないので、それを少しでも緩和させたくて。
「えーと、天狗さん?」
そう、彼は天狗だった。彼らの特徴のひとつである羽は収納されているらしく、人間と変わらない見た目だが、並の妖怪ならばそれだけで気圧されてしまいそうなほどの強い妖気が感じられる。
天狗の元が人間からの成り上がりであるからか、彼らは高い知能と理性を備えている者が多い。
もちろん妖怪であることには違いないので、好戦的で悪戯好きの部分もある。けれど、翼さえ妖術によって仕舞ってしまえば、そして妖気が感じられないただの人間にしてみれば、自分の周りにいる人間と何も変わらない。
人型であっても耳や尻尾などが残ってしまうおれたちと違い、人間の中に溶け込むことができる数少ない妖怪の種のひとつだ。
だからこそ、そんな天狗が悪さをしようと考えると面倒が多い――んだとか。人が自分の仲間と思って巫女や法師から隠してしまうことがあるらしい。
おれは一度も今まで会ったことがなかったが、月読がそう言っていたのを何となく覚えている。
「いや、つか、お前何?」
おれの警戒を解いてもらおうという作戦は失敗に終わったらしい。明らかに不審げな目つきで見られている。猫又ではないけれど、久々の妖怪という仲間との邂逅で、気分が高揚しているのもいけないのかもしれない。
この妖気の大きさなら確実に最上級であり、本来は関わりなどなるべく避けるべきだ。
しかし、やはり何故だろう。彼とは絶対に仲良くなることができるような、そんな根拠のない自信におれは支配されていた。
「何、何かぁ、んーと、久遠! 仲良くなりたいなって思って!」
「……はあぁ?」
だが再びの試みもどうやらあまり効果はなかったようだ。警戒は解かれることなく、考え込まれてしまっている。
「うーん……何か警戒解いてもらえないなぁ……って、あっ!」
どうしたものか、と首を傾げたところで、彼とは別の妖気を感じて勢いよく顔を上げた。
彼のように強くはない。だが、同時に人間の血の匂いを感じた。
それの意味するところは嫌というほどに分かる。襲われているのだ。反射的に走り出す。
「いや当たり前だろって――本当何だあいつは」
おれの呟きに言葉を返そうとしていたらしい彼が、おれの行動の意図が分からず困惑したような調子で呟いているのが後ろから聞こえた。
「そこで待っててね天狗さああああん!」
彼とはまだ話したいし、仲良くさせてもらいたい。だからまだ何処かに行かれては困る。言ってから更に速度を上げると、「聞くと思ってんのかよ!?」という声が追いかけてきた気がするが、とりあえず信じるしかない。
全力で駆けていくと、人里が見えてくる。ほぼ時を同じくして、人型も取れない土蜘蛛――巨大な蜘蛛で、吐く糸で人間を殺す――が人間たちを襲っていると分かった。
「天狗さん待ってるから早く片付けないと!」
ひとちごち、爪に妖力を込める。まず糸で親子を絡め取ろうとしていた一匹目を切り裂いた。
――己の限界を知らぬ者に誰かが救えるとは、私には思えません。
月読の声がおれを奮い立たせてくれる。
大丈夫、貴女のおかげでちゃんと限界を知ったから――おれは戦える。
跳び上がったところで、不意に割とすぐ近くで先ほどの天狗の妖気を感じた。
当然法師や巫女に見つかるのは嫌だろうし、どうやら表立って戦う気はないようだが、おれを追ってきてくれたらしい。
何となくそれに嬉しくなって、残りの土蜘蛛にも爪で斬撃を入れていった。逃げ惑う人間たちに技を当ててしまわないように細心の注意を払いながらも倒していく。
「どいつもこいつも雑魚かよっ」
戦ううちに気分が高揚して口が荒くなるのはいつもの癖だった。
さて残りはあと三匹――と思ったところで、一人の子供が逃げ遅れているのに気づく。
涙をいっぱいに溜め、手足を懸命に動かして駆けているが、今にも転んでしまいそうだ。それを見た次の瞬間には全力で走り出す。本気を出せば土蜘蛛の追いかける速さを抜くことなど容易い。
時を同じくして、空気の流れが変わり、風が槍のようにその土蜘蛛へと突き刺さるのが見えた。
「…………!!」
驚いたけれど、すぐに分かった。きっとあの彼の仕業だと。
天狗は風使いである。彼ならこれ程度、息をするのと同じぐらい簡単にできるだろう。
おれは勢いをつけて子供の前に躍り出て、倒れ込む土蜘蛛が幼子を押し潰す前に抱えて跳び上がった。
それから、残った二匹をかわしながら、おれの腕の中で泣きじゃくる子の母親を上空から探す。
「かあちゃん!」
と、子供が声を上げた。
すぐ下を見ると、子供の名前らしきことを叫びながら辺りを見渡している女性がいる。彼女が母親だろう。
傍に着地して降ろしてあげたら、子供は小さな手足をまた懸命に動かして走っていき、母親にひしと抱き着いた。母親もはぐれた大事な子供と再会できた喜びに、涙を流して喜んでいる。
