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エッセイ・随筆集

刮目 佐藤春夫――憂鬱とのんしゃらん

掲載日:2026/10/26

初出:カクヨム

https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/11054822665062826559

 佐藤春夫を読んでいる。

 小学館の『女誡扇綺談・田園の憂鬱』に収められた数篇に取り組んでいる。

 このような短篇、中篇を集めた本の場合、融通の利かない僕は最初の掲載話から順に読み進めて行くのだが、今回は何と言っても『田園の憂鬱』を読みたくて図書館から借りたのだから、これから読み始めた。


 芥川龍之介が「神經の世界」と評した緻密な心理描写。又、その描写は心理を対象とするのみならず、風景に向っても細密なる彫琢を窮めている。

 これこそ文学だと思う。

 一体、僕が考える文学とは、対象世界に五感を以て触接――それは僅かに表層の一部のみへの触接に過ぎないが――を試み、認識――それは往々にしてあまたの誤解を伴うが――し、或いはむしろ感応――それら対象物から恣意的に、抽出的に脳裡に映じたところのもの――を基《もとい》として、今度は言辞という全くの異物を以て、風雅に、美的に、或いは醜悪に、又はキュビスム的に、表徴的に置換し、新たな世界として再構築して現出せしむる技術の一であろう。

 この作においては、かかる技術が横溢している。


 僕は、昨今もてはやされている伏線回収やどんでん返しについて、文学においては必ずしも重きを置かずとも可との立場である。無論、人それぞれに意見はさまざまあってしかるべきとは考える。百年程前にも、谷崎潤一郞と芥川龍之介の間で、話の筋の面白さが小説の芸術性において必須か否かの論争があったし、その決着は留保されたままである。

 一般的には、話の面白さを求める読者は多く、その欲求に比べると修辞《レトリック》の妙は脇にやられがちに見える。しかしながら、僕の意見はその風潮とは異なっている。

 ストーリーなどを味わうのならば、文学に限らずとも、近世以前から続くものであれば芝居、絵巻物、そして十九世紀以降に隆盛となる近代漫画や映画などでも構うまい。殊に、二十世紀後半以降は、テレビ、アニメーション、特撮、CGなどの技術が発達し、現代においてはこれらの方がむしろ、ストーリーはもとより、現実ではありえない視覚的音響的効果、舞台設定の奇抜さなどを楽しむ観点からは文学以上に適しているように思う。

 では文学の文学たる所以は何か。文学とは文字通り、やはり言葉をいかに扱うかが主眼であろうと思う。ストーリーはそのための、言い方は悪いが引立て役程度に僕は認識している。


 先に言及した芥川龍之介は、『文藝的な、餘りに文藝的な』において、「僕は『話』らしい話のない小說を最上のものとは思つてゐない」としながらも、かかる「話」のない小説について「それはあらゆる小說中、最も詩に近い小說」「通俗的興味のないと云ふ點から見れば、最も純粹な小說である」と述べている。

 『田園の憂鬱』は、紛れもなく芥川謂う所の「話」らしい話のない、詩に近い小説の一であり、それでいながら、否、むしろそれだからこそ、純粋な文学的魅力が縦横に張巡らされた作品だと感じる。

           *     *     *

              *     *

 僕が読んでいる当該短篇・中篇集には『のんしゃらん記録』というものも掲載されている。

 これは、『田園の憂鬱』とは随分趣向が異なっている。未来小説である。

 文中に「約十世紀ほど以前に---(中略)---『早過ぎた埋葬』といふ題で、これらの人閒生活の悲慘を豫言した文學者があつた」とある。『早過ぎた埋葬』とは、エドガー・アラン・ポーが十九世紀半ばに世に出した〝The Premature Burial〟であろうと思われるのだが、そうだとすれば『のんしゃらん記録』の舞台は二十九世紀あたりとなる。

 現在からしても何百年も先の時代、遠い後世の話であるが、一読したところ、到底そのような遥かな未来が描かれているものとは思われない。むしろ、印象としては極めて古臭く時代錯誤じみた感さえある。

 何となれば、「ラヂオ」が出てきたり、依然として通貨が存在したり、その通貨の単位が円で、円の価値レベルが本作が書かれた時代と同等であったり、依然として「メータア」を人間が監視しなければならなかったり、警官や役人なども生身の人間だったりと、随分と昭和以前の雰囲気に溢れた世界なのである。

 一般に近代に執筆されたSFや当時の視点での未来予想を、現代の感覚を以て眺めてみると、往々にして何とも滑稽で的外れな思いを余儀なくされるものだが、本作もその最たるものではなかろうか。


 まあ、それも仕方のないことなのかも知れない。時の経過による物事の変遷は人間の想像を遥かに超越している。まさに、事実は小説より奇である。

 文学におけるSF作品に限らず、AIなども駆使して制作された最先端のVFX、CG、アニメーションなども、未来において――しかも、それはほんの十年ほど先かも知れない――振返られると、極めて頓珍漢で古臭く低レベルだと大いに莫迦にされてしまうのであろう。

 未来を描くのならば、必然的にその未来から手厳しい審判を受けるリスクを認識し覚悟することが肝要ということだろうか。


 もっとも、本作は未来小説というよりも、むしろ異世界小説という観点で読まれる方が適当なようにも思われる。というのも、その少し前に発表された芥川龍之介の『河童』を意識した作で、昭和初期の世相の風刺がテーマとも言われているからである。

 したがって、千年近くの未来というのも、単に執筆当時の日本とは全く違う世界を仮設したというに過ぎず、昭和初期の現実を諷する意図とすれば、描かれている実態としては何とも古めかしい印象ばかりなのも気にする話ではないのかも知れない。

 ただ、何というか、『田園の憂鬱』に比べると、読んでいてもあまり面白みは無かったし、感心もしなかったというのが現実である。


 ところで、「のんしゃらん」という言葉があるのを僕は慥かに以前から知ってはいたが、「のほほん」とか「のんべんだらり」とかと同様のオノマトペ的な日本語だという認識だった。しかるに、今回よくよく調べてみたら、フランス語〝nonchalant〟であった。

 なるほどそうだったのか。

 これを知ることができただけでも、本作を読んだ価値は大いにあろう。




                         <続>







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