食い違いに惑う少女
現在の己の置かれている状況に、瞳子は戸惑っていた。
ここからだと一番近いのはオレの家だろうし、そこに行こう。そんな透のほとんど有無を言わせない提案によって、彼の家に集合することとなったのだが。
巫女は常に清くなければならない。そういった教えから、今まで瞳子は同じ年頃の男子と必要以上に親しくなったことがなかった。つまり、家を訪ねるなど一切したことがない。
それどころかまず、特に親しい友人を作ってくることもなかったため、他人の家を訪ねるということ自体が稀なのだ。
今いるのはリビングであるとはいえ、男子の家の一室だ。しかも現在の状況、周りには男子しかいない。
今さらながら、これは警戒しなくてはならないのではないか、どうして易々とついてきてしまったのか――そう考え、身構えて身を固くする。
そして、鶫に抱えられるままについてきた自分に呆れ、そもそも『殿方』に容易にそんな真似を許したことに嫌気が差しているのであった。
「どうぞ」
この家の住人、そして招いた張本人の透が、緑茶の入った湯飲みを差し出してくる。
「……お構いなく」
一応の礼儀としてそれに頭を下げた。何故か隣にいる鶫にちらりと視線を向ければ、先ほどまでの空気はどこへやら、人見知りを発揮しているようで俯いている。
これが本当に先ほどまでの、明らかに『久遠』然としていた人なのだろうか。瞳子は眉に唾をつけたい気分だった。
久遠――その名は、彼女の生家である雪代神社に何代にも渡って伝わってきていた、最も凶悪と言われる妖怪のもの。様々な悪行の伝説が残っていて、瞳子もその古い古い記録を読むたびに顔が歪むのを読められなかった。
中でも、退治されるきっかけとなった出来事。彼が縄張りとしていた辺りの地域を守護していた巫女の長を、彼の持つ妖しの術で虜にした上で、霊力の総てを奪い取って殺したという。
すぐに彼女と親しかった法師にも伝わるところになり、久遠はその法師と部下たちによって退治された。
伝説をよくよく調べてみれば、殺された巫女は当時の月読――つまり、瞳子自身であった。
いや、『瞳子自身』というのは若干語弊がある。月読は、彼女の前世であるのだから。
瞳子は幼い頃から、『瞳子』のものでは決してありえない記憶を持っていた。
現代では存在しないような妖怪たちを相手に戦っている景色。今では見られない場所で、見られない格好の人間たちと楽しげに会話している己の声。
総て視点は彼女自身で、つまり『記憶』と呼ぶに相応しいものが、確かに在って――記憶の中で瞳子はいつも、『月読』と呼ばれていた。
だから幼い頃の瞳子は、自分の名前が本気で月読という名前だと思っていたぐらいなのである。
だがその記憶はばらばら。確かにこういうことがあった、この場所は現在で言うあの場所だ、ということは分かっても、それがいつのものなのかはあまり判然としない。視界の低さや己の発する声の幼さなどでだいたいの年代は分かるものの、正確に思い出すのはやはり難しい。
尤も、それは『瞳子』としての記憶でも同じことだから、瞳子は今まで特に気にも留めていなかったのだが。
ただひとつの記憶を除いては。
月読の交友関係はだいぶ限られていたらしい。妖怪退治に回った村での『その場限り』という関わり以外なら、だいたいの会話の相手が繰り返し何度も登場する。
それなのに、一人だけ、ひとつの記憶の欠片にしか登場しない者がいる。相手も自分も明らかに相当に親しいと示すような口ぶりなのにもかかわらず、だ。
しかもその、唯一の手がかりの欠片ですら、曖昧なものなのである。
――月読。ほら、桜が。綺麗だね。
――本当に……今年も『 』さんと一緒にこの桜を見ることができて、嬉しいです。
隣を歩いているのは男性だ。そしてその隣に居られて月読は本当に嬉しいと思っている。だが見上げたその顔は、逆光のように真っ黒になっていて見えない。そしてそのまま場面は途切れ、分からなくなってしまう。
