何の変哲もない少年
目を刺す日の光に
たとえ総てを奪われても
● ● ●
声が聞こえる。
誰かの呼び声が。
ぼくの知らない誰かの呼び声が――
高校生をはじめとした、学生で溢れかえる通学路。そこに紛れて歩く一人の少年がいた。
真新しい近くの高校の制服。元々色素が薄いらしい明るい茶色の髪が、目の辺りまでかかっている。そして目は、落ち着きなくきょときょとと動かされていた。
彼を簡潔に表すのならば、どこか挙動不審。そして地味な新入生、といったところか。
そんな少年は、朝比奈鶫といった。
とぼとぼといった様子で歩いていたが、少しして自分の少し前を行く背の高い同じ高校の男子生徒に目を留める。
「あ、宏基兄」
コウキ、と声をかけられた男子生徒はゆっくりと振り返る。眠そうながら秀麗な顔つき。その瞳は群青色に輝いている。
鶫は彼の瞳にじいっと見入った。
「……毎度毎度、人の顔をガン見してくんな。気持ち悪ィ」
どうやらそれはいつものことらしい。脛を蹴られ、鶫は痛みにしゃがみこんでしまった。
鶫の様子から異様に思ったのか、周りにいた者たちが二人をちらちらと見ている。
「思いっきり蹴ることないじゃん……! 宏基兄!!」
余りの痛さで、目の端にはわずかに涙が浮かんでいた。
「綺麗だから見てたんだよ……」
鶫の言葉に少年の目がすうっと細くなる。鶫は頬をひきつらせたままびくっとし、寸でのところで再び飛んできた蹴りをよけた。
「あっぶないな……! また同じところ蹴ろうとしただろ!?」
「気持ち悪ィ台詞を連呼するからだ」
「だからって……酷い……」
しゅん、と落ち込んだ鶫を見て面倒臭そうに頭を搔いた彼は、ひとつため息をつく。そして片手を差し出した。
「てめえに巻き込まれて俺まで遅刻するだろうが」
何とも冷たい台詞、と第三者が聞いたら思うだろうが、鶫は顔を輝かせてその手を取った。どうやらよっぽど嬉しかったらしい。
少年の名は真田宏基。鶫と同じ高校の二年生だ。
彼の助けを借りて立ち上がり、隣に並ぶ。
すたすたと歩き始めてしまう宏基。鶫は足を速めて追った。
「宏基兄、一時間目は何?」
「数学」
「うわあ……」
鶫は数学が大の苦手らしい。一方、宏基はそうでもないのか大きな欠伸をこぼすだけだ。
「そういうお前はどうなんだよ」
「えと、古典」
「なら得意分野だろうが」
「うん。よかった」
そんな会話をしながら歩いていく間も、宏基を向けられる多数の視線に鶫は少し落ち着かなくなる。そのほとんどは女子のもの。
「相変わらずモテるね……」
間違ってもその視線と交わらないように鶫は下を向きっぱなし。
「あぁ?」
怪訝そうに眉を顰める宏基に、肩を竦める鶫。
「自覚ないならいいや……」
一緒に校門をくぐり、じゃあね、と言い残して、鶫は宏基と別れた。
二年生の彼と一年生の鶫では校舎が違う。そして玄関も違うので、ここで別れねばならない。
宏基と距離が開いたことで女子の視線から逃れることができ、鶫はほっとしながら再びとぼとぼと歩き出す。というのも、彼は女子に対して苦手意識があった。
鶫と宏基の家は隣同士。幼なじみである。
一歳年上の宏基に鶫は幼い頃からついて回っていたが、彼は昔から少女たちによく騒がれていた。
それだけならいいのだが、その少女たちは宏基に近づきたいばかりに、鶫に質問責めを仕掛けてくる。
宏基くんの好きな食べ物は何? 好きな女の子のタイプは? 好きな女の子はいないの?
そのような言葉の雨あられ。元々人見知りの鶫にとっては恐怖でしかなかったのである。
そっと自分のクラスに入り、廊下側の一番前の席に座る。
朝比奈、という名前だと、年度初めの学期にはよくあることだった。目立つことが苦手な鶫には正直辛いものがある。
――まあ、目立つなんてありえないけど……。
鞄を置いたところで、そんなことを思いながら、教室の後ろの方から聞こえてくる騒ぎにちらりとそちらを振り返った。
「……うわあ」
思わず小さく声を漏らす。
彼の視線の先には、人だかり。一人の少女の周りを、男女関わらない複数の生徒たちが囲っていた。
いじめなどではない、むしろ逆だ。
このクラスで一番の人気者がいる。
「雪代さん、ここ分かる?」
「わたしもここ教えてほしいー!!」
「俺たちはこっち!」
「ねぇねぇ、瞳子ちゃんってすごい肌綺麗だけど、何の化粧品使ってるのー?」
「あ、それあたしも知りたい!」
その他諸々の声、声、声。
中心に座り、ユキシロやトウコと呼ばれているのは、長く豊かな黒髪を綺麗に編み込み結っている少女。その所作はとても上品だ。
雪代瞳子。仲社、という鶫の住む市の名の由来にもなっている神社の娘。
茶道や華道、日舞などを嗜んでいるが故、品のいい行動がとれるらしい。
「化粧品は母が勧めてくれるものを使っています。ああ、ここはこの式を使えば簡単ですよ。そしてそちらはこの単語のこの用法を使えば簡単です」
眉目秀麗、才色兼備。入試をトップの成績でパスしたという才女。
口調は常に丁寧だが、決して気取らない態度。男女隔てず人気の理由である。入学してすぐのクラス委員決めでほとんど百パーセントの支持を得たほどだ。
教室の隅で気配を消している鶫ですら、彼女についてそれだけの情報を手に入れられてしまうほどの人気ぶりである。
鶫はすぐに視線を外し、鞄の中身を机に移し始めた。
と、予鈴が鳴る。教室内で騒がしかった声も、少しトーンが下がった印象だ。
「ほらほら皆さん、ホームルームが始まってしまいますよ」
加えて瞳子がそうして促すので、生徒たちはぞろぞろと自分の席についていく。
ようやく静かになった、と鶫はほっとし、間もなく教室に入ってきた担任の話に耳を傾けた。
瞳子がそんな自分の後ろ姿を見つめていることには気づかずに。
「ねえねえ朝比奈くん」
昼休み。鶫は呼び声に顔を上げると、そこには2人の少女。彼は嫌な予感がして反射的に身を引いていた。
「今日、真田先輩と一緒に学校来てたよね?」
「仲いいの? だったらこれ渡しといて!」
「え? あ、あの、えと……」
おどおどとしている間に、まだいいとも言っていないのに何かの包みを押し付けられる。
鶫は途方に暮れた。
花柄の可愛らしいビニール袋の包装。透明な部分から覗く部分を覗く限り、カップケーキであるらしい。甘そうなチョコチップが散りばめられていた。
鶫からすると食欲をそそるものである、のだが。
「宏基兄、甘いもの大嫌いなんだよね……」
教室内のざわめきに紛れて呟く。
どうしたものか、とため息をつくも、カードが添えられているのを見ると渡さないわけにもいかない。
加えて、強制的に押し付けられたとはいえ、一度受け取ってしまったものを突っ返すのも良心が痛む。
ひたすら最善の対処を考えていたせいで、食事が味気なくなった。持ってきた弁当には、大好物である焼き鮭が入っていたというのに。
尤も、午後の授業もそれに気を取られて全く集中できなかったのだが。