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【短編】ヒットマン・レクイエム(黒歴史品)

作者: 樊城 門人

数年前に書いたものを適当に完結させました。

あくまで完結させたという証での投稿なので、見ないほうがいいです。

.ヒットマン・レクイエム





  1



 大きな体躯を縮こまらせて青年は黒の愛車へと寄り添っていた。十字路を行く人々は白黒映画の俳優だった。だけれど彩がもうすぐやってくることを青年は知っていた。

 小柄な彼女が向かい側に姿を現した時、辺りにラベンダーの香りが満ちたような気がした。青年は彼女に視線をやって、微かに笑う。

 少女もそれに合わせた。いい笑顔だった。愛しい顔付き。途端に白黒映画はカラーになった。美しきものが場に溢れた。

 こちらを確認して、走ってくる彼女を見ながら青年は思考した。とてもとても素晴らしい。何か言葉にできないような、彼には憚られてしまうような感情が胸にしみ渡る。

 だからこそゆっくりと停車した黒色のクーペには注意も払わなかった。その場の誰も同じことだった。

 中から全身黒尽くめの男が降りてきた。男は走る少女と向かいの青年を見た。そして穏やかに嗤った。とてもとても良い光景だと思った。

 だからこそ壊さなくてはならなかった。身体が快感に打ち震えた。壊すことは快感だ。壊すことは美しい。

 正直な心持ちでいるのが一番だと男は考えた。右手に握りしめた"もの"を少女へと向ける。発射。

 舐めるような焔が少女を包み込む。

 人体の焦げる臭いが身体に纏わりつきそうなほど、彼女は近かった。少なくとも青年にはそう思えた。精神的にも肉体的にも彼女は近すぎた。

 だからこそ焦げていくのかも知れなかった。それは不幸なことだった。だから青年は茫然とし、そして鼓膜を震わせる断末魔に聞き惚れた。

 恐ろしげな響き。眼前で起こりえることにどれほどの現実味を感じようが、感じていまいが、それには違いは無かった。

 自らの肉親が、兄妹が、強い繋がりで結ばれた義妹が焼かれていくのを見て、青年は叫んだ。悲鳴とも怒声ともつかぬ声だった。

 彼は脳が沸騰していくのを感じて、無意識に足が動き出すのを見た。抱きとめてやらなくては。俺は兄だ。あの子の兄だ。

 俺の妹であるエルク・マヒュールは苦しんでいる。

 彼女が死んでいくのだけが確かなことで。周囲からはくぐもった声が聴こえてきた。ショッキング。ありきたりな言葉が場の人垣を支配していた。

 誰も行こうとはしなかった。灼熱を身に纏う少女はタップダンスを踊り、生命が焦げる音とどよめきと甲高い声をBGMにして、群衆を惹きつけていた。

 走り出そうとした青年は多くの手に止められた。呪いの手だと思えた。青年は振り払おうとした。手は青年を離すことをしない。

 止める者も行く者も逝く者も。みな必死の形相をしていた。

 ついにダンスが終幕を迎え、焼けた少女が場にうずくまると辺りは静まり返った。何処からかすすり泣きが聴こえた。

 青年も崩れ落ちた。彼を生に繋ぎとめようとした手も震えていた。ショッキング。ありきたりな言葉でしかなかった。しかしここには相応しい言葉だった。 

 みな、死人の顔付きをしていた。



  2



 緩やかな覚醒。悪夢は鮮烈に刻印される。青年――リッシュ・ヘルラウンズは雫が頬に流れているのを感じ取って、それを拭った。

 無表情。猛禽類に似た顔は何の感情をも表すことはなく、ただ上半身を立ち上げた。

 身体に纏わりつく汗。青年は窓から差し込んでくる明かりに目を細めながら、ベットから離れた。冷たい水を浴びなくてはならない。

 寝室の扉を開け、重い足を引きずりながらバスルームで服を脱ぎ、水栓を開ける。噴き出した冷水を浴びながら苦い感触を洗い流した。

 水栓を止める。タオルで身体を拭きながらリビングへ。

 不意にテーブルの上で携帯電話が鳴る。着信。リッシュは眉尻を上げながら手に取った。

「ヘルラウンズ」

「おはよう、リッシュ」

「おはよう、レイニー。これから朝食に取り掛かるところです」

「それは邪魔をしたね。しかし腹にものを詰め込む前に聴いておいたほうがいいかも知れない」

「どうしたんです」

「ボスの側近が丸ごと殺られた。ソニー・フォン、リーマー・"カットマン"・ペレス、エディ・ブラウニング」

「死因は」

「全員焼死だ、リッシュ」

 胸がむかつき始めた。リッシュは軽く指を鳴らすと、走馬灯の如く駆け巡る心声を制し、言った。

「犯人は特定できているんですか」

「恐らくは」

「恐らく?」

「ボスは心当たりがあるようでね。君が呼ばれる破目になるかもな」

「なるほど」

「葬儀は一八日からだ。できるだけ良い背広を用意しておくといい」

「ありがとうございます。他に要件は」

「ない。君に祝福を、リッシュ」

「あなたにも祝福を、レイニー」

 通話を終える。リッシュは携帯電話を数秒ほど見つめると、それをソファに叩きつけた。

 口元が三日月状につりあがり、瞳には暗い感情が宿っている。右手の指を口まで持っていき、表情を元に戻す。

 無表情。彼は替えの服に着替える。テーブルの財布に手を入れて古びた写真を取り出す。可愛らしい少女。美しい義妹。

 死んでいった女。もはやいない。オイルライターで焼いた。灰の臭い。追憶の臭い。血と肉が焦げる臭い。くずかごに無造作に突っ込む。

 殺された少女。誰に。ふざけた名前のクソ野郎。マックス・ファイアシューター。世にも珍しい小型火炎放射器の所有者。

 野獣死すべし。

「なら俺もだ」

 呟く。そして枯れた笑い。彼は口を閉じた。このハウザー・シティの暗黒街を取り仕切るスケアクロウ・ファミリーの幹部を三人も殺した命知らず。

 理性は待てと判断していたが、感情は確実にあの火炎射手が下手人だと告げていた。機会が訪れたのかも知れない。リッシュの胸が高鳴る。

 殺すことが我が生涯。一家に尽くすことこそ我が幸せ。そして個人的な事情も重なって二重にハッピーになれる。

 マックスが犯人ならば。業界では知らぬものが珍しいあの冷酷非道な男が手を下したのならば。俺はとても嬉しい。

 彼は鍵付きのキャビネットからステンレス製のケースを取り出し、蓋を開く。

 四五口径オートマチックピストル。装弾数は一三発。自らの忠実なる僕。破壊の使者。我が相棒。

 リッシュは鋼鉄の野獣を手に取る。いつでもこの銃は彼を救ってきた。一人を殺し、また殺し、そして殺す。深い業。乗り越えられる。こいつさえ有れば。

 ケースの緩衝剤へと銃を戻し、蓋を閉じる。

 彼の口がまた三角形になろうとしたので、彼はもう一度同じ所作をしなくてはならなかった。右手の指を口角に――。



  3



 四月一七日。これから数か月に渡り、この街の年間降水量は下落を続ける。リッシュは雨が好きではなかった。

 雨は憂鬱だ。色彩豊かな街が灰色に色取られるのは見ていて楽しくない。そういう意味でこの下落は彼にとって歓迎するべきものだった。

 愛車の頭上で見慣れた赤が味気ない青に変化する。彼はアクセルを踏み込むと左折した。

 ノースハイツ、グリマルディ・ペイ。品の良い人々。身なりも上等。ヘビーカーを押していた婦人がオープンカーの男に笑いかける。

 "ホワイトカラー・タウン"の中でも特に典型的な地区の一つと言えた。高級住宅街。高級ブティック。高級レストラン。

 何でもかんでも高級と付く場所。ここが犯罪戦線の遥か後方であることに安心感を覚える人間たちが住む。

 つまるところ、彼らは都市の下層階級をワインの足踏みの如く地面にへばり付けて、そこから血の果汁を受け取っていることを忘れたいのだ。

 この国は拝金主義がまかり通っている。金は力だ。それは正しいとリッシュは思う。結局のところ、先立つものが全てだ。

 だからといってリッシュは自身の見解を人に押し付けたことなど一度も無かったが。

 二三番ストリートを西へ。やがて緑豊かな通りに入る。静謐。さえずる小鳥。無音が破られた。彼はこの"状態変化"にはやはり興味を持たなかった。

 更に奥へと車を走らせる。豪勢な造りの屋敷が見える。閉じられた門。大使館さながらの詰所があり、黒服の男が二人。

 リッシュは一人と顔を合わせる。頷く。門が静かに開いていく。アクセルを軽く踏み込み、敷地内へと進む。

 高級車が軒を連ねる中に一台を停め、彼は愛車から降りた。正面玄関脇の柱に寄りかかっていた男が近寄ってくる。

 整った眉。皺ひとつない額。ブリティッシュスタイルのスーツ。四〇代前半だが若々しく見えるなと、リッシュは束の間に考えた。

 彼は片手をあげて会釈すると、言った。

「リッシュ。"ビショップ・レイン"から話は聴いてるだろう?」

 当人は肩を竦める。ビショップ・レイン――レイニー・マンスフィールド。敬意が良く分かる綽名だ。

「ええ」

「ボスがお前さんを呼んでる。恐らく的が見つかったんだろうな」

「ミスター・ルティ。葬儀の前日です」

「なあ、リッシュ。それぐらい大事な用なんだろうさ。大丈夫。ボスが上手く手を打ってくれる」

 男性、ルティはリッシュの肩に手を回す。

「お前さんを不義理な野郎だなんて思う奴はいないよ」

「お気遣いありがとう。ボスが呼んでいるんですね?」

「その通り」

 ルティは肩から手を離すと静かに頷いた。リッシュは彼と握手を交わす。正面玄関へ。両扉を開けた。

 まず目に入るのは見事な調度品。シャンデリア、陶器の壺、燭台。高級趣味が蔓延している。リッシュはエントランスロビーに足を踏み入れる。

 脇にある階段を昇り、二階へ。右の廊下へ行き、扉を開ける。そのまま進むと、突き当たりに古ぼけた扉がある。純銀製のドアノブ。

 リッシュは軽く扉を叩いた。数秒後、深みのある声が扉の向こうから聴こえてくる。

「リッシュか」

「ええ、ボス。俺です」

「入れ」

 ドアノブを捻り、静かに扉を開く。キィという音。部屋の景観が見て取れた。ロビーとは大違いだった。内装は華美ではないが、シンプルでセンスのいい調度品が主だった。リッシュは部屋の真ん中でアンティークの椅子に腰を落ち着けている男を見る。壮年の男性だ。もとは黒かったであろう毛髪はそのほとんどが白くなり、皺の刻まれた顔貌は、かれに訪れた幾つもの苦難の存在を知らせる。

 しかしそれでもなお、男性――ローマン・スケアクロウには一家の当主であるのを示す、圧迫するような強い威圧感が存在していた。落ち窪んだ眼窩からは放たれる視線は、人を縮みあがらせるに充分。若い時と比べて衰えたであろう身体も、外見からではまったく変わらないように見える。

 ローマンは部屋へと入ってきたリッシュを見つめた。

「よく来てくれた」

 低く、渋みのある声が響く。リッシュは頷くと椅子に座っているローマンに数歩近づいた。ローマンは手振りで向かいの椅子へと座るように示した。

「ファミリーのためとあらば何時でも」

 応じながらリッシュは椅子へと浅く腰掛ける。ローマンはテーブルの葉巻箱から一本取り出すと、リッシュへと勧める。かれは薄く笑ってそれを断った。勧めた当人は肩を竦めながら葉巻の片側をシガー・カッターで切りおとし、口に咥える。リッシュは咄嗟にテーブルにあったマッチを擦ると、丁寧な仕草で火をつけた。「ありがとう」とローマンは微笑し、一度大きく煙を吸い込む。