幼い頃から繰り返し繰り返し夢に見た。そして起きると必ず涙で枕が濡れている。
前世の自分にとって、あの男性はいったいどういう存在だったというのか。いいや、きっと大切な人だったのだろう。それなのにどうして、名前さえも思い出せない。
分からないまま、瞳子は十六になろうとしている。
未だに妖怪退治を請け負うような家だから、瞳子が前世の記憶があると知った時には驚きはしても、疑うということは家族揃ってあまりなかった。むしろ、謎を解き明かそうとしてくれている節がある。瞳子はそれに深く感謝していた。
だが、前世の記憶があるなど、普通からすれば考えられない。だからこそ彼女は、ずっと周りには隠していた。
しかし、あの日――鶫に出会ったことで状況が一変した。
霊力を代々受け継いでいる雪代家。最盛期からすればずっと数を減らしたとはいえ、妖怪はまだこの世にいる。人に害を及ぼすものもいる。表で神社を守る傍ら、裏ではそれを退治することを生業にしていた。
月読の生まれ変わりを示すような高い霊力を備えていた瞳子も、日々そんな妖怪たちを退治しながら生活していた。
彼女は高校に入学してすぐ、僅かだが妖気を感じた。しかも身近に。
不審に思って探ってみれば、それはクラスの中でも目立たない少年から発せられたものだった。
間違いかもしれない。思いつつも、数日に渡って探ってみた。それでもやはり微弱ながら妖気を感じる。
――妖怪がヒトに紛れ込んで何かをしようと狙っている?
そう予想して向かっていったら、更に驚くべき事実が彼女を待っていた。
自分の前世を殺したという残虐な妖怪が、生まれ変わって目の前にいたのだ。
月読も、久遠に会ったことはあったようだ。瞳子の持つ前世のばらばらで繋がらない記憶の中でも、ひときわ異彩を放つ妖怪。
薄い茶の髪、目。ふたつに分かれた尾。頭に生えた猫の耳。楽しげに歪んだ瞳。
――貴方が久遠ですね。退治します。
そう言って鏡を構えた月読に対して、不敵に笑ってみせるのだ。
――おれを、殺すの?
お前が? とでもいう感情が裏にあるような口調で。桜の大木の枝にしゃがみながら、こちらを見下ろして。
その場で殺されたのかどうかは分からない。根拠に成り得るような記憶を、瞳子は見つけることができなかった。
だが彼の顔は、月読から瞳子になった今でも強烈に脳裏に焼き付いている。
だからこそ、長い前髪によって隠されていた鶫の顔が見えた時、驚愕した。表情こそ違えど、その顔は『久遠』のものと同じだったから。
退治しなければならない、今度こそ。その考え故に、瞳子は鶫を追いかけ続けた。絶対に今度は殺されやしないと思いながら。
しかし彼は、人間に転生していた。しかも自分が殺した相手のことを覚えてもいない。その事実にますます腹が立ったのも、瞳子が執拗に鶫を追いかけた理由のひとつだ。
「――と、ちょっと。ねえ」
雪代さん、という呼び声に瞳子ははっとした。
随分と長い間物思いに耽ってしまっていたらしい。彼女が意識を周りに戻せば、その場にいた全員の視線がこちらに向いていたことに気づく。宏基と透は不審そうに、鶫はおどおどとしながらも心配そうに――という違いはあったが。
「聞いてた?」
少し面白くなさそうな様子で透が尋ねてくる。
「……いいえ。すみません」
自分の思考に潜り込むあまり、周りに目を向けていなかった。これは彼女の側の全面的な非。瞳子は苦く思いながら頭を下げた。
それを見て、彼は小さくため息をつく。宏基も頬杖をついて不快そうに目を細めており、あまり好意的ではないことは一目瞭然だ。
「あ、雨宮くんも、宏基兄も……そんな怒らないであげて……もしかすると具合が悪かったのかもしれないでしょ……?」
どうやら味方になってくれるのは、そうして助け船を出してくれようとする鶫だけのようだった。
敵に助けられている。これでは巫女失格だ、と瞳子は唇を噛み、透をまっすぐに見る。
