幻の正体を掴む少年
顔もなく肌の色が真っ黒な、明らかに『ヒト』ではない、しかし人の形をした何か。数体のそれに囲まれ、手にしている錫杖が振り下ろされる。
――殺される!!
軌跡を目で追っていた鶫は混乱する頭の中でもそう察し、目を閉じる。もう避けるのには間に合わない。彼はやってくる痛みを覚悟した。
しかし、いつまで経っても鶫を痛みが襲うことはなかった。
「ほんっと、余計なことしやがって……」
恐る恐る目を開けるのとほぼ同時、聞き慣れた声が響く。
「宏基、兄……」
鶫の前に守るように立ちはだかり、錫杖を受け止めるその後ろ姿は。間違いようもない。黒い髪に、高い背。鶫がずっと憧れて追いかけてきた幼なじみの、宏基だった。
だが、常の彼とは違う部分があった。
「その手……」
錫杖を受け止めている彼の手は、肉が焼けているような嫌な臭いを放っている。
何よりも異常なのは、そこが鱗に覆われていること。
背中を向けたままの宏基は何も言おうとはせず、何か『気』のようなものを手から放つ。すると、錫杖は一気に溶け落ちた。溶けたその液体が地面に零れ、黒い染みを作っていく。
彼の左手は、臭いからの予測通り、火傷を負っているようだ。しかし、軽く振った途端にその傷は跡形もなく消えてしまう。
鶫は驚いて目を見張った。
「……そこから動くんじゃねーぞ」
そんな彼を一瞥した宏基の瞳は、いつものように群青色。しかしその瞳孔は――明らかに常の彼のものではなく、爬虫類のような鋭さを湛えていた。
むしろその目と同じなのは、頭の中に流れる映像の、やはり群青色の瞳の色をした人。
呆けている鶫を放置して、宏基は異形のモノに向かっていく。
数体だったはずの敵は、彼の登場に呼応したかのようにいつの間にか三十体ほどに数を増やしていた。宏基はそんな敵を見ながら、鶫に向かって『気』を飛ばしてくる。
鶫が驚く暇もなく、彼をあたたかな膜のようなものが包み込んだ。先ほど錫杖を溶かした『気』とは明らかに質が違うようだった。これはぼくを守ろうとしている――漠然とではありながら鶫は思う。
宏基はまるで「これで心置きなく戦える」とでも言うような感じで敵との距離を詰め、両手を広げる。鶫が瞬きを一度した後には、その手と手の間にいかにも毒々しい色をした『気』が出現した。
彼が左手を振り上げてそれを飛ばすと、敵はどろどろと跡形もなく溶けて消え、なくなっていく。
逆の手の周辺では『気』がみるみる収縮していって、棒のようなものが現れた。どうやら硬度があるようで、黒い僧侶のようなモノたちの振り下ろす錫杖を受け止め、いなしていく。
宏基の動きには無理をしている様子はない。相手を歯牙にもかけないような戦い方だ。しかし、相対している敵は決して鶫の方には行かせない、という気迫をも感じさせる。
「宏基兄!!」
呆けたように見守っていた鶫ははっとして叫んだ。
宏基が前方にいた三体からの攻撃を加えられているうちに、敵の一体に背後から思い切り頭を殴打されたからだ。どうやら前の敵は囮だったらしい。
どろり、宏基の頭から赤黒い液体が流れ、頬を伝っていく。ぐらりと彼の体が揺れたのに鶫は息を呑んだ。
「痛ってえな、このクソが……」
だが彼は低い声で呟き、すぐに踏ん張り直す。そのまま殴ってきた相手を回し蹴りで沈めて踏みつけた。
どうやら足からも『気』を出すことができるようで、踏まれた敵は一瞬で溶け落ちた。そのまま、元々前方にいた相手の錫杖の攻撃を、持っていた棒で受け止める。
今しがた受けたばかりの頭の傷は、先ほどの火傷のように、人間では考えられないようなスピードで癒えていく。宏基が血を拭うと、もう流れてくることはなかった。つまり完全に塞がっているのだろう。
鶫はその戦いぶりを、口をあんぐりと開いて見つめた。
膜越しでも分かる宏基が作り出す『気』の発する臭いが、驚くような治癒のスピードが、鋭い瞳孔が――一番は、彼の右頬に浮かんでいる鱗が、鶫の中の『何か』を刺激する。
