突然に襲い来る少女
「どうしよっかなあ……」
帰宅していく生徒たちの流れに紛れながら、鶫は自分が肩から提げた鞄をちらりと見遣った。
昼休みに女子から「渡しておいて」と頼まれたお菓子は、鞄の中に仕舞われている。
結局いい考えは浮かばずに午後が消えた。
悩みながらバスに乗り、悩んだままバスを降りた。そしてそのまま再び歩き始める。
「……はあ」
ため息ばかりをついているような気がする。嘆息すると幸せが逃げると言うが。
「幸せ使い果たしちゃうかも……」
はは、と空笑いして、てくてくと歩く。
遠くには有名企業が立ち並ぶ都心部が見えるが、この辺りは閑静な住宅街だ。時折子供のはしゃぐ声が聞こえるくらいである。幼い子が好きな鶫は自然と頬を緩めていた。
次の角を曲がって路地をしばらく歩けば鶫の家。いつもの通りに曲がったときだった。
「退治します!!」
鋭い声。物陰から猛スピードで飛び出してくる誰か。そして、眩しい光。
「わああ!?」
一時に襲ってきた物事。鶫は驚いて、きつく目を閉じながら勢いよく尻餅をつく。
あまりに強烈な光は無数の針のように襲い狂い、目の奥を刺し、世界がしばらく真っ白に染まる。
鶫は蹲ったまま両目を押さえた。
髪の毛の色素が薄い彼だが、それだけではない。瞳の色も同じくらいに薄いのだ。強すぎる光は頭痛をも呼ぶ。目の辺りにかかった髪がいくらか被害を軽減させてはくれたが。
「人間の皮を被って誤魔化そうといってもそうはいきませんよ、妖怪。観念なさい!!」
人間の皮? 妖怪?
その上、観念するってどういうこと? ぼく、知らないうちに何か悪いことした?
訳の分からない言葉がずらずらと並び、混乱する鶫。が、目が役に立たない今の状況では、いったい誰が現れたのかが確認できない。
「何とか言ったらどうですか! 朝比奈鶫!」
しかもどうしてこの人、ぼくの名前を? と首を傾げた。だがふと声の主に鶫は思い当たり、同時に見えにくい目を瞬かせた。
――この声を聞いたことは、ある。間違いなく知っている人だ。だけど、まさかあの人が、こんなこと。
どうにか痛みも引いてきて、ゆっくりと視線を持ち上げていく。
黒のタイツに包まれた細い脚。膝丈の、若草色を基調としたタータンチェックのプリーツスカート。そして真白なシャツに、深緑色のブレザー。胸元のエンブレム。
自分が身に纏うスラックスやブレザーと同色同柄だ。つまり、同じ高校の女子生徒。
エンブレムを確認したところで、キラキラとしたものが目を刺した。どうやら何かを胸元に掲げているらしい。そろそろと見てみると、鏡だ。直視しないように鶫は努めた。
視線の先をゆっくりとスライドさせていく。もちろん、顔の方へ。
へたり込んだまままじまじと見上げる。
「雪代さん……」
その人物は予想通りの、だがあまりに意外過ぎる人物だった。
名を呼ばれた彼女は特に表立って反応はしなかったが、わずかに眉を顰めた。
「妖怪が馴れ馴れしく呼ばないでいただけますか?」
そして吐き出される毒。
学校では、大和撫子という言葉がぴったりの上品な優等生、というイメージで通っている彼女。
微笑みを絶やさない様子しか見たことがないので、思い切り歪められた表情に鶫は戸惑うことしかできなかった。
「あ、あの……その『妖怪』って、何……? ぼく、見た通り人間なんだけど……」
妖怪など、御伽話の中にしかいない想像上のイキモノだろう。
鶫は人間の両親から生まれ出た、正真正銘の人間である。
それだけでなく、瞳子と言葉を交わしたのはこれが初めてだ。それがどうして、『妖怪』と呼ばれなくてはならないのだろうか。まるで憎むように。
「惚けるのはおやめなさい。入学式の日に初めて見かけてから二週間、私はずっと貴方から妖気を感じ続けているのですから」
またも、鋭い返し。