「もう一度お願いします」
透はそんな彼女の様子と、不安そうに眉根を寄せている鶫を見比べて、また小さくため息をついた。
「……アンタはいつから前世の記憶があったの、って訊いたんだよ。真田先輩のことを『寒露』だって分かったんでしょ? 月読ってことを否定もしなかったみたいだし」
面倒臭そうながら、鶫に免じて繰り返してくれたようだった。
「朝比奈はついさっき取り戻したみたいだし、いつからあったのかなって。真田先輩もオレも、物心ついた頃にはあったから」
そして三人の方も、今まさに瞳子が考えていたのと同じことを話していたらしい。それが分かり、はっきりと答える。
「貴方たちと同じように、物心がついた頃にはありました」
宏基の前世は寒露、透の前世は玻璃。宏基は先日のやり合いで元々知ってはいたが、先ほどの鶫の発言で分かったことだ。
月読の記憶にもその名前はあった。寒露は蛟――毒気を使う、蛇に四つ足が生えたような姿をした妖怪――で、玻璃は九尾の狐。
どちらも久遠の腹心の部下とも言える妖怪だったはず。
特に、寒露の忠義は揺るぎなく、刃向かう者は誰一人久遠に近づけなかったらしい。
久遠は、通常同族以外と群れることを好まないはずの妖怪たちを多数従え、『団』を作っていたという。妖怪の心の掌握に長けていたのだ。
『団』が妖怪退治を生業とする巫女や法師にとっては途轍もない脅威だったからこそ、その頭たる久遠を倒そうとしていた。そうすれば『団』は消滅するだろうから。
というのは、瞳子が月読の記憶から鑑みて出した結論だったのだが。それに僅かばかり、迷いが生まれていた。
原因はこの家にやってくる前の鶫の発言。
――久遠と月読は、『妖怪と人間の共生できる世界を共に創ろう』って、約束したんじゃないか。
大きな法力と妖気のぶつかり合いを感じて、瞳子はあの児童公園に駆け付けた。その時にはもう宏基と透が総てを倒し終わるところだったが、二人が戦っていた相手は明らかに法師の式神だった。
つまり、自分のように久遠の生まれ変わりに気づいている『法師』がいるということ。宏基と透も法師の仕業だと悟っていたから、「同族の躾をしっかりしておけ」と言ったのだろう。
そしてその戦いをきっかけに、鶫は『久遠』だった頃の記憶を取り戻したらしいけれども、その直後で記憶が錯乱しているのかもしれない、と瞳子は思おうとした。だがその考えに待ったをかけるのも、間違いなく彼女自身なのだ。
彼の表情があまりにも悲しげだったから。
――忘れて、しまったの?
呟く表情が忘れられないぐらいには。
加えて、つい先日に口論した時の宏基の言葉。
――月読は。少なくとも俺たちが知ってる限り、俺たちに悪意を向けるだけじゃなかった。
極めつけは鶫に運ばれるきっかけとなったあの頭痛だ。まるで「思い出したくない」と自分の体が拒むかのような……。
もしかして、私の記憶は封印されてしまっている?
愕然として、瞳子は三人を見た。そんなことがあるのか、と。
「ふうん……じゃあ、朝比奈だけなんだね。刺激で思い出したのは」
「俺だって全部が全部初めからあったわけじゃねーよ。こいつと関わるうちに思い出した記憶もあった」
「へえ。まあ確かにオレもかもしれない」
「そうなの?」
「お前が産まれてから記憶がより鮮明になったのは事実だな」
「オレの場合は真田先輩だけどね。そういう朝比奈だってきっかけはあるでしょ?」
「あ、うん……ええと、雪代さんに会ってから――」
その三人も、未だ記憶について話している。
ちょうど話題の途切れた時に出ていた名前が彼女のものだったからか、またも全員が瞳子を見ていた。
訊くなら今かも知れない――瞳子は思って、今度は三対の目をじっと見る。
「貴方たちにお聞きしたいことがあります」
宏基や透がなぜ妖怪としての力を使えるのかも気になる。
先日、宏基は間違いなく言ったのだから。
――今の俺は人間だ。攻撃して罰則食らうのはそっちじゃねえの?
