足元がぐらつく少年
おかしい。
絶対におかしい。
鶫はそうぶつぶつと呟きながら、じゃれてくる猫たちと戯れていた。
透と偶然に会話をしてから一週間。鶫は瞳子や透、加えて宏基までをも露骨に避けて生活していた。
「だって、わけ分かんないんだよ……」
心の中に留めていたはずの言葉は、鶫の意思とは特に関係なく外に飛び出していた。猫に触れていた手も止まる。
今まで撫でていたのに鶫が急にやめたからか、猫が不満げな声を発した。鶫はそれにも気づかぬまま、ぼんやりとしている。
その猫は構ってもらえないと察したのか、丸くなって寝る姿勢に入っている。他の猫たちも思い思いの行動を取り始めていた。
しばらくして、膝の上に陣取っていた猫をどかし、鶫は立ち上がって窓に向かう。視線の先は道路であり、そこを歩く人影があった。それは宏基で、バス停の方向から家に向かってくるところだ。
鶫はそれを確認すると、しゃがんで姿を隠した。
「またやっちゃった……」
ほんの少し後悔しつつ、猫の傍に戻る。
「でも、宏基兄が何にも話してくれないのが悪いんだよ……」
何も知らなかったなら、特に気にすることもなく生活できただろう。しかし鶫は中途半端に情報を手に入れてしまっているので、気になって仕方がないのだ。
いったい彼は何を知っているのだろう――そればかりを考えている。
鶫を守るためにこそ宏基は隠しているのだということを知る由もない本人は、そうやって悶々と思考が同じところを巡る毎日。
だが、鶫が不安になってしまうのも無理からぬところはあった。
瞳子は鶫が悪いとばかりに毎日責めてくる。透は何かを探るような視線をすれ違うたびに向けてくる。
宏基は宏基で、今までの通りに何も伝えようとはしていない。
鶫でなくとも不満に思うだろう。
そして彼は、理由は分からないけれど、瞳子と透に、宏基に感じるのと同じような親近感を抱いていた。まるでずっとずっと前、同じ空間で過ごしたことがあるかのように。
高校に入学する以前は一度だって会ったことがないのに、そして不信すら感じているというのに、おかしなものだ。
「月読、寒露、久遠……」
夢の中の青年が教えてくれた名前たちを幾度も口の中でもごもごと繰り返す。この言葉がきっかけになって何かが分かるのではないだろうか、と鶫は考えていた。
「……月読」
何だろう。その名前はどこか懐かしくて――そして、呟くたびに胸が苦しくなる。その名前を口にすることをまるで自分の体が拒んでいるかのようだ、と鶫は思った。
「つく、よみ……」
もう一度呟くと、今度はずきずきと頭が痛み出し、何かの映像が一瞬脳裏に浮かんで、消えた。
「え……?」
彼ははっとして目をしばたたかせた。
舞い散る紅葉、飛び散る深紅の液体、視界の端で揺れる黒髪――それが今、彼の目の前をよぎったものだった。
「あれは……」
額を押さえ、消えてしまった映像を必死で思い浮かべる。
これを逃してはいけない。彼はそんな思いに駆り立てられていた。
「……血……?」
そしてその正体を悟った途端、顔を勢いよく上げた。
「どういうこと? ぼく、あんな量の血、見たことないよ……?」
気味悪く感じて頭を抱える。
それを待っていたかのように、またも映像がよぎっていった。
穏やかにこちらを見つめる群青色の瞳。隣を歩く赤色の袴を纏った足。ふわふわと揺れる九つの尾。
他はともかく、最初のものには鶫にも見覚えがあった。
「宏基兄?」
そう。彼の幼なじみの瞳と同じ――だが、決定的な違いがひとつあったのだ。
「鱗……?」
彼の瞳の下に存在する頬。そこには、まるで蛇などの爬虫類が纏っているような鱗が部分的に、しかし確実に存在していた。
「宏基兄、なの?」
鶫の呟きは、誰にも届くことはなかった。