第8話 悪役令嬢、仕入れに出る
白鳳館の厨房で、白雪凛音が包丁を握り、九条朱麗が前掛けの紐と格闘し、俺がその真ん中で鍋を焦がしかけたあの時間は、たぶん思っていた以上にいろんなものを動かした。
大げさな意味ではない。
ただ、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ人の呼吸に戻ったのだ。
それだけで現場は変わる。
その日の夕方、白鳳館のロビーでお茶を出されながら、俺は志摩さんと早坂さん、それから朱麗と向かい合っていた。凛音は俺の斜め隣で、湯呑みを両手で包むように持っている。
窓の外はもう薄い夕暮れだった。
山の稜線が少し青く沈み、庭の石灯籠の影が長く伸びている。
旅館という場所は、日が落ちる少し前がいちばん綺麗だ。客が風呂へ向かい、館内が静かに夜の顔へ変わっていく、その切り替わりの時間帯に独特の情緒がある。
白鳳館にも、それはちゃんとあった。
だから余計に惜しい。
「本日はありがとうございました」
志摩さんが、改めて頭を下げる。
「まさか賄いまで作っていただけるとは思っていませんでした」
「成り行きだよ」
俺は肩をすくめた。
「たまたま、半端が見えただけだし」
「そうやってすぐ“たまたま”にするんですね」
凛音が静かに言う。
「便利だからな」
「便利すぎます」
「そして最近、その便利さに少し甘えていますよね」
「人聞き悪いな」
「悪くありません。だいぶ事実です」
ほんとうにこの子は、言葉の刺し方が細い。
だがそのぶん、何となく受け流せない。
朱麗が湯呑みを置き、俺を見る。
「それで?」
「本日見た範囲で、率直にどうですの」
「率直に言っていいのか」
「ええ。取り繕った感想を欲しがる段階ではありませんわ」
そこは好感が持てる。
痛いことを言われる前提で聞ける人間は、少なくとも“変わる気”だけはある。
俺は少しだけ考えてから口を開いた。
「白鳳館は終わってない」
「でも、今のままだと少しずつ“良さが伝わらない宿”になっていく」
「風呂も景色も建物も悪くない。むしろいい」
「けど、客が“ここにまた来たい”って思う決定打が弱くなってる」
志摩さんが頷く。
早坂さんは黙って聞いている。
「その決定打って、料理ですか」
早坂さんが聞いた。
「料理“だけ”じゃない」
俺は首を振る。
「でも料理はかなり大きい」
「温泉旅館って、部屋も風呂も景色も全部込みで記憶になるだろ」
「その最後を締める飯がぼやけると、せっかくの体験まで少し薄くなる」
「……耳が痛いですね」
早坂さんが苦く笑う。
「わかってはいたんですが」
「わかってるのに直せない理由があるのも見た」
「人手と時間の問題は簡単じゃない」
「だから、いきなり豪華に戻そうとするのは無理だと思う」
そこで朱麗が少し身を乗り出す。
「では、何から手をつけるべきだと?」
「仕入れ」
俺が即答すると、全員の視線が集まった。
「仕入れ、ですか」
志摩さんが確認するように言う。
「料理の落ち方が急すぎたって話、さっきもしただろ」
「人手不足だけであそこまで味がぼやけるとは思えない」
「使うもの自体が変わってる可能性が高い」
「だとしたら、まず見るべきは厨房の根性論じゃなくて、何が入ってきてるかだ」
早坂さんが、ゆっくり息を吐いた。
「……鋭いですね」
「実際、数年前に主要な仕入れ先がいくつか変わっています」
「前任の支配人時代に、コストの見直しが入ったんです」
「全部が悪いわけではないんですが、細かい積み重ねがだんだん料理に響いてきた」
やっぱりか。
価格を見直すのは悪いことじゃない。
だが旅館の飯は、単品の原価だけでは測れない。
“何を食わせる宿か”が揺らぐと、全体の印象まで曖昧になる。
「明日、市場は開くか」
俺が聞くと、志摩さんが少し驚いたように目を見開いた。
「はい、朝のうちなら」
「まさか、行かれるんですか?」
「行くしかないだろ」
「現場見たなら、次は入ってくるものを見る」
言ってから、またやってしまったと思った。