二人を見れば、確かに今は人間だ。だが、微かに妖気を感じる。そのことについてを詳しく問いたださなければならない。とりあえず今は、鶫のことは後回しだ。
「真田さん。どうして『今は人間』だと語った貴方が、蛟の力を使えるのですか。それに、戦闘中はあの時は妖気を確かに感じられたのに、今はほとんど感じられないのも気になります」
『人間』であるはずなのに、どうして妖気を感じるのか。彼女は不思議で仕方がなかった。
「前回ははぐらかされてしまいましたが、今回ばかりは話してもらわなくてはなりません。……もちろん、雨宮さんも」
瞳子の台詞に、二人は無言で視線を交わし合っている。鶫も彼らをじっと見つめていて、しばらく誰も何も言おうとしない時間が流れた。
「……真田先輩から言えば。そもそもオレに教えてくれたのだって先輩なんだし」
やがて、静けさを割ったのは透。
「めんどくせえな……」
「でもこれからずっと追いかけ回されるより、今白状してほっといてもらう方がずっと楽なんじゃない?」
頬杖をついてお茶を飲みながら、透はのんびりと言う。
「だってこの人、朝比奈のことも随分と追いかけ回したんでしょ? 月読の時よりずっと執念深くなってる気がするよ」
随分な言い様だが、瞳子自身否定はできないことだった。分からなければ延々と追いかけるだろう。それこそ、どちらかがきちんと説明してくれるまでは。
宏基もそれを容易に想像できたのか、軽く舌打ちして瞳子を見る。
「……俺だって詳しい原理を分かってるわけじゃねえ。それを前提で聞けよ」
不機嫌そうな様相である。元々そのような顔立ちなのだろうと瞳子も分かってはいたが、拍車がかかっているのは否めなかった。
「はい」
彼女が頷いたのを確認し、宏基は腕組みしてから静かに語り始めた。
「俺がこの力を発現したのは、五歳の頃だ。きっかけは、こいつ諸共、雑魚妖怪に囲まれたこと。こいつは気絶してた上にチビだったから、何も覚えてねぇだろうけどな」
こいつ、と言われた鶫は確かによく分からなそうな顔をしている。
鶫をちらりと見てから、瞳子は宏基に続きを促すように頷いてみせた。
「囲まれて、このままじゃ食われるって危機感を覚えてた。多分それは、『寒露』が俺に対して危険を知らせでもしてたんだろ」
宏基は淡々とした口調で話していく。瞳子は聞き逃すことのないよう、じっと耳を澄ませた。
「どうにかこの場を切り抜けることを考えてて――でもすぐ、鶫に雑魚妖怪が一気に襲いかかってきた。夢中になってその雑魚妖怪たちに突っ込んでったら、突然目の前でそいつらが消し飛んでた」
まるで何かの毒に溶かされたかのように。恐らく先ほどの式神たちの末路と同じだったのだろう。
「前世と同じ力が使えるようになってる、ってその時に気づいた。何で、とか理屈は知らねえ」
その時のことが眼裏に浮かんでいるのだろうか。宏基は己の右手をじっと見つめている。
「だけど俺の魂は寒露と同じだ。世の中に妖怪から人間に生まれ変わってる奴がどれほどいるか知らねえが、そいつらと俺の違いといえば、記憶があるってことだ」
瞳子はその言葉に己も思い当たる節があることを感じる。
明治時代、瞳子の生家である雪代家は妖怪退治の生業を禁じられた。しかし、その後も密やかに巫女を育成し、生き残っていた妖怪たちをこっそりと退治し続けていた。それ故に現代まで確かに霊力を保持しているのであるけれども、年月を経て、もうだいぶ薄弱なものになってしまっているはずなのだ。
瞳子の母も巫女であり、霊力を持っている。結婚し子を産むことで弱まったようだが、元々それほど強い力でもなかったのだ。
また、瞳子には妹が一人いて、彼女も霊力を宿してはいる。が、酷く弱いものであり、結界を張るのも術式を組み道具を揃え、としなければならないほどだ。そしてそれは、力を減らす前の母も同じだった。