――『 』、おれの仲間になってくれ。痛みを知ってる奴が必要なんだよ。
鋭い痛みに鶫は頭を押さえた。
この声は、久遠さん? と目を瞬かせる。
痛みに引きずられるようにして脳裏に浮かんでくるひとつの映像。
途方に暮れたような、絶望に染まったような群青色の瞳。満身創痍、という言葉が当てはまる、ぼろぼろに傷ついた体。俯いたままのせいでよく見えない顔。
その人物は、久遠ではない。だが彼と同じように着物を身に纏っている。そして相対している場所は――まるで時代劇で見られるような、合戦の跡地だった。
――寒露。大丈夫。おれと一緒に、夢物語にしか過ぎなかった世界、本物にしようぜ。創ろうよ、そんな世界。
そんな『久遠の』声と同時に、『鶫自身が』手を伸ばす。
どういうこと? と思う間もなく、再生は進む。
――でも俺は。
俯いたままの主が呟いてかぶりを振り、鶫を、いや、鶫がその目を借りている『誰か』を見上げてくる。
『彼』の顔は、宏基と瓜二つだった。
鶫は何も言葉が出てくることはなく、またも呆然とする。
ゆっくりと目線を宏基の戦う様子に戻す。
――俺は貴方についていく資格はない。
――おれが聞きたいのは、できない理由じゃねーよ?
鶫は久遠が紡ぐその言葉の先を知っていた。
「『やるか、やらないか、それだけ』――」
呟きが引き金だった。
怒涛のように映像が鶫の頭の中で再生されては消えていく。それは、今まで思っていたように『流れ込んでくる』のではなかった。
『溢れ出してくる』のだ。
「元々、ぼくの中に、『在った』んだ……」
再生、明滅、また再生、そして消滅。それを繰り返すのは、『彼』にとって大切で大切で仕方がなかったもの。
「……ったく次から次に湧いてきやがって……! うっぜえんだよ!!」
怒鳴りながら錫杖を受け止め、『気』を纏った右手で目の前にいた敵の腹部を貫く。
そんな宏基を見ながら、鶫はひとりごちた。
「…………ろ……かん、ろ――『寒露』……」
小さな声だったのにも関わらず、届いたらしい。長い付き合いの鶫でも見たことがないほどの驚き顔で宏基が勢いよく振り返った。
交わる二人の視線。
鶫が小さく笑みを浮かべてみせると、宏基はますます目を剥いて、「信じられない」という表情を見せる。
だが戦闘中であったことを思い出したのか、錫杖の突きをギリギリのところで半身になって避けた。
鶫はそれには彼がそうするのは当然だと言わんばかりで反応せず、夢遊病者や熱に浮かされた人のようにまた言葉を紡ぐ。
「久遠さん――いや、久遠。貴方は……ぼくの、……おれの」
小さく零したところで、視界の端を宏基でも異形のモノでもない人影が横切った。
「真田先輩!!」
金の髪。柔らかいテノールの声。夕暮れ色に照らされた、抜けるように白い肌。
それは透だった。
しかし、一度鶫が会った時の彼とは違う点がいくつかある。
薄茶色だったはずの瞳が金色へと変わっていること。瞳孔が獣のように鋭いこと。耳が人間のそれではなく、頭に生えていること。九つの尾があること。
その耳も尾も、美しい金色だった。
透は登場と同時、宏基と背中合わせになる。一人で半数を倒し尽くしていた宏基は少しだけ息が荒い。
「何、息上がってるけど。まさかもうへばっちゃったわけ?」
「んなわけあるかボケ。こんな雑魚ども相手に。まだまだ余裕だ。つーか来るの遅ぇんだよ、このクソ狐」
息の荒さ以外、確かに宏基にもその言葉通りまだまだ余裕はありそうだった。
「先輩の妖気が余裕そうだったからいいかって。じゃ、さっさとやっつけちゃおうよ」
楽しげに、そして妖艶に笑う透を鶫はじっと見つめる。
――ぼくは彼を知ってる。いや、『彼女』を、知ってる。
思った途端、彼の頭の中でまたも映像がはっきりと再生された。
――久遠さま? あたしは貴方に惚れたから此処にいるんですよぉ? 貴方がいなくなったら、あたしがここにいる意味はなくなっちゃうんですからぁ。だから、生きてくださいね。
