既視感へと誘う少年
瞳子から逃げた翌日の放課後。鶫は彼女に見つからないように気を配りつつも、釈然としない思いを抱えて廊下を歩いていた。
「ほんとに何だったんだろ……」
独り言をぽつりと落とす。幸い、部活動や清掃などに向かう生徒たちの声に紛れ、誰にも聞きとられなかったようだった。
言いかけたことを呑み込んだあの後、宏基は頑として口を開こうとしなかった。
ただ、顔色があまり優れなかったことから言って、彼自身予期せず零してしまった言葉だったのだろう。鶫の耳には決して入れたくない、自分の中に仕舞っておくべきだった事実――端的に言えば失言、といったところか。
「それにしたって、あんな半端なところで止められちゃったら、ぼくだってすごい気になるじゃん……おかげで何か寝つきも悪かったし」
頭をぽりぽりと掻いて、鶫は図書室のドアをゆっくりと開けた。学校のある日は毎日、昼休みや放課後に通っているのだ。
鶫が今通っているこの高校に入りたいと思った理由のひとつに、図書施設が充実していることがある。
幼い頃から友人の少なかった鶫にとって、本の世界は一番の拠り所。高校選びの折、彼が学力のレベルと同じくらい蔵書数を気にしたのはそういった理由があった。
返却ボックスに本を置くと、すでに顔馴染みとなっている司書の先生と目が合い、笑顔を向けられた。鶫はそれに一礼を返す。
「あ、新刊入ってる」
小さく言いながら目当ての一冊を手に取り、抱えた。そのまま文庫本のコーナーに向かう。いつものようにそこから図書室の中をゆっくりと一周し始めた。
「今日はこれだけにしようかな……」
数冊選んだところで、貸し出しの手続きをしようと踵を返した時。傍にいたらしい男子生徒にぶつかった。
「痛った……」
そう漏らした相手の髪色が金髪だったのを見て、血の気が一気に引いた鶫。この学校にも不良が!? という想像が駆け巡ったらしい。
「――あ、すすす、すみませんっ」
そんなに勢いはついていなかったけど、因縁をつけられたらどうしよう。そんな不安と共に鶫は慌てて後ろに下がり、平謝りした。
「……別に大丈夫です」
案外柔らかな声が帰ってきて、鶫は恐る恐る顔を上げた。
同時。驚きで大きく目を見張る。
彼の目の前に立っていたのは不良などではなく、恐ろしく整った顔を持つ美少年だった。
鶫を驚かせたその金の髪はさらさらと揺れる。どうやら染色ではなく、天然のものであるらしい。染めたための不自然さがない。
長い睫毛に縁どられた薄茶色の瞳は鶫のものと色が似ていて、どこか親近感を覚える。
「あ……」
鶫は小さく声を漏らした。よく見てみて分かったが、その人物は隣のクラスの生徒だったのだ。
雨宮透。雨宮くん、やら、透くん、などと教室内で女子に囲まれているさまを、廊下から数回目撃した覚えがある。透の方は鶫のことなど知らないだろうが。
だがそれよりも、彼を見ているとなぜか自分を懐かしさが襲うことが彼は気になった。
遠い過去に、彼と会ったことがあるような気分にさせるのだ。既視感、と言い換えることもできるが。
――『 』さま、『 』さま……
耳の奥で誰かの声が響く。彼のもののようでそうではない誰かの。
そして呼び水になったのか、声が次々と洪水のように流れ込んでくる。複数人の声だ。
透のものであり透のものでない声に加えて、宏基のようでありそうではないとも感じさせられる声や、瞳子のものであるが異なる声も聞こえる。
――『 』サマ! 何してるんですか!
――桜が綺麗ですよ、『 』さん。
「……何?」
そんな鶫を怪訝そうな表情で見る透。微妙な口調の変化は、自分と同学年であることが分かったためのだろう。面倒がる生徒も多い中、鶫はブレザーの襟に学年章をしっかりとつけていた。
「い、いえ!」
ふるふると首を振り、再び頭を下げてから鶫は彼の脇を通り抜ける。鶫が動いたことでほんの少し風が起き、鶫の前髪が舞い上がった。それを見ていた透は目を剥いて、鶫の腕を捕まえる。
「待って!」
小声ながら鋭く制して捕まえた腕を引っ張り、鶫が元いた位置まで強制的に戻す。
「え? ……え?」
鶫はおどおどしながら自分の腕と透の顔を見比べた。どうして捕まったのか分からなかったからだ。
――もしかしなくても怒らせた!?
一瞬で駆け廻った嫌な予感にまたも血の気が引いて、先ほどの倍速で一礼する。
「えええええぇと、ごめんなさいすみません慰謝料なら払いますから許して……!」
「何でそうなるの。馬鹿?」
頓珍漢な台詞を一蹴し、透はじっと鶫の顔を見つめる。
「…………久遠、さま……?」
そして、呆然とした様子の彼の口からその言葉は吐き出された。
「え」
鶫は目と口をぽかりと大きく開けた。
「――、そうか、アンタが朝比奈鶫か」
我に返った透がぽつりと呟く。
鶫にとっては自分のような地味な人間の名前を知られていたことも驚きだが、もっと留意すべきことがあった。
「ど、どうして、それ……」
「え?」
「だだ、だって……今、く、くおん、って……」
夢の中に現れる猫耳の青年――つまり久遠については、最も親しいと言える宏基にすら教えていない。
「……何で、ってこっちが訊きたい。どうしてアンタがその名前を知ってるの。アンタは何も知ってちゃいけないはずだ」
じっと鶫を睨みつける透。真田先輩が全部遠ざけてたはずなんだから――言葉は続く。
「え。雨宮くん、宏基兄を知ってるの?」
驚いて目を見張る。
「……他校だけど、中学で同じ部活だったから知ってるだけ」
言いながら初めて自分が鶫の腕を掴んでいることに気づいたのか、透はようやく離した。
「そんなことはどうでもいいんだ。こっちの質問に答えて。何でアンタがその名を知ってる」
しかし、鋭い目はそのままだった。射竦められたかのようにその場から動けなくなって、鶫は何も言えず口を噤む。
夢の中で出会う見知らぬ青年の名です、などと言っても信じてもらえないだろうし、頭がおかしいと思われるのが落ちだ。そう判断した彼はただ俯く。
「同じクラスの雪代さんが宏基兄に言ってたのを、ぼくはちらっと聞いただけだから……。じゃあ」
一刻も早く立ち去りたくて、鶫は言うだけ言って早足に歩き出した。
透から制止の声が聞こえなかったことからして、とりあえずは納得したようだ。だが、貸し出しを済ませて図書館の扉を閉めるまで、ずっと透の視線は感じていた。
「ここ最近、変過ぎる……」
口を突いて出た言葉は、声にしたことでますます重量を増して鶫に絡みついてくる。
頑なに何かを隠す宏基。
嫌悪の目を向けながら毎日のように追いかけ回してくる瞳子。
今日初めて会ったのに、鶫以上に鶫のことを知っているような目をしていた透。
そして、何より夢に現れるあの青年。
総てに『久遠』の名が関わっている。
――くおん、さん。
瞳子のもののようで違う声が、脳内で響く。
透への既視感と共に聞こえたあの声は総て、『久遠』と呼びかけていた。
「『久遠』って、いったい何なの……」
呟きは、誰にも届くことなく廊下に落ちた。