視察のつもりで来て、賄いを作って、次は市場へ行く話をしている。もはや“見るだけ”の距離感ではない。
凛音がその横顔を見ていた。
「……やっぱり、そうなりますよね」
「何だその“やっぱり”は」
「だって、今のあなた、かなり自然でした」
「だからその“かなり”便利ワードみたいに使うなって」
朱麗は一度だけ静かに頷いた。
「でしたら、明朝わたくしがご案内しますわ」
「お前が?」
「ええ」
朱麗は当然のように言う。
「志摩さんや早坂さんは旅館を空けづらいでしょう」
「それに、仕入れ先との話は私も直接聞いておきたい」
「何が変わったのか、現場任せではなく、家の側の人間として把握する責任があります」
その言い方には、妙な誇示がなかった。
学校で見せる“悪役令嬢”の顔ではなく、きちんと責任を背負う側の人間の声音だった。
だから俺は、少しだけ真面目に聞き返した。
「市場とか行くの、慣れてるのか?」
その瞬間だけ、朱麗の動きがほんの少し止まった。
「……まったく慣れていないわけではありませんわ」
「その答え方は慣れてない時のやつだろ」
「失礼ですわね」
朱麗は咳払いをひとつする。
「必要な買い物くらい、できます」
凛音が横から淡々と追撃する。
「“必要な買い物”の範囲がかなり広そうですね」
「白雪さん、何が言いたいんですの」
「市場で値切ったことはなさそうだな、と思いまして」
「値切る必要がある場面には、あまり遭遇していませんの」
「それを慣れてないって言うんだよ」
俺が言うと、朱麗は不本意そうに眉を寄せた。
「あなた方、わたくしを何だと思っているんですの」
「育ちが良すぎて庶民の戦場に少し弱い人」
凛音がさらっと言う。
「言い方!」
「だいたい合ってる」
「柊木さんまで!?」
志摩さんが思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
早坂さんでさえ、少しだけ表情が緩む。
その反応を見て、朱麗は一瞬むっとした顔をしたあと、やがて小さくため息をついた。
「……いいでしょう」
「そこまで言うなら、明日きっちり見せて差し上げますわ」
「わたくしが、単に連れ回されるだけの令嬢ではないということを」
「誰もそこまでは言ってない」
「でも少し似たようなことは思っていました」
凛音が言う。
容赦がない。
俺は頭を押さえたくなったが、なぜか少しだけ笑いそうにもなった。
◇
翌朝、俺は白鳳館の玄関前で軽く後悔していた。
市場へ行くだけだと思っていた。
朝の仕入れを見て、食材の質と流れを確認して、それで終わるつもりだった。
なのに。
「お待たせしましたわ」
玄関から現れた朱麗を見て、思わず目を逸らしそうになった。
着物ではない。だが和の雰囲気を意識したのだろう、濃い藍色のブラウスに、すっきりとした細身のパンツ、足元は歩きやすい低めの靴。髪はいつもより少し高めにまとめていて、普段の“学園の悪役令嬢”よりも、旅館の若女将見習いのような空気がある。
似合ってる。
かなり。
かなり、だ。
……いや待て、何を冷静に観察してるんだ俺は。
「何ですの、その顔」
朱麗が怪訝そうに言う。
「いや別に」
「別に、の顔ではありませんわね」
「市場に行く気ある格好だなと思っただけだよ」
「当然でしょう」
朱麗はわずかに顎を上げる。
「案内役として場に馴染まない服装をするほうが不誠実ですもの」
たぶんそれも本音だろう。
この人は、こういうところで手を抜かない。
そして、その準備をきちんとしている人間は、思っていたよりずっとやりにくい。
「おはようございます」
少し遅れて凛音も出てきた。
今日の彼女は淡い青のシャツに黒のパンツで、全体にかなりシンプルだ。だが山の朝の冷たい空気の中だと、その潔さが妙に映える。
「お前も来るのか」
「行くと言いました」
凛音は当然のように答える。
「仕入れを見るなら、そこまで見たほうが流れがわかります」
「それに」
「それに?」
「九条さんを一人で市場へ放つのは、少し不安です」
