花束を抱えて
「ひどい雪だね。これは明日まで降るかもしれないな」
「午後から晴れるって話だったぞ」
「天気予報は当てにならないよ」
「いいや、今日は絶対に当たる」
「根拠はあるのかい?」
「勘に決まってるだろ」
私は事務所の窓から外を眺めていた。朝から雪が降り続いており、道路は真っ白に染まっている。傘を差して歩く女性、はしゃいだ様子で雪を掴もうとしている子供、待ちゆく人々はみな思い思いの冬を過ごしているようだった。
助手のエリオットは「天気予報を信じないやつは頑固者だって相場が決まってる」と言って、キッチンに消えて行った。どうやら私を馬鹿にしているようだったが、特に気にせず彼を無視した。
ぼんやり景色を眺めていると、私たちがいる建物に人が入ってくるのが見えた。両手に荷物を持ってしゃんしゃんと歩く活発そうな老婦人だ。長い間外を歩いていたのか、頭に少し雪が積もってしまっている。
依頼人がやってきた喜びを誰かに伝えたくなり、私はキッチンに向かった。
エリオットは紅茶を淹れる準備をしていた。ティーポットを二人分用意している。私はこれからもう一つ必要になることを伝えるために、意気揚々と声をかけた。
「依頼人がやってきたみたいだよ」
「気が早いな。この建物には人気のカフェも、この辺で一軒しかない貴重な花屋もある。どうせそっちの客だろ」
「いいや、あれは確実に依頼人だよ。まず両手いっぱいに荷物を持って花屋に来る人は滅多にいない。買った花を持って帰れないからね。そして彼女が持っていた荷物の中にパン屋の紙袋があった。下のカフェはクロワッサンが売りだそうだ。お店の売りを食べるつもりならわざわざカフェに来る前にパン屋へ寄ってこないだろう? つまり、私の事務所に用がある依頼人ということだ」
「わかったわかった。紅茶の準備は俺がしておくから、お前は扉の前で依頼人を待ってろよ」
エリオットはどうも呆れた様子だった。彼は新しい事件の訪れに興奮していないらしい。事件を楽しむ心を持たない男が、なぜ探偵事務所の助手をやっているのか不思議である。
私はエリオットに背を向けて、胸を弾ませながら事務所の出入り口へ向かった。主人の帰りを待つ犬のように、扉の前で依頼人を出迎える準備をする。
今か今かと待ち続けていたその時、階段を上る足音が聞こえてきた。ゆっくりと近づいてくる音に耳を澄ませていると、不意にそれが止まり、一瞬の静寂が訪れた。
「扉を開けてくださる?」
扉の向こうから聞こえてきたのは老人らしい柔らかな声だった。
私はすぐに扉を開けて依頼人を出迎えた。視界に飛び込んできたのは毛皮のコートを着込んだ気品高い老婦人だった。香水をつけているのか花のような香りをまとっている。両手でたくさんの荷物を持っていたため、私は彼女が持っていたパン屋の袋をその手から預かった。
「こんにちは、ひどい雪ですね」
「そうなのよ、荷物を持っているっていうのについてないわ。せっかくパン屋に寄ったのに雪が入っちゃったじゃない」
私はパン屋の袋の中身を確認し、にっこりと微笑みを浮かべた。依頼人の訪れと共に事件の香りを感じ、私は彼女を事務所の中へと案内したのだった。
事務所の中には沢山の本棚があり、その中央にソファーとテーブルが置いてある。依頼人にくつろいでほしいという思いから、ソファーは高級なものを用意していた。これが私のこだわりであり、エリオットには全く理解してもらえない執着でもあった。
依頼人をソファーに案内した直後、エリオットが大きなタオルを持って現れた。彼はタオルを依頼人に渡した。エリオットは私に冷たいが、実は気の利く男なのだ。
「どうもありがとう、ずいぶん男前な探偵がいるのね、驚いたわ」
「俺は探偵じゃなくて相棒だよ。推理はこれっぽっちもできない」
「じゃあ探偵はこちらの方なの? やっぱり名探偵は素敵なお髭をたくわえるものなのね。似合ってるわ」
「ありがとうございます」
褒められた口ひげを撫でつけながら私は感謝を伝えた。なんとなく誇らしい気持ちになりながらソファーに座り、依頼人と向かい合う。エリオットは私の隣に座り、手帳とペンを用意した。私が話を聞いている間、隣でメモをとるのが彼の役目だった。
「今日はどういったご依頼で?」
「あなたに解決してほしい事件があるの」
「どうせなくした鍵がどこにあるのか知りたいとか、いなくなった猫を探して欲しいとか、そんな依頼だろ」
「失礼しちゃうわね。立派な殺人事件よ」
憎まれ口を叩くエリオットに向かって、依頼人は微笑を浮かべながら言った。殺人事件という言葉の響きに、私の胸は高鳴った。喜びを表に出すのは不謹慎なため、できるだけ神妙な面持ちを意識した。
「私の夫が亡くなったの。吹雪の夜に出かけたきり帰ってこなくて、翌日に道端で見つかったわ。見つかった日は快晴で冬なのに暖かくて、よく覚えているの。あと一日天候がずれていたら夫は死ななかったはずなのにって、運命を恨んだわ。事件の資料はここにまとめてあるから自由に見てちょうだい」