そう言いながら美しい顔で『鶫』を見上げてくる艶めかしい肢体をした女。九つの尾を揺らし、長い金の髪を靡かせている。
映像はすぐに切り替わり、今度は深い森の中に場面が移った。倒木に並んで腰かけているようだった。
――おれと一緒に目指してみないか? 妖怪と人間が共生できる世界。
と、自分の視点が動き、真正面から彼女を見下ろしている形になる。
そして、頬に鱗を持つ青年にしたように、その記憶の中で『鶫』は手を差し伸べた。
――……ついていかせてください。久遠さま。
そうだ、彼は、いや『彼女』は――心中で独白し、鶫は透を見つめ続けた。
彼は変わらず宏基と背中合わせになっている。両手を広げ、手のひらを上向かせた瞬間、そこには炎が燃え盛った。ゆらゆらと揺らめき、透を明るく照らす。
「こいつら式神? じゃあよく燃えるね!」
相変わらずの楽しそうな微笑みを浮かべたまま、腕を『式神』と称したモノに向かって振る。すると手のひらから炎は離れ、敵は一瞬で燃え尽きた。
鶫はそんなふうに戦う人をよく知っていた。
「……『玻璃』」
呼んだ瞬間、先ほどの宏基と同じく透が勢いよくこちらを振り返る。
「な、……」
何で? とでも言いたそうな顔。鶫はただ微笑みを返すことしかできなかった。
「狐、集中しろ!」
透の明らかな隙を突こうとした相手を宏基が思いきり殴り倒し、溶かしてしまう。その時には透も我に返っており、宏基に向かう敵に対して仕返しのように踵落としをお見舞いした。
しかし、鶫は二人の戦いぶりを目に映しながらも見えていないかのようである。
「でも、足りないんだ。一人……」
いつも映像の中で『鶫』に優しく呼びかけてくるあの人が。
――違う。ぼくにじゃない。あの人が呼びかけているのはいつも。だけど。
彼は思いながらようやくふらふらと立ち上がる。
「何事なのですか貴方たち……!」
と、それとほぼ時を同じくして、目を剥きながら、そして『あるもの』を持ちながら、一人の少女が公園に飛び込んできた。
纏っているのは見慣れた制服ではない。緋色の袴に、小袖姿。きっと普通の人ならば異様に映るその格好。だが、むしろ今の鶫には、彼女にとってはその格好こそが最も正しいと思えた。
――私、桜は散り際が一番好きです。
――久遠さん。久遠さん、大丈夫です。大丈夫ですよ。きっと、いえ、絶対に私たちの夢は実現させられます。
こうして響く柔らかい声の主には。
「てめえの、お仲間が! 人間襲ってんだろうが! 見りゃ分かんだろ!!」
「アンタの、お仲間が! 人間襲ってるんでしょ! 見れば分かるだろ!!」
宏基と透が同じような罵倒を同時に吐く。
そして最後に残っていた敵に、宏基は『気』を、透は炎を、それぞれ放って消滅させる。
「同族の躾ぐらいしっかりしとけやボケ!」
「同族の躾ぐらいしっかりしといてよね!」
荒い息で睨みつけるタイミングまで、ほぼ同時。宏基は右手、透は左手の人差し指で瞳子を指しながら。もちろん背中合わせのままだった。
二人に明らかな敵意を向けられ、長い黒髪をした少女は頬を引きつらせる。
「いい度胸をしていますね……」
その手には、鏡。少女たちが化粧のために使うような手鏡ではなく、神事に使うような装飾の、だ。
鶫も彼女に向けられたものであり、それの意味が分からなかった少し前までの自分を、彼は酷く懐かしく感じていた。
そう。現れた少女は、瞳子だった。
「――『月読』……」
呟くと、彼女は驚いたように鶫を見る。
それで改めて鶫の異変を思い出したのか、宏基と透もまじまじと鶫を見つめてきた。
刀の使い手が血振りするようにして宏基が軽く手を振ると、鶫の周りに張られていた『気』の膜が消える。
鶫にはもう、その『気』の正しい呼び名も分かっていた。
「お前……もしかして……」