祖父母の世代、曾祖父母の世代、それより更に遡っても、瞳子ほど強い力を持った者は見つからない。
瞳子は結界をそれこそ寝ていても張り続けることができる。そして雑魚妖怪相手の戦闘には一度たりとも苦労したことがないし、敗北もない。月読の戦闘の記憶にも助けられて、幼い頃から霊力の扱いで困ったことは皆無なのだ。
その前提があったから、瞳子が月読の生まれ変わりだと知った時に家族はみな納得したのである。この子がこんなにも強い力を持つのは、過去でも最強と謳われるほどの実力を持った人の生まれ変わりであるからなのだ、と。
つまり自分が月読の生まれ変わりでなければ、たとえ霊力を持っていたとしてもこれほど強い力でなかったはずなのだ。それと同じことなら、宏基や透が力を使えるのも理解できないことではない。
「そして、もしかすると前世にやり残したことがあって、今の俺に何かを託したんだとしたら。そしてそれを果たすためにこの力が必要だったんなら――」
宏基は相変わらず淡々と語る。
「自分の前世に『久遠』って主がいることと、その生まれ変わりが鶫であることも分かってた。前世の俺が、前世のこいつを護ろうとしていたってことも」
志半ばで死んだ前世が、生まれ変わる自分に総てを託した。彼はそう解釈したということだ。
「鶫が何も覚えてないならそれでいいと思った。思い出さないなら、それで。前世の記憶なんてないのが通常だ。だから思い出すことがないように、前世と結びつきの強いあらゆる場所、人から遠ざけた」
「それで私が近づくのも何とかして阻止しようとしたのですね?」
「そうだ」
だからこそ宏基は瞳子に警告したのだ。これ以上近づくな、と。鶫の平穏を守りたいがために。
何と自己犠牲的な、と瞳子は思う。
彼のためには自分がいくら苦しんでも傷ついてもいいというのか。訊いたところで答えてくれないだろうことも、瞳子は分かっていたが。
鶫は驚きと不甲斐なさが半々で混じり合ったような複雑な表情をしている。無理もないだろう。
「前世と、記憶と、その前世が託した想いが原因だと貴方は思っていらっしゃるのですね?」
瞳子のまっすぐな視線に、宏基はただ無言で強い瞳を返すだけだった。彼女にとってはそれで充分だと分かっていたからかもしれない。
「雨宮さんは……」
「中学は別だけど、真田先輩とは部活が一緒だったんだ。だから交流があって。お互い寒露と玻璃だってこともすぐに分かって。久遠さまの生まれ変わりがいるってことも、その人が何にも覚えてないことも聞いてた」
水を向けられると、頬杖をついたまま、やはり宏基と同じように淡々と透は語る。
もしかすると、二人ともそういう調子でなければ話せないのかもしれない、と瞳子は心中でひとりごちた。主と決めていた相手が何も覚えていなかった、という事実を受け入れようとしていた頃についてを話すなど、彼らでなくとも辛いということは容易に分かったのだ。
「その頃のオレは、前世の記憶はあっても、力は一度も使ったことはなかったんだ。でも、オレの意見も真田先輩のものと同じだったから……陰からでいい、久遠さまを護りたい――そう思ったら、覚醒した。突然」
彼の前世は、その美しさで人間をかどわかすと言われていた九尾の狐。幻術や狐火を使うことが特徴だが、その力を使えるようになったのだという。
「そうですか……」
つまり覚悟が必要だということなのか。前世から何らかの思いを託され、なおかつ記憶を保持し――戦う覚悟を持つこと。それが彼らの覚醒の条件になっているのかもしれない。瞳子はそう結論を出した。
「その力は、普段はきちんと制御できるんですね?」
「最初の頃は扱い方知らなかったから上手くできなかったこともあったけど、暴走することはまずねえな」
「前世を十割とするなら、さっき程度の戦闘とかなら五割とかの妖力使う程度で済むし」