依頼人は持っていた荷物をテーブルに広げた。どうやらすべて事件の資料のようだった。今すぐにでも資料を確認したい気持ちだったが、もっと基本的な情報を集める必要があった。私は高鳴る胸を抑え、依頼人に簡単な質問をした。
「失礼ですがお名前とご年齢をお聞きしても?」
「あら私ったら自己紹介を忘れていたわ。ルーシー・ブラウンよ。年齢は八十歳、杖をつかなくても歩けるくらい元気なの。いつも若々しいって褒められるわ。元気の秘訣は毎日お肉を食べることよ」
「聞かれたことだけ答えればいい。俺たちだって暇じゃないんだ」
「ルーシーさん、この男の言うことは気にしないでください」
「おいおい、いつからここは老人の相談所になったんだ?」
「この雪じゃ他の依頼人は来ないだろうし、じっくり話を聞かせてもらおうじゃないか。君は紅茶を淹れてきてくれ」
エリオットは不服そうな顔でため息をつき、キッチンに消えて行った。
私はルーシーが持ってきた書類を手に取り、中身を確認した。刑事が持っているような本格的な資料の数々に、つい感嘆の声を漏らしてしまった。探偵である私でさえ事件の資料は見せてもらえないことが多い。一体どこでこんな資料を手に入れたのか、素朴な疑問が浮かんだ。
「この資料はどうやって手に入れたのですか」
「刑事に知り合いがいて、無理を言ってこの資料をもらったの。もう三十年も前の話よ。それからずっと大事にとってあったの。誰かがこの事件の謎を解いてくれるかもしれないと思って」
「とてもしっかり情報がまとめられていますね」
「私が独自に調べたものもあるわ。警察はあてにならないもの。最初から自殺だって決めつけて、まともに捜査してくれなかったわ。私の夫は絶対に自殺なんてしないのに」
「資料を見る限り、事件が起きたのは三十年前とのことで」
「おいおい三十年も前の事件を調べてくれって、さすがに無茶だろ。資料だって限られてるし、現場も遺体も調べられない。名探偵でもお手上げだな」
トレイを持って帰ってきたエリオットが、嘲笑しながら言葉を吐き捨てる。彼は三人分の紅茶をテーブルに置いた。砂糖やミルクも忘れずに持ってきてくれたようだった。
私はミルクだけを入れた紅茶を一口飲み、喉を潤してから話し始めた。
「まずはあなたが事件について知っていることを話して頂けませんか」
「ええ、もちろんよ。事件の話の前に、私と夫についてお話しするわね。夫の名前はジョージ・ブラウンよ。私たちは十六歳の時に学校で出会って、二十歳のときに結婚したの。子宝には恵まれなかったけれど、二人で幸せに暮らしていたわ。週末はよく旅行に出かけたわね。あの人が運転するところを助手席から見るのが好きだった」
「とても素敵なご夫婦だったのですね」
「周りから羨ましがられるくらいね」
ルーシーはいたずらな笑みを浮かべた。幼気な少女のような可愛らしい笑顔だった。懐かしい思い出を語る彼女は生き生きとしていて、つい聞き入ってしまった。
「夫が亡くなったのは五十歳の冬だったわ。一人で買い物に行くと言って家を出て行ったの。その日はひどい吹雪で、車の調子も悪いと言っていたから、行かないほうがいいって止めたわ。それでもあの人は聞かなかった。もっと強く止めておけばよかったって今でも後悔しているの」
「ちなみにジョージさんは何を買いに行かれたのですか」
「それが教えてくれなかったのよ。どうしても今日買いに行かないといけないって言っていたわ」
私は事件について把握するために資料全体へ目を通した。写真がいくつか残されており、遺体が写っているものや、ジョージ・ブラウンが乗っていた車が写っているものなどがあった。見逃しがないよう隅々まで観察し、書き記された事件の概要もしっかり読み込んだ。
内容を見る限り単純な事件であり、謎解きの余地はそこまで残されていないようだった。
「警察は車の中で遺書らしき手紙を見つけて、目立った外傷もなかったため自殺と結論づけたようですね」
「そうよ。遺書の内容はこっちの資料に書いてあるわ」
「宛先はルーシー・ブラウンさん、あなただったのですね」
「ジョージはとてもシャイな人だったの。だから花や手紙は一度も貰ったことがなかったわ。何度も欲しいと言ったけれど、いつも笑ってごまかすだけだった。それなのに、遺書はしっかり残していくなんてひどい人よね」
悲しそうに表情を歪めるルーシーを見て、私は心を痛めた。なんとかしてジョージの死の真相を解き明かさなければいけないと心に誓った。
まずは遺書の内容を確認しようと、差し出された資料を手に取った。綺麗な字で書かれた文章に目を通して知見を深めていく。遺書と呼ぶにはあまりに温かい愛の言葉が並んでいた。「僕にもしものことがあっても、君には幸せでいてほしい」という最期の言葉らしい文言が書かれていたが、どこにも遺書という言葉は使われていなかった。最後は「君を永遠に愛している」という言葉で締めくくられていた。