「キューバ産だよ、コイーバだ。君がタバコを嗜まないのは分かっていたのにな」

「気にしないでください、ボス」

 そう言いながら、リッシュは続けた。

「"ミスター・グレート"。俺をここに呼んだ目的というのは――」

 首領は片手でかれの言葉を制すると、煙をゆっくりと吐き、言った。

「リッシュ。わしの手足と言ってもいい三人が殺されたのは知っているな?」

「存じております」

「いい返事だ……。そう、エディにリーマー、ソニー。かれらを殺った下手人が分かった」

 リッシュの胸が瞬間高鳴った。奴だろうか。あの火炎射手なのだろうか。掌が少し汗ばむ。

「マックス・ファイアシューター。ふざけた名前だが、凄腕の殺し屋だ」

 ――奴だ。大波のように襲ってきた動揺と昂奮を必死に抑えながら、リッシュは言葉を紡いだ。

「間違いないんですね」

「確かな情報だ。全盛期と比べて衰えたとはいえ、スケアクロウの名にひれ伏すものはまだまだ大勢いる」

 訪れる静寂。リッシュは無意識に揉み手をしながら、続く台詞を予想していた。俺はここに呼んだのは伊達や酔狂ではあるまい。ローマンが口を開いた。

「リッシュ。いいか、奴を捕らえろ。依頼主を吐かせる。それが無理なら――」

 ローマンは息を吸った。

「殺せ。これ以上、好き勝手にさせるわけにはいかん。今は大切な時期だ。余所から入ってきたクソどもに邪魔されるわけにはいかんのだ」

「……了解しました」

 歓喜。必ずしも望む答えではなかったが、リッシュの内面は久しく喜びに溢れた。我が復讐が成し遂げられるときがついに来た。表情に出さないよう気を付けながら、リッシュは椅子から腰を持ち上げる。ローマンが年老いた狼のごとく、鋭くかれを見上げた。

「君の義妹も奴に殺されたのだろう。気持ちは分かる。だが私情で腕を鈍らせるなよ。待っているのは死だぞ」

「奴を追い、捕まえるか殺すだけ。それが俺の仕事です」

 うむとローマンは頷く。リッシュは回れ右をすると部屋から出て行った。嬉しかった。今にも踊りだしそうな気がした。暗い喜びがかれの身体を満たしていた。



  4



 このハウザー・シティは大きく五つの区域に分かれている。

 高層ビルディングが立ち並ぶ、市政と経済の中心。『センター・バーロウ』。

 小売店からデパートメントまで。大きく賑わいを見せる商業地帯。『イースト・フォールズ』。

 無情なる都市計画法案の犠牲となった弱者の街。『サウス・マジソン』。

 高級住宅街が軒を連ね、それに伴う街造りがされた『ノース・ハイツ』。

 最後に、自然公園や有名大学に代表される『ウェスト・アイランド』。

 いずれの陰でも血と汗と涙が塗りたくられ、人が人を蹴落とそうと全力を尽くしている。野獣の世界であった。

 奴隷となるか、支配者となるか。それはこの街における永遠の命題であり、誰もが探し求める答えだった。俺はどちらになるのだろう。これからもその問いは絶えず、街の喧騒とネオンは止まない――。



 ファミリーの情報から、まずリッシュはウェスト・アイランドの東部に位置するベイニー・パークへと向かった。そこでファミリーが手配した情報屋と会う手筈となっていた。ゴースト・マクソン。通称を"お化け"として知られるかれには、リッシュもよく世話になることが多い。腕のほどは問題なかった。

 ノース・ハイツを七番通りに沿って南下。途中でアトランテ・ハイウェイに乗り換え、ヴァンク・インターチェンジで一般道に降りる。

 自然豊かなウェスト・アイランド。三四番通りを進みながら、その言葉を噛み締めた。西部には再開発の手が伸び、今や新たな住宅が続々と建てられている。アイランドで昔ながらの顔を見せるのはもはや東部しかなかった。

 リッシュは勝手知ったる道を愛車で移動し、東部のベイニー・パークへと向かう。ベイニー・パークはウェスト・アイランドでも有数の自然公園で、市民の憩いの場所となっていた。かれはパークの四方を囲んでいる通りの中で、西側のアップル通りへと愛車を停めた。

 ホットドックの屋台。忙しなさそうに行き交う人々。道では黄色のタクシーが良く目立った。リッシュはそれとなく辺りに視線を遣りながら、待った。ここがお化けとの待ち合わせ場所だった。どのような手段を使ってかは知らないが、かれは確実に訪れるに違いなかった。

 二〇分が経過する。リッシュに焦れる様子はまったくなかった。途端に、ふっとまるで風に乗ってきたように、薄汚れた服装の陰険そうな顔貌の男が、車の傍らに立っているのをリッシュは目視した。

 ――いつの間に。

 男の身なりからしてここら辺をねぐらにしているホームレスだとリッシュは推測した。男は片手に洗剤、片手にボロ雑巾を持ち、暗い容貌に偽りの笑みを浮かべて、車の窓を叩いた。

「旦那。窓を拭かせてくれやあしませんかね」

 リッシュが何か答える前に、男は窓に洗剤を吹き付けると、持ち前のボロ雑巾で鮮やかに窓を拭き始めた。リッシュは少し眉を顰めて、窓を開ける。途端に、男の双眼が夜光獣のごとく光り、素早く車内に茶色のものを投げ入れた。男はニイと微笑む。リッシュは茶色のもの――マニラ封筒を手に持って、頷いた。こいつがマクソンか。

「はじめて顔を見たよ」

 マクソンは肩を竦めると、また風のように人ごみの中へと消え去っていく。面白い男だとリッシュは思った。



 リッシュは車を西部に向かって一時間ほど走らせ、尾行がいないのを確認すると、シャロン通りのスーパーマーケットの駐車場に留まり、マニラ封筒を開いた。

 中にはメモリーチップが一枚。リッシュはそれをつまむと、何となしに陽光に照らしてから、自前のPDAに挿入した。

 チップの中身はマックス・ファイアシューターについての大まかな概要とその人間関係だった。リッシュは画面に目を通しながら、こんなクズ情報のためにあの街まで行ったわけじゃないぞと軽く腹を立てたが、人間関係の項目にことさら詳しく表記されている一人の人物を見つけると、かれは猫のように目を細めた。

 イースト・フォールズの故買屋、ライオネル・キャラガー。四六歳。暗黒街に顔が広く、マックスとは懇意の仲。普段はバックス通りで雑貨屋『K-ナイン』を営む。

 ――こいつを追え、ということだ。リッシュは口端を上げると愛車のエンジンを唸らせて、マーケットの駐車場を急発進した。



 シティの外周をぐるりと囲むアトランテ・ハイウェイに乗ると、そのまま南下しサウス・マジソンを周回して、ハズバンド・インターチェンジでハイウェイを降りた。五六番通りを西へと進む。辺りはウェスト・アイランドとは種類が違う喧騒と活気で包まれていた。聞くものによっては酷くうるさく思うような、そんな賑やかさがあった。

 道路に漂う車と人を避けるように、愛車をディキソン通りへと滑らせる。ディキソン通りからマーパーク通り、そこからバックス通りに進入した。

 表の通りとは対照的に、バックス通りはひっそりと静まり返っていた。妙に森閑としている。リッシュはいつでも出せるようにアクセルを軽く意識しながら、愛車を流して、通りの様子を伺った。通りの端に一軒の小売店がある。使い込まれた看板には『K-ナイン』とあった。リッシュは路肩に車を停めると、雑貨屋K-ナインへと歩いて行った。

 扉を開けて中へと入る。店内は清潔だった。一般的な雑貨屋の内装そのままといったところだ。店内には子連れの女性とポロシャツを着た若い男、それに杖を付いた壮年男性の三名がいた。リッシュはかれらに気取られぬように警戒しながら、カウンターへと足を進める。

 カウンター越しにアルミ製の椅子へと座り込んで、新聞のスポーツ欄を読んでいる若者をリッシュは目に留める。かれに軽く声をかけた。

「こんにちは。ちょっといいかい」

「何かご入り用のものでも? お客さん」

 スポーツ欄から目を離すと若者は愛想よくリッシュに微笑んだ。リッシュはかれに微笑み返す。

「キャラガーさんに会いに来たんだが。かれの友人がヤバいことになっててね」

 若者は新聞を畳むと、怪訝そうな目でリッシュを見た。リッシュが二〇ドルを差し出すと、かれはそれを手に取りながら肩を竦めて、奥の扉を開けて中に引っ込む。五分ほどすると若者が表へ出てきて、言った。

「オーナーはまた後日、と」

「おい」

 リッシュは腰を折って若者を下から見上げる体勢になると、できるだけ酷薄そうに見えるよう睨んだ。

「いいか。スケアクロウがお前を呼んでいる、と伝えろ。そうしないとお前の商売はメチャクチャになるぞ、ともな」

 極めつけに首を切る仕草を見せると、若者は不安と混乱に視線を落として、か細い声ではいと頷いた。そして今度は急いで中へと引っ込み、五分もしない内に若者の代わりに人の好さそうな笑みを顔に張り付けた男性が扉から出てきた。かれはリッシュを扉の中へと招き入れようとする仕草を見せた。

 リッシュは右腰に挟んでいる愛銃を探りながら、その誘いに乗った。一直線に続く廊下。男性――ライオネル・キャラガーを先頭に、後ろで四五口径の感触を確かめるリッシュが続く。

 廊下の先にある木製の扉の前に着くと、ドアノブをキャラガーが捻り、背後のリッシュに見せつけるかのようにして、ゆっくりと開いた。リッシュは無表情を保ちながら、顎で先へ行くよう合図する。キャラガーは小さく首を縦に振ると中へと入った。リッシュは油断なく視線を遣りながら、かれの背中を追いかける。

 そこは小さな雑貨屋に似つかわしくない内装をした部屋だった。まるで偉い学者の書斎、といったところで、両の壁に埋め込まれた本棚には分厚い学術本が並び、部屋の端には品の良い木製の執務机がある。絵の具のように紅い絨毯には金糸で優雅な刺繍が施され、向かい合うようにして置いてある革張りのソファが二つ。

「すごく景気がいいんだね、この雑貨屋は」

「そうでもないさ。スケアクロウの方」

 少々の厭味が込められた返信にリッシュは口端を歪める。キャラガーは執務机を回り込むようにして、椅子へと座ろうとした。リッシュの手がぴくりと蠢く。

「駄目だ。こっちのソファに座れよ。オーナーさん」

「別になにもしやしないよ、いいじゃないか。私は部屋の主だぞ」

「俺に酷いことをさせないでほしいんだ。頼む」

 リッシュは肩を軽くいからせ、凶暴そうな笑みを浮かべた。当人は張り付いた笑みを崩し、静かに後ずさる。

「さあ、言うことを聞いてくれ。そうすれば誰も怪我はしないと思うから」

 ため息を付きながら、キャラガーは大人しくソファへと座り込む。リッシュも向かい側へと腰を下ろした。リッシュが早々に喋りかける。

「ライオネル・キャラガー?」

「如何にも。れっきとした男で、今年で四六歳の、ミスター・キャラガーだよ」

「カマっぽいとでも言われるのかい」

「なに?」

「なんでもない」

 くくっとリッシュは笑う。キャラガーは怪訝そうにそれを見つめた。

「ではミスター・キャラガー。ある男について教えてもらいたい」

「友人なら多いほうではないがね」

「その中に炎を飛ばす殺し屋はいるか?」

 瞬間、キャラガーの表情がきっとこわばる。当たりだ。リッシュは内心ほくそ笑んだ。キャラガーが平静を維持した声で答える。

「いや、そんな恐ろしいのはいない」

「本当かい」

「嘘は言ってないつもりだ」

 途端にリッシュはソファから立ち上がると、キャラガーに向かって熊のようなフックを繰り出した。フックはかれの細面に勢いよく命中し、キャラガーは低い悲鳴をあげる。リッシュは素早く近くへと寄ると、髪の毛を掴んで頭を揺らした。

「ふざけるなよ、てめえ。もう調べは付いてるんだ。さっさと答えろ。そうしないと明日にはお前の身体がスパイラル川へぶくぶく浮かんでるってことになるぜ」

「知らない、本当だ」

「じゃあ思い出させてやるよ」

 キャラガーがわっと叫び声をあげようとするのと同時に、リッシュはかれの喉元に手をやり、気管支を二本の指で挟むようにしてくっつけた。激しい激痛がキャラガーに襲い掛かり、出そうとしていた叫び声が止まる。リッシュはかれの耳に口を寄せて小さく囁いた。