二人の答えを聞き、彼女は頷いた。
「……それならまあ、とりあえずは監視だけにしましょう」
瞳子の言葉に、宏基は皮肉っぽく笑う。
「そりゃどーも」
透としても特に反論はないようだ。それを確認し、瞳子は鶫に向き直る。
「朝比奈さん」
「あ、はい……何でしょう……?」
いつもフルネームで呼び捨てにしかしてこなかったからだろう。敬称を付けられ、鶫は少し戸惑っているようだった。証拠として、同級生だというのに反射的に敬語になっている。瞳子のようにそれが常の口調というわけでもないのに。
瞳子は思わず笑ってしまった。
「え、えぇっ?」
彼がますます戸惑っている。
瞳子が今の今までとても真面目な空気を纏っていたのに、突然笑い始めたのだ。鶫でなくとも戸惑うだろう。宏基と透も怪訝そうにしている。
「いえ……はい。いや、今までの自分の言動のせいだというのは分かっていますけれど、怯えようが面白くて」
長い前髪の隙間から覗く鶫の目が、何度もしばたたかれている。
「同い年なのだから、そんなに構えないでください」
少しだけ微笑んでみせると、鶫は何やら固まってしまった。赤くなっているのを見て、恥ずかしくなってしまったのか、と解釈する。
「――朝比奈さん、貴方は先ほどおっしゃいましたね。『久遠と月読は妖怪と人間の共生できる世界を共に創ろうと約束した』と」
仕切り直して尋ねると、鶫は相変わらず目線を泳がせながらも頷いた。
「うん……」
それを確認してから、今度は宏基に目を向ける。
「貴方も先日おっしゃいました。『少なくとも知っている限り、月読は妖怪に悪意を向けるだけではなかった』と」
鶫は「そんなこと言ったの?」といった感じで宏基を見た。当の本人はそんな彼を黙殺し、不機嫌そうな顔つきで小さく頷く。
透はとりあえず傍観に徹しているようだ。
「それは、どういう意味なのでしょうか。教えていただきたいのです。今まで散々貴方たちに敵意を向けておいて、と思われるでしょうが、どうやら私の記憶には欠損があるようなので」
瞳子は静かに頭を下げた。
こんなことで傷つくほど安っぽいプライドは持っていない。今、頭を下げなければ、彼らの納得は得られないだろうと思った。人のよさそうな鶫はまだしも、特に宏基の。
「ぼくもどこまで合ってるのか自信は……」
それでもいいなら、と鶫は不安そうに瞳子を見ている。
「もちろんです」
彼はほっとしたようにちょっと頬を緩め、宏基を見る。自分はいいが、宏基はどうだろうか。そのような感じの目である。
「お前の好きにしろ」
「宏基兄もしゃべるんだよ?」
「だから好きにしろ」
言葉自体はぶっきら棒だが、口調は優しい。瞳子はその態度に、彼がどれだけ鶫を大切にしているのかを改めて知ったような気がする。
――今度こそ護ると誓ったから。
強い瞳で言い切った彼。鶫を無闇に傷つけるような行動をしていた瞳子を許せなかったのも道理かもしれない。
瞳子は少し微笑ましい思いで二人のやり取りを眺めた。
「えっと……雪代さん、は、月読で……久遠と会った時、すでに一人で普通の巫女の百人分ぐらい強かった、んだよね……?」
宏基の言葉にほっとしたようにしてから、鶫はぽつぽつと話し始める。
「……はい。そうだったようですね」
そもそも『月読』という名は、その時代時代で最強の霊力や戦闘力を持つ巫女に与えられるもの。月読の記憶に頼らずとも、神社に残る記録を見れば簡単に分かる事実だった。
いつごろからその制度が始まったのかは定かでない。けれども、『月読』は巫女の模範的な存在とされ、総ての巫女にとって憧れの対象でもあったらしい。
しかし江戸時代という太平の世で徐々に妖怪が減少し、その制度も形骸化した。そもそも、霊力を保持する人間が減っていったことも大きい。全体の数が減っていたところに、決定打となった出来事が起きる。
明治維新だ。