当時の見解を覆すような証拠は残っていない。他の可能性を示す突破口を見つける必要がある。私はわずかな期待を抱えて質問を続けた。
「死因は凍死とのことですが、ジョージさんは持病をお持ちでしたか?」
「いたって健康体だったわ。お酒も滅多に飲まない人で、祝い事があるときぐらいしか飲んでいなかったの。体質的に飲めないってわけではなかったけれど、いつも健康には気を使っていたわ」
「でもこの資料を見る限り、彼は亡くなる前にアルコールを摂取していたようですね。遺体からアルコール成分が検出されたと書いてあります。ワインの瓶が車に残っていたとか」
「私もそれが不思議だったの。飲酒運転なんて、ジョージは絶対にしないわ。でもそのお酒が自殺を結論付ける材料の一つになってしまったの。自暴自棄になっていたのかもしれないって」
話を聞けば聞くほどジョージの自殺が現実味を帯びていく。進展のない現状に私はほとほと困り果てていた。助けを求めるように隣を見たが、エリオットは事件に興味がないのか、紅茶を飲みながら遠くを見つめていた。
私は手元の資料と再度向き合い、わずかな違和感について言及した。それがなんらかの突破口になることを願っていた。
「彼の車は遺体が発見された場所から一キロも離れていたところで見つかったそうですね。中にあったのはワインの瓶と、遺書だけだった。遺体と車が離れている点は少し不可解ですね」
「他にも不思議なことがあるのよ。彼の遺体の近くに花びらが落ちていたの」
「花びらですか。真冬の事件なのに不自然ですね」
私は遺体が写っている写真を確認した。雪で覆われた道に目立つものはなかったが、よく目を凝らしてみると白くて細かいものが落ちているようだった。白い花びらの可能性があったが、写真を見るだけでは確証を得られなかった。
些細ないくつかの謎と、覆らない事件の見解が私の元に押し寄せてきた。実際に遺体や現場を見て謎を解き明かすのとは訳が違うため要領がつかめない。より繊細な謎解きを要求されている。もどかしいような、まだ何かを見落としているような、曖昧な心情を抱いていた。
「事件について知っていることはお話したわ。何かわかったかしら」
「いくつか怪しい点はありますが、現場の状況から推測する限り、ジョージさんは自殺である可能性が高いと思います。争った形跡がないため他殺はありえない。遺書が残っていたとなると急な事故とも考えづらい」
「そう言わずに、犯人を見つけてちょうだい。あの人は自殺なんてする人じゃないの」
すがるようにルーシーは私に迫ってきた。彼女の悲しそうな目を見るたび、力になりたいと心から思った。
しかし、気持ちだけでは事件を解決できない。心を鬼にして真実に立ち向かわなければいけないときもある。これ以上推理を進めるべきか、下手に希望を与えずにここで引き返すべきか、私は葛藤した。
分かれ道を前にして黙り込んでいると、不意にエリオットが立ち上がりキッチンへと消えて行った。彼も煮詰まった場の雰囲気を感じ取ったようだった。
「お二人さん、真剣に話し合ってるところ悪いけど、ここらで休憩を挟まないか? キャロットケーキが三切れ残っていたんだ」
エリオットは甘い香りと共に戻ってきた。彼は持っていたトレイをテーブルへ置き、ケーキが乗った皿を私たちに配った。
まるで地面に降り積もった雪のように、白色のチーズクリームが茶色い生地の上にかかっている。近所のケーキ屋でいつも買っているキャロットケーキを前にして、場の雰囲気がわずかに和らいだ。立ち込めていた重たい空気は消えて、代わりにキャロットケーキの甘い香りが広がった。
「あら、見たことがあるキャロットケーキね。これ近所にあるケーキ屋のものでしょう?」
「そうだ。あんたもこの近くに住んでるのか?」
「ええ、少し離れているけれど、買い物をするってなったらこの辺りまで来るの。昔は夫が車でよく連れてきてくれたわ」
ルーシーは嬉しそうに微笑み、エリオットからフォークを受け取った。ケーキを食べ始めた彼女の表情を眺めながら、思考の枝を伸ばしていく。些細な疑問が枝の先に実ったため、私は素直にルーシーへ問いかけた。
「一つお聞きしてもよろしいですか。この近くにお住まいなら、もっとはやく事件の調査を依頼されたと思うのですが、なぜ三十年経った今ご依頼されたのですか」
「実はもう事件を追うのはやめようと思っていたのよ。夫は自殺だったんだって自分に言い聞かせて納得しようとしていたわ。でもこの街を離れることになってね、最後に名探偵のあなたに話を聞いてもらいたいと思ったの。ごめんなさいね。こんな昔の事件を調査してほしいなんて無理を言って」
「いえ、こちらこそお力になれず申し訳ありません。もう少しお話をお聞きしてもよろしいですか? まだ何か見逃していることがあるかもしれないので」
