彼の存在
*
「こんな感じ…っスか?」
少し気恥ずかしいのか、視線は合わせずに哉汰が言う。
おれは、まだミットに残る剛球の余韻に、身を委ねながらも、哉汰を見上げた。
この時のおれの心境と言ったらまあ、
言葉や形で表せなかったに違いない。
ミットが張り裂けそうなくらい、
力強く、速い、直球。
(こんな球受けるの、初めてだ…!)
おれは哉汰にボールを送球し、
再びミットを構えた。
「次!スライダーよろしく!」
勝手ながら二回目の指示を出し、彼を見つめると、少々戸惑いながら彼はモーションに入った。
上半身と下半身の力の入れ具合、軸足の安定感、ボールを投げる角度、振りかぶってから
投げるまでのタイミング。
完璧と言っていいほど、綺麗なフォーム。
(間違いない…!)
彼の投げた玉は、アウトコースから綺麗にカーブを描いて、一ミリも落ちる事なく横にスライドし、ミットに衝撃を与えた。
そうだ、こいつは、俺が中3の頃に全国大会で優勝した中学のエースだ。
当時二年生だった彼だが、予選からマウンドを一度も他の投手に譲らずに最後まで投げ続けたといわれている。
"無敗の投手"
(なんでそんな選手がウチなんかに…!)
おれが一気に防具を投げ捨て、哉汰に駆け寄ると、それに便乗して、他の部員も、彼の側に駆け寄った。
「お前、球種は?」
「っと…ストレートと、スライダー、あと、フォークにシンカーです。頑張れば、チェンジアップもいけるかもしれないっスけど…
」
「そんだけでも十分だよ!お前、中学の時からそんなに使い分けてたのか⁉」
おれが哉汰の腕を取ってずいっと迫ると、
彼は照れ臭そうに、かつ控えめに首を縦に振った。
その反応すらも嬉しくて、おれは腕を握るチカラを強くする。
「蒼井、そいつそんなにスゲーのか?」
「当たり前だろ、こいつ全中制覇してンぞ。」
首を突っ込んできた仁原にそう吐き捨てると、その場にどっと歓喜が湧いた。
(こんなチャンス滅多に無い。)
目の前に有能な投手がいて…
しかもそいつは全国制覇している超強者。
こいつがいればチームが変わるかもしれない。
「なあ、お前、野球部に入るつもりはないか?」
「え…」
おれがそう口にした途端、一気に哉汰の顔が曇った。
それと同時に、周りが一気に静まり返る。
(あれ…?)
「すみません、俺、野球はちょっと…」
"嫌いなんで。"彼がそう言うなり、部員含め見学してた一年がブーイングを始めた。
どうやら、哉汰には野球をやるという選択肢は無い様だった。
おれが立ち尽くしていると、
じゃあ、と一礼して、哉汰はグラウンドを後にしようとする。
彼がマウンドから離れると、あーあ、
だとか、せっかくのチャンスだったのに!
などと二年全員が溜め息をつき始めた。
「っ…」
「しかたねーだろ、」
練習再開すんぞ、と仁原に肩を叩かれ、
ハッと我に返る。
「本人にやる気がないなら、誘ってもムダだよ、…それに、ピッチャーは俺で間に合ってるだろ?」
「仁原…」
確かに、その通りかもしれない。
けど…
おれは哉汰のボールを受け止めた余韻の残る左肩を見つめる。
(嫌いなら、あんなピッチングはしない。)
今まで野球やってたヤツが、そう簡単に野球から離れられるワケがない。
きっと、何か他の理由があるんだ。
おれは左手にぐっと力を入れ、
出入り口の方に走り出す。
「っおい!蒼井⁉」
「悪い仁原!練習始めといて!」
戸惑う仁原を背にし、ネットをくぐり抜け、哉汰の後を追う。
すると同時に強い風が吹いて、おれはつい目をきゅっと瞑る。四月という事もあって、桜の花弁がおれの視界を八割方塞ぐ。
(あークソ!)
おれは花弁を振り払って、ようやく見えた哉汰の背中に吠える。
「哉汰!」
すると彼は一瞬立ち止まったが、聞こえてないフリをして再び歩み始めた。
その背中が、何故か悲しそうに見えて。
(哉汰…)
「お前!仮入部の期間だけでいいから、試しに野球部に来い!入るか入らないかは、その後で決めてくれて構わないから!」
有能な投手が欲しい、とか、
別にそういうワケじゃない。
何故か、彼を放っておけなかったんだ。
彼を、野球部に入れなきゃいけない気がする。
マウンドで、投げさせてあげなきゃいけないような気がする。
果たして、これが本心なのか、出来心なのかはわからない。
(けど、)
「約束だからな!」
もう豆粒くらいにしか見えなくなった彼の背中に向かって、腹の底から叫ぶと、とうとう彼の姿は見えなくなった。
あいつと、バッテリーを組みたい。
あいつと、野球をしてみたい。
あいつと、甲子園の土を踏んでみたい。
おれは何とも言えない気持ちを抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くした。