たとえ認めなくても
どれぐらい走っただろうか。だがかなり時間は経っているはずだ。つい先ほどまでいた森は遥か後方に見える。
流石に力が尽き果てそうで、おれは目前に見えている森へと急いでいた。
「痛って……」
先ほど巫女の攻撃を食らった肩や腕が鋭い痛みを放っている。確認してはいないが、だいぶ爛れているようだ。
歯を食いしばりながら走って、森の中腹ほどまで辿り着いてからようやく止まる。
ちょうど小川を見つけ、おれは巫女の霊力によって負った傷を洗い流した。染みるのを我慢して土埃やらを払ったが、やはり治りが遅い。いつもならこれだけ時間が経てば完全に癒えているはずなのに、ようやく傷の外周が治ってきた程度だ。
立ち上がってため息をつき、爛れている傷口を見てもう一度ため息をつく。
「お腹空いた……」
緊張の糸が解けた途端、空腹を思い出す。
さて食料でも探すか、と辺りを見渡したところで、微かに殺気を感じて眉を顰める。
今日はよく物騒な気配を感じる日だ。今のおれは殺気に人一倍敏感になっているから余計かもしれないが。
「おれに対して向けられたものではない……よな」
近くには匂いも気配もしない。第一、おれに向けられたものだったらもっと早くに気づいているはずだ。集中して匂いを探ってみると、少し離れたところに人間と妖怪の匂いを感じ――そして、鋭い悲鳴が聞こえた。
「人間が襲われてるのか……?」
ひとりごち、足を進めようとするも、蘇ってきた記憶に思わずその動きが止まる。
――消え失せろ妖怪!
――てめえらのくだらない争いに俺たちを巻き込みやがって!!
助けた、と自分だけが満足し、拒絶された記憶。
唇を噛みしめて拳を握りしめる。
今回もまた拒絶されるのかもしれない。それを考えると怖い。怖くてたまらない。
だけど。
おれは顔を上げ、走り始めた。
匂いの方向にまっすぐ走り、襲われているヒトを探す。その姿はまだ見えない。だが、発せられている妖気で、どの妖怪が人間を襲っているのかは分かった。
蛟だ。
まったく、今日は蛟づいてもいる。しかも、片方はよい出会いだが、もう片方はあまりよくない出会いというのが喜べないところだ。
一際殺気が強くなってきたので前方に目を凝らすと、老父と幼子が腰を抜かしてへたり込んでいた。老父の方は背負子にいくつも薪をくくりつけている。恐らく祖父と孫の組み合わせだろう。
目の前にいる蛟は今にも襲いかかろうとしていた。
「やめろ!!」
蛟の前に立ち塞がり、睨みつける。
目の前の蛟は闖入者に気づいて、元々細い目をいかにも文句を言いたげにすっと細めた。が、どうやら人型を取ることのできるほどの妖力は持っていないようだ。
後ろにいる二人からは、驚いたように息を呑む音が聞こえた。
獲物の捕獲を邪魔された蛟は不快感を露わにし、口から瘴気のようなものを吐いている。おれには鼻が利かなくなるぐらいで大した害はないが、傷口に触れると多少厄介だ。それに、人間にとっては酷い害である。
「鼻と口を塞いで、おれが引きつけてる間に早く逃げて! 振り返らずに! 早く!」
二人に向かって言ってから、おれは地面を蹴って跳び上がる。
祖父と孫が慌てたように走り出していったのを確認し、蛟の視線がこちらに引きつけられたことも確かめながら、間髪入れず足から爪閃斬を放った。
この技を足から放つことは里ではおれと――父しかできなかったことを思い出し、胸が痛む。しかし戦いにそんな感情は邪魔でしかないことを思い出し、振り払った。
蛟はあまり動きが俊敏ではなく、斬撃を食らって呻き声を上げている。おれはそれに追撃するように爪に妖力を込めて伸ばし、今度は手から技を飛ばす。
父の教えが耳に蘇る。
――蛟は血にも毒があるぞ。本当に追い込まれた時でなければ、なるべく直接攻撃はするな。遠隔から技を飛ばせ。
動きを掴ませないように不規則に辺り一帯を動き回りながら、辛抱強く攻撃を続けた。その間も相手の蛟は口や手から毒気を放ち続けていたが、おれには掠りもせずに森の木や地面に落ちては溶けさせ、焼いていく。
