共に生きられるなら
穏やかなはずの月の光が
孤独を蝕んでいく
● ● ●
「月読、起きてる?」
月読の屋敷の入り口に立ち、中に向かって声をかける。屋敷と言っても簡素なものだが。
住人が巫女であることを示す祷り場があるけれど、他は普通の村人の家と何ら変わりはない。神に仕える者に相応しく、彼女は欲に溺れるのを好まなかった。
「起きていますよ」
おれの呼びかけに几帳の向こうから返事が来る。明るいけれど、随分と力がなくなり、しわがれた声だった。
月読に助けられてから、もう数十年余りの時が過ぎている。
命を無駄にしようとしていたことを彼女に気づかされた次の日。彼女は村の人を呼び集め、おれをその場に連れていき、言い放った。
――今日からこの子をこの村に置かせてください。
そして深々と頭を下げたのだ。
村人は当然驚いたが、おれも同じぐらい驚いた。いったい何を言い出すのかと。
――私が死ぬまでの間でいいのです。その間、私がこの子の見張り役になります。貴方たちには決して迷惑をかけません。
頭を下げたままの月読は言葉を続けるが、村人たちは言葉を失っているように見えた。
――そしてこの子に、人間の生活を、思いを、教えたいのです。
お願いします、ともう一度言って、更に深く頭を下げる月読。
おれは呆気にとられたまま動けなかったが、村人たちも困惑したように顔を見合わせている。しかしすぐに何か覚悟を決めた目を交わし合い、月読の方に寄ってきた。
――月読さまは今までこの村をずっと助けてきてくれたんだ。御恩返しだ。頭なんか下げないでくだせえ。
――その子だって、助六さんや佐助ちゃんを助けてくれたんでしょう? その御恩はしっかり返さにゃあ。
そうだそうだ、と一斉に声が上がる。
今度は村人たちへの驚きのために、おれは固まったまま動けなくなってしまった。
一方の月読は、そんな彼らに向かって繰り返し繰り返し「ありがとう」と言い続けていた。
彼女はおれのためにこんなにも必死になってくれている。それを見てしまったら、おれも頭を下げないわけにはいかなかった。
――ありがとう、ございます……。
それに微笑んで頷いてくれた村の皆は、あたたかかった。
月読の言った通りだった。
確かにこの世は優しさに優しさで報いてくれる者ばかりではない。だけど、総てが敵というわけではないのだ。おれにとって、この村の人たちがそうであったように。
だが、おれだって忘れてはいなかった。月読が築き上げてきた信用によって、彼らはおれを信用してくれようとしている。これは彼女のおかげなのだと。
だからおれは、おれ自身を信用してくれるように、毎日村人とできる限り交流した。
あるときには、屋根の修理や若い衆でも大変なとても重いものの運搬をおれがやった。そして反対に、村人からおれが知らなかった籠の編み方や草履の作り方を教えてもらうこともあった。ただ、おれはからっきし不器用で、皆に笑われたけれど。
月読についていって村を脅かす妖怪を退治しに行ったこともある。元々、妖怪であるおれは戦い好き。しかも退治すれば村人も安心して暮らせるのだから、喜んでついていった。
そうやって徐々に月日を重ねて、信用の理由を変えてくれた。「月読さまが信用しているから」でなくて、「久遠が久遠だから」と。
村人たちとの交わりで分かったことがある。
ヒトとヒトだろうと、ヒトと妖怪だろうと、話し合っていかなければ何も始まらない。そして話し合えば、何ひとつとして分かり合えないという状況なんて起こらないのだ。
父と叔父だって、お互い不干渉ということで折り合いをつけられた。最後まで相手の思想を理解することはできなくても、二人ともが「相手は自分の考えを譲れない」ということだけは分かっていたのだ。
けれど。どれだけ仲良くなることができても、ひとつだけ抗えないものがある。
それは時。
人間たちと妖怪であるおれとでは、流れる時間が違い過ぎる。
最初の頃に親しくしていた人たちの中にいた老人たちは、だんだんと亡くなっていった。その子や孫たちも今や、老いていたり、成長し立派な大人になっていたりしている。
しかしおれは、人間で言うところの十四歳ほどの体になった程度。つまり人間に置き換えてみれば、二年程度しか経っていないのだ。おれの感覚では。
そして老いは、他の人間と変わらず、月読にも平等に訪れていた。
「……入っても大丈夫?」
「ええ」
許可をもらったおれはそっと踏み入り、枕元に座った。
「月読、お粥作ったよ」
