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違えているものは何

 群れに加わらせてもらってから、十五年が過ぎた。

 おれは相変わらず畑を手伝い、猫又と人間の子供たちの面倒を見て、毎日を充実しながら過ごしていた。

 そんなある日のことだった。

 いつだって、破壊は唐突に訪れる。


 夜は妖怪が世界を支配する時間。だから、伊知郎の群れにいる猫又は夜の間中、他の妖怪が隣接する村を襲わないか交代で見張っていた。

 その夜は、ちょうどおれが見張りの当番で、その準備をしていた時だ。与吉が飛び込んできたのは。

「久遠! 久遠!!」

 いつも明るく笑い、呑気な様子に見える彼が、顔色を青ざめさせている。

「どうした?」

 尋常じゃないものを感じて、おれはとりあえず準備もそこそこに彼の方に駆けた。

「外に出てくれれば分かる!」

 どういうことだと思いながらも、引きずられるようにして外に出る。師走に入り、冬は厳しさを増していて、吐く息が白かった。そしてそれを視覚した瞬間に、与吉が何を言いたかったのかを把握する。

「……法師の、匂い……?」

 おれは目を見張って、自分が使わせてもらっている家屋の屋根に跳び上がり、見渡した。

 視界に入ったのは松明の群れ。あの揺らめきをおれは知っている。仲間を、父を母を、妹を、おれから奪い取っていった時の明かりと同じ。

「近くまで来てる……!!」

「見張りの奴らが気づいたんだ!! 多分、昼間のうちに匂いが届かないぎりぎりまで近づいてきてた……戦える奴は、逃がすのと戦うの、二手に分かれようと思う!!」

「そ、れは、」

 ある意味適切な判断であることは分かっている。全員で逃げ出せたらいいけれど、相手がこんなにも近づいてきている以上、誰かが殿しんがりの役目を務めなくてはならない。

 何かしらの交渉に来た、なんて生半可なものではないことは、あの数を見れば分かる。あれから少し個体の数を増やしたとはいえ、こちらが四十程度しかいないというのに、恐らくその倍はいるのだから。殺しに来たのだ、と察するのは容易い。

 どうして、と思うけれど、そんなことを考えるのは後でいい。

 見張りを担当していたらしい者がやぐらの上から警鐘を鳴らしていた。ガンガンと高い音が辺り一帯に響き、耳が痛い。それだけ緊迫している状況が、里を失った過去と重なり合って、頭も痛い。