「言い方が失礼すぎますわ!」
「でも、俺もちょっと思った」
「あなたまで乗らないでくださいまし!」
朝から元気だな、この二人。
白鳳館の裏手にある搬入口には、小さめのワゴン車が用意されていた。昨日の学園前の車と違って、こちらは完全に業務用だ。瀬尾さんは今日は同乗しないらしく、運転席に立っていたのは志摩さんだった。
「市場はこの先の町にあります」
志摩さんが言う。
「車で二十分ほどです」
「志摩さんも来るのか?」
「はい。いつもの仕入れ担当者だけだと、どうしても慣例通りになってしまうので」
「今日は少し、違う目線で見直したいんです」
その声音には、昨日より確かな前向きさがあった。
賄い一杯で全部が変わるわけじゃない。
でも、“変えよう”と思う温度くらいは戻る。
たぶん今はその段階だ。
車の中では、俺が助手席、後ろに朱麗と凛音が並んだ。
「なんでお前が前なんですの」
朱麗が少し不満そうに言う。
「市場の入り口や荷の流れを先に見たいから」
「理屈はわかりますけれど、妙に納得いきませんわね」
「単に前に座りたかったんじゃないのか」
「違いますわ!」
「でも少しはあった」
「……一割くらいです」
「あるんじゃねえか」
凛音が後ろから静かに言う。
「九条さん、正直ですね」
「あなたには言われたくありませんわ」
「白雪さんだって、今朝かなり自然に柊木さんの隣へ立っていたじゃありませんの」
バックミラー越しに見ると、凛音がほんの少しだけ瞬きをした。
「……たまたまです」
「便利な言葉、覚えましたね」
俺は吹き出しかけた。
後ろから、凛音の少しだけ不本意そうな声が飛んでくる。
「今、笑いましたよね」
「少しな」
「人のこと言えないと思います」
「たしかに」
車は山を下り、小さな町の市場へ着いた。
想像していたより大きい。
屋根付きの搬入スペースに軽トラックが並び、魚屋、八百屋、乾物屋、肉の業者がそれぞれの荷をさばいている。朝の市場特有の、活気と生っぽさが入り混じった空気。魚の匂い、土つき野菜の匂い、箱の木の匂い、人の声。
こういう場所は情報量が多い。
だからこそ、どこを見るかで差が出る。
「まずは青果からです」
志摩さんが言う。
「いや、その前に全体を一周したい」
「もうですの?」
朱麗が聞く。
「まず流れを見る」
「どこに人が集まってるか、どこの荷が新しいか、白鳳館の今の仕入れ先が市場の中でどういう立ち位置か」
「個別に見るのはそのあと」
朱麗は少しだけ黙り、それから小さく息をつく。
「……やっぱり、自然ですわね」
「何が」
「こういう場で迷わないところがです」
その言い方に、変な持ち上げはなかった。
ただ見たままを言っているだけだ。
俺は少しだけ肩をすくめる。
「食うのが好きだと、材料も気になるんだよ」
「それだけでは説明が足りません」
凛音が言う。
「そうですわね」
朱麗も続ける。
「あなた、材料を見てるというより、そこから先の皿まで見ていますもの」
図星すぎて困る。
だから俺は少し雑に話を切った。
「ほら行くぞ」
市場を一周して見えてきたのは、嫌なほどわかりやすい構図だった。
白鳳館が使っている仕入れ先は、極端に悪くはない。
だが“白鳳館の格”を作るには少し弱い。
質を落としすぎない程度に安定は取っているが、心に残る個性は出にくいラインだ。
そしてその理由も見えた。
今の白鳳館は、攻めた仕入れをするだけの体力がないのだ。
外したくない。
量を崩したくない。
支払いも安定させたい。
結果として、“良いけれど記憶に残りにくいもの”へ寄っていく。
「なるほどな……」
俺が小さく呟くと、凛音が隣で聞いた。
「見えてきましたか」
「うん」
「現場のせいだけじゃない」
「旅館の規模のわりに、今の仕入れは守りすぎてる」
「でもそれは、たぶん過去に何か外したか、もしくは失敗を恐れる空気が上から下まで降りてきた結果だ」
志摩さんが息をのむ。
「……その通りです」
「数年前、一度だけ“目玉にしよう”とした企画食材が大きく外れて」