「あら。不器用な貴方が料理なんて、手を切らなかったのですか?」
「切っても治るし」
「そういう問題ですか」
楽しそうに笑って床から起き上がろうとするので、おれはその背に手を当ててそれを助けた。
「ありがとう」
微笑みは変わらない。変わらないのに、他は随分と変わってしまった。
「ううん」
笑って首を振るけれど、内心では寂しさを隠しきれなくて。
出会った頃と比べれば二回りほども小さくなった体。真っ白になってしまった長い髪。深い皺が刻まれた顔や手。
人間が老いていく速さというのは、どうしてこうもおれたちと違うのか。
共に暮らす間に、月読からは法師や巫女との戦い方を教えてもらった。どうすれば上手く逃げられるのか。戦うことなく躱せるのか。多分――これから自分がいなくなってもおれがちゃんと生きていけるように。
こういうときがいつか来るのを分かっていたのだ。ヒトである彼女は、おれの理解よりずっと残酷さを分かっていたから。
「さ、食べて精をつけてよ。皆、月読が元気になってくれるのを待ってる」
彼女はおれの言葉に曖昧に笑って、差し出した椀を受け取る。
最近、こういうことが増えてきた。
おれが何か先を約束させるようなことを言っても、確約してくれない。まるで反故にすることを分かっているかのようだ。
おれはそれが余計に寂しくてたまらない。彼女にはもっと教えてもらいたいことがたくさんあるのに。
寝間着の首が寒そうで、おれは手近にあった着物を羽織らせた。
「美味しいです」
その間に一口を含み、頬を綻ばせる月読。
「ほんと? よかった。佐助のお嫁さん……おかつに教えてもらったんだよ」
「そうですか、おかつに」
大きく頷く。おれがこの村に置いてもらうきっかけとなった助六と佐助。助六はおれが村に腰を落ち着けて間もなく亡くなってしまったが、佐助とその家族とは今でもとりわけ親しくさせてもらっている。
月読がゆっくりとだが確実に粥の量を減らしていくのを、少し安心しながら見守る。最近食欲が落ちていたから心配していたのだ。
と、食べ終わったところで彼女が不意に言った。
「何にしても、久遠? その『月読』はそろそろやめませんか。もう私は月読ではないのですから」
このやり取りももう何度目だろう。
『月読』はその時代で最強の巫女に与えられる名。つまり新たに最強の人が現れれば、そちらに移ってしまう。
老いたことで力が衰えた目の前の彼女も、その名前を名乗る権利を失っていた。今は西国の方にいる巫女がそれを名乗っている、と風の噂で聞く。
だがおれにとって、目の前にいる彼女は『月読』でしかない。
「……じゃあ何て呼べばいいんだよ」
少し唇を尖らせて尋ねる。少し声が低くなっているのが自分でも分かった。
「巫女殿、などでいいです」
「やだよ、そんなの。他の巫女との呼び分けに困るよ。それに、おれにとって月読は月読のままだ。世間では違ったとしても。それに村の皆だって同じように思ってるよ」
いつものように思っていることを率直に伝えれば、呆れ半分面白さ半分といった様子で笑んでいる。
「……変わりませんね、貴方は」
目を瞬かせた様子を見てか、「出会った頃からですよ」と彼女はおれの頭に手を置いた。
「素直で、呑み込みも早くて、思いやりがあって、とても優しい。それなのに変なところはびっくりするぐらいに頑固で……」
邪魔っけで短くしているおれの髪の毛を、何度も何度も優しく撫でる。その感覚はおれも大好きで、大人しくされるがままになった。
「本当にお父上に似ていますね」
目を細める彼女は、おれの向こう側にどうやら父上を見ているらしい。
「月読にそう言われると、何となく安心するよ」
けらけらと笑えば月読も声を上げて笑ってくれて、またほっと息をつく。
彼女はおれが産まれてからずっとずっと後に生まれたのに、おれにとって二人目の母も同然だったから。喪いたくなんてないから。
「さ、月読。休んで元気になって、おれたちをもっと安心させてよ。な?」
言いながら手を貸して横にならせるおれに月読は大人しく従いつつも、また答えないでいる。けれど、もうそれでよかった。
おれには祈ることしかできない。
人間たちと同じだ。妖怪だろうと何も変わらない。老いを止める手段も、病人を癒す力も、おれは持っていないのだから。
しばらく枕元に座ったまま見守り続け、月読が眠ったことを確認する。それからそっと屋敷を出た。
使った鍋と椀をおかつに預け、とある場所に向かう。
そこは村の境ぎりぎり手前にある背の高い木。登って、枝に腰かけた。里でよくしていたように。
