漣
新しく買ったタンスの中に、前の持ち主のものと思われるサザエのようなゴツゴツとした大ぶりの貝殻が置いてあった。それをひょいと持ち上げ、耳に当てる。遠く南国の潮騒が聞こえてくるような気がしたその瞬間、奥の見えない方から一気にコバルトブルーの水が大量に流れこんできた。
俺は慌てて両手でとりあえずタンスの引き出しを勢い良く閉める。こめかみから溢れ出すぬるい汗。そして閉じない口。何が起こったのか頭の中で整理することもできない。だが確かにこの目で観たものはタンスの奥から勢い良く流れてくる水。もう一度引き出しを開けるのは怖い。だが好奇心をくすぐられているのは確か。大粒の唾を飲み込み、のどごしのグチャリとした音を聞いて、俺は両手で一気に先ほどの引き出しを引いた。
目の前には、両手で抱え込めるほどの海が広がっていた。磯の香りが部屋中に広がっていく。跳ね返ってくる水が口元に付着し、恐る恐る舐めてみると、濃い目の塩味だった。よどみのない透明感のあるコバルトブルー。いつの間にこんな細工を施されたのだろう。
思えばリサイクルショップで入念に中身を確認したはずだ。その時、さっき耳に当てた大ぶりの貝殻なんてなかった。一体いつから、どうして、どうやって。自分で考えようにも思考が追いついてこない。
そうこうしているうちに潮が満ちてきたのか、タンスの奥から波と共に海水がどっと押し寄せてきて、引き出しの上限いっぱいまで迫っていた。このままでは部屋中が水浸しになってしまう。そう思った俺は、とにかく逃げる準備をはじめた。適当にリュックサックに物を詰めていく。なぜか要らないものまで入れてしまうが、それはあとで考えよう。こうしているうちにもタンスから少しずつではあるが海水が溢れ出してきた。かと思うと、タンスが細かく震えだし、引き出しが海水によって全て押し出された。大量の海水が流れこむ俺の部屋。一気に流れ込んだせいで床に並べていた携帯電話からフライパンから財布から、全て水浸しになった。お札が濡れてしまうのを恐れて、その中から財布を取ろうとした瞬間。今度はタンスに向かって一気に部屋中の海水が引っ張られていった。そのまま財布も飲み込まれていく。急いで手を伸ばし、空となったタンスの闇に体ごとダイブする。財布に指先がふれる。だが、あと一歩の所で掴み損ね、無残にも闇の中に財布は消えてしまった。それどころか自らの身体でさえそのまま波に流される形で一気に吸い込まれていく。
渦潮に巻き込まれた俺はすぐに、ここが自分の部屋であることを疑った。疑うしかなかった。あの狭い自分の部屋の端に置いたタンスの中だとは思えないほどの深い空間。このままどこまでも沈んでしまうのだろうか。だがしかし俺は、その中に一筋の光を見つけた。それはまるで雲間から差す夕日のよう。俺はその光の先を目指して、ただただがむしゃらに泳いでみた。服を着たままだから相当辛い。だがここで死にたくないという本能が、腕や足に力を送ってくれている。あと少し、あと少しと自分に言い聞かせて指先を伸ばす。そして、光の先まで俺の身体は浮かび上がった。
気がつくとそこは、俺の部屋だった。何の変哲もない、俺の部屋。水に濡れている様子も何もなく、ただただそこに散らかっているのは、いくつもの引き出しだった。
あれは夢だったのか。そう思った矢先、異変に気づいた。財布だけが見渡すかぎり見当たらないのだ。まさか、とは思ったが、一応部屋中を探してみる。だがやはり見つからない。だとしたら。目の前のタンスから深い闇の気配を感じる。光に反射して揺らめく波形。俺はゆっくりと、そのタンスの深海へと歩を進めた。