「このままやったら気管支が潰れちまうんだがな。その前にこういう痛みが長い間続くんだよ。どうする、え?」

 まるでタバコが切れた、とでも呟くように涼しげな表情を浮かべるリッシュ。キャラガーは苦悶の表情をしながら、リッシュに瞳で訴えかけた。喉元を掴まれている所為であ、や、えっとしか言えないのにわざとらしく気づいた振りをして、リッシュは手を離す。

「おっと悪かった。ついかっとなっちまった。なあ、また野獣に出てこられちゃ困るだろ、ミスター」

「知ってる。知ってるよ。かれとは友人なんだ。それだけだ」

「本当かなあ」

「わ、分かった。アジトだ。奴の家も知ってる」

 ついに屈服したキャラガーを見て、リッシュはにっと微笑むと、先ほどの猛虎のような荒々しさが嘘に思えるような、穏やかな表情をした。

「ねえ、キャラガーさん。あなたには息子さんがいるんでしょう。スプリング・シティのほうに」

 はっと、キャラガーの顔が屍のごとく蒼白になる。かれの震えはじめた身体をリッシュは優しく諌めた。

「大丈夫ですよ。俺はね。あなたを高く買ってるんだ。だからそんな卑怯な真似はしませんよ」

「頼む。お願いだからあの子だけは」

「ファミリーに情報は渡してませんし、俺は正々堂々やりたかった。分かるでしょう」

 すがるように腕を掴んでくるキャラガーにそう語りかけると、かれはキャラガーの隣へと腰を落ち着けた。

「教えてはくれませんか」

 最後の駄目押しに、キャラガーはもの悲しそうな瞳を浮かべ、大きなため息を付いた。そして言った。

「ノースハイツ。シルヴァー・ヘイブン。サンセット・スター通り三六七」

「ありがとう。キャラガーさん」

 朗らかに微笑みながらリッシュはキャラガーを肩を叩く。かれは立ち上がって、携帯電話を出した。

「ミスター・ルティ?」

「どうした。見つかったか」

「ノースハイツ。シルヴァー・ヘイブン。サンセット・スター通り三六七が奴のアジトです。これから偵察がてら行ってみます」

「注意しろよ。相手はイカれたサイコ野郎だからな。その情報はどこから?」

「イースト・フォールズで故買屋を営んでる男がいまして。そいつから。住所を教えるので、兵隊をよこしてください」

「保険だな。よし、分かった」

 通話を終えると、リッシュは憔悴しきった様子のキャラガーに笑いかけた。そのまま、お互いに会話も無しに二〇分も過ぎると、扉をノックする音が聞こえる。それもかなり慌てているようだ。

「オーナー。スケアクロウの方が」

 キャラガーは恨めしそうにリッシュを見つめる。リッシュは眉をあげると扉をこちらから開け、ドスの利いた声で、

「そいつらをここに連れてこい。いいか。オーナーと大事な商談なんだ。邪魔したらぶっ殺すぞ」

 と言った。

 若者は震えあがりながら、すぐにカウンターへと飛び出し、数分もしない内に屈強そうな男を三人連れてきた。その中の一人にリッシュは声をかける。

「エミリオ。ルティさんから連絡が入るまで、この人に付いていてくれ」

「アイアイ・サー」

 二本指で半ばふざけて敬礼する。エミリオは海軍出身だった。リッシュは肩を竦めると、部屋から出ていく。

 店内から出るとき、妙にじろじろと眺めまわされる。リッシュは路肩に停めた愛車へと向かい、そのフロントへと寄りかかった。

「因果なお仕事だよなあ」

 かれは小さく嗤った。



  5



 リッシュは車窓に流れていく景色を横目で見ながら、今日という日を何時か思い出すとき、とても忙しない一日として記憶されるに違いないと思った。

 車はハイウェイを滑り、サウス・マジソンとウェスト・アイランドを通り過ぎて、ノースハイツへ。すでに七番通りへと出た頃には、正午を過ぎていた。

 シルヴァー・ヘイブンはグリマルディ・ペイと同じように、この区域の代表的な地区として知られている。治安がよく、金持ちが住み、路上を高級車が行き交う。

 ただヘイブンは他よりも非常に閑静な場所だった。アジトとしてはちょうどいいのかも知れないが、まさかここに一軒あるとは。リッシュはマックスの懐には幾らの金が入っているのかを推測して、途中で馬鹿らしくなって止めた。

 リッシュは七番通りから、キャメル通りへ。そしてサンセット・スター通りに車を流す。

 植え込みに一定間隔で聳える灌木が、こちらを悠然と見下ろしていた。リッシュは緑豊かな通りを車でゆっくりと走らせながら、対象のアジトを舐めるように探していく。名前とは違い、サンセット・スター通りは大人しく、閑寂とした通りだった。如何にも高級住宅街らしい。

 ――三六七、三六七。

 リッシュは通りの端にある、塀で囲まれた別荘を見つける。サンセット・スター通り三六七。リッシュは路肩に自動車を停めると、外を少しばかり歩いた。別荘の周囲をぐるりと回る。幾つか灌木が植えられ、整えられた葉叢が視界を遮っている。庭はそう大きくない。塀自体も高いものではなかった。

 かれは愛車へと戻ると、懐から携帯電話を取り出した。

「ミスター・ルティ。例の故買屋が言っていた場所へ着きました」

「で、当たりだと思うか」

「ちょっと外からだと分かりませんね。一度中へ入ってみないと。ヘイブン駅に今から言うものを持って、兵隊を寄越してくれませんか」

「別にいいが、気を付けろよ。リッシュ。ヘマをやらかすんじゃないぞ」

「分かってます」

 携帯を切ると、リッシュは愛車を発進させ、サンセット・スター通りから抜け出した。



 ゴールド・トラスト・ロードを下る。ヘイブン駅の入り口が黒々とした穴を開けて、リッシュを待っていた。人通りは少ない。リッシュは車を停めると、歩道に降りる。

 傍らで階段を降りていく人々を横目に、駅前に佇む。太陽がまぶしい光を放っていた。左手で陽光を遮る。それでもまだ、燦々とうっとおしく光輝いていた。

 風が頬を撫でる。リッシュは軽く舌打ちした。一〇分ほどそこで待っていると、貧相な顔をした男が近寄ってきた。手にはボストンバッグ。リッシュは素知らぬふりをしながら歩き、すれ違いざまにそれを受け取った。

 だいぶ重い。いい感触だとリッシュは思い、車の後部座席にバッグを放り込む。運転席に座ると、車を出した。

 今度はトラスト・ロードを昇り、キャメル通りへと戻る。人通りの淋しいところで車を停めた。後部座席からボストンバッグを取り出し、中身を確かめる。

 減音器を装着した二二口径オートマチック。弾倉は四つ。それと電子錠のハッキング機器があった。

 ――よしよし。

 冷たい笑みを溢すと、リッシュはグローブボックスから黒い手袋を取り出す。それを両手にはめたあと、かれはオートマチックを掴んだ。二二口径。小口径だが、人を殺すのに役不足ということはない。的確に急所へと撃ちこむ腕さえあればこの拳銃は恐ろしい怪物となって敵を噛み千切ってくれるだろう。

 リッシュはスライドを軽く引き、チャンバーに弾が入っていないのを確認すると手早くボストンバックにそれを押し込み、自動車を発進させた。

 サンセット・スター通りへと入る。同じ路肩に車を停めると、運転席から降り、マックスのアジトと思われる別荘の前まで歩いた。そこでインターコムのボタンを押すと、静かに場を去る。数分経つ。誰も出てくる気配はない。リッシュは車からボストンバッグを取り出す。隣の家に設置されている監視カメラの視界に入らないように、バッグを投げると塀を乗り越えた。しゃがみこみ、辺りを見渡す。人の気配はない。かれはバックを取ると素早く家の裏手へと走った。

 裏口が見える。ここも電子錠が設置されていた。リッシュはバッグからハッキング機器を取り出すと、慎重にそれをセットしていく。十数秒経つ。機器のモニターが光り、電子錠のアイコンが赤から青に変わった。機器をバッグに押し込み、近くの繁みに突っ込む。リッシュは寸前にバッグから取った二二口径を両手で構えると、扉をそろりと開けた。

 中は暗い。どうやら廊下が一直線に続いているようだ。リッシュは音を立てないように注意しながら先へと進んだ。

 物音一つしない。何処か嫌な空気が漂っていた。

 リッシュはキッチンへと辿り着くと、そこからリビングを様子見る。誰もいない。高い値が付きそうな調度品はみな、綺麗に整頓されていた。人間味が無い。間違ったかと、眉根を寄せる。

 途端に、リビングの奥から人声がした。リッシュは身構える。声は続く。挟む笑い声。よく聞いてみると、それはテレビから流れ出る音声のようだった。リッシュは腰を僅かに落としながら声のする方向へと進む。リビングの扉を開け、廊下の先にある階段から二階へ。

 突き当たりのある部屋から光が漏れている。リッシュは部屋の様子を伺った。こちらを背にして安楽椅子がある。椅子の先には電源の付いているテレビがあった。

 こそりと椅子に近寄り、素早く横へと出ると銃を突きつける。誰も座っていない。リッシュは首を傾げた。

「そんなに不思議かよ」

 背後からの低い声に、リッシュは本能的に横へと跳んだ。続く銃声――俺と同じ二二口径だ。リッシュは転がりながら体勢を立て直すと、立て続けに引き金を絞った。短いくぐもるような銃声。白壁に弾痕を穿っただけで人間には当たっていない。舌打ちして、瞬時に辺りを見渡す。部屋の出口から手が生え、銃口がこちらを覗いていた。

 ――ファック。

 リッシュは頭上を弾丸が通り過ぎる様を感じたような気がした。咄嗟に撃ち返す。飛び交う銃弾。手が向かいに引っ込む。狼のように飛び出し、拳銃を構える。黒い後ろ姿。撃つ、撃つ、撃つ。階段を下りながら撃ち返してくる。そして姿が見えなくなった。二度目の舌打ち。すぐさま弾倉交換を済ませる。奴を追おうとリッシュは足を出した。軽い衝撃。くずかごが倒れている。うっとおしく思いながら、先へ進もうとする。白い、紙切れ――いや、名刺だ。浮き文字でデフリン運送と書かれている。リッシュはそれを拾うと、無造作に懐へ突っ込んだ。

 銃口を階下に向けながら、慎重に階段を降りる。人の気配がしない。リッシュは銃声が外に漏れたことを心配して、裏口まで走った。ひとまず退散だ。繁みに突っ込んだボストンバッグに銃を入れると、塀をよじ登って別荘の外へと出る。遠くからパトカーのサイレンが聴こえてきた。やはり誰かが通報したのだ。

 三度目の舌打ち。

 リッシュは愛車へと急ぐと、後部座席にバッグを投げつけ、アクセルを踏んだ――。



  6



「ミスター・ルティ。デフリン運送という会社について何かご存じですか?」

「いや、知らんね。その運送会社がどうかしたのか」

「さっき奴のアジトへと侵入した際に襲撃された話はしたと思いますが、二階のくずかごにこのデフリン運送の名刺がありました」

 リッシュはノースハイツを七番通りに乗って北上しながら、ハンドル片手に通話をしていた。横を赤のスポーツカーが獲物に襲い掛かる鷲のような勢いで走っていく。

「何か関連があると?」

「俺はそう見てます。ミスター・ルティのほうで調査してもらえると助かるんですが」

「分かった。すぐに調べてみよう。三〇分後にまた掛け直す」

「お願いします」

 リッシュは通話を切る。もうスポーツカーは地平線上に消えていた。かれはハンドルを切ると、横道に入る。角にドーナツショップ。時間を潰すために駐車場へと乗り入れると、バッグを持ち、車に鍵をしっかり掛けた。この国で信用などあるものか。

 ドーナツショップはどこも同じだ。おおむね汚い床。やる気の無さそうな店員。怠惰にあけくれる客。リッシュはカウンターでコーヒーとドーナツを頼むと、食品を置いたトレーを持って近くのテーブルへと座った。

 バッグを膝に置くと、コーヒーに口を付ける。安っぽい味。嫌いではない。リッシュは宙に息を吹きかけると、窓に目をやった。

 二人の若い女性が歩道を歩いている。楽しげな表情。二人をぼんやりと見つめながら、リッシュはもし義妹が生きていればあのくらいの年になっているだろうなと考えた。洒落た洋服を着て、街を歩き、突飛なことをして家族に心配をかけるのだ。そしてリッシュ・ヘルラウンズはこのやんちゃな義妹をぽこりと殴り――。

 途端に、目頭が熱くなってきた。不思議だった。一瞬リッシュは狼狽した。もう涙など枯れたと思っていたのに。リッシュは自らを叱りつける。浮ついた気分でいると死ぬぞ。目尻を上着の袖で拭うと、リッシュは無表情を保ち、トレーを返却した。バッグを持って店を出る。駐車場に停めた車へと戻ると、シートを倒して目を瞑った。

 一分、二分、三分。時間の感覚が曖昧になる。写された暗闇が蠢き、鼻孔に人体の焦げた臭いがこびり付いた。焼け爛れた手、足、顔。唐突に襲ってくる吐き気。燃えた肉をぶら下げながら醜悪な怪物が両手を伸ばしてくる。どうして? どうして? なんで抱きしめてくれなかったの? どうして? どうして? ごめんよ、すまない、行けなかったんだ、ちゃんと辿りつこうとしたんだ、お前を抱いてやろうとしたんだ、許してくれ。どうして? どうして? 助けてくれなかったの? どうして? どうして? 駄目だったんだ。どうして? 頑張ったんだ。なんで助けてくれなかったの? どうして?