境を越えると、月読が村の守護のために張っている結界の範囲外となる。つまりおれの妖気を巫女や法師が探知しやすくなってしまうのだ。月読と一緒でなければ、出られない。
夕焼けの色に染まっている空が美しい。
ぼんやりとしていると、此処最近はひとつの思考に陥ってしまう。気づいてやめても、やはりいつの間にか同じところに戻っている。
月読がもしも死んでしまったら――おれはどうするのだろう。
そんなこと考えたくもないのに、頭の隅にこびりついて離れない。
分かっている、おれにだって。彼女の命はもう残り少なくて――間もなくその灯火が消えそうであることも。
日が徐々に沈んでいく様子をじっと眺める。
訪れる夜の世界。人間の時間が終わって、ここからはおれたち妖怪の時間だ。
今日は此処でこのまま、村に向かってくる妖怪がいないか監視しようか。
「久遠!!」
そんな思考を割った、耳慣れた呼び声。下を見ると佐助がいる。
「佐助。どうし、」
「月読さまが!!」
どうした、と言い切る前に怒鳴ってくる。咄嗟に動けなくて彼の顔を凝視するが、その顔色は青かった。
自分からも血の気が引いていくのが分かる。
枝から飛び降りつつ「先に行く!」と佐助に言い残し、月読の屋敷までとんぼ返りした。
月読が死ぬ? だって、さっきまでは普通に話していたのに!
受け止めきれないまま屋敷に飛び込むと、村の長が彼女の枕元で悔しそうに座り込んでいる。
「長、」
「久遠……月読さまが呼んでおる」
こちらへ、という声に引っ張られるように、長とは反対の位置に腰を下ろした。
先ほどまで小康を保っていたはずの月読は、青黒い顔でじっと目を閉じている。息も荒くて細い。残り少ない命の炎を燃やして、懸命に呼吸をしているというのがよく分かった。
「月読……おれだ。久遠だよ」
体を折って小さく呼びかけると、彼女はゆっくりと瞼を開く。長が席を外すのが視界の端に見えた。
「久遠……」
口角が僅かに上がる。笑んだようだ。
「よく、聞きなさい」
もう大きく張ることができないのか、その声は小さい。しかし不思議とよく通る。
きっとそれは、遺される者に思いを伝えるために。
「私はもうすぐ死にます」
予測していた台詞であっても、受け入れられるかと言われれば別問題で。おれは小さな子がするようにいやいやと首を振った
「貴方がそのようでは、私は安心して死んで行かれません……」
「だったら死ぬなよ……! おれは嫌だ! 月読が……月読まで、死ぬなんて!」
家族や里のように、突然失うというわけではない。だからといって傷が小さいなんてことはありえない。予め分かっていたとしても、大切な人が死ぬことに心の準備などできるわけないのだ。
「久遠。聞いてください」
月読の目がじっとおれを射抜く。
――思い上がるのもいい加減になさい。
出会った日、おれを自惚れから引きずり上げた、あの目だった。自然とおれの背筋は伸びる。
「私は、死にます。これは変えられない事実なのです。それを分かってもらった上で、私は貴方に伝えなければいけないことがあります」
息をするのももう苦しいだろうに、彼女は恐ろしいほど揺らいでいなかった。
「――うん」
嫌であることには変わりない。受け入れたくない気持ちも、聞かないためにこの場から立ち去ってしまいたい思いも、総てそのまま。
しかし、此処で彼女の言葉を聞かなくて後悔するのは、自分だ。
月読の手を握る。
「……ちゃんと聞く」
しっかりと見つめ返すと、月読は安心したように頬を緩めたようだった。
「私が死んだら、この村の周りにある結界が消えます。その意味は、分かりますね?」
おれは頷いた。
「この村を守るものがなくなって……おれを隠してくれてたものもなくなる」
そしてそれはつまり、巫女と法師におれの居場所が露見するということ。
「これだけ年数が経ちました。貴方の妖気を知っている巫女や法師など、きっとほとんどいなくなったでしょう。しかし、総ていなくなったわけではない」
月読がこの先に何を言おうとしているのか何となく予測がついて、おれはまた逃げ出したい欲求に駆られていた。
だがおれの手を掴む月読の手は、どこにこんな力が残されていたのだというほど、しっかりとこの場におれを繋ぎ止めている。最初に手を取ったのはおれだったのに。
「貴方をこの三十年以上、此処に縛り付けてきたのに……随分と身勝手なことを言うと、よく分かっています」
聞いてはいけないと思っても、動けない。何も言葉が出てこない。