 慌てたように飛び出してくる者たちは逃げる用意を固め、家長の命に従って走り始めている。猶予はない。

「じっちゃんは率いる方に回った。あの人が生きてれば終わりじゃない。久遠は逃がす方を頼む……俺は残る」

「馬鹿言うな!!」

 苦悶の表情での与吉の言葉に目を剥いた。

殿しんがりは強い奴が務めるのが常識だ!! この群れの中でおれは一番強い!! 違うのかよ!!」

 父から最期に言われたことをよく覚えている。逃げることは弱くない。おれだってそう思う。

 だけど、もう一度守られるなんて御免だった。

 おれは父に母に、月影に、月読に、守られてばかりだった。

「――っ、でも!」

「おれは確かにここにいた年数は他の皆と比べれば短い……! でも、仲間だろ? おれにも背負わせてくれよっ……」

 与吉の肩を掴む。

 逃がされるのは、守られるのは、大事にされている証拠。

 しかしそれは同時に、お前はまだ守られるべき者だと言われているのと一緒。お前には背負わせられないと言われているのと、同じなのだ。

 率いる側の者たちは、戦えない者たちを集めてもう出発している。伊知郎の妖気が遠のいていくのが分かる。

「……分かった。でも俺も残る。それは譲らない」

 聞いたこともないほど静かな声。

 彼の目を見ると、それと重なるもうひとつの目があった。

 ――ああ、あの日の父上と同じなんだ。

 覚悟を決めて、たとえその身が滅びても大切な人を守るために立ち塞がると、決めた者の目。

 そう悟ってしまったら、おれにはもう何も言えなかった。

 警鐘は鳴り響いたままだけど、そこに凄まじいほどの足音が重なり合う。法師がますます距離を縮めているのだ。おれも覚悟を決めなければならない。

 そっと与吉の肩から手を離し、足音が聞こえる方向に目を遣った。

 全開になった感覚が、特徴的な香の匂いを放つ法衣の集団を捉える。

 おれたちと同じように残ったらしい人たちが集まってきて、視線を交わした。

 その間も当然近づいてきていた一団。その足が止まる気配がする。

 お互いが睨むように見つめ合った。一触即発の雰囲気の中、呼吸すらはばかられるような空白の時間が流れる。

 法師の中から二人が前に進み出て、口上を述べる。

「隣接する猫又の群れに村を荒らされて困り果てているとの告発があった!」

「今すぐ投降し、逃げた仲間を我らに差し出せ!! 一匹たりとも逃がさぬ!!」

 おれを含めた全員が目を見張った。

 隣の村とは良好な関係を築いてきた。今日の昼間もいつも通りに協力して作業を終えたばかり。それが取り決めであり、伊知郎は徹底させていた。『荒らす』など、酷い言いがかりである。しかし、そんなことを言ってもどうしようもないことはよく知っている。

「誰かが裏切ったんだ……!」

 悔しげに一人が零すと、一気に殺気が立ち昇る。

 元々妖怪は血の気が多い者が多い。しかも、自分や親類などしか信用しないという者も多く、ここまでの信頼関係を築くのにどれほどの時間がかかったのか、想像して余りある。与えられた僅かな情報は、その危うい均衡を一瞬で崩すのには充分すぎるほどだったのだ。

 一人が裏切っただけで、全員が裏切ったとは限らない。おれはそう思ったけれど、この場では言うべきではないとも同時に思って、口を噤んだ。

「――投降は、断る」

 そして、与吉の声が響く。

 やはり彼の目は一度も見たことのない、恐ろしいほど強い光を湛えていて。

 それは憎悪? それとも、哀切? どちらにしても、おれの大好きだった部分が彼の中で壊れていっているような気がして、悲しくなった。

「その言葉は宣戦布告と受け取る!」

 進み出てきていた法師の片方が言い放ち、もう片方が法力の槍を放ってくる。それをおれが爪閃斬で相殺したのが皮切りだった。

 目も眩むような閃光がおれたちに襲いかかってくる。

 ――ああ、あの日と同じだ。

 月影が背中を押してくれた気がして、その光をかわしながらも、一人の法師との距離を詰める。驚いて身を引いたのを逃がさず、鳩尾に拳を叩きこんだ。

「ぐァッ……」

 法師はそんな奇妙な声を上げて倒れ込む。

 こんな場面になってもやはり、たとえ法師と言えどもおれは殺せなかった。人間だから。それには変わりがないから。

 だけど裏切られた失望感や絶望感に心を覆われてしまっている他の皆は、そうはいかなかったようだった。おれの強襲に隙ができた数人に襲いかかり、喉を切り裂き、腹を貫き、血の海ができている。

「与吉ッ……」

 彼の目はやはり見たこともないほど冷たくて、おれの声も届いていないようで。

 もう一度彼の名前を呼ぼうとしたところで、そんな隙を法師が見逃してくれるわけもなく、錫杖が振り下ろされ、おれは辛くも躱して喉に手刀を叩き込む。

 猫又の一人が法師の槍に貫かれる。その法師を猫又が殺す。血みどろの救いようもない状況。

 皆の着物が、手が、血で染まっていく。血飛沫がかかって、おれもまた赤で染まっていく。

 香の匂いと血の臭いが混じり合い、酷い吐き気がした。

 おれがそんなふうに何処かで躊躇をしている中、与吉の動きはまるで何かに取り憑かれてしまったかのようだった。大怪我を負いながらも痛みを感じていないらしく、一人、また一人と殺していく。

 おれが法師を一人気絶させている間に、彼は二人殺している。仲間の一人が死ねば、その分動きが速まった。彼がほとんど半分以上を始末していて、声をかける隙すらなかった。

 それでもきっと彼は紙一重で、正気を保っていたのかもしれない。


 最後の一押しをしてしまったのは、おれだった。


 与吉にばかり気を取られていて、それまであの状況に追い込まれていない方がむしろ奇跡だった。

「うァ!!」

 激痛に仰け反り、自然の力に引っ張られるままその場に倒れ込む。与吉に意識が向かっていて、注意力が散漫になっていた。その油断を突き、法力の槍で脇腹を裂かれたのだ。寸でのところで致命傷は避けたものの、深手を負ったせいで立ち上がることができない。