「もちろんよ。なんでもお答えするわ」
「一度状況を整理しましょう。ジョージさんは買い物に行くと言って吹雪の夜に家を出て行った。しかし彼は家に帰らず酒を飲んで車から出た。猛吹雪の中一キロ歩いた末に凍死し、遺体が道端で発見された。残された車の中には遺書と思われる手紙とワインの瓶が残されていた。遺体の近くにはなぜか花びらが残されていた。間違いありませんね」
「ええ、間違いないわ」
与えられた情報をかき集め、頭の中で物語を作り出す。会ったこともない人の人生を思い描き、事件の違和感を掴もうとする。
私は資料を確認しながらあらゆる可能性を探り始めた。自殺でないなら、あり得る選択肢は他殺か事故死だ。どちらを選んでも事件には不自然な点があり、一筋縄では行かなかった。
「凍死である以上、誰かに襲われた可能性は低いと思います。万が一、運転中に誰かに銃を突きつけられて車を止めたのだとしても、わざわざ危険を犯して外に出るとは考えづらい。扉に無理やりこじ開けたような形跡もありませんからね」
「じゃあ相手が知り合いだったらどう? ジョージは外に出て知り合いと会話をしたのよ。そしてその人に殺された」
「外は猛吹雪です。わざわざ車を出て会話をするとは思えません。それに偶然知人と道端で会ったとも考えづらいですし、相手が待ち伏せしていたと考えるのも不自然です。そこまで計画していたなら凶器だって用意しているはずですからね。凍死なんて時間のかかる殺し方はきっと選ばない。やはり他殺の線は薄いと思います」
「じゃあ事故だって言うの? 車には何の傷もついていなかったのに?」
「例えば、車が何らかの不調で動かなくなってしまったとか」
「そうよ。ジョージは車の調子が悪いって言っていたわ。それなのに警察は詳しく調べてくれなかったの」
わずかな可能性を見出した私は、車が写っている数枚の写真を見つめた。車には傷一つついておらず事故が起きたようには見えない。しかし内部の不調で動かなくなってしまったのなら辻褄が合う。警察は自殺だと決めつけて車両を深く調べていない。車に何らかの不調があってもおかしくはないだろう。
私はここが突破口だと信じて必死に頭を働かせたが、すぐに不可解な謎へと行き着いてしまった。
「買い物を終えた後、帰っている途中で車が動かなくなってしまった。ではなぜ、ジョージは危険を顧みずに外へ出てしまったのか。猛吹雪の中を一キロも歩いた理由がわかりません。自殺するつもりだった彼は自暴自棄になって酒を飲み、酔って判断力を失った状態で車を降りてしまった。この仮説の方がまだ辻褄が合う」
「ジョージはそんなことしないわ」
「ええ、自殺ではなかったという前提で推理しています。しかし、現場の状況を見る限り、それ以外の選択肢には不自然な点が生まれてしまうのです」
私の見解を聞いたルーシーはひどく落胆した様子だった。どれだけ話を飛躍させても、結局は自殺という着地点に戻ってきてしまう。堂々巡りの話に疲れてしまうのも無理はない。
しかし安っぽい慰めの言葉を口にできるような雰囲気ではなかった。私はここらが潮時かと思い、事件の資料をテーブルに戻した。写真の中で笑うジョージ・ブラウンを見て、私は無力感を抱いたのだった。
「結婚記念日に自殺するなんて、ジョージはそんな人じゃないの」
ルーシーは消え入るような声で呟いた。あまりに小さな声だったため、つい聞き間違いを疑ってしまった。
「今なんとおっしゃいましたか? 結婚記念日?」
「ええ、彼が亡くなったのは結婚記念日だったの」
ルーシーの言葉を聞いて、私はある確信を持った。「すみません、少し考える時間をください」と言って再び資料を手に取る。必ずどこかに見落としている点があると信じて写真や文章と向き合った。
「どうした? 気になることでもあったのか?」
エリオットが不思議そうな顔で資料を覗き込んでくる。私は心の中で築き上げた確信を彼に伝えた。
「これはあくまで持論だが、人間は生きる希望があるとき、生に対してひどく執着する傾向にある。言い方を変えればどんな手段を使ってでも生き残ろうとするんだ。時にその覚悟は周りの人間の想像を超える。私たちが驚くくらいの力を発揮するはずだ。ジョージさんには帰らなくていけない理由があった。結婚記念日を祝うという、生きる希望があったんだ。そんな人が自殺なんて絶対にしない。ならば必ずこの資料のどこかに、別の可能性を示す証拠が残っているはずだ」
私は初心にかえり、全ての写真を隅から隅まで確認した。わずかな手がかりでも状況は一変するはずだと何度も自分に言い聞かせていた。
己の経験と勘を信じて資料に目を通していると、車を後ろから撮った写真が視界に飛び込んできた。それを手に取った瞬間、まるで泡のように私の頭の中で思考が弾けた。
「マフラー」
「マフラー? そんなもの首に巻いてないぞ」
「違う、車のマフラーだよ。これを見てくれ。半分ほど雪に埋まっているだろう?」