それはいいのだが、毒気が滞留しているのがまずい。流石に頭もがんがんと痛み出していて、そのうち動けなくなるだろう。
もしかするとそれが狙いなのかもしれない――などと少し焦ったのがいけなかっただろうか。
「うわっ!!」
思わず叫びを上げる。蛟が毒気を纏った尾をおれの腕に巻きつけさせて捕まえてきたのだ。しかも悪いことに、そちらは巫女の攻撃を食らっていた方。力が入らず顔をしかめるが、そのまま力を込めて引き寄せられる。
抵抗虚しく、すぐに敵の許へと運ばれると、尾は腕から体に移動した。
強い力で締められる上、毒気のせいで着物が溶けて皮膚が焼けていく。傷口から毒が侵入したらしく、腕がびくびくと脈打って痛みが倍増していた。新たに負った傷にも激痛が走る。
腕か足が使えなければ技が放てない。おれは抵抗しようと腕に力を入れたが、四肢の動きを鈍らせる毒が使われていたようで、力が入らない。
食おうとでもいうのか、蛟は大口を開けて頭から丸呑みせんとしている。不気味な口の中が見え、強くなった毒の臭気が呼吸をなお辛くさせた。
自分よりも強い妖怪の肉を食せば、妖力は確かに上がる。人型の時点で、おれはこの蛟よりもずっと強いはずなのである。つまりその行動は当たり前と言えば当たり前だ。
いつもならこれぐらいの締めつけ、毒で力が出なくとも無理矢理に振り絞り、抜け出ている。だが元々空腹状態で力が出ないところに、戦いで妖力を消耗しているのだ。そして今までの激しい運動で毒が回りやすくなり、抵抗する力が出てこない。辺りに充満していた毒気が意識を朦朧とさせていく。
それでもここで抵抗しなければ、おれは死ぬのだ。
「くそ……っ」
何とか力を振り絞ろうと腕に力を込める。それを阻止するために蛟がこれでもかと力を込め返してくる。息が苦しい。毒で死ぬ前に、締め殺されてしまいそうだ。
父上――情けない声が口を突いた、その直後。
閃光が閉じかかっていた目を刺し、混濁しかかっていた意識を強制的に醒まさせた。
「ギャッ!!」
蛟が奇妙な叫び声を上げたと思った瞬間、彼の体が分断されて吹き飛ぶ。おれは慌てて平衡を保ち着地した。
それからまじまじと地面を見てみれば、蛟の体は分断されていた。いや正確には、分断されているというよりも、おれに巻き付いていていた部分が綺麗に消し飛ばされていた。尾の一部分と、頭から少しの部分しか残っていない。蛟の特徴ともいえる四つ足の辺りが跡形もなく掻き消えている。
妖怪は生命力も人間とは段違い。弱い彼とはいえそのような状態でもまだ死にきれず、何とかその首を動かそうとしているらしい。
少し惨いようにも感じられる蛟の様子を見ながらも、満ちている毒の存在を己の込み上げてきた咳で思い出し、腕に顔を押し付けて鼻と口を塞いだ。
何があったのだ――閃光が飛んできた方向を見ようとしたら、再びの光。だが今度は目も眩むようなものではなく、月光のように柔らかだった。
光が消えるとすぐ、空気が一気に清浄になったと分かる。これはこれで少し居心地が悪いが、毒で満たされているよりはずっといい。
そして、気づいた。こんなことをできるのはごく限られた存在であることを。
振り返ると、こちらに近づいてくる女性が見えた。発せられる匂いは人間で、しかしただの人間ではなく、つんと鼻腔を突く清らかさがあった。白い小袖に緋袴を着ている。
予想通り、巫女だ。
今まで生きてこられた理由でもある自分の勘が、今までの巫女たちよりもずっと実力を持った人物であることを訴えてくる。纏っている空気が違い過ぎるのだ。
これは容易には逃げられない。緊張から体を強張らせる。
迷いなく歩を進め続ける彼女は、おれをちらりと一瞥した。しかし興味がないかのようにすぐに目を逸らす。
え、と唖然としかかったところで、巫女は持っていた鏡に瀕死の蛟を映し出している。そしてそのまま浄化し、完全に消滅させたようだった。その場に残ったのは、地面が抉れていたり木が倒れていたり、おれと蛟が戦っていた傷痕だけ。
次はおれの番? と考えたが、そこではたと気づく。
――どうして最初の時、諸共に殺してしまわなかったのだ?