 両手が目を潰そうとしてくる。どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして――。

「うるせえ!」

 叫んだ拍子に、携帯電話が唸りをあげた。リッシュは汗で濡れた額を拭うと、すぐに電話に出る。

「ヘルラウンズ」

「リッシュか。調べ物の件だが、当たりだぞ。デフリン運送の社長、ロジャー・デフリンは最近流入してきた海外マフィアの連中と組んで、ドラッグ密輸をやってる可能性がある」

「なるほど」

「マックスとどう関わりがあるのかは不明だが、恐らく海外マフィアの何処かが、スケアクロウ要塞の一角に穴を空けようとしたってところだろうな」

「あくまで推測」

「そういうことだ。もっと突っ込んで調査してみる。今日は休め。また後日連絡する」

「了解しました。神の祝福を、ミスター・ルティ」

「お前さんにもな、リッシュ」

 携帯電話を切ると、リッシュは大きくため息を付いた。どうしようもないことだ。本当に、どうしようもない。リッシュは数分ほどそこで座り込み、それから車を急発進させた。

――少し休もう。

 もう日も落ちてきている。七番通りに車を出す。南下。三度目のアトランテ・ハイウェイ、二度目のヴァンク・インターチェンジ。リッシュは呟く。「今日はずいぶんと走ったな、相棒」。普段なら車に語りかける気も起きていなかっただろう。一種の気休めだった。三四番通りを進み、ミッド・ロードに移る。

 ここまで来ると辺りは静けさを増す。暗がりに誰かがいるような気配がした。鋭敏すぎる感覚がリッシュを拘束する。クソッ、リッシュはそれを振り切るべく速度をあげた。通りを突っ切り、そのまま自宅へと急ごうとする。

 不意に脇道から現れ、道を塞いだ黒のバン。ブレーキを踏んで、リッシュは速度を緩めた。得体のしれない手が身体をまさぐっていた。ぞっとする。バンから目出し帽を被った連中がワラワラと出てくる。その手に握られているのは、短機関銃。リッシュは手を振り切ってアクセルを思い切りに踏んだ。撃ちこまれる無数の弾丸。顔を伏せる。歯を食いしばった。風穴だらけになった鋼の猛牛がバンのフロントフェンダーに突撃し、バンを弾き飛ばす。背後からのけたたましい銃声。リッシュは素早くハンドルを切って、通りを最高速度で走った。一〇分ほど移動し、やっと追手が来ないと分かると、車を路肩に停める。パトカーが二台、凄まじい勢いで横を掠めていった。シートに寄りかかり、リッシュは呟く。

「クソッタレ」



  7



 リッシュはしばらく車内の中でじっと時が経つのを待っていた。正直に言えば、恐ろしかったのだ。今まで殺して、殺されそうにもなってきた。そういうときに、必ず訪れる身勝手な感情。俺は生きてたい。奴は生きるべきじゃない。ヒットマンとしてリッシュはそう強く思うことがあった。

 かれは指先でハンドルを叩く。三回、静かに打ち鳴らした。浮ついた気持ちでいれば死ぬに違いない。よくよく冷静にならなくては。

 心から恐怖の小波が引いていったとき、すぐにリッシュは携帯電話を掴んで、ある男のところへと電話を掛けた。

「ミスター・ルティ」

「おい、今日は休めと」

「やられました」

「あ?」

「アジトが突きとめられたんですよ。襲撃されたんです」

 電話の向こうでルティが息を呑む。次の言葉は真剣そのものだった。

「弾、くらったか?」

「愛車はボロボロです。俺は背広に塵一つついてませんが」

「運がいい奴だ。俺もあやかりたいね」

 冗談交じりだが、その声調にはかなり用心深そうな響きがあった。かれは言葉を続ける。

「数と兵装は?」

「黒いバン。数人が短機関銃を持ってました。たぶん八人ちょっとはいたと思います。パトカーがすっ飛んで行きましたから、そっちで確認したほうが速いかも知れない」

「バンのナンバープレートは覚えてるか」

「いいえ。生憎ですが」

「OK。例え覚えていたとしても、盗難車か偽造プレートだったろう。気にするなよ」

「とりあえず、俺は予備のセーフハウスに行きます。たぶんそっちは大丈夫だと思いますから」

「分かった。何かあったらすぐに連絡を入れろ」

 リッシュは礼を言うと、通話を切った。もう日は落ちて、街を暗闇が包み込もうとしている。通りの幾つかの店ではネオンが煌めき始めた。



 日がうす高く昇り、陽光が街を穏やかに照らす。新たな車を手配してもらったリッシュは、二番通りを東進し、シティ東部のイースト・フォールズへと向かっていた。

 真新しいハンドルを握りながら、今朝方ルティからもたらされた情報を思い出す。ロジャー・デフリンの娘はマックスと関係を持っていた。

 アイラ・デフリン。イースト・フォールズ、メサイア・カウンティ、バロン・ストリート六七五六、五六八号室。

 リッシュは後部座席に放り込んである物のことを考えた。ドアを吹き飛ばすのに使う超小型消音精密爆薬。そして四五口径オートマチック。強力無比なグレイザー・セフティ・スラグ弾を装填してある。

 些か重武装かも知れないが、相手はあのマックス・ファイアシューターだ。用心しすぎる、ということはない。リッシュは自らを納得させながら五番通りに入った。

 そこからセルべス通りに入る。人通りが多く、様々な種類の人間がいた。真っ直ぐと行くと、やがてリッシュはメサイア・カウンティへと入る。ノースハイツ寄りの地区で、治安はいい。

 バロン・ストリートに車を乗り入れると、六七五六はすぐに見つかった。一見高級コンドミニアム風だが、幾らか老朽化していて、見かけよりかかなり頼りない。リッシュは事前情報通りに裏の非常用階段扉へと向かうと、軽くそこを開錠し、湿った匂いがする無愛想な階段を一段一段昇って行った。

 六階でかれは扉を開ける。廊下には誰もいない。すぐに廊下へと出て、扉を閉める。素知らぬふりをして、リッシュは五六八号室を探した。五六三、五六四……五六七、五六八。かれは手持ちのバッグの中から黒手袋を着用し、四五口径を腰に差すと、数回ノックをした。

 向かい側でなにやら一声聞こえる。次第に大きくなる音。リッシュはドアノブに細紐状の精密爆薬を素早く設置すると、信管を挿し込み、少し離れて爆発させた。風船が割れたような音がして、ドアノブ部分がだらりと零れ落ちる。すぐに扉をこじ開けると、廊下の先から女と男が混ざり合った奇妙な声が聴こえた。

 リッシュは四五口径を両手で構え、廊下の先へと突進する。激しい銃撃。かれは壁に引っ込み、しゃがみこんだ。

「殺し屋かあ? 遅かったじゃないか。あまりにも暇なんでな。可愛い子ちゃんと一発しけこまさせてもらったぜ」

 低く、それでいてどこか軽薄な雰囲気の声は更に数発撃つと、小さく笑った。リッシュの背筋に電流が走る。間違いなくこいつはマックス・ファイアシューターだ。義妹を殺した野郎だ。奴は反省も何もせず、ただヘラヘラとしている。許されるものではない。

 極力身体を晒さないようにしながら、片手撃ちを試みた。部屋は狭い。二つの影のうち、もう片方がベランダへと飛び出す。リッシュはそれを追おうと足を踏み出した。瞬間、もう一人が奇声を発して組みついてくる。女だ。金髪の豊満な体付き。平時ではさぞ美しいその顔貌は、今や鬼のようだった。

「どけ、クソアマ!」

 思い切りに突き飛ばすと、リッシュはベランダへと乗り込んだ。銃撃。下からだ。奴は階段を下って、路地裏へと逃げようとしている。リッシュも目くら撃ちで応射しながら階段を下った。足で火花が飛び散る。かれは恐れなかった。ただ氷のような憎しみが、リッシュを急かしていた。

 マックスは路地裏に飛び降りる。その隙にリッシュはマックスを照準に捉えた。発砲。命中せず。舌打ちとともに応射が来る。マックスは走った。リッシュも飛び降りると、それを追った。マックスはまだ笑っていた。かれは叫んだ。「楽しいなあ」。

 リッシュは遠のいていく背中に向けて、やたらめっぽうに発砲した。リッシュは相手が足を止めるまいと予想しながら、怒声をあげる。

「止まれよ! 女殺し!」

 途端、マックスは足を止めた。そしてリッシュが引き金を絞る前に、かれは悠然と振り向いて、その陰気そうな笑みを大きくした。

「よう、兄弟。妹さんは元気か? スパイシーだったろ?」

 かっとリッシュの頭に血が昇った。マックスは目を細めながら続ける。

「そう怒るなよ。おお、恐ろしいおめめをしてるじゃねえか。やっぱりなあ。似てるぜ。俺とお前は。面識もないけどよ、そっくりだ。ははは」

 銃声がマックスの笑い声を引き裂いた。リッシュはホールドオープンになったオートマチックを恨めしそうに見つめる。マックスは微笑みを見せると、おどけながら手を振って、通りへと走っていた。バックアップガンを取り出す暇さえなかった。リッシュは怒りに囚われて、愛銃の残弾すら数えられなかった自分を恥じた。

 ――もう少しだった。もう少しで奴を殺せたところだった。最悪のヘマを、俺はやらかした。

 リッシュは俯いた。奴は言ったのだ。俺とお前は一緒だと。よく考えればそうかもしれなかった。あの場で彼女を助けられなかった後悔が、怒りとともに渦巻いた。あの義妹を殺した奴と、俺は似ている。似ているのか。俺は鏡を見ていたのか。鏡を憎んでいたのか。

 奥歯を噛む。所詮、戯言だと呟くと、上から声が轟いた。

「人殺し! 人殺しよ!」

 金髪の女が半狂乱になって騒ぎ立ていた。生憎だが、お前の彼氏をやっちゃいないぜ。リッシュは他の窓からも住民が顔を覗かせているのを見て、舌打ちした。

 かれは素早く路地裏から逃げ出した。後ろからヒステリックな女の声が追ってくる。畜生め、とリッシュは吐き捨てた。



  8



 携帯電話を耳に当てながら、リッシュは奥歯を噛み締めていた。

「しかし、それが必要なんです。コスタンツォ・ルティ」

「待つことだって同じくらい重要なんだぜ。お前さんの気持ちも分かるが、無理なもんは無理なんだ」

 声の主は柔らかながらも断固とした口調で、リッシュの要請を断った。

「つまりさ、お前さんが言いたいのはこういうことだろう。火付け屋を追おうにも手がかりがない。だからルティさん、奴の愛人である娘とその父親をとっちめて、情報を吐き出させろ、と」