「それがどうかしたか」
「車のマフラーが雪に埋まってしまうと排気ガスが逆流して危険なんだ。一酸化炭素中毒で亡くなる可能性がある」
「でも写真を見る限り、マフラーは半分しか埋まってないぞ」
「ルーシーさん、先ほどこう仰っていましたよね。事件の翌日は快晴で冬なのに暖かかったと」
「ええ、たしかに言ったわ」
「ジョージさんの遺体が発見されるまでの間に、翌日の暖かい気温で雪が溶けてしまったのかもしれません。だから警察はマフラーが雪に埋まったことによる一酸化炭素中毒の可能性を考えられなかった」
「おい待て、ジョージは車の外で死んでいたんだろ。一酸化炭素中毒はあり得ないんじゃないか? 車の外に出てるんだから」
エリオットの指摘は的を射ていたが、ようやく見つけた可能性の糸を手放すことはできなかった。いくつもの謎を乗り越えた先に真実があるがはずだ。つまりエリオットの指摘を覆す仮説があれば、それが紛れもない真実だということだ。
私はここが正念場だと思い一度席を立った。事務所の片隅に置いてある揺り椅子に座って全身を脱力する。昼寝をするような体勢で瞼を閉じれば、真っ暗な世界に事件の情報が浮かび上がった。
「あら、眠ってしまったの?」
「あれが推理をする時のポーズなんだ。ああやって目をつぶって思考を整理してるんだと。あのポーズのせいで居眠り探偵って呼ばれてる」
「まあ可愛らしいお名前ね」
遠くから聞こえてくる二人の会話を聞き流しながら、私は散らばった思考を整理していった。存在する謎を一つずつ解決し、真実の糸を手繰り寄せていく。
結婚記念日に行き先を言わず家を出た被害者、車の中には遺書とワインの瓶、遺体の近くに落ちていた花びら、猛吹雪の中一キロも歩いた理由、半分雪に埋まったマフラー、謎が謎を呼び、たった一つの真実に集約されていく。
ようやく事件の真相に辿り着いた私は、瞼を開いて思考の世界から目覚めた。
「わかりましたよ、事件の真相が」
揺り椅子から立ち上がり、座っていたソファーに急いで戻る。エリオットとルーシーはどこか期待に満ちたような眼差しで私を見ていた。
「一つ目の謎は、ジョージさんがなぜ猛吹雪という悪天候の中、車を走らせて買い物に行ったのか。答えは簡単です。結婚記念日を祝うためにどうしても必要なものがあったから、彼は買い物へ行ったのです」
「必要なものって、何のことかしら」
「ワインと花束、そして手紙です。ルーシーさんは以前から花や手紙が欲しいとジョージさんに言っていた。だからジョージさんは結婚記念日に合わせて用意しようとしていたのです」
「手紙なんてなかったわ。あったのは遺書だけよ」
「その遺書があなたへの手紙だったのです」
私はテーブルの上に広げられた資料の中から、手紙の内容が書かれた紙を取り出した。ルーシーにそれを差し出せば、彼女はおずおずと受け取り「老眼鏡をつけないと見えないわ」と言って自分の鞄を漁り始めた。
「手紙の本文を見る限り、どこにも遺書という言葉は使われていません。たしかにそれらしい文章はあります。『僕にもしものことがあっても、君には幸せでいてほしい』と書かれているので、遺書と間違われてしまってもおかしくはない。しかし、これは遺書ではなく愛する妻に対するラブレターだった」
私は頭の中から湧き出てくる言葉をそのまま口にした。老眼鏡をつけたルーシーは必死な様子で手紙の文章を読み込んでいた。この一瞬であの手紙は遺書からラブレターに姿を変えたのだ。血眼になって読みたくなるのも無理はないだろう。
「二つ目の謎は、ジョージさんがなぜ猛吹雪の中、車を止めて外に出てしまったのか。これは少し複雑な推理になってしまうのですが、まず車の調子が悪かったというのが大きな原因だと思います。内部の不調で車が止まってしまい、猛吹雪の中で動けなくなってしまった。徐々に雪が積もっていく中、ジョージさんはマフラーが埋まってしまったことに気づいた。きっと車を出て確認したのでしょう。このまま車にいれば一酸化炭素中毒で亡くなってしまう。外に出れば猛吹雪で凍死する可能性がある。彼は究極の選択を強いられた」
私は脳内で当時の状況を思い描いていた。車の中で孤独な戦いを強いられているジョージの姿を俯瞰する。外は猛吹雪で、刻一刻と死の時間が迫ってくる。凄まじい恐怖に襲われていただろうと、彼の心情を思い計る。覚悟を決めたような表情で車を飛び出す彼を、私は想像の中で見送った。
「ジョージさんは車の中でただ死を待つのではなく、一縷の希望にかけたのです。あなたが待つ家に帰るために、彼は猛吹雪の中で歩くことを選んだ」
私の見解を聞いて、ルーシーはあんぐりと口を開き、そこに手を添えた。ひどくショックを受けているようだった。たとえ残酷な真実だとしても、一度足を踏み入れたら後には戻れない。ただまっすぐ真実に向かって進んでいくしかないのだ。