聞くな聞くな聞くな――本能は強く訴えかけてくる。でも同時に、聞かなくては駄目だ! と鋭く叫ぶおれもいる。どちらも本当で、どちらも正しくて。だからこそ、狭間で立ち尽くしてしまう。
「貴方は私が死んだらすぐにこの村を出なさい」
そんなおれの逡巡をきっと知っているだろうに、月読は言い切った。はっきりと。
「この先に、人里のすぐ傍に住む猫又の群れがあるようです。数十年をかけて、やっと見つけました……貴方に相応しい場所を。貴方も知らなかったでしょう? 群れの長と話をつけておきました。もうすぐ近くの森に迎えが来ます。その猫又と一緒に行きなさい」
逃げ道を探して必死に頭を働かせる。
長く話して疲れたのか、月読は押し黙ってしまった。
おれは言葉を探し、月読は語り終え、沈黙が流れる。今まで体験したこともないような、重たくて体にまとわりついてくるような無音の空間。
「で、でも……この村が妖怪に襲われたら、」
「信頼の置ける巫女に式神を飛ばしておきました。私が死んだ後は彼女が此処のことも守ってくれるでしょう」
正論が飛び出してきておれは言葉に詰まる。
頭では理解している。月読の言っていることは正しい。
だけど感情が、この村で作った数々の思い出が、認めない。
「おれはそんなのやだ……」
手が無様に震えていた。
幾度か味わってきた命の危機よりも、彼女たちと別れる方がずっとずっと怖い。怖くてたまらない。
「――久遠」
静かな声がおれの顔を自然と上向かせる。
「貴方は此処で、たくさんのことを学びましたね? 人間の生活、人間の思い、人間の主張。そして巫女の思いも」
浮かぶのは村人たちの笑顔の数々。
彼らが妖怪に対して感じている恐れを。今の世の中に対する不安を。そして先祖から受け継いできているものを。おれはそんなあたたかさの中で感じて、学んできた。
「だから今度は、それを踏まえた上でもう一度、妖怪について――自分の一族について、学んできなさい」
月読はそっとおれの手を離し、代わりに頬に自分の手を遣った。そのあたたかさに泣きそうになって、奥歯をぐっと噛みしめる。
「此処にいたら、貴方はきっと幸せを得られるでしょう。ほんの少し前までの激動とは無縁な、優しい世界で生きられるでしょう」
彼女の声は優しい。だけど重い。おれが簡単に何も言えないような、そんな重さを孕んでいる。
「だけど貴方の目標は何ですか。妹君と約束したことがあるのではないですか」
――兄さまがたたかいをえらぶのなら、月影はそんな兄さまをささえることをえらびます。
――生き残るのは兄さまです。兄さまさえいれば、里は終わりじゃない。
思い出すのはたどたどしい決意。そして別れ際の、驚くぐらいに大人びていた笑顔。
そうだ。おれが求めたのは、偽りの、生ぬるい安寧などではない。
「――分か、った……」
分かっている。自分でも決めた。だけど、悲しい。寂しい。体を八つ裂きにされて、その上何度も踏みつけられているかのようだ。
床に透明な雫が落ち、ぱたりぱたりと音を立てる。
「月読は、もう一人の母上だった……」
だから手放したくないのに。傍にいてほしいのに。
「……ありがとう」
驚いたように僅かに目を見張ったけれど、結局そう言って笑った彼女は、とても神々しかった。
「久遠、」
「久遠じゃない」
何かを言おうとしたのを遮って、彼女の耳元に口を寄せる。
「おれは……おれの本当の名は、春永」
春の季節自体を表したり、末永いことを祝ったりする言葉。それがおれの真名だ。
『久遠』も『春永』も、永遠を祝う言葉だった。
「……よい名ですね」
そっとおれの頭を撫で、月読は先ほどの言葉の続きを紡ぐ。
「幸せになりなさい――春永」
更に溢れ出ようとする涙をこらえ、ゆっくりと頷く。その名前で呼ばれた上での願いは、なおさら胸に来るのだ。
それをきっと、この人も分かっている。
「私は――翠子と言います」
貴方だけでいいからせめて、覚えておいて。
そう呟く彼女はいったい、どれだけのものを今まで背負ってきたのだろうか。
最強の巫女の名を冠し、戦って戦って、そうして今、こうして横たわっている。
「なあ、月読」
気づいたら、呼びかけていた。
多くの人間が送っているだろう生活を送ることは、その掟から叶わず。愛した人は愛すことを許されない相手で、共にいることすらできずに、しかも先立たれて。
「貴女は、幸せだった?」
戦っても何の見返りもないのに、ずっと戦い続けた貴女の人生は――幸せだった?