「身も蓋もない」

「だけどな。どんな手段をとっても構わねえってボスが言っていたとしても。ちょっとそいつは不可能だ。理由を教えてやる。女は警察に保護されてて、父親は海外マフィアの連中ががっちり固めてる。警察の方じゃあ、いまやスケアクロウの影響力なんてのはずいぶん弱体化してるんだ。どうにもならないね」

「ボスに話を通してくれませんか」

 少しの間を置いて、ルティの声が険悪さを含んだ。腹の底から響くような声だった。

「おい。俺を信用できないってことか。そうじゃねえだろう。俺は俺の仕事をやってる。お前はどうなんだ」

「すいません。言いすぎました」

「ふん。どうだかな。まあ、ボスにはいってあるよ。お前が気にすることじゃない」

「ありがとう。また掛け直します」

「ああ、そうしろ」

 通話を切ると、リッシュは目頭に指をやってぐっと抑え込んだ。どうにもならない。これがヘマの結果だ。かれは自分を呪った。冷蔵庫の引き出しを開けて氷を取り出すと、一個を口に含む。仄かに眉を顰めた。口に浸みる。リッシュは音を立てながら噛み砕いた。

「ああ、畜生」

 サウス・マジソンのセーフハウスはそう悪いものではなかった。各所の家具は少々古びてはいるが、しっかりとした造りをしている。テレビはブラウン管だが、リッシュはコメディ番組やくだらないメロドラマを毎週欠かさずに高画質で視聴しないと怒り出すなどという悪癖は無かったから、それは問題ではなかった。

 かれは洗面所に行くと、水を顔に荒々しく叩き付けた。感情的な行動だった。そうでもしないとリッシュは自己嫌悪から逃れることができなかった。しかしかれにとって自己嫌悪は実際的なものではなかった。邪魔なだけだ。清潔なハンドタオルで顔を拭くと、それを振り払った。



 ――違う。何が違うのか。見捨てたろう。もうどうにもならなくても見捨てた。その事実は変わりはしない。お前はクズだ。兄貴として最低の野郎だ。だから彼女は罰を俺に与えているのだ。

 化け物が、その焼け爛れた恐るべき顔貌に笑みのようなものを浮かべる。リッシュは冷や汗が額を伝い落ちるのを感じて、身震いした。

「もうやめてくれ」

 首を絞められながらあえいだ。意識がはっきりとしない。ぼんやりとした霞みかかった気持ちの中、息苦しさだけが脳を揺るがしていた。

 醜さに浸みこんだ悪臭が鼻孔をついた。涙が零れ落ちた。化け物の涙だった。それを見て、リッシュは精神が凌辱されたような気分になった。

「辛いのはおれだって同じさ、スウィートハート」

 困ったような表情を浮かべて、リッシュはつぶやいた。答えなど期待はしていなかった。ただ自らに語りかけた言葉だった。



 包まれるような感触から眼を開けると、そこには確かな天井があり、身悶えするような怪物は存在していなかった。リッシュは眉をあげると、数分間、その場に佇んだ。拍子抜けするような感覚と、仄かな罪悪感がこびり付いていた。

 先ほどから携帯電話が野獣のように唸りたてていた。リッシュはゆっくりとそれを掴むと、電話に出た。

「レイニー。どうしたんです」

 電話口越しにかれの硬質な表情が伝わるほど、その声はこわばっていた。リッシュはただごとではないなと思い、それが当たっているのを知った。

「いいか。落ち着いて聞きたまえよ。リッシュ――我らがミスター・グレートが殺された」

「なんだって」

 リッシュは一瞬レイニーが冗談を言っているのかと思った。しかしかれの声色と性格から判断して、それはないという結論にたどりつく。すると口が自然に開き、頭からバケツで水をかけられたように、全身が冷たくなっていくのを感じた。

「ウソだろ」

「私だってそう思いたい」

 レイニーが悲痛な声で唸った。途端にリッシュへと襲ってきたのは大きな失望だった。哀しみでも怒りでもない。命令者を無くしたという、失望。これでは自らの復讐心のみで動くこととなる。かれのプロ意識が怒鳴りたてた。もはやあの男を追うのは、お前の趣味なんだぜ。お前自身の欲求によって奴を追うんだ。そう、これからは行動自体がなによりの証明となる。リッシュは歯軋りした。

「恐ろしいことになるぞ、リッシュ」

 低く、重苦しい声調でレイニーは言った。



  9



 漂う紙煙草の混合臭の中で、ミスター・グレート――ローマン・スケアクロウは何を思って死んだのだろうかとリッシュは考えた。ファミリーのことだろうか、それともふたりの息子たちのことか。もしかしたら何もなかったかも知れない。痛みに身体を貫かれながら、呪詛の声を口にしてくたばったのか。

 そうではない。もっと深遠なことだったに違いない。リッシュの内で誰かがつぶやいた。今となっては明らかにされることもない。偉大なるボス。かれは逝ってしまった。誰の手も届かない場所へ。

 かれには世話になった、とリッシュは思った。死んだことは残念この上ない。しかし何よりも歯噛みしたいのは、かれの死によって命令が宙に浮いたことだった。次期首領が決まるまでの間、リッシュは動けないのだ。それとも独断で奴を追おうか、駄目だとリッシュは首を気だるげに振った。リッシュには様々なしがらみがあった。勝手に飛んで行って、死刑にする前に殺してしまうわけにはいかない。

 何よりも、今は組織力が必要な状況だった。一人で追走できる相手ではない。リッシュは頷き、そしてローマンのことについて考えを再度巡らせた。

 かれは死んだ。噂では市議会議員と会見した帰りだとか、新ビジネスのための根回しを行っていた、とか、様々な情報が漏れていたが、リッシュにとってそれは問題ではなかった。要は、かれは高級車の後部座席に乗っていた。そして前を塞がれて、挟撃され、身体を蜂の巣にされた。

 極めて計画的な犯行だった。内部の誰かがルートを漏らしたに違いない。しかし、誰がそんなことを。リッシュは首を傾げた。そのような情報を持っているのは、ファミリーでもかなり高位の連中であって、下っ端の犯行ではありえない。きな臭い事件だった。

 ――しかしまあ、無理に追及はしないほうがいい。

 新しいボスに命令でもされない限り、リッシュがやることはひとつ。葬儀に参列し、厳かな気持ちでかれとの別れを惜しむことだ。

 セント・アングリア教会で葬儀は行われる。一部の者達だけで行われ、大々的にはやらない。どちらにせよ、秘密にしてしまうわけにはいかないが、総員集めてわんさかやるのはローマン・スケアクロウの望むところではなかった。

 ベルロック通りを黄色のタクシーが進んでいく。リッシュは後部座席から、もうすぐ目的地へと着くと見て、襟を整えた。

 五分ほど経ち、タクシーが停車する。リッシュはこちらへ振り向いた運転手に金を掴ませると、タクシーから悠然と降り立った。

 通りの先に、セント・アングリア教会が見える。決して大きくはないが、荘厳な雰囲気のする建物だった。神の権威が取り巻いている。悪党にはもっとも似つかわしくない場所だ。リッシュは歩を進めた。



 葬儀そのものは厳かに、そして静謐に進んでいった。故人の家族は当然として、一部の幹部なども参列している。まず家族と故人の最後の対面。次にミサが始まり、黙祷、讃美歌の合唱が終わると聖書が朗々と読まれた。リッシュは視線を巡らす。

 落ち着いた、しかし悲しげな表情で佇むローマンの妻、エレナ。その隣で、彼女の肩を支えているのはアンダーボス(副首領)のひとりでもあるエリック・スケアクロウ。少し離れたところでぽつりと立っているのは、感情を読み取れない、虚ろな顔付きをした養子のジャック・スケアクロウだった。リッシュの上司でもあるコスタンツォ・ルティも重々しい顔付きで場にいる。他にも大物揃いだった。

 リッシュはその中でジャックに視線をやる。かれはリッシュにとって特別な存在であった。孤児時代を共に過ごした友人。そしてこの業界へリッシュを誘い込んだ張本人でもある。リッシュは朗読が終わり、司教が説教するのを聞いて、視線を戻した。



 葬儀はそう時間がかからずに終わった。リッシュは教会から軽く足を踏み出すと、大きく伸びをする。そしてため息を溢した。かれはタクシーを探そうと、通りを速足で行こうとする。突然、背後から声が掛かった。

「リッシュ。ちょっといいかね」

 背後に振り向くと、そこには穏やかな顔付きをした大柄な紳士――エリック・スケアクロウがいた。口元が幾分か冷笑的で、それがまたかれに威厳を与えている。その口が今は好意的に歪められていた。リッシュは少々肩をすぼめながら、返答する。

「ええ、時間はありますが。どうしたんです」

「なに。父にはお互いに世話になった身だ。食事でもして、想い出話に花を咲かせようかと思ってね」

「いや、気持ちはありがたいんですが、こういう時だから」

 鷹揚にエリックは首を振ると、無邪気そうな笑みを貼り付けて、リッシュの肩に優しく手を置いた。

「こういう時だから、こそだろ。お互いに遠くのことまで話し合っておくべきだ。それともこんな私とは嫌かね」

 嫌味のない話し方だった。好感がもてるやり口だ。リッシュは戸惑ったように、視線を外すとまたすぐに合わせていった。

「分かりました。自分で良ければ、一緒に行きましょう」

「よく言った! ロミストロ」

 背後に控えていた黒服が頷き、通りに合図をやると黒いリムジンが緩やかに走ってきた。リムジンが近くで停まると、黒服が後部座席の扉を開ける。

「君が先にどうぞ」

 リッシュは軽く躊躇いながらも頷き、慎重にリムジンの中へと入る。品のいい匂い。高級革の座席。内蔵されたクーラーボックス。窓はミラーガラスだった。端に収まると、すぐにエリックも入ってくる。黒服が助手席に乗り込むと、運転手がアクセルを踏み、リムジンは走りだした。

 しばらくリムジンに揺られる。エリックはクーラーボックスからシャンパンなどを取り出して、リッシュに勧めていたが、酒は飲まないと言われると肩を竦めて、静かに微笑んだ。

「煙草も君はやらないんだったな」

「ええ、好きじゃないんです」

「じゃあ父の周りは嫌いだったかね」

「そういうことでは」

 短く笑うとエリックは「私も煙草は好ましいとは思っていないよ」といい、秘密めかして様子で「今だから言えるけどね。親父の周囲は耐え難かった」といった。リッシュは薄く笑った。

 それから少し経つと、リムジンはとある駐車場へと乗り入れた。まず助手席から黒服と運転手が降り、辺りを確認した後、エリックを出す。次にリッシュだった。

 降りた先は清潔な通りの一角だった。向かいにはこじんまりとしてはいるが、気品のあるレストランが軒を構えている。エリックはいった。

「私のお気に入りの店なんだ。よく来るんだよ」

 運転手はリムジンへと残り、黒服に先導されるようにしてエリックとリッシュは店の中へと入っていった。 運転手はリムジンへと残り、黒服に先導されるようにしてエリックとリッシュは店の中へと入っていった。古風なイタリアンレストラン。客層も悪くはないようだった。黒服に先導されたリッシュとエリックが入っていったときこそ、驚いた目で見つめていたが、すぐに視線を逸らして、気にしないことに決めたらしい。

 エリックに連れられ、リッシュはボーイの後を追いながら、二階にあるVIP席へと向かった。木製の階段を昇り、架けられた絵画を横目に見ながら、リッシュはエリックに会釈する。エリックが先に行くと、リッシュも後ろから付いて行った。

 二階で食事していた人々はエリックを見て、すぐに誰だか分かったらしく、畏敬がこもった瞳で彼を見つめた。エリックが苦笑すると、彼らも微笑みながら俯き、また自分たちの世界へと戻っていく。窓際の席に座ると、黒服は近くの椅子に座り、リッシュとエリックは向かい合う形となった。

 エリックがいう。

「何を頼む?」

 ボーイがメニューを持って、今日のお勧めはと続ける。料理長とおもわれる男も下からやってきて、エリックに挨拶し始めた。リッシュは挨拶を終えた料理長が下に戻るのを眺めながら、適当にお勧めと赤いワインを注文した。エリックも同様だった。ボーイは年季の入った、愛嬌のある笑みを浮かべるとそそくさと帰っていった。