「そ、そ、そんなこと言われたって……」
泣いているかのような声になってしまう。
心当たりが全くない上、責められているのだ。瞳子の綺麗な顔で睨まれると迫力も三割増しである。気の弱い鶫にとってはとても直視に耐えるものではなかった。
おろおろとして、後ずさる。スラックスが汚れることも気にならないぐらいの狼狽の具合だった。
「さあ。泣いていないで正体を現しなさい」
追い詰めるようにじりじりとにじり寄ってくる瞳子。泣いてはいないんだけど、と思いつつも怖さで逃げる鶫。端から見たら異様な光景だっただろう。
膠着状態になる二人だったが。
「うわっ!」
間もなく、のことだ。
鶫が生来のどん臭さを発揮した。手が道端の石に突っかかってしまい、後ろに倒れ込んだのだ。その勢いのまま地面に頭の後ろをしこたま打ち付けた。
「い、いた、痛い痛い痛い……」
痛みに転げ回る鶫。
「……」
その様子を半ば呆気にとられながら見ている瞳子。
しばらく転げ回ったところで、彼はようやく上体を起こした。踏んだり蹴ったりだ、と打ちひしがれた様子である。
「……貴方……」
「え?」
大きく目を見張っている瞳子。鶫は目をしばたたかせた。
彼女は鶫の顔を凝視している。酷く驚いた表情のまま。
顔に何かついてるのかな? そう不安になったところで、瞳子が漏らした。
「――……久遠……」
――クオン?
今度は鶫がぽかんとする番だった。
「ゆ、雪代さん?」
それが何を表すにしろ、鶫には全く縁のない言葉である。心当たりがないのだから。
「え、えと、……『クオン』って、何?」
彼の吐いた台詞でようやく我に返ったらしい瞳子は、眉を顰めた。
「……貴方は覚えていないのですか?」
「え?」
「久遠は、貴方の――」
その時だ。
「何してんだ、お前」
強い力で引っ張られ、景色が一瞬で目まぐるしく変わった。
「うわあああ!?」
仰天して再び大声を上げるも、「うるせえ」と一喝されてはっとする。
「こ、宏基兄!」
「だからうるせえ。耳元でぎゃあぎゃあ騒ぐな」
不快そうにしかめっ面をしているのは間違いない、宏基である。
景色が変わったのも、理由が分かってしまえば簡単なことで、鶫は彼の肩に俵のようにして担がれていたのだ。
宏基は百八十センチを超える高身長である。そんな彼に負われれば当然、普段と見ているものは変わる。
「……貴方、何者ですか」
瞳子の声のトーンが下がっている。
彼女に背中を向ける形で担がれているので、瞳子がどんな顔をしているのかは分からない。しかし声色から、穏やかな状況でないことくらいは読み取れた。
「訊くときはそっちから正体を明かすのが普通じゃねぇの?」
それに対する宏基の声も冷めたものである。
一触即発の雰囲気。
それを氷解させたのは、意外にも宏基だった。
「ま、知ってるからいいけど。雪代瞳子――いや、この場合『月読』って呼んだ方がいいか?」
ニヒルな笑いを浮かべて。
鶫は色々なことに混乱する。宏基兄が進んで喋った、しかも笑った、というか『ツクヨミ』って何? などと考えながら。
ややあって、瞳子がようやく口を開いた。
「……貴方は……寒露、ですね」
今度はカンロだ。
クオン、ツクヨミ、カンロ。鶫にとっては意味の通じない言葉たちも、どうやら宏基と瞳子には通じている。つまり、鶫だけが置いてきぼりのようだった。
「今は真田宏基だ。お前が月読じゃなくて、雪代瞳子であるように」
宏基が足を動かしたために靴と地面の砂がこすれて、じゃり、という音を立てる。
「そしてこいつは、何も知らない。何も覚えてない。だからお前も余計な干渉すんな」
言い切る宏基の手に力が入ったのが自分の腰に伝わってきて、鶫はおろおろし出した。
「妖気についても、お前が今でも力を使えるのと同じだろ。こいつに関わるな」