神道国教化政策で、協力関係にあった法師が一時期生きにくい世の中になったなど、様々な要因はある。
しかし一番と言えるものは、迷信などの古いもの否定。
妖怪の存在自体が否定されてしまっては、それを退治するなどという理由で巫女が存在することを許されるはずもない。故に、その時期を最後に『月読』の制度は立ち消えたという。
その数十人いる『月読』の中でも、瞳子の前世である月読は相当に強い巫女だったらしい。
「産まれて間もなく社に預けられて、その潜在的な能力の高さから、すぐに『月読』の称号が与えられたようです。だから私は――月読は、真名を知らないぐらいです」
笑んで見せれば、「そっか……」と鶫は少し目を伏せ、気を取り直したように顔を上げる。
「それだけ強かったから、責任感も強くて。最初は確かに月読も久遠のことを敵視してた」
口にはしないが、あの記憶の欠片は出会いのものなのかもしれない、と瞳子は思った。最初はよい感情を持っていなかったのなら、久遠に対してマイナス面の印象を強く押し付けていても何ら不思議はない。人間の記憶というのは、勝手なものだから。
「戦ったこともあるよ。そうして何度もぶつかるうちに、おれたちは少しずつ、少しずつ――分かり合っていった」
鶫の一人称が変化する。完全に『久遠』の記憶に入り込んでいるようだ。
「おれは元々、理想があったんだ。父から受け継いだものでもある。元々人間が好きで、仲良くしたかった。でも妖怪は当たり前だけど、人間に憎まれてた。だから思ったんだ、」
そこで彼が瞳子を見つめたのは、前世も今世も人間であるからだろうか。何が飛び出してくるのかと瞳子は固唾を呑む。
「人間と共生できる世の中を作ろうって」
小さく。だけどはっきりと。鶫は告げた。
「月読もその考えに賛同してくれたんだ。そして約束した。おれたちで絶対に実現させよう、って」
彼の目に嘘はない、と瞳子には分かった。宏基も透も何も言おうとしないところからして、彼らにとってそれは真実。
だが、俄には信じられなかった。巫女であったのに、妖怪と協力しようとしていたなど。
鶫がちらりと宏基を見る。次はそちらの番だ、という感じだった。
「……久遠サマは。その理想を叶えるために『団』を創った」
宏基がそれに応える形でまた淡々と話し始める。
「お前ら巫女や法師が言ってたように、人間の世の中を滅ぼそうとしてじゃない。弱い妖怪たちを守って、そして同時にその縄張りの中で悪さをする妖怪たちを統制するために、だ」
そしてお前自身、と瞳子を半ば睨みつけるような様子で宏基は言葉を紡いでいく。
「それを分かってたはずだ。何度も久遠サマに連れられて団の本部にも来てた」
二人の言葉に、瞳子の心は酷く揺れていた。
「殺した相手である瞳子を覚えていないこと」。それに腹が立ったはずなのに、これでは何も覚えていないのは彼女の方だったかのようだ。
「じゃあ……うちの神社に伝わる、私――月読を殺したのは久遠だ、という言い伝えはどうなるのですか?」
彼女は声が震えそうになるのを懸命に抑え込んだ。その言い伝えは瞳子が勝手に思い込んでいたものではない。自宅の敷地内にある蔵から出てきた文献に記してあったもの。これはどう説明するのだ。
だが言い切るか言い切らないかのうち、
「おれはそんなことしてない!!」
と鶫が今までにないほど声を張り上げた。
「できるわけない……だって、おれは……久遠はッ――」
感情的な声で、表情で、目で、彼は強く怒鳴る。
これまた初めて見る姿に瞳子は驚いた。しかし、彼の方も途中ではっとしたのか、言葉は中途半端に途切れた。そのままいつの間にか持ち上がっていた腰を下ろす。
重い沈黙が舞い降りた。
「……すみません。今日はこれで解散にさせてもらってもよろしいですか? ゆっくり、一人で考えてみたいのです」
そう吐き出すのが、瞳子は精一杯だった。