「さて、何から話そうか。まず我が父のことかな」

 指を組んで、エリックがつぶやく。

「良い父だった。こういう家業にありがちな苛烈さも持ち合わせていたが、家族には常に義理堅い男だったよ。そういう昔ながらのところがあったんだな、ローマン・スケアクロウには」

「だからリスペクトされていたんでしょう。俺も尊敬しています。街の多くの人々もそうだ」

 エリックが皮肉げに唇を歪め、そしてそれを戻した。リッシュは気づかないふりをする。

「まあね。そういうことだろうね。だから彼はミスター・グレートだったんだろうな。偉大なる男。そう、我らがローマンはな。彼を殺した連中は地獄へ赴くだろうね」

「誰かは分かってないんですか」

「分かっていたらだ。今頃、君を筆頭としたヒットマンチームを送り込んで、そいつらをミンチにしてやっただろうぜ。ふむ。ファミリーの情報網をフルに使ってはいるがね、まだ分かってない」

 リッシュはエリックの形のいい両眉が沈鬱そうに下がるのを見た。そして心中に妙な罪悪感が浮かんできたのを感じた。俺は悲しんでいない。彼ほどには。

「とにかくいい親父であり、いいボスだった」

「そうですね」

 ボーイがワインと料理を運んできた。牛ヒレ肉のソテーにグリーンペッパーのソース。見ているだけでも腹が減りそうだなとリッシュは思った。次に置かれたワインからは芳醇な、喉を潤す匂いがしてくる。ボーイが行くと、まずエリックが手をつけた。それを見てリッシュも手を付ける。

「しかしまあ、問題は今後のことだよ」

 フォークとナイフを置いて、エリックがいった。真剣な口調だった。

「今は少々拙い時期だろ。外国産の、凶暴なだけが取り柄の連中がこの市にもかなり浸透してきてる」

「間違いないですね。奴らは何かあると、すぐに銃を出してくる」

「そういう馬鹿ばっかしだったら良かったんだ。それが本隊があとから続いてきて、この市の権力機構まで蝕もうとしてる。ここは我々のホームグラウンドだ。好き勝手やられちゃあ困る。だが現実問題、奴らはなんたって狡猾だ。一朝一夕で片がつく問題じゃあない。今はファミリーが一致団結するときなんだよ。そうだろ、リッシュ」

「ええ。そう思います」

 エリックが目を細めた。そして胸の前で握りこぶしを作ると、それをゆっくりと開き、また閉じた。

「だが、それには問題がある。私の義弟だ。彼はどうも私がボスの位につくのが気に入らないらしいが、ふむ、困ったな」

 リッシュはそっと首筋にナイフを晒された気分になる。エリックの義弟、ジャック・スケアクロウは自らの友人で、過去の親友でもあった。それを見越したように、エリックが気安く笑った。

「ああ、気にするなよ。彼は確かにいいこともする。それが君を助けたことだ。そうだろ。とにかく彼は現代的だ。やり方も、何もね。それがいいことか、悪いことはともかくとしてだが」

 微かに、曖昧に頷くリッシュを見ながらエリックは呑気な口調でいった、

「そういう問題に発展するのはよくないね。実によくない。内戦なんてのはごめんだ。だが向こうが望むというなら、受けて立たなくてはならない。しかしなあ、私は争いがしたいわけじゃないんだよ、リッシュ。君なら分かるだろ」

「ええ、おそらくは」

「身内の争いなんてまっぴらだ。本当にね。だからこそ向こう側ときちんとした意思疎通を取ることが大事だ。リッシュ、私は君に彼との橋渡しをしてほしいと思ってる。外交官というわけさ、悪い仕事じゃあない。金だって私から出す。どうだ、このささやかな、それでいてファミリー全体のためになる重要な仕事を引き受けてはくれないか」

 リッシュは一瞬俯くと、考えた。いろいろと問題だ。外交官、しかも金を出してもらってる外交官だ。ジャックは俺を信用しないだろう。これは暗に、俺に傘下へ入れと誘っているのだ。リッシュはいった。

「いや、しかし所詮俺は殺し屋です。そういう能はないと思う。ただ撃って、殴って、絞めて殺すんです。俺が出るときは明確なファミリーの敵がいるときです。お申し出は光栄ですよ。だけど、これらはよく考えてみないと」

「そうだな、すぐにはいというわけにはいかないな」

 エリックは首を曲げて、横を見た。片目には怜悧な光が宿っていた。そこに一瞬おぞましいものを見た気がして、それは自分の瞳が反射しただけだと気づいた。リッシュはうつむいた。となるとひどい目をしているに違いない。

 エリックはいった。

「まあ、食事を楽しもうぜ。リッシュ」

 それから世間話を交えながら、数十分もして完食し終えると、エリックは「一緒にリムジンに乗って行かないか」と誘ったが、リッシュは断った。

 彼は最後にエリックと挨拶を交わした。エリックは微笑みながらいった。

「君に幸運を」

 リッシュも同じ言葉を返すと、彼は足早にレストランから出ていった。



  9



 レストランからの帰り道。歩道を歩きながら、背中にヘッドライトを照らして消え去っていく自動車にリッシュは視線を投げかけた。

 自動車はすぐに十字路を折れ曲がり、視界から去る。残ったのは辺りを漂う静けさと、リッシュが漏らした咳の音だけだった。

 彼は少し考えるような素振りを見せた後に、コートのポケットへと手を突っ込んだ。そしてそこから一枚の板ガムを取り出すと、銀紙を取り、口に放り投げる。

 銀紙が歩道に落ちて、足で潰された。

 こんな日もいい、とリッシュはつぶやいた。もう夕方だった。歩く者も少ない。特にリッシュが通っている通りは深閑としていた。地球上には彼一人と思われるほどだった。

 彼は先の通りでタクシーを捕まえようと考えた。地下鉄で帰るには、少々物騒だなと感じ取ったからだった。要は、この通りの雰囲気に感化されていた。

 リッシュは急に足を早めた。背後で靴音がしたからだった。ふとした途端に迷い出てきたという印象を彼は持っていた。そしてそれは偶然ではないとリッシュは気づいている。

 角で止まって、とっ捕まえてやろうと路地裏の横を通り過ぎた。風を切る音とともに鈍い衝撃が走る。思わずリッシュは膝を付きそうになり、何とか体勢を立て直した。

 頭がぐらぐらと揺れている。リッシュはすぐに目を横へ向けた。そこにはトンファーバトンを持った男がいた。フードを深く被っていたが、妙に殺気立った視線はすぐに分かった。

 もう一度殴りつけようとしてくる男。リッシュは声をあげながら男に飛びかかった。右手の指をがむしゃらに双眼があると思われようところへ突っ込む。ぎゃっという叫び声が聞こえた。

 すぐに下腹部へと蹴りをお見舞いしようとしたが、背後から思い切りに殴られ、リッシュは痛みに眉を顰めた。振り向き、顎を咄嗟に殴りつける。地味なスーツを着た中年が、うめき声をあげて仰け反った。

 後から付けてきた奴に違いないとリッシュは検討を付け、更に攻撃を加えようとすると、鋭い声が場に響き渡った。

 リッシュは背筋が凍りつきそうな感じを受けて、すぐに顔をそちらへ向けた。推測通りだった。新しい男たちがいて、その内の一人が拳銃を構えている。みな、獣の匂いがしていた。

 拳銃を構えた男はもう一度場を裂くような声を発した。「大人しくしろ。じゃないと撃つ」。リッシュは男の手が少しも震えていないのを見て、そこに慣れを見て取った。

 彼はすぐに諸手をあげた。こいつは場慣れしている。逆らったら、俺をありんこを潰すみたいにして殺してしまうだろう。

 すぐに先ほど目を突かれた男が、体勢を立て直した。リッシュをそのギラギラと光るジャッカルみたいな瞳で睨んでいる。まるで親の仇でもあるかのような目だった。

 彼は低い舌打ちを浴びせると、重いフックをリッシュの腹へと叩きつけた。リッシュがよろよろと後ずさると、誰かが両手をきつく抑えつけてくる。背後の中年に違いなかった。

「ぐっ」

 身体を折ろうとしたが、背後の中年男の所為でままならない。リッシュが悪態を吐くと、眼前の男が唸りをあげてもう一発打ち込んできた。

 リッシュは半ば悲鳴のような声をあげようとしたが、喉から出てきたのは小鳥の掠れ声だと気づく。背後の中年がにたりと嗤った。

「やめろ、もう充分だ。運び込め」

 再度拳を打ち込もうとしていた男が、拳銃をもった男の声で止められる。男は実に残念そうな了承の意を返すと、地面に汚らしく唾棄した。

 周囲の男たちが飛んできて、意識が半ば朦朧としているリッシュの両手を縛り、顔に目隠しをする。彼らは路地の向かい側に止まっているSUVまでリッシュを引きずっていった。

 後部座席を開け、その中にリッシュを放り込むと、男たちは素早くSUVへと乗り込んだ。

 リッシュは錯綜する様々な感覚の中で考える。いったい何処の誰がこんなことを。しかし彼に思い当たるところと言えば、敵対マフィアか、マックスの手の者ぐらいだった。

 少しでも体勢を楽にしようと、僅かに動くと誰かに殴りつけられる。少しの挙動でも観察しているようだった。リッシュはむつと黙りこむことに決めた。

 それから何十分も走り、数回停車したあと、このSUVはサウス・マジソンの倉庫街へとやってきた。先へと進み、一軒の倉庫の前でSUVは停車する。

 すぐに男たちが降りてきて、リッシュを引きずるようにして歩かせた。リッシュの心中に不安と僅かな恐怖が忍びこむ。拷問。殺害。身体が冷えてきた。

 やがて男たちは倉庫内に用意した椅子に、リッシュを座らせると、数人がまた出ていき、残りは場に残った。リッシュは生唾を飲む。もう、どうにならないぞ。

 少しして周囲から物音が消えた。何かの合図だろうか。リッシュは努めて考えないようにしながら、その時を待った。

 唐突に、目隠しが取られる。リッシュは突然飛び込んできて光に眉を顰め、何度も瞬きした。ぼんやりとした黒い人影が映っている。人影はいった。

「いや、悪かったな。だがこうでもしないと、お前は来ねえだろう」

 極めて酷薄な声だとリッシュは思い、そのぼんやりとする頭で考えた。俺はこいつを知っている。誰だ。

「おい、大丈夫か。兄弟。ヤクのやり過ぎか」

「分かってるだろうよ、意地の悪い奴だ」

 リッシュがそう返すと、人影は憎たらしく凶暴な声で笑った。視界から霧が遠ざかっていく。人影が鮮明としてきた。声と同じように酷薄な唇。短めの髪。凶暴そうな光を湛える双眸。

