引き寄せられる少年
差し込む日の光に
少しずつ視界が奪われていく
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舞い散る紅葉と同じ色をした液体が飛び散り、その視界の端で黒髪が揺れた。群青色の瞳が穏やかにこちらを見つめ、赤色の袴を纏った足の主が隣を歩く。柔らかそうな尾がふわふわとした感触をもたらして。
切り替わる場面の中でも、ずっと鶫を襲っていた感情は――胸が張り裂けそうなほどの深い愛おしさ。
鶫は、何かに引き寄せられるように、家を出て歩き始めていた。
どこに向かっているのか自分でも分からない。見慣れた街並みを進んでいるには違いないが、自分の意思では来ないような方向だ。そう、今の鶫は恐らく、何かの大きな意志に操られているような状態であった。
――久遠、サマ。お願いです、お願いだから、『 』を……
――あたしの命は出会った日から貴方に預けるって決めてましたよ?
耳の奥で鳴るのは、誰の声?
知っているはずなのに、知らないはずがないのに、思い出せない。鶫は鈍い痛みを伝えてくる頭を押さえ、髪を掴む。
――久遠さん。あの日も桜が舞っていましたね。私、桜は散り際が一番好きです。
どくん、という音が鶫の耳の傍で鳴り響いた。
心臓が誰かに握りつぶされたかのような感覚。着ていたシャツの胸をぎゅうっと掴み、鶫はその場にしゃがみこんだ。バス停の近くにいたため人通りもそれなりにあり、そんな彼を通行人が異様な目で見ている。
「雪代さんじゃないのに――でも、声は」
そのままで小さく呟く。
声は瞳子そのもので。だがどこかで、瞳子ではないと分かっている。答えが掴めそうなのに、掴めない。
苦しい、苦しい。何もそれ以外には湧いてこず、鶫は深呼吸を繰り返した。
「あの……具合が悪いんですか? 救急車呼びましょうか?」
通行人の一人が、鶫のそんな様子を心配したのか声をかけてくる。
「……あ。え、ええと、だ……大丈夫です……」
声は今にも死にそうなものだったけれど、何かに急きたてられて今すぐにでもここを動かなければならない気がして、鶫は足に力を込めて立ち上がった。
声をかけてくれた主は心配そうなまま。見ないふりをして、一礼してバス停に向かう。
路線の違ういくつかのバスをやり過ごし、とある一本に乗り込んだ。鶫の本能が、これに乗れ、と伝えてきている。
この時間にそちらに向かう人間は少ないのか、乗っている人間はまばらだった。
鶫は一番後ろに座り、だらりとシートに凭れる。いつもなら絶対にしないような座り方だったが、致し方なかった。
目的地は終点。それまで眠っていようと、鶫はそっと瞼を伏せる。途端に眼裏で再生される映像たち。しかしその正体を確かめようとすると逃げられてしまう。もどかしい思いに、彼は結局閉じていた目を開いて窓の外を見遣った。
鶫の住まいは市の中心部に近い。通っている高校は南の方にあり、今は北へと向かっている。全く正反対の方向であり、そちらには国立の自然公園があるぐらいで、特にあまり目立った施設もない。そのため、鶫はこちらに来るのはかなり久々だった。
何歳以来だろうか、と記憶を巡らせ、小学校の低学年が最後だと気づく。どうしてだろう、と考えて、すぐに理由は判明した。一度親に連れて行ってもらって、「国立の自然公園に行った」と幼い鶫が報告したら、宏基がいい顔をしなかったからだった。
あの時の宏基は、行ってはいけない理由として「あそこの道は危ないし、アスレチックもどん臭いお前には危ないから」と言った。
どん臭いのは事実であり、幼い鶫は納得してしまった。加えてアスレチックへの興味も徐々に薄れ、自然を見て回るような感動も鶫にはあまりなく、それきりになっていた。
が、今考えればおかしな話だ。
『国立公園』であり、道の整備はきちんとなされている。記憶を探ってみれば、どんな子供でも安全に遊べるように配慮されたアスレチックだった。つまり宏基には、鶫がそこに近づいてほしくない何らかの理由があったのである。だからこそ、そんなもっともらしい理由をつけた。
「宏基兄、何で……?」
周りの人には聞こえないよう、鶫は小さく呟いた。
彼はいったい、何を鶫に隠し続けていたというのか。
そこで思い出されるのは、透の姿だった。
――真田先輩が全部遠ざけてたはずなんだから。
鶫を何かから守るために?