じゃあな、とほとんど一方的に言って、向きを反転する宏基。必然、鶫の視界に瞳子の表情が入り込んだ。
彼女の顔は明らかに歪んでいた。途轍もなく悔しそうに。そして、言葉を失っているのかと思ったのも束の間、「待ちなさい!」と叫ぶ。
「朝比奈鶫が何も力を持っていないというのは、百歩譲って認めましょう。私も先ほど確認しましたが、何も覚えていないようですから」
宏基に抱えられている以上安全地帯にいるというのに、恐ろしいほどの憎悪の表情に鶫は震え上がってしまう。
「では貴方は!? 総てを覚えているようですし、妖気もずっと強く感じられます! そんな貴方が我々に仇なすことがないと、どうして言えるのですか!!」
ぴたりと宏基が足を止める。
鶫は再び震え上がった。
だが今度は、瞳子にではない。
長い付き合いだ、宏基の怒るところも何度か目にしてきた。だからこそ気づいた。
宏基の纏う空気の温度が、一気に下がったことに。
「……黙れ。今いるコミュニティに爪弾きにされるようなことを、何でわざわざ自分からしなきゃなんねぇんだよ」
宏基と瞳子、どちらの顔も視界に入れたくはなくて、鶫はぎゅっと瞼を閉じた。
体が揺られる感覚で、再び宏基が歩き出したのを悟る。
瞳子の声は聞こえてこない。ゆっくりと目を開けるが、彼女は追いかけてくる様子もなかった。
どこか途方に暮れたようなその立ち姿。息を呑むも、すぐに小さくなって見えなくなってしまう。
「こ、宏基兄! もう大丈夫だよ、一人で歩ける――」
「黙ってろ」
鋭く遮られ、鶫は口を噤むほかなくなった。宏基がこんなふうに余裕がなさそうにしているところなど、久々に見たからだ。
結局、降ろしてもらえたのは家の前についてからだった。
宏基は険しい表情のまま。それを見て一瞬躊躇したが、訊かずにはいられずに鶫は彼を見上げる。
「宏基兄……『カンロ』って何?」
問いかけに、彼は一瞬不機嫌そうに目を細め、顔を逸らす。
「……お前には関係ない話だ」
「嘘だ」
明らかに苦しい言い訳である。鶫は彼の幼なじみを軽く睨んだ。
「だって雪代さんはぼくのことを『クオン』って呼んだ。ぼくは知らなかったけど、それも間違いなくぼくの呼び名なんでしょ?」
何も言おうとはしない宏基に対して、畳みかけるように言葉を紡いでいく。
「何なの? ぼくも関係があるのに、教えてくれないのは何で?」
宏基は再び不機嫌そうな目をしていて、鶫は正直とても怖かった。だが負けじと睨み返していたら、やがて彼は小さくため息をついた。
「……じゃあ言い方を変える。お前は知る必要のない話だ」
斬り捨てるように言い切られ、鶫は言葉が出てこなくなってしまう。
目を泳がせている彼を一瞥すると、宏基は自分の玄関のドアに手をかけていた。
「ひとつだけ言っとく。あの女とはもう関わるなよ」
そして、一方的に言って中に入っていった。
「関わる気ないけど……何それ……」
そもそもあんな態度を見せられて、瞳子に自ら関わろうとするほど馬鹿ではない。それにしても、自分は何も教えてくれないくせに自分の要求だけは通すのか、と呆れる。
だが、彼が自分勝手なのはいつものことだった。しかも誰より強情なのだ。一度決めたら梃子でも動かない。
どちらもよく知っている。
ため息をつき、玄関に鍵を取り出して鶫も自分の家に入ると、鶫が飼っている猫たちが出迎えてくれた。
「ただいま」
笑顔で順番に顎を撫でてやる。ごろごろと喉を鳴らす彼らに微笑み、上がり框に鞄を下ろして、はっとする。カップケーキの存在を思い出したのだ。
「どうしよう……渡してこなきゃ……」
おろおろとするうちに、瞳子の存在は頭の片隅に追いやられていった。
『ひとつを考え出すと、以前のひとつを忘れる』。鶫が宏基から単純と言われる所以だった。