「三つ目の謎は、空いていたワインの瓶です。なぜこのような状況でジョージさんがお酒を飲んだのか。考えられる理由が一つあります」
「……まさか、寒さに耐えるために飲んだというの?」
「その通りです。ジョージさんは体温を上げるためにワインを飲んだ。そうすれば不自然な飲酒にも納得がいく。彼はお酒で体温を上げて外に出た。そしてあなたが待つ家まで急いだのです。生きて帰って、結婚記念日を祝うために」
極限の状態で戦うジョージの姿を想像するだけで胸が痛む。きっとルーシーの胸の痛みはこれ以上なのだろう。愛する人の最期を思い描くことは悲しく、後悔の連続である。それでも彼女はこの場から逃げなかった。凛と背筋を伸ばして私の話を聞いていた。
「四つ目の謎は遺体の近くに落ちていた花びらです。なぜ真冬に花びらが落ちていたのか、それは彼が花束を持っていたからです。彼はあなたに渡す花束を持って吹雪の中を歩いていた。しかし、猛吹雪の中では方向感覚が鈍る。道に迷ってしまって、厳しい寒さの中で力尽きた。これが、事件の真相です」
「じゃあ夫は、ジョージは、自殺じゃなかったのね」
「彼は最後まで生きる希望を失っていなかった。だから猛吹雪の中で1キロも歩けたのです。愛するあなたの元に帰るために、彼は最後の最後まで生き続けた」
「ああ、そんな、どうして」
ルーシーは動揺した様子で悲しそうに表情を歪めた。自然の驚異に飲み込まれていった最愛の人に思いを馳せているのだろう。私は残酷な真相を伝えてしまった罪悪感に襲われたが後悔はしていなかった。
ここまでの仮説を完璧に証明することはきっとできない。あくまで状況証拠であって、決定的な確証はないからだ。それでも自殺ではない可能性を提示できただけで意味があると思った。探偵として、意味があると信じたかった。
「なあ、ちょっと思ったことがあるんだけど、あんたの夫が花を買いに来たのって下の花屋じゃないか? この辺に花屋は一軒しかない。何か話を聞けるかもしれないぞ」
エリオットが飄々とした様子で鋭い見解を口にした。私は彼の言葉に驚き、思わず口を開けたまま固まってしまった。
「たまに発揮される君の推理力には驚かされるよ。君も探偵になったらどうだい」
「俺は相棒で十分だよ」
「ルーシーさん、よかったら下の花屋に行きませんか。たしか歴史のある花屋だったはずです。当時のことを知っている店員がまだいるかもしれませんよ」
「ええ、もちろん行くわ」
ルーシーは悲しみを表情に滲ませたまま席を立った。私たちは急いで事件の資料や荷物を抱え、出かける準備を済ませてから事務所を後にした。
花屋があるのは同じ建物の一階だった。階段を降りて店に入れば、色とりどりの花が並んでいた。幸い他に客はおらず、店内には穏やかな時間が流れていた。
「いらっしゃいませ。あらヘンリーさん、お花を買いに来るなんて珍しいわね」
「すまない、実は花を買いに来たわけじゃないんだ。少し話を聞きたくてね、お店で一番長く働かれている方はどなたかな」
「どうせそんなことだろうと思った。待ってて、今お婆ちゃんを呼んでくるわ」
顔見知りの店員がお店の奥へと消えていく。私が話をつけている間、エリオットは自由に店内の花を眺めているようだった。
しばらくして、店の奥から杖をついているお婆さんが現れた。髪は真っ白だが目の奥に揺るぎない強さを感じる。彼女は豪快な杖の音を響かせながら歩み寄ってきてくれた。
「私に何の用だい、花のことなら娘か孫に聞いておくれ」
「急にお呼びしてしまってすみません。実はあなたにお聞きしたいことがありまして、三十年前のことなのですが」
「そんな昔のこと覚えちゃいないよ」
「まあ、そう仰らずに、話だけでも聞いて頂けませんか」
お婆さんは面倒くさそうにため息をつき、近くにあった椅子に腰掛けた。エリオットに目配せをすれば、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。ようやく話を聞く環境が整い、私は彼女に三十年前のことを問いかけたのだった。
「ジョージ・ブラウンさんという方がこちらのお店に来ませんでしたか。花束を買われていったと思うのですが」
「客なんて五万といるからね、顔も名前も覚えてないよ」
「猛吹雪の日にこちらで花束を買われたはずなんです。どんな些細なことでも構いません。覚えていることがあったら教えて頂けませんか」
「猛吹雪、ああ、あの日に来た客かい、覚えてるよ。その日は客が一人しか来なくてね、店を閉めようとしたら男が入ってきたんだ。よっぽど寒かったんだろうね、鼻先まで真っ赤にしていたよ」
お婆さんは微笑を浮かべながら楽しそうに話してくれた。ルーシーは真剣な面持ちで彼女の話を聞いていた。
「結婚記念日にどうしても花を渡したいって言うから、とびきりの花を選んでやったんだ」
「ちなみにその花というのは?」
「今持ってきてあげるよ。同じ花があるからね」