 年代物の友情、ジャック・スケアクロウがそこにはいた。

 彼は教会で見た時と変わらず、妙に虚ろげなものを顔に貼り付け、こちらを見ている。懐かしむ視線だった。リッシュは無愛想にいった。

「両手が壊疽しちまう」

「武器を出してバンバンやらないって誓えるか、殺し屋ボウヤ」

「ほざけ。さっさと解け」

 ジャックが手を振ると、背後から男が近寄ってきて、手首の束縛をとった。すぐに手首をいたわり合うように摩る。ジャックが余裕綽々といった調子でいった。

「ずいぶんだな。ええ? 最近は顔もあわせてねえよな」

「仕事だろ。俺もお前も、会う必要がない」

「怒ってんのか?」

 こちらの顔色をうかがい知るように、ジッと見つめてきた。リッシュはつぶやいた。

「怒ってねえさ。兄弟。だがとんでもないことをやらかしたな」

「そうでもない。お前が黙ってりゃあいい」

 ジャックが強い呻き笑いをした。リッシュは自分が不機嫌になるのを感じながら、続けた。

「俺がクソガキの時からの付き合いだよな、お前」

「そうさな。それぐらいになるか。だから知ってるだろ、俺は目的の為なら手段は選ばねえ性質なんだよ」

「だからってこうかよ。殴りかかって無理やり連れてくるのか」

「それが今の状況に適合していたってところだな」

 ジャックは懐から紙煙草を取り出した。口にくわえると、ジッポライターで火を付ける。リッシュは不快そうな顔をした。

「お互いによ、ストリートで孤児をやってた頃は、こういうやり方はしなかったもんだ」

「時代とともに人も変わる。財布のスリかまして大喜びしてた時とは違うんだよ、リッシュ。俺は今やファミリーのアンダーボスで、お前は殺し屋。そうだろ」

「そうだな、お前は変わったぜ。俺がクソみてえなアーミーに三年入って出てきた後、よくもまあと驚いたもんだ」

「皮肉か。上手くねえな」

 ふっとジャックは笑みを零すと、辺りをゆっくりと歩き始めた。そして再度振り返ると、そこには獲物を狙う荒鷲のような表情をしたファミリーの幹部がいた。

「本題に入ろうぜ。殺し屋。俺はお前が兄貴から何を言われたのか聞きたい。話せ」

「なんだって。何を言ってるんだ、お前は」

「これは冗談じゃねえ。わかってるだろ」

 ジャックが顔を近づけ、怒鳴った。

「言えよ!」

「ファック。答えてやるから、少し黙れ」

 リッシュは鋭い瞳でジャックを睨むと、地面に唾を吐いた。彼もいきり立っていた。しかしこの場で掴みかかるわけにはいかない。彼はいった。

「ただの世間話だよ。ボスを懐かしんで、飯を食っただけだ」

「はっは」

 ジャックは可笑しそうに笑うと、思い切りに近くへあったドラム缶を蹴りつけた。表面がへこみ、大きな音とともに倒れ伏す。リッシュは顔を顰めた。

「いいか。このアホ。ボスを懐かしんで、飯を食っただって? いい加減にしな。あのヘドロみたいな奴がそれで終わるもんかよ」

「エリックのなにが気に入らない?」

「クソッタレ! 奴が親父を殺ったんだよ!」

 ジャックは口元を笑みに歪めながら、怒鳴りつけた。口元がだんだんと締まっていく。リッシュは呆然とし、次にエリックの言葉を思い出した。

 ――私がボスになるのが気に入らない。

 これは俺を担ごうとしているのではあるまいか。有ること無いことを吹きこんで、疑心暗鬼を生むのは謀略の基本であることをリッシュは知っていた。

「オーケー。こいつは驚いた。証拠はあるのかい」

「形にはなってねえがな。お前、信じてないだろう」

「そりゃあな。いきなり言われても、エリックを貶めようとする作戦にしか見えないぜ」

 ジャックはその相貌に似つかわしくないため息を吐くと、リッシュの周りを円をかくように歩いた。一回。二回。三回。そして四回目で彼は止まる。

「そうかい。そうだな」

 彼は手振りで手下に合図を送る。するとリッシュが抵抗する前に男たちが彼を抑えつけて、目隠しをし、再度両手を縛った。ジャックがいった。

「交渉決裂ってところだ」

 手下たちがリッシュを引っ張り、倉庫の裏口へと連れて行った。そしてそこで待っていた。セダンの後部座席にリッシュを乗せると、数人が同じ車に乗り込んだ。

「出せ」

 一人がいった。リッシュは何か間違えたのだろうと思った。殺されるかもしれない。自分は少々見通しが甘かったのだ。額を冷や汗が滴った。



 それからしばらくして、彼は突然車から降ろされた。手首の束縛を解かれる。そして押し出された。足に伝わるアスファルトをしっかりと感じながら、遠くなっていく車の排気音をリッシュは耳にする。

 十数秒して、彼は両手を動かすと目隠しをとった。そこは人通りのない脇道だった。辺りを探っても、自分を降ろした自動車はない。

 リッシュの肩から力が抜け、その場にへたりこみそうになったが、彼は押しとどまった。

 先程の一件で、ファミリーの陰謀劇に自分は片足を突っ込んでいるのだと自覚したリッシュは、憂鬱そうに額を揉んだ。マックスを追っている場合ではなくなるかも知れない。

 身体がどっと疲れ、心が乱されているのを感じた。殺しを行う時にはこんな感覚を受け取ったことなどなかった。リッシュは壁によりかかり、道の先を見た。

 暗闇が充溢し、こちらを観察しているような感じをリッシュは覚えた。これも疲れの所為だ。リッシュが悪態を吐いた。

 ――どうして。

 声が聞こえた。暗闇からだった。リッシュは驚いて、視線を向けた。

 そこには豪熱で全身を焼かれた少女がいた。グロテスクな容貌を纏い、少女はリッシュに手を伸ばした。リッシュは思わず後ずさった。彼はいった。

「勘弁してくれ。もう沢山だ」

 リッシュは壁に拳を叩きつけた。そしてもう一度道の先を見た。そこには暗闇しかなかった。焼け爛れた少女など何処にもいない。

 彼は頭を抱えると、それを壁に押し付け、息を吐いた。

 どうすればいい、俺は。



  10



 夜が明ける。彼はノースハイツ、ギュンター・サイドにあるひとつの小奇麗な一軒家に来ていた。その家は全体的に温かみというものを纏っている造形をしていた。人間臭さ。そんな質感がある。

 庭の芝生は短く刈り込まれ、この家の持ち主がまめな性格であることが分かる。郵便ポストには手紙が一つ突っ込まれている。彼はそれを取ると、もう片方の腕に携えた花束の匂いを嗅いだ。

 彼、リッシュ・ヘルラウンズは実家へと帰ってきていた。自らの故郷へ。孤児から救い出してくれた恩人のもとへ。

 リッシュは小さな階段をあがり、厳重そうな扉の近くに設置されたインターコムを押す。彼は心臓が妙に跳ねるのを感じた。インターコムから高い声が聞こえる。

「どなたでしょうか?」

 彼はインターコムに顔を写すと、不器用に微笑んだ。

「母さん。俺だよ」

 ハッという息を呑んだ音とともに、無音がその場に満ちた。リッシュは居心地悪そうに唇を引き攣らせる。やはり、来てはいけなかったか。

 インターコムが切れ、それから三〇秒もすると扉が勢い良く開かれた。そこにいたのは男性だった。穏やかそうな瞳。癖っ毛があるブロンド。中肉中背。

 彼は一瞬酷く驚き、何か言葉を呑み込むと不自然な笑みを浮かべていった。

「リッシュ。帰ってきたのか」

「ああ、父さん。都合が悪かったかい」

「いや。そういうわけじゃない。さ、中へ入れよ」

 脇にどけた男性――デズモンド・マヒュールに花束を渡し、ぎこちない会釈をしながら、リッシュは中へと入った。そして思う。故郷に平穏を求めにいったのは間違いだったかも知れない。

 途端、リッシュの鼻孔から脳へと懐かしさが伝わってくる。そして小さな嬉しさが泡のように弾けるのを彼は感じた。我が家だ。

 リッシュは廊下を歩きながら、視線を辺りに落ち着きなくめぐらした。何もかもが、近く、遠かった。不思議な喜びを湛えながら、リビングへと入った。

 そこには黒髪を肩まで垂らした、何処かこの年にしては幼い感じの女性がいた。雰囲気のせいで若くみえる。彼女はリッシュに妙に晴れた微笑を向けていった。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 リッシュは軽く逡巡しながらも、ゆっくりと女性へと近づき、彼女を抱きしめた。彼女――エレナ・マヒュールは少しだけ身体を震わせたものの、彼を抱きしめ返した。

 後ろから付いてきたデズモンドは口元を緩ませている。リッシュはエレナから離れると、デズモンドを見た。デズモンドは花束を持ち上げ、エレナに注目させる。

 エレナはリッシュに感謝をつぶやくと、花束を持って廊下の部屋へと歩いて行った。それを見送ったデズモンドはテーブルに腰掛けるように、手振りで示す。

 リッシュは頷くと、椅子に座った。

「連絡も入れず、いきなり帰ってきて、いったいどうしたんだ」

「うん。仕事でね。行き詰って、近くへ寄ったから息抜きにね」

 そうかとデズモンドはいい、何処かぎこちない感じのある笑みを浮かべた。リッシュも同じだった。何処で仕事に就いているかは家族は知っていた。そして何も言わなかった。

 それに触れないのは暗黙の了解みたいなものだった。

「最近、どう」

「そうだな。上手くやってるよ。上々だ。悪くない」

「そうか、それは良かったね」

 リッシュは無理に口元に微笑みを貼り付けると、子供と父親の話を演出しようとしていた。デズモンドも同様だった。

 エレナが帰ってきて、キッチンへと引っ込んだ。デズモンドはいった。

「お前こそ、何かあるんじゃないのか」

「あるよ。色々とね。大変なんだ。嫌になっちゃうね」

「無理はするなよ」

「分かってる」

 リッシュは微笑する。エレナがキッチンからマグを二つ持ってきて、テーブルへと置いた。エレナがいった。

「今日は泊まっていくの?」

「ああ、うん。どうしようか。考えてるんだけどね」

「そう」

 エレナは軽く肩を竦めると、好きにしなさいと笑って、またキッチンへと戻っていた。デズモンドは目を逸らしていた。リッシュはマグに口を付けた。

 甘い味がした。ホットココアだ。昔、義妹とともによく飲んだものだった。郷愁が胸に溢れ、一種独特の感情が渦巻き、彼は目を伏せた。

「もうたくさん!」

 皿が割れる音とともに、エレナのすすり泣きが聞こえてきた。リッシュは何かあったのかと機敏な身のこなしで、キッチンへと赴く。

「母さん、大丈夫?」

 膝を付いて泣き崩れる母親に、リッシュはまったくの善意から手を差し伸べようとした。そしてその手はキツく振り払われた。エレナがリッシュを睨んだ。

「あの子を返して! 返してよ」

 リッシュの中で何かが喚き立て、リッシュは呆然とした。振り払われた手をただジッと見つめる。デズモンドがすっ飛んできて、エレナの肩を抱いた。

 そして酷く疲れたような眼差しをリッシュに送り、いった。

「もう帰ったほうがいい。リッシュ」

 そこからはほとんど覚えていなかった。廊下を帰るときに、開かれた扉から花束が見えた。バラバラだった。それだけが印象的で、気づいた時には車に乗って、ハイウェイを南下していた。

 自分の瞳から何か出るかと思ったが、何も出なかった。リッシュにあったのはただの虚無感だった。どうしようもない。彼はつぶやいた。



  11



 バスティアン。格付けの中では高級という位に相当するであろうホテル。殺し屋であるリッシュ・ヘルラウンズはそのロビーラウンジにあるソファの椅子のひとつへと深く腰掛けていた。

 表面上は退屈そうに大衆紙『レイダー・プレス』へと目を通してはいるものの、その内面ではこれから自らが会合する人物に対しての、期待と不安が渦巻いていた。

 銃は持ってきてはいない。無用心すぎる行いかも知れなかったが、リッシュにとってその人物と会うということは、一種神父へと懺悔するのと同じ意味合いを持つのであり、そこに無粋な鉄の塊を持ち込むのは――例えそれが命を救ってきた相棒だとしても――かなり躊躇われた。

 彼は正真正銘丸腰であり、彼の命を狙う誰かがこの場にいたら狂喜乱舞しそうな状況ではあった。

 リッシュが新聞を畳む。するとロビーに誰かが入ってきた。そちらに軽く視線を向ける。縁が細い眼鏡を掛けた男性だ。四〇代後半に見える。身長はそれほど高くはないものの、理知的な瞳と物腰が、攻撃的ではない威圧を彼に纏わせていた。

 レイニー・マンスフィールド。通称『ビショップ・レイン』。黒いダブルのスーツに深青のタイを身に着けたレイニーはリッシュをその視界に認めると、さりげなく視線で合図を送り、リッシュの側まで悠々と近寄ってきた。彼は小さなテーブルを挟んで、向かい側へと深く座り込む。そしてたっぷり数十秒してから、いった。