信じたくないような、悲しむような。しかし同時にどこか嬉しいような。宏基は複雑な表情を浮かべながら近づいてくる。透も何とも言い難い顔をしていて、瞳子だけが厳しいとすぐに分かる顔つきでじっと鶫を睨みつけていた。
宏基が身を挺してまで隠そうとしていたもの。ずっとずっと、触れなくてもいいように遠ざけようとしていたもの。
鶫はもう、その正体を掴んでしまっていた。
「――思い、出したよ。ぼくが誰なのか。皆が誰なのか」
宏基の疑問に答える言葉を、鶫は唇に乗せる。
「ぼくは……おれは、久遠だ。そうでしょ宏基兄――いや、寒露」
にこりと笑うと、宏基は腕をだらりとさせ、僅かに俯く。
他の誰にも分からなくとも、鶫には分かった。彼が悔しがっていると。
が、瞬きひとつの後には鶫の視界から彼が消えてしまう。驚いて目をやや下に向けると、宏基は跪いていた。
「……お帰りなさい。『久遠サマ』」
少しの間瞬きを繰り返したが、鶫は微笑む。
「……うん。ただいま、『寒露』」
そして複雑な顔のままの透にもその微笑みを向ける。
「玻璃……って言っていいのか微妙だけど。ただいま、『玻璃』」
途端、透の顔はくしゃりと歪んだ。それを隠すかのように俯いてしまう。
「ずーっと、待ってたんですからね……」
「うん。……ごめんね」
そんな彼の肩を優しく叩いてから、瞳子を見る。
「記憶が開花したと?」
「そう、みたいだね……久しぶり、『月読』」
鶫の中にいる人が、声が枯れんばかりに叫んでいる。ずっとずっと。
――月読。月読、つくよみ……!!
「ならば私は、貴方を退治せねばなりません」
こんなふうに、戸惑いと憎悪を向けられてもなお。
「それは無理だ。だって――君は忘れてしまったの?」
一歩距離を詰めながら、瞳子の目をじっと見つめる。人見知りで相手の目を見ながら話すことが苦手である普段の鶫からすれば、ありえないことだった。
瞳子も今までの交わりでそれを知っているからか、微かに目を見張る。
「久遠と君――月読は、『妖怪と人間の共生できる世界を共に創ろう』って、約束したんじゃないか」
迷いなく。通常のような弱々しさもなく。鶫はきっぱりと言い切った。
「な……」
今度こそ瞳子は大きく目を見張る。そんなことは知らない、と言うかのように。
「忘れて、しまったの?」
呟く鶫の声は、悲しげだった。
彼はもう、知ったからからだった。自分が何であったのか。どうして夢の中にあの青年は現れたのか。そして言葉の真意も。
おれが誰で、お前が何なのか。宏基が、瞳子が――寒露が、月読が、お前にとってどんな存在なのか。知ってからどうするか。それを選ぶのは、お前だよ。鶫。
そうだ、選び取るのはいつだって自分なんだ――青年の言葉を思い出しながら、鶫は心の中で小さく零す。
だが、瞳子は鶫のそんな声に混乱を招かれたらしい。
「知りません……! そんなの、知らない……、っつ!!」
叫んだ途端、彼女は痛みに耐えるように頭を押さえた。ちょうど、先ほどまで映像が頭の中から溢れ出していた時の鶫のように。
「月読!」
ぐらついた彼女の体を、反射的に鶫は受け止める。宏基と透も動いていたが、鶫の方が断然速かった。それを二人はどこか複雑な目で見ている。
「離してください……っ、貴方にこんなことされるなんて、」
鶫には頼りたくないと言うかのように弱々しくも抗おうとする瞳子を、鶫は抱え上げる。
「君にとって恥だってのは分かってる。でもぼくは、君を放っておけない」
たとえ、これが『自分』の感情じゃなくても。まっすぐに彼女を見つめて発せられる鶫の台詞に、瞳子は瞳を揺らした。そんな彼女に笑んで見せてから、鶫は歩き始める。
――ぼくは久遠の生まれ変わり。宏基兄は寒露の、雨宮くんは玻璃の、雪代さんは月読の……それぞれ生まれ変わりだったんだ。
一時に襲いかかった事実は、俄には受け止めがたい。しかし鶫の脳裏に浮かんでは消える映像――記憶たちが、何よりの証拠だった。