巫女がこちらを振り返った。びくりと肩を跳ねさせると、それに気づいたのか、近づいて来ようとしていたらしい足をぴたりと止める。
「猫又の子供……ですか。名は何というのです」
特におれをどうこうする気はないとでも言うかのように、鏡を下ろす。
それでも警戒して後ずさるおれ。彼女はそれを見て小さくため息をつき、「月読です」と言いながら今度は完全に仕舞い込んだ。
「え」
「私の名ですよ。貴方の名は?」
驚くと、今までずっと真面目な表情だったその顔に初めて、小さいが笑みが浮かぶ。
鏡がなくとも彼女ほどの実力を持っている者なら攻撃はできる、ということは分かってはいる。笑顔だって、おれを油断させるための罠かもしれない。
でも、武器を仕舞うということは、「攻撃をする気はない」という最たる表現である。そう思ったおれは後ずさりはやめ、彼女を見つめた。
特に表情はなく、こちらを静かに見返している。
「――久遠」
腹に力を入れて言った。
父から受け継いだこの名前。それに恥じることをしているつもりは全くない。そして、彼女が実力者といえど、巫女に気圧されたくない。精一杯の意地だった。
「そうですか。……先代の久遠殿――巫女と不戦協定を結んでいた里の長には、若君がいらしたと聞いております。貴方がそうですね?」
見たところ、彼女は二十代後半といったところだろうか。妖怪に対する知識も相当に深いらしい。
おれは小さく頷いた。
「先代の久遠殿は本当にお強かった……あんなことになってしまい、本当に残念です」
目を伏せる彼女に、酷く動揺する。
猫又だけでなかった。彼の死を悼んでくれるのは、おれたちだけではなかったのだ。
不覚にも何か熱いものが込み上げてきそうになって、懸命にこらえた。
「先ほどは私の村の二人を助けてくださり、ありがとうございました。彼らが私に教えてくれたのですよ――間に合って、よかったです」
まだ警戒を解いたわけではないが、その台詞に再び動揺させられる。
「あら、貴方たち……」
おれが匂いを察知するのと同時、巫女が誰かに気づいたのか小さく零す。そろりとそちらを見遣れば、先ほどおれが逃がしたはずの老父と小さな男の子がいた。
「あ、あの!! じっさまと俺を助けてくれてありがとう!!」
「本当にありがとうございました……! このご恩はどうして返したらいいのか!!」
深々と下げられた頭に呆然とし、おれは言葉が出てこなかった。
「村で待っておいでなさいと言っておいたのに……。久遠、その様子ではしばらく何も食べていないのではないのですか。怪我も酷いですし、私たちの村に来なさい。助六、彼を家に置いてくださいますか?」
苦笑いしてからおれに向き直り、柔らかく言う月読。
「勿論です月読さま!」
そして、勢いよく頷いている老父がどうやら助六というらしい。
月読『さま』と呼ばれているということは、彼女はこの辺りの地域の守護をしているのだろうが、何が何だか分からないうちに話が進んでいて、目を白黒させた。
「あの蛟にはここのところずっと悪さを仕掛けられていたのですよ。しかも私が妖怪退治で少し遠方にいるときを狙って。今回は帰る途中で近くにいたので幸いでした」
言いながら月読がおれに手を伸ばしてくる。また戸惑いながら白い指を見つめていると、ゆるりと口角が上がった。
「つまり貴方は、彼らだけでなくこの辺り一帯を助けてくれようとした、ということです。お礼を言わせてください」
目の前で揺れる優しい微笑み。初めて触れた、人間のあたたかさ。
こらえきれずに涙が零れた。
こんなふうに優しさを向けられたのが久々だったんだ。ずっと求めていたんだ。
おれのそんな様子を月読は柔らかい表情で眺めている。
「でもおれ、」
「他の巫女や法師殿に見つかるのが嫌なら、結界を張りましょう。大丈夫です。貴方が回復する間ぐらい造作もないことですよ」
考えを見抜かれていたのかすっぱりと言われ、支えるように肩を組まれた。
「……私たちの仲間が、貴方をそんなにも苦しめていたのですね。大丈夫です。確かにこの世は優しい人に優しいとは限らない。敵だらけです」
おれがまたも体を強張らせたのを察したのか、月読は顔を覗き込んでくる。
「だけど、総てが敵であるわけがない。大丈夫ですよ」
伸びてきた逆の手がおれの頭を撫でた。優しい感触は母が同じようにしてくれたときのものと似ていて、次から次に涙が溢れる。
恥ずかしかった。でも、嫌なんかじゃない。
「あり、がとう……」
その言葉に浮かべられた微笑みはとても優しかった。