お婆さんは椅子から立ち上がり、ゆっくりとした歩みで店内を歩き始めた。様々な花が並べられている中で彼女はある花を手に取った。そのまま作業台へと移り、慣れた手つきで花束を作っていく。柔らかな不織布で花を包み、可愛らしいリボンを結ぶ。
お婆さんは完成したばかりの花束を持って私たちの元に戻ってきた。彼女が持っている花は雪のように白く、重なった花びらが美しかった。
私は差し出された花束を受け取り、ルーシーに渡した。彼女は白い花束をじっと見つめたまま口を開いたのだった。
「これは何という花なの?」
「トルコキキョウだよ。綺麗な花でしょう。花言葉を教えてあげたらたいそう気に入ってね、これを買っていったんだ」
「花言葉?」
「永遠の愛だよ」
お婆さんの言葉を聞いて、ルーシーが驚いたように目を見開く。彼女は大事そうに花束を抱えたまま、一粒の涙を流した。頬を伝っていくそれはまるで雨のように、白い花々に降り注いだ。
三十年の長い月日が彼女の涙に溶け込んでいるような気がして、私はルーシーから目が離せなかった。
猛吹雪の中、花束を抱えて歩くジョージの姿を思い描く。どれだけ厳しい寒さだったか、どれだけ心細い気持ちだったか、私には想像することもできない。そこにあるのは確かな愛であり、美しくも悲しい真実だ。いつも真実には悲しみが付きまとう。探偵である以上、私はその悲しみから逃れられないだろう。
「どうして信じてあげられなかったのかしら。ごめんなさい、ジョージ。あなたは最後まで生きようとしていたのに」
ルーシーは弱々しい声で言った。涙する彼女の身体は小刻みに震えており、その背中はとても小さく見えた。
悲しみに暮れている彼女に、私はそっと声をかけた。
「ルーシーさん、悪いのはあなたではありません。全てはこの雪のせいです」
花屋から外を見れば、細かな雪がしんしんと降り積もっていた。音もたてずに降り注ぐそれは時に優しく、時に厳しく、人間に寄り添う。
残酷なほど美しい景色が目の前に広がっていた。ルーシーは顔を上げて、しばらく外の景色を見つめていた。彼女の目に映る雪がどうか美しいものありますようにと、私は密かに願ったのだった。
ルーシーが落ち着くのを待っていると、彼女はポケットからハンカチを取り出して涙を拭いた。改めて前を向いた横顔は生き生きとしていて、八十年生きてきた彼女の強さが表れているようだった。
「このお花買わせて頂いてもいいかしら」
「もちろん、そう言うと思って用意したんだ」
お婆さんは得意げに微笑んだ。彼女の商魂に驚きつつ、その強かさについ感心してしまった。
支払いを終えたルーシーは、花束を抱えたまま店の出口へ向かい、振り返って私たちに深々と頭を下げた。一つ一つの所作が丁寧であり、八十歳とは思えないほど若々しかった。
「今日は本当にありがとうございました。なんと言ったらいいか、もう感謝してもしきれないわ。あなたたちのおかげで、ジョージの事件をようやく乗り越えられた気がするの」
「こちらこそ、お力になれてよかったです。よかったらお家までお送りしましょうか。エリオットが車を出しますよ」
「なんで俺なんだよ。お前が運転していけよ」
「お言葉に甘えていいかしら。どうしても寄りたいところがあるのよ」
「……まあ、しょうがないか。俺とこいつでちゃんと送り届けてやるよ」
意地でも一人では行きたくないのか、エリオットは私を指さしながら言った。私は運転を彼に任せて助手席でゆっくりしようと企みながら「わかったよ。私も行こう」と彼の誘いに乗った。
私たちは店を出て、近くの駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。普段は二人しか乗らないため、後部座席には荷物がこれでもかというほど積み込まれている。無理やり荷物を端のほうに押しやり、空いたスペースにルーシーを乗せて、車は動きだした。
雪は絶え間なく降っていたが視界が遮られるほどではなかった。ワイパーを動かして雪を払い、大きな通りを進んでいく。運転席のエリオットは陽気に口笛を吹いていた。
「この先をずっとまっすぐいったら私の家があるわ。その途中で一度止まってほしいの。夫の遺体が見つかったあたりでお願いできるかしら?」
ルーシーの注文にエリオットは「わかった」とだけ言って、さらに強くアクセルを踏み込んだ。法定速度を守っているのか気になったが、彼の機嫌を損ねるのは得策ではないとわかっていたため、今はおとなしく見守ることにした。
街から郊外へと進んでいき、周りの風景が変わり始めた。店や家は徐々に減っていき、代わりに自然が増えていく。夏になれば豊かな緑が楽しめるのだろうと思いながら、私は銀世界を眺めていた。
しばらく車を走らせていると、ジョージの遺体が見つかった地点に到着した。エリオットは車を止めて、「ついたぞ」とルーシーに声をかけた。彼女が車を降りたため、私はルーシーが残していった荷物をすべて抱えて後をついていった。