「久遠ッ!!」

 与吉の声と視線を感じる。

 生き残っていたのはもう、おれと彼だけだった。

 大丈夫、と言おうとしても、呻き声が上がるだけでその言葉を紡ぐことができない。

 おれが立たなければ。与吉が本当に壊れてしまう前に――そう思ったけれど、遅かった。

 聞こえた気がした。ぷつん、と何かが切れたような音が。

 顔を上げる。嫌な予感がして、それを嘘だと思いたくて。

 だがそんなの、淡い、何処までも自分本位な願いでしかなかった。

「――ッ、ふ、ざ、けんなああああぁぁぁああぁあああぁ!!」

 咆哮ほうこうしながら、おれにとどめを刺そうとしていた法師の喉を裂く。その動きはあまりに速すぎて、『裂かれて倒れた』様子を見るまで、おれでさえ何があったか察することできなかった。

 絶命した法師の方はさらに酷く、自分の身に起きたことがとうとう分かっていないような、間抜けな表情をしていた。

 与吉は次の瞬きの後には、残っている法師たちの目前へと迫っていた。

 元々何かに取り憑かれたかのような様子だった今までの彼と比べても、その速力が段違い。法師たちも咄嗟に反応できなかったらしい。

 一呼吸の後には、立っている敵は誰もいなくなっていた。

 腕がもげ、首は千切れ、はらわたが飛び出している死体、死体、死体。

「…………よ、きち……」

 呼び声は小さすぎて、大切な友達には届かない。血が流れ過ぎたのか視界がぼやけていく。

 糸が切れてしまったみたいに、放心して血の海の中に佇む与吉。それが意識を手放す前に見えた最後の景色だった。





 小さな後ろ姿が見える。それには見覚えがあった。

 月影――大切な、何をしてでも護りたかった、おれの妹だ。

 ――兄さま。

 無邪気に微笑み、おれにじゃれついてくる。彼女はもう何処にもいないのに。

 夢であると悟りながらも、月影の存在を否定してしまうのが怖くて、おれは何も言えないでいる。

 だがふと、彼女の表情が怖いほど真剣になった。

 ――兄さまさえいれば、里は終わりじゃない。

 ああ……そうだ。おれは死ぬことはできない。まだ、死んではいけない。

 生きなければ。

 意識が浮上し、月影の姿が遠のいていく。

 彼女の笑顔が酷く目に痛かった。


 ふと目を開けた時に最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れた強面。

「いち、ろう……」

「目を覚ましたか。……よかった」

 最初は自分の居場所が何なのかよく分からなかった。しかし、匂いや目に映るものから、此処は何処かの森に掘られた洞穴のようだと察する。多分、誰かに運ばれたのだろう。

 ぼんやりとしていた意識がそうしてはっきりしていくにつれ、右の脇腹から痛みが襲ってきた。最初は小さく、そしてだんだんと激しく。

「傷はどうにか塞がっている。ぬしの妖力なら、七日もかからず完全に癒えるだろう」

 おれの様子を見ながら伊知郎は呟いた。

 聞き慣れたはずの彼の声が、何処か硬い。何となく、その理由は察することができた気がした。

「――与吉、は」

 長い間声を出していなかったからか、酷くしわがれている。

 それでも相手にはしっかりと伝わったらしい。一瞬で様相が強張り、声の大きさが落ちた。

「体の方は、怪我が酷かったが、手当ても済んで無事だ……お前と変わらぬぐらいには完治するだろう」

 言い方に引っかかって、彼の目をじっと見上げる。

「精神は…………完全に壊れたらしい。抜け殻のように、ぼんやりとしている」

 おれが何を聞きたいのかを読み取ったようだ。声の大きさは更に下がり、集中しないと聞きることが不可能なほどで。

 だけど、先ほど伊知郎が汲み取ってくれたように、おれも分かっていた。

「おれの、せいです」

「言うな」

 口にしたところで、鋭く遮られる。

「たとえそうだったとしても、言って何になる? 与吉が元に戻るわけではない。それとも口にすることで自らが楽になりたいのか? そんなもの、ぬしの勝手に過ぎん」

 鋭く冷たい語調。おれは何ひとつ言い返せず、唇を噛みしめた。

 伊知郎の言うことは正しい。おれはきっと、自分だけ楽になりたかった。

 彼に何と言ってほしかったのか。「そんなことはない」と慰めてほしかったのか。

 あまりに汚い自分の思考に吐き気がする。

 おれは無意識に、ただ自分だけが幸せになる道を探していたのだ。

 長い沈黙が訪れた。