「ごきげんよう。いい日和だとは思いませんか」

「貞淑な乙女でも踊りだしたくなるくらいにはね」

 リッシュが微笑して微笑むと、レイニーも笑った。二人は自然な動作で握手をする。リッシュがいった。

「よく来てくれました。話したいことがあったんです」

「ファミリーに尽くす者のためならば、労力はいとわないつもりだよ。リッシュ」

 レイニーが糸のように目を細めた。リッシュが少し身を乗り出す。

「早速ですが、本題をお話ししたい。ボスから与えられた任務のことです」

「ボスね。気が早い奴はもう自分の支持者をそう持ち上げたりもするが。たまに出るんだ。私の前でだよ。途端に口を噤むんだが、恐ろしいことだとは思わんかね」

 レイニーは掛けていた上品な眼鏡を押し上げると、ため息を吐いた。そして改めてリッシュを見つめた。

「話し給え。特別顧問として、私は君の言葉に耳を傾ける義務が存在している」

「ありがとう。では言わせていただきます。俺は生前ボスからある男を始末しろと言われました。それは今でも続いていると見て、間違いない?」

「"火付け役"のことだな。私もミスター・ローマンから聞いていたよ。あれは私と合意の上で決定された事項だ。そう、つまり誰かがボスとなってその任務を解除しない限りは、君は追い続けなければならない。どうなったとしても」

 リッシュは大きく息をついた。レイニーが放った言葉が身体中にしみわたり、震えた。彼は続けた。

「それはファミリーからの支援を受けられるということでもありますか」

 場に沈黙が満ちた。レイニーは表情が読めない、曖昧な薄笑いを浮かべる。リッシュはじりじりと万力で心臓を掴まれているような感触を覚え、額から冷や汗が流れるのを知覚した。やっとレイニーが言葉を紡いだ。

「それは、なんとも言えない。微妙な問題だ。今のファミリーがどうなっているかは把握しているかね」

「後継者争い。問題が起きていますね。エリックとジャックの間に」

「そうだ。つまりそれが問題なんだ。ボスがいないというころが、はっきりとした跡目が決まっていないということが。ミスター・ローマンは明確に後継者が誰かということを提示しなかった。しかも副首領が二人だ。ゴルディアスの結び目のような手段はない。少しでも触れれば爆発するかもしれない。そのような雰囲気が確かにある」

「では俺の任務は――」

「基本的には君一人で遂行してもらわないといけなくなるな。私がエリックとジャックの協力を取り付けるまでは、だが。無論、私個人からの援助はする。それは心配しなくいい」

「具体的に可能な援助は?」

 レイニーはカフスボタンを静かに触った。

「情報支援、資金提供、少ないが人員派遣」

「なるほど」

「できるかね」

「俺の仕事だ。やりますよ」

「そうか」

 リッシュが力強く頷くのを見て、レイニーは微笑んだ。彼は出そうとしていた言葉を喉元で止めて、また違う言葉を吐き出した。

「ではもう一度言おう。追撃したまえ。我らが偉大なるボスを死へと追いやった者を見逃してはならない。ファミリーに逆らう者は、見せしめとして、その者が引き起こした実際的な結果として、粛清される。これは創始当時から変わっていない基本方針だ。殴られたら三倍にして殴り返せ。実にいい言葉だ。リッシュ、火付け役に思い知らせろ。奴の罪を身体に刻んでやれ」

「言うまでもなく」



 リッシュはレイニーとの会合の後、車内の中で珍しく音楽を聞いていた。流れ出る調べは哀愁に満ちている。リッシュは思う。自分の欠陥がマックス・ファイアシューターによって発生し、彼の死によって完結するならば、俺は追い続けるしかない。いや、追わねばならない。

 自分のために、ファミリーのために、破壊された絆のために、そして何よりも残忍な方法で殺害された義妹のために。

 リッシュはアクセルを強く踏み込んだ。俺は猟犬だ。誰かを守るために、誰かの喉笛を食いちぎるために生まれてきた。

 ならば殺してやろうではないか。食いちぎってやろう。標的は我がマックス・ファイアシューター。背負うはファミリーと親しい人々の無念。充分すぎるほどの動機とスパイス。

 流れ出る音楽は鎮魂歌(レクイエム)。彼は静かにそのボリュームは大きくすると、棺桶に横たわる人々を見た。

「マックス。お前を死神が待っている」

 彼は、獣は嗤った。



  12



 リッシュは窓際へと腰掛け、ただ眼下の景色を見下ろしていた。行き交う人々。排気ガスをまき散らす自動車。彼は口元を歪めた。

 嫌いではないのだ、結局。このような血の臭いがしみついた因果な人間でも、ただ無機質な光景だとしても。

 リッシュはそれを美しいと思えた。人の営み。彼はそれが好きだった。それが唯一の救いだと、思った。この街に残された最後の救い。

 遠くには市政と経済を司るセンター・バーロウ区が見える。壮麗な、あるいは無骨なビルディグが所狭しと立ち並ぶ様は圧巻ですらある。

 対照的に――彼の位置からは窺うことができなかったが――反対には大きな自然公園が都市の中心に鎮座している。

 市民たちの憩いの場であるそのような場所は、三代目市長であるエドゥアルド・ベイヒースによって大々的に整備され、今もそのままに残っている。

 ひとつの都市に内服されたふたつの要素は、融け合って混ざり合い、もはや違和感がない。

 しかしベイヒース市長は予想し得たであろうか。昔は東西の中継点でしか無かったこの地が、今や科学経済の中心地のひとつとしてこれほど発展しているということなどは。

 ――きっとしていなかったに違いない。

 リッシュは妙な感慨を覚えた。今までは剥き出しのコンクリートジャングルでしか無かったこの都市が、ずっと身近に思えたからだった。

 どうでもいい話。彼はかぶりを振ると、腕を組んだ。

 唐突に、ベッド脇のサイドテーブルへと置いてあった携帯電話がバイブ音を鳴らす。リッシュはそれを手に取ると、画面を見て、怪訝そうな顔付きをし、通話ボタンを押した。

 通話主は彼によく知っている人物だった。

「よう、兄弟。前はクソッタレな話し合いだったな。もう一回、改めてやってみようぜ」

「お断りする。お前は酷いことをしやがったからな。まさか今度は監禁でもされて、棺桶の上でドラム遊びでもされちゃあ困る」

 向こう側から乾いた笑い声が響いた。笑いたいのだが、何かに邪魔されて素直に笑えないような声だった。

「ねえよ。安心しな。もうあんな真似はするもんか。あん時は、少しキレててよ。どうにもならなかったんだよ」

「親父を殺られて、か。気持ちは分かるぜ。俺はその下手人を追ってるんだよ」

「もっと早い方法がある。黒幕を畳んじまうことさ。まあ、誰が裏切りものなのかだってことぐらいは、前に話したろうよ」

「さてね。知らないな。聞いてもいない」

 数秒の間を置いて、通話先の人物――ジャック・スケアクロウが真剣味のある声音を届かせた。

「こいつは冗談じゃない。俺はヤバい立場に置かれているし、ファミリーもそうだ。このままだと大変な、いや、そんなチープな言葉じゃ満足できないほどの大抗争が起こるぜ」

 問いかけるような口調でいう彼に、リッシュは答えを返した。

「それを止めるにはどうしたらいいと思うんだね。お前は」

「さて、万人が納得する方法なんてのは思いつかねえな。ただ、それに近いのは、お前が俺の屋敷まで来て、互いに腹を割って話し合うことだと思う」

「本当に?」

「本当に」

 しばらくの間が空いた。向こうで咳払いが聞こえる。リッシュは開けた窓から流れこむ冷気に目を細め、いった。

「誓えよ。ミスター・ローマンに。俺とお前の"話し合い"は厳粛な男同士の、紳士同士の、会合になるってことを」

「誓う。悪いことにはならない」

「ずいぶんと簡単な言葉だ。まあ、いいさ。俺は猛獣の穴に飛び込んでいくうさぎみたいなもんだぜ――時間は?」

「今日の一四時くらいからってところだな。楽しみに待ってる」

 リッシュは通話を切ると、それをゆっくりとサイドテーブルに置き、窓を閉めた。さあ、仕事の時間だ。



 ジャック・スケアクロウの邸宅があるウェスト・アイランドまでは、面倒こそかからなかった。しかしリッシュにすればそれは自分自身を再確認する作業だった。

 俺はここで何をしているのか。どうしているのか。ジャックと対話して、その結果として何を求めるのか。

 殺し屋は殺し屋だ。しかし友もいる。

 苦難の日々を過ごした男の末路を、彼は今一度目に焼き付けたいのかも知れなかった。



 邸宅はそれなりの大きさがあった。しかしその辺の映画スターの家々と比べて、少々貧弱な印象は否めない。

 しかし内部は警察署も真っ青な警備体制が敷かれており、チンピラ崩れの殺し屋が数十人といようがどこ吹く風で撃退できる造りをしていた。

 彼は派手さがありながらも、節々を虚無で彩られた内装を眺めながら、腰に拳銃をぶら下げたガードマンの背後を付いて行く。

 男はある扉の前で立ち止まり、顎をしゃくる。

「ここがボスのオフィスです。ミスター」

「ありがとう」

 リッシュが軽く頷くと、ガードマンはそのまま扉を数回ノックした。中から遅れて声が届く。いや、中からではない。扉全体から響き渡っているようだった。

「リッシュか、時間通りじゃないか。嬉しいね。ネイサン、お前は戻れ」

 はいと首肯し、去っていくガードマンを尻目に、リッシュは扉のノブを掴み、引いた。

 そう広くもない応接室、というのがリッシュの第一印象だった。敷かれている絨毯も置かれている戸棚も一見簡素だが、高級品だ。

 当のジャックはソファの一つに沈んで、こちらを皮肉げに眺めている。

「クソッタレさ」

「え?」

「世の中はそういうもんだと思ってね」

 ジャックはソファから腰を上げると部屋の北側にある大窓に近づいて外を見つめた。その瞳には獰猛さと仄かな哀愁が混ざり合っている。

「なあ、リッシュ。エリックが本当に親父を殺ったと思うか」

「どうだろう」

 絨毯をしっかりと踏みしめながらリッシュは数歩進む。右腰のホルスターに収まった四五口径を脳裏に浮かべながら、リッシュは囁いた。

「そうでないことを願ってるよ」

「そうかい。お前は頑固だ。昔からな」

 彼はくるりと後ろを振り向いた。彼の容貌には引き攣った笑みのようなものがあった。

「もうどっちが殺ったというのは、この際、どうでもいいのかもしれん」

「よく分からない」

「お前は信じない。俺のことをな。ならエリックはどうだ」

「彼は人格者だ」

「俺はそうじゃないんだろうな。まあ、いいさ」

 エリックはリッシュに小さな微笑みを見せると片手を上げた。そこには黒々とした銃口があり、リッシュの様子を伺っていた。

「俺が殺した」

「なるほど。嫌な結末だ」

「それだけじゃない」

 ふと部屋にあったもう一つの扉が開かれて、男が室内へと入ってきた。それはエリック・スケアクロウその人だった。

「分かるか」

 エリックが肩をすくめるとジャックは卑しい笑みを見せた。

「共謀ってところだ」

「俺をあちこち振り回したのは」

「そいつもな、上手い具合になってくれれば良かったんだが。お前がレイニーと繋がってるらしいとなれば」

「悠長なことはいってられないというわけだよ、リッシュ」

 エリックはどことなく疲労したような表情を貼り付けていった。彼の手にも自動拳銃が握られていた。

「彼はまだ知らない。彼は特にボスに対しては忠誠を誓っていた。この計画を知れば徹底抗戦するはずだ」

「その手先のお前をどうかして抱き込もうとは思ったがな」

「なぜボスを?」

「時代は変わったんだ。リッシュ。彼のやり方ではファミリーは海外の連中に潰される」

「そういうことだ、兄弟。親父は嫌いじゃなかったが、こうなる運命だった」

 彼はそういうと改めてリッシュを見つめた。

「お前はどうするね、兄弟」

「マックスは」

「あ?」

「マックスは俺が殺したい」

「それが条件か」

「そういうことになる」


 数日後、スケアクロウ・ファミリーの幹部であるレイニー・マンスフィールドは謎の失踪を遂げた。

 それと同時にファミリーのボスにエリック・スケアクロウが就任。それをジャック・スケアクロウが補佐する形となる。

 不仲説はどこに消えたという変貌だった。

 数カ月後にはある死体がスパイラル川に浮かんでいたことで事件となった。この身元不明の死体は頭部に銃創。

 そうして顔面の皮を剥がされており、肉が出た額にある鎮魂歌(レクイエム)の一節が刻まれていた――。



 【了】



もともとは中長編ぐらいを見越してたんですが、途中でモチベが御空の彼方に逝ってしまったのでは数年ぶりにケリを付けました。名称の通り、黒歴史です。

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