おれは悲痛な思いから訊いたのに、予期せず彼女が小さく声を上げて笑うものだから、驚いた。
「そんな愚問を貴方が口にするとは思いませんでした」
どうやらそれが彼女を笑わせている原因だったらしい。おれは首を傾げた。
「……愚問、なの?」
「ええ、愚問です。貴方のお父上に会えて、愛されて、貴方をこうして導くことができて。幸せでなかったと、思いますか?」
言葉は何処か厳しいのに、こちらを見つめる目は優しくて。おれが言葉を失っていると、睫毛に残っていたらしい雫を弾いて、彼女はまた神々しく笑った。
「とても幸せでした」
たとえ『ヒト』として、『女』としての幸せを得られないままだったとしても。
口にはしなかったが、そう聞こえた気がした。
「そっか……」
おれは彼女の手をしっかりと握り締め、微笑んだ。
「少し、疲れました……眠ります」
話すだけでも相当に体力を消耗したのだろう。彼女はおれが呼ばれてきた直後よりもぐっと顔色が悪く、そしてまた一回り小さくなってしまったように思えた。
眠りに就いた彼女は、そのまま明け方まで目を覚ますことはなかった。
加えて、目を覚ました直後、そのまま逝ってしまったのである。
「――……迎えに、来てくださったのですか……?」
ふっと覚醒したと思ったら、たったそれだけを言って。彼女を慕った村人たちに見守られる中で息を引き取った。
とても静かで、酷く呆気なくて。だけど本当に幸せそうな死に顔だった。
翠子――あの世でもどうか幸せに。
彼女の冷たくなってしまった手を握りながら、そう祈った。祈ることしか、生きているおれにはできなかった。
「久遠、本当に行っちまうのか?」
荷物はほとんどない。
小さな包みを抱えて村の出口に立つおれを、村人たちが取り囲んでいた。別に今すぐ行かなくてもいいじゃないか、とか、ずっといてちょうだいよ、という言葉が其処此処から聞こえてくる。
嬉しいことだけど、これは譲れない。
「うん。それが月読の遺言だしね」
自分が死んだらすぐに此処を出ろ。それに従うと言って彼女を送り出した以上、おれも進まなくては。前に。
「月読さまが亡くなって、すぐに久遠までいなくなるなんて……」
寂しさを隠しきれていない様子で佐助が言い、皆も同意するように頷いてくれている。
こんなにもこの人たちに大切にしてもらえて、おれは本当に幸せ者だ。
「……ごめん。皆には今まで、本当にお世話になった。こんな言葉じゃ足りないけど、ありがとう」
深々と頭を下げると、どうやらおれの決意が揺らがないことを皆も悟ってくれたらしい。道中食べられるように、とか、あっちに行っても寒くないように、とか、多すぎるほどの餞別をくれた。
「どこに行っても、達者でやれよ」
佐助が目の縁を赤くしながら言う。つられておれまで言葉に詰まりそうになって、それを誤魔化すために大きく頷いた。
「皆も、元気でな!」
大きく手を振ってから、足にしっかりと力を込める。そしてそのまま、地面を蹴って跳び上がった。
上空から見ると、どの人も腕が千切れそうなほど手を振ってくれている。
おれは感傷を振り払い、近くの森に急降下して降り立った。
待ち合わせは此処で合っているはずだ。妖気と匂いを探りながらきょろきょろと見渡す。
と、すぐに懐かしい妖気と匂いを感じた。
里が滅びるまでは毎日当たり前に知覚していた、猫又のものだ。それぞれの個体で異なるものだけれど、種族ごとにも特徴があるのである。
「久遠ってあんたかー?」
予測通り、それからすぐに明るい声が聞こえた。振り返ると、そこにはやはり猫又が立っている。彼が使者だろう。
「あんたんとこの巫女さんに頼まれて、俺たちの群れに加わってもらうために、迎えに来た。よろしく」
この使者が連れて行ってくれる場所は、今度こそおれの永住の場所となるのだろうか。
「よろしく」
返した声は、微かに震えているような気がした。