「夫が倒れていたのはこの辺りだったかしら」
「ええ、たしかそのあたりです」
ルーシーは束の中から一本の花を抜き取り、ジョージの遺体があった場所へたむけた。目をつむって祈るように手を合わせる彼女を、私は静かに見つめていた。今は言葉をかけるべきではないと悟り、彼女の悲しみにそっと寄り添ったのだった。
彼女の思いが天に届いたのか、あれほど降っていた雪が突然止んだ。どうやらたまには天気予報も当たるらしい。
私は雲に覆われた空を見上げてから、ルーシーに視線を移した。
「そろそろ車に戻りましょうか」
「いいえ、ここから歩いて帰るわ。家はもうすぐそこだから。ジョージが歩くはずだった道を一人で歩きたいの」
「そうですか。では最後に一つ、お願いしたいことがあるのですが」
「何かしら」
「このパン屋の袋に入っているものは、私がお預かりしてもよろしいですか? ついでに事件の資料もお預かりします。荷物が多いと花が持ちづらいでしょうから」
私は手に持っていたパン屋の袋を揺らしてアピールした。ルーシーは一瞬だけきょとんとした顔をした後、すぐに微笑んだ。太陽のように晴れやかな笑顔だった。
「そうね。もう必要なくなったから、あなたにあげるわ」
ルーシーの言葉を聞いて私は口元を綻ばせた。ほっと胸をなでおろしながら「それではお元気で」と彼女に一礼する。車の中に戻ろうとしたところで「ちょっと待って」とルーシーに呼び止められた。私は立ち止まり、振り返った。
視界に入ったのは銀世界の中で佇む美しい女性の姿だった。
「あなたのおかげで助かったわ。どうもありがとう、名探偵さん」
ルーシーはそう言って雪道を歩き出した。彼女の背中から感じたのは凛とした強さだった。どこまでも歩いていけそうな彼女の後ろ姿を見送り、私は車の中に戻った。
「やっぱり雪が止んだな。俺の言ったとおりになっただろ?」
「天気予報は正しかったようだね」
エリオットはなぜか自分の手柄のように誇らしげな顔をしていた。私は素直に負けを認めて助手席に座った。
車が動き出し、エリオットがカーラジオをつける。聞こえてきたのは懐かしい愛の歌だった。まっすぐな思いを歌う曲に耳を傾けながら、私は今日の事件について思いを馳せた。
「なあ、その荷物持ってきてよかったのか? 人のパンを盗むほど腹が減ってるのかよ」
エリオットが運転をしながら問いかけてきた。持っていたパン屋の袋をちらりと覗き、中に入っている物を改めて確認する。私は前を向き直し、最後の謎を解き明かしていった。
「拳銃だよ」
「拳銃? なんでそんなものが」
「あくまで私の推測だけどね、彼女はこの事件を他殺だと思い込んでいた。だから犯人がわかったら、仇を討つつもりだったのだろう。危うく本当に殺人事件が起きるところだったね」
「なんで拳銃が入ってるってわかったんだ?」
「簡単なことだよ。パンの香ばしい香りがしなかったんだ。不思議に思って中身を覗いてみたら拳銃が入っていた。これは危険な事件だと思ってね、彼女の話をしっかり聞こうと思ったんだ。君が適当にあしらおうとするから見ていて冷や冷やしていたよ」
「悪かったな、鈍感で」
エリオットは拗ねたように唇を尖らせた。私は子どものような態度をとる彼を笑い、拳銃の入った袋をそっと足元に置いた。役目を終えた拳銃をどこにしまおうか、ぼんやりと考えていた。
車が事務所に着くころには、街に夕日が差し込んでいた。燃えるように赤い夕日に目を細めつつ、私は車を降りた。後部座席の荷物を少し整理しようと後ろの扉を開く。
後部座席には沢山の荷物と、白い花びらが一つ残されていた。ルーシーが持っていた花束から落ちたものだとすぐにわかった。
「どうした? なんか忘れ物でもあったか?」
「いいや、トルコキキョウの花びらが落ちていたんだよ」
「……あの花さえなければ、ジョージ・ブラウンは凍死なんてせずに済んだんじゃないか? 車の中で死んだほうがまだ楽だったはずだろ」
「こういう考え方もあるよ。あの花のおかげで、ジョージさんは最後まで生きるようとする勇気を、ルーシーさんは事件を受け入れる強さを貰った」
「そっちのほうがいい考え方だな」
「あくまで想像だけどね」
悲しくも愛おしい事件を振り返りながら、私は花びらを拾いあげた。雪のかけらのようなそれをポケットにしまい、パン屋の袋と大量の荷物を持って事務所に戻った。エリオットにも無理やり荷物を持たせたため、後部座席は一気に片付いたのだった。
「エリオット、帰ったらまた紅茶を淹れてくれないか。キャロットケーキをまだ食べていないんだ」
「一口も食ってなかったのかよ」
「面白い事件が目の前にあったからね、食べている暇がなかったんだ」
私たちはたわいもない会話を続けながら事務所に戻っていった。事務所に入った瞬間、ルーシーの香水の香りを感じた。それはトルコキキョウのようなとても心地よい香りで、私は彼女の幸せを心から願ったのだった。