微笑ましく見たが、少し不審に思って首を傾げた。母親がいつまでもその場を動かないのだ。
注視してみれば、すぐにその疑問は解決した。脚を怪我しているのだ。流れている血の量からして、それなりに深い傷だと窺える。
おれは懐を探って、薬草から作った血止め薬を取り出す。月読から教わった作り方と薬草だから効果は確かであるはずだ。
「あの、その怪我――」
「こっち来ないで! 妖怪!」
この薬を使ってほしい。そう言おうとして、母親の叫びを聞いて立ち止まる。
子供を抱えた母親は、後ずさりしている。
――彼らにとって、おれも土蜘蛛と同じ妖怪でしかない。
それを改めて思い知らされた。最近友好的な人間にしか触れてこなかった分、以前よりもこたえる事実。
だが、当然のことなのだ。だから、傷ついた顔なんて決してしてはいけない。
「……、これ。怪我に効くから、よかったら使って」
使ってもらえないかもしれない。そんなことは分かっていたけれど、差し出さずにはいられなかった。
過去において、おれを傷つけたのは人間。しかし、救ってくれたのもまた、人間なのだ。
そっと地面に二枚貝の容器を置くと、母親は戸惑ったように目を大きく見開いていた。その表情を見られただけでいい。彼女が、おれをいつもの妖怪とは異なるという目で見てくれたということだから。
回れ右をし、此処に来た時と同じように全力で駆け出す。一刻も早く、こんな血で汚れた体を洗い流したかった。
あの天狗はきっと今も見ているのだろう。こんなおれを何と思っただろうか。嗤う、だろうか。馬鹿じゃないのかと。
でもやはり根拠もなく、嗤わない、と思った。彼はそんな人ではないと。数言しか交わしたことがないくせに。
近くの川に飛び込み、浴びた返り血を洗い流す。水は嫌いだが、こうでもしなければ汚れは取れないし、背に腹は代えられないのだから仕方ない。
「あー水嫌い。でも血が臭い!」
「――随分大暴れだったんじゃねぇの?」
ぶつぶつと零していた時に聞こえてきた声。振り返ると、さっきの天狗が近くの樹に降り立ったところだった。
「あ、天狗さーん! 大暴れ楽しいよ?」
距離は保たれたままだが、それでも声をかけてくれたことが嬉しくて、川の中でぶんぶんと手を振る。先ほどの出来事で傷ついているなどとは言う必要がないと思ったから。
「あー、そーかよ。そりゃ何よりだな」
何となくぞんざいな感じのする返事であっても、会話が成立するのが嬉しい。
「うん!」
笑って返してから川から上がり、ぶるぶると体を震わせて水を払った。夏でもないこの季節、乾くまではだいぶ時間がかかるだろう。少し憂鬱になった。
が、間もなく一瞬にして風が体を包み込んだような感覚がする。目を瞬かせた時には、もうすでに水気がなくなっていた。
間違いなく、天狗の彼のやってくれたことだ。
「ありがとう! 流石は天狗さん!」
「……いつもあーいうことしてるわけ?」
ますます嬉しくなって目を輝かせたら、「まーな」とおれの言葉を流し、彼は尋ねてきた。
「見つけた限りはいつもしてるよ?」
どうして問われたのかよく分からない。またも首を傾げる。
「……そーかよ」
彼は毒気を抜かれた様子だった。
おれ、何か変なことを言っただろうか?
「天狗さんはあんなところで何してたの?」
頷いてからまた笑って、今度はおれが尋ねる。少しでも長く此処に留まらせて、何でもいいから彼のことについて知ってみたかったのだ。
「何、って。別に……出歩いてただけだけど?」
何も隠した様子はないし、それが事実であるらしい。確かにあの場所は紅葉が美しい。おれ以外も目をつけていてもおかしくはない。
「そっか。紅葉、綺麗だもんね!」
言いながらも、おれたちの間にある微妙な距離が気になる。詰めてもいいものだろうか。量りかねて、視線が曖昧なところを彷徨う。
「まーな」
同意してくれたことからして、彼も紅葉は好きらしい。外した質問をしなくてよかった、とほっとした。だがその間も、距離感が気になって仕方がない。
「――、天狗さんは名前何ていうの?」
もしもこの問いに答えてくれたなら、距離を詰めてみようか。ほんの少しの怖さのせいで声が震えそうになって、自分に笑ってしまいそうになる。
少し、間が空いた。
やはり答えてもらえないか。諦めようとしたその時、ぽつりと降ってくる言葉。
「……、――風巻」
風巻、とは、風が強く吹き荒れるさまを表す言葉。
目を引く美しさと、その実は激しさを湛えているように見える彼に、ぴったりだと思った。
「風巻? いい名前だね!!」
思ったことを率直に述べたら、「そりゃどーも……」と言いながら彼は樹から降りてきてくれた。
これ以上ないほどおれはそれが嬉しくて、酷く胸が躍ったことをよく覚えている。
これが後に、部下であり、無二の親友であり、義兄となる――風巻との忘れ得ぬ出会いだった。




