06.それはお伽噺のような
唇に感じる感触は、冷たくも硬くもなかった。
むしろ柔らかく、暖かかった。
確かに命が通った者のそれ。
生とは温かく、そして少し切ないものだと初めて知る、瞬間。
なるほど、つまりこういうのがお伽噺のワンパターンというやつか。
急に全ての感覚が戻ってきたことに戸惑いながら独りごちる。あまり嬉しいとも思えないのは、あの状態が自由で楽しかったせいだろう。
眠り続ける姫が、王子の口付けで目が覚める。
今まさにその状況であるというのに、私は酷く冷めた思考でそれを感じていた。
まったく、ぞっとしないモーニングコールだ。
目の前の男ほど、王子という生き物から程遠い者もいないだろうに。
そして私ほど、物語の姫に相応しくない者も。
ゆるり、と私は目を開く。
唇は未だラキのそれで塞がれていて、目前には彼の顔がぼんやりと見えた。
睫が長い人間と短い人間がいるというが、大概はつぶると長く見えるものだ。ラキもその類にもれず、細く繊細な睫が頬に影を落していた。
そういえば、とふと思う。
口付けなんぞされたのはこれが初めてではなかろうか。
初夜なんぞ甘さの欠片もないままいきなり刃物が飛び出て刺されたしな。
そうなるとあれか、意外とこれはロマンティックとかいうやつか?
お伽噺の姫のように目覚めの口付けを受けて目が覚める―――うん、そんなものに憧れた事は一度もないが、ときめくかと聞かれれば予想外にときめくかもしれん。
こんな私でも乙女チック街道を突っ走れるものなのかと思うと感慨もひとしお。
と、あれこれ考えているうちにラキの睫がふるりと震え、瞼の奥の強い光が私の目をがっちりと捉えた――途端。
お伽噺のような優しく、柔らかい口付けはそこで終わった。
後はただ、貪り食らうように口内を蹂躙され、噛み付くような、到底口付けとは呼べないものの嵐。
視線はずっと噛み合ったまま。そらす事など許さないとでも言うように、ラキの瞼は閉じなかった。
長い長い口付けという名の拷問が終わった時、私は声を出すよりも先に大きく息を吸って、はいた。
久しぶりの呼吸は、なんだかすこし苦かった。
「……仮、にも、怪我人に対する、扱いとは、思えんのだが」
途切れ途切れに言葉を発する様は、見ようによっては立派な病人に見えたかもしれない。
ラキは強いまなざしを僅かに弱め、けれど視線はけしてずらさぬまま、私の真上からゆっくりと動いた。
そして、ぽつりと呟く。
「……いつ目を覚ました?」
「……どこぞの、お伽噺のように、お前の口付けでだ」
するとラキは、またぽつりと言った。
「……前にした時は起きなかった」
まてまてまて、お前一体何回人の寝込みを襲ったんだ? 怒らないから正直に話してみろ。
いやその前に、あれか、まさか死体愛好家とか何かなのか?
死んでいる私は生きている私よりも魅力的なのか? それはそれで何だかショックだ。
それともそういう趣味か?!
うろんな目で見つめると、ラキはいつも通りの無表情で……いや、訂正しよう。少し泣き出しそうな顔で、私を見下ろしてきた。
そんな表情は、当たり前だが初めてだった。
何だ、私の初めてづくしはまだ終わってなかったのか。大サービス過ぎるぞ神様。
「……陛下」
「オルフェリア、だ。さっきそう呼んでいただろう? 今更陛下等と呼ぶのはよせ、白々しい」
ただもう一度、名前で呼んでもらいたかった。この目の前の男に。(まあ、少し言い方がとげとげしかったかもしれないが)
それなのにラキは、押し黙った。ぎゅっと唇を噛んで意地でも呼ぶかというように。
どこの駄々をこねる子供だ、いい年をした男が。――とは、口にしなくて正解だったかもしれない。
「……本当は、いつから気がついていたんです?」
「さっき言っただろう。お前の、口付けだ。それ以前は生霊状態で、城や町をふらふらしていた。だから最近の城の様子も、ザイラの事も、お前の事も知ってる」
「……では、女官達の、噂話は」
「幽霊を見たという話なら真実さ。少し脅かすつもりだったのが大事になって正直焦った」
「貴女は……っ」
憤ったようにつぶやきながら、泣きそうな表情は変わらない。なんだか、まるで自分がいじめっ子になったような気分だ。この状態のラキをものすごく可愛いと思った私は、SかMで言うなら間違いなくSだと断言できる。
もしやこれが、恋は盲目というやつか? だとするとちょっと面白いな。
出来るなら口調も、先ほどのような砕けたものを希望するんだが。
動揺したのが落ち着いてきたのか、ラキの口調はもういつも通りだ。ただ表情だけが違う。
そんなラキに手を伸ばそうとして、体が異様に重たい事に気づく。
何だこれは、まるで重石をつけたみたいだぞ。
「体が、重いんだが何でだと思う?」
その上だるい。と思ったら体のあちこちが痛くなってきた。
痛いという感覚は久しぶりすぎて、どうにもすぐに対処が出来ない。
「ひと月も寝込んでいれば当たり前です」
「ひと月……」
はて、もうそんなに経ったのか。浮遊霊状態の時は寝る必要がなかったので、朝がこようが夜がこようがお構いなしだったし、いちいち日数も数えなかった。
「そういえばなんで私は生きてる?」
「……あんな浅い傷で死ぬわけがないでしょう」
「いや、刺された瞬間には意識が落ちたからな。てっきり死んだと思った。お前、私を殺すつもりだったのだろう? 何故殺さなかった?」
「……」
ラキの顔から一瞬だけ表情が消えた。
よく知る無表情とも、どこか違う。(でもどこが違うかはうまく言えない)
「……殺す、つもりはなかった」
ただ、自分が死ぬつもりだった。
ぽつり、ぽつり。
雪が降るように静かに、落ちてきた言葉に私は思わず眉をしかめる。
「それは、あれか。私との結婚が死にたい程嫌だったというわけか……」
ならばそう言えばよかったのだ。私も嫌がる人間と結婚する趣味もない。
ラキを婚約者からはずす事など容易にできたのに。
「違うっ」
しかし苛立った声が私の言葉を否定した。
ラキは再び私の上に覆いかぶさり、その憤りも隠さず強く私を睨んだ。
「……貴女はいつもそうだっ」
押し殺すような低い囁きに、彼が怒っている事を知る。だが一体何に? そもそも、この男は私を憎んでいた。それは、間違いないはずだ。
「いつもそう」とは、何をさして言っている?
「……お前は私を憎んでいただろう?」
「ああ、憎んでいた、何よりも、あの宰相達よりも貴女が憎かった……」
包み隠さぬ、それがラキの本心である事はよくわかった。
何故?
問う前に、答えは告解のように告げられた。
「あの男の娘であるのに、あの男を殺した貴女が心底憎かったっ」