と、バスのアナウンスが鶫の目的地の名前を告げる。
自然公園の近くにあるターミナルだ。梅祭りや桜祭り、紫陽花祭り、紅葉祭りなど、季節ごとに祭が行われていて、その折にはとても賑わう。しかし今は中途半端な時期であり、人影はまばらだ。
鶫は引き寄せられるまま、そんな国立自然公園の前を素通りする。彼の目的地は、そこではなかった。
一歩一歩向かっていくたびに、鈍かった頭痛は激しくなっていく。
だが、行かなくてはならない。
訳も分からない思いに支配されながら、鶫は歯を食い縛って歩き続けた。
やがて、住宅地に景色は移る。鶫はまだ歩き続ける。歩く。歩く。痛みに耐えて、ただただ歩く。
やがて、とうとうその時は来た。
鶫の足がようやく止まったのは、住宅地の中にある何の変哲もない児童公園の前だった。もう夕暮れ時であり子供は1人もいないが、その中にふらふらと彼は入っていく。すると、今まで感じていた痛みが嘘だったかのように、ふっと掻き消えた。
そして。
「――――あ、っ……」
言葉は出てこない。ただ、震えた。まるで地面から何かが伝わってきて、足を伝い、体の中心まで入り込んで、そこから震えを起こさせているかのようだった。
立っていられなくなって座り込む。それでも体を支えられず、地面に手を突いた。気持ち悪さが這い上がってきて、だが吐けなくてなおさら気持ちが悪い。
そして震えを起こさせている場所が、何かを伝えてくる。
憎らしい悲しい苦しい辛い駄目だもう手放してしまいたいもう楽になりたいこんなにも虚しいだけなら総てを手放して、でもおれはおれはおれは!!
自分であって自分でない声が、慟哭するように叫んでいる。
愛おしくて大好きで嬉しくてそのせいで何度も泣きたくなって無我夢中で築き上げて、だから手放したくない、全部全部手放しちゃいけないんだよ!!
意味を理解することはできないはずなのに、分かる気がする。鶫にしか分からないと。
これは『彼』の思いだった。張り裂けてしまいそうな、願いだ。
――久遠さん。久遠さん、大丈夫です。大丈夫ですよ。
優しい声が反響する。
『彼女』を愛おしく思うのは。誰よりも護りたいと願ったのは。手を取りたいと叫んでも、叶わなかったのは。
そうだ――これは自分じゃない。鶫はそう思いながら、傷になるのも構わず、地面を掴む真似をする。砂に傷つけられて指に小さな傷ができても、それでも何度も何度も。
「あ、アぁ、ああああっ!! ああああああぁああぁ!!」
襲い掛かってくる『彼』の思いに鶫はこらえきれず叫び、涙を流す。
「知らない。こんなの、知らない……」
こんな深い愛情、そして哀しさを、ぼくは。呟いて、立ち上がることのできないまま張って進む。
石碑の許にたどり着く。よく供養のために建てられているのと同じようなもの。そこに書かれていたのだろう言葉はもはや長い年月とともに削れてしまい、見えない。石の風化具合からして、作られてからだいぶ時間が経過しているのだろう。
鶫は手を伸ばし、そっと触れたことで反応が引き起こされたらしく、大粒の涙が再び溢れ出してしゃくり上げる。
「ここ、ここ、はっ……あの人は、『久遠』に、とって、何より、誰よりもっ……」
大事な場所だった。大切な人だった。
だけどどうしてぼくの頭に? 泣き崩れながら鶫の中に疑問がよぎった、その時。
鶫の後ろに『何か』が現れた。
反射的に振り返った鶫の涙は思わず止まる。
鶫を囲う『それ』らは人のような姿形をしているが、異様な点があった。
僧侶が着ているような袈裟姿に、錫杖。しかしそれだけならまだしも――顔や肌の部分が真っ黒だった。
鶫は大きく目を見開き、振り下ろされる錫杖を呆然と目で追った。