 口にする必要性がないからこそのものではなく、どちらも言うべきことがあるのにそれを上手く表現できないからこそ訪れる、嫌な沈黙だ。

 そしてそれを割ったのは、伊知郎だった。

「ぬしが目を覚ますのを待っていたのは、ぬしに話があるからだ」

 彼を見つめると、申し訳なさそうな、だがすでに総てを決めてしまっている目をしていた。

「分かってます」

 彼が言いたいことは、やっぱり分かっている。だからこそ、自分自身で終わりにしてしまいたい。


「群れから、消えます」


 伊知郎は驚いたように目を見張り、すぐに表情を強張らせた。

「久遠、」

「おれは此処にいるべきじゃない。貴方たちの利益から見ても、おれ自身の信条から見ても」

 月影から預かった、月読の作った守り石が熱を持っている。

 おれの決めたことを責めているのか。それとも、応援してくれようとしてくれているのか。分からなかったけれど、それに導かれるようにして言葉の続きを紡いでいく。

「もう一度あの場所に戻るなんて、信頼が崩されたという衝撃が拭えない精神的にも、法師がまたやってくるだろうという状況の簡単な想像からしても、無理です。そしてあんな手ひどい裏切りに会った以上、別な人間の村との協力を考えようなんて普通は思えない」

 おれがぽつぽつと、しかし淀みなく呟いていく様子を、伊知郎は何処か唖然として見ていた。構いはしなかったが。

「今回は何とか逃げ切れたけれど、これから先は法師に見つかるかもしれないことに怯えながら生活しなければならない。そうしたらおれのような馬鹿みたいに大きな妖気を持っているのは、邪魔になる」

 目を付けられた強大な妖気など、足手纏いでしかない。強大であればそれだけ悟られやすく、多くの敵を呼ぶ。今回半数の強者をうしなったこの群れに、もう一度あの規模の襲撃を耐えることができるかと訊かれたら、おれはまず無理だと即答できる。

「おれが出て行けば、きっと法師たちにも見つからずに逃げられる。きっともう、貴方以外は身を潜めているんでしょう?」

 その証拠に、伊知郎以外の群れの猫又たちの匂いが全くしない。

 傷が開かないように注意しながら上体を起こし、愕然としている伊知郎に安心させるように笑った。何も、伊知郎だけが自分勝手を押し付けるだけじゃないのだ、という思いを込めて。

「それに……人を殺すことを是とするなら、おれはこの群れにいることはできない」

 おれにだって自分勝手はある。

 あの血の海を見ながら、おれはきっと仲間に、与吉に、それどころか群れ自体に、見切りをつけていた。残酷に。そこまでも冷徹に。

 与吉が狂ったのは、おれのせいなのに。

 自分がこんなにも冷たくなれるとは思わなかった。

 信条を裏切られたら、おれは大切だと思ったはずの人を切り捨てられる。

 おれも妖怪なのだ、と何処か他人事のように思っていた。

 自己中心的で、不平等で、自分の大切なものしか守れない。

「…………っ、すまない……!! すまない、久遠!!」

 ゆっくりと立ち上がりながら、深く頭を下げる伊知郎を見つめる。

 この人は、こんなにも小さかっただろうか。

「新しい長と和解できなかった、わしの罪であるのに……!! ぬしは悪くなどないのだ、本当は!!」

 ああ――それが、あの裏切りの理由だったのか。

 でももう、そんなことどうでもいい。おれが大切に思っていた友達は、此処で大切にしていたものは、もう二度と戻らない。手に入れようとするつもりもない。

「――それこそ、さっきの言葉をそのままお返しします」

 見下ろして、嗤う。未だかつて一度もしたことがなかった嫌な笑み。視線にもこれ以上ないほどの鋭さを湛える。

 嫌ってくれればいい。憎んでくれればいい。憎んで憎んで、思い出すのも嫌になればいい。

 おれがこの群れにいたなんて記憶も記録も、抹消してほしい。最初から存在しなかったかのように。


「貴方が楽になりたいんですか?」


 放たれた言葉に伊知郎は言葉を失い、目と口を大きく開け、固まる。おれはその脇を通り過ぎ、洞穴から出た。動けないでいる伊知郎はそのままに。

 外の空気はおれの心情とは裏腹に澄んでいる。あまりの冷たさに、刃かと勘違いしてしまうほど。

 白い息が棚引くのを一瞥してから、おれはゆっくりと歩き出した。

「……与吉……ごめん」

 誰にも拾われることのない贖罪を残して。

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