「原価だけ高く、現場の負担も増えて、結局お客様の反応も散ってしまったんです」
「それ以来、厨房も支配人側も、少しずつ慎重になりすぎました」
「一回外すと、次が怖くなるからな」
俺は頷く。
「でも、怖がったまま戻ると、今度は“無難で埋もれる”」
「……耳が痛いですわね」
朱麗がぽつりと言った。
その言葉には、自分たち家の判断への苦さも含まれていた。
俺たちは今の仕入れ先のひとつである青果店へ向かった。
店主は五十代くらいの男で、白鳳館の名前を聞くとすぐに愛想よく笑った。
「いつもどうも、白鳳館さん」
「今日はえらく華やかだねえ」
「仕事ですわ」
朱麗がきっぱり言う。
だが店主はまったく怯まない。
「仕事だって華やかなもんは華やかだよ」
「そっちの兄ちゃんも、新しい料理人さんかい?」
「違う」
「違います」
「ええ、違いますわ」
三人同時だった。
店主が目を丸くしてから、にやっと笑う。
「おお、息ぴったりじゃないか」
「違いますわ」
「だから何がだよ」
「今の流れでそこ拾うんだな……」
完全に遊ばれている。
だが、こういう軽口の中で本音がこぼれることもある。
俺は並べられた山菜と野菜を見ながら、店主へ聞いた。
「今の白鳳館向け、どのあたりを多く入れてる?」
「ん? 定番の葉物と根菜、それから季節もんを少しだな」
「昔はもっと攻めた注文もあったけど、最近は堅いよ」
「悪いわけじゃない。ただ、面白みは減ったかもな」
店主のその一言で、やっぱりと思う。
白鳳館は市場側から見ても“守りに入った宿”として見られているのだ。
「例えば」
俺は春の山菜をひとつ手に取る。
「今の時期で、白鳳館が少しだけ印象を変えられる食材って何がある」
店主の目が少し変わった。
ただの若造ではなく、“考える客”を見る目だ。
「少しだけ、ね」
男は腕を組む。
「派手にしないで印象を変えるなら、香りだろうな」
「山菜もそうだが、地の筍がそろそろ出る」
「それとこの辺りの沢で上がる川魚」
「食べ慣れてるもんでも、扱いが丁寧だと“ここで食った味”になる」
俺は小さく頷く。
「そういうのだよな」
横で朱麗が真剣な顔をして聞いていた。
たぶん今のやり取りを、一つも逃すまいとしている。
「九条」
俺は振り向かずに言う。
「旅館の飯って、毎回“革命”じゃなくていいんだ」
「でも“ここで食ったから残る”は要る」
「その差は、こういう食材の選び方で出る」
「……ええ」
朱麗の返事は静かだった。
「ようやく、少しわかってきましたわ」
その声音が、なぜか少し嬉しそうに聞こえる。
俺はそれ以上何も言わなかった。
次に向かった魚屋では、さらに面白いことが起きた。
店主の婆さんが、朱麗を見るなり言ったのだ。
「あらまあ、あんた前に来た九条の娘さんだろ」
「ずいぶん大きくなって」
朱麗がわずかに目を見開く。
「……覚えていらっしゃるんですの?」
「覚えてるよ」
「ちっちゃいころ、白鳳館の帰りに親父さんの後ろついて来てたじゃないか」
「魚の名前、ひとつひとつ聞いてきて面白かったもの」
俺は思わず朱麗を見る。
「お前、そんなことしてたのか」
「……少し、ですわ」
「少しの顔じゃないだろ」
朱麗はほんの少しだけ視線を逸らした。
珍しい。明らかに照れている。
魚屋の婆さんは、そんな彼女を見て目を細める。
「白鳳館、好きだったんだろ」
「あの宿の子はみんなそういう顔するよ」
その言葉に、朱麗はすぐには答えなかった。
代わりに小さく、でもはっきりと頷く。
「ええ。好きですわ」
短い一言だった。
けれど、その一言にたぶん彼女の本音のほとんどが入っていた。
市場のざわめきの中で、その言葉だけが妙にきれいに耳へ残る。
俺はその横顔を見て、少しだけ息を吐いた。
この人はたぶん、本当に白鳳館を救いたいのだ。
家の事情とか、経営の都合とか、そういうものも当然あるのだろう。
でも根っこにあるのは、もっと単純で、もっと個人的な感情だ。
そういうものを持っている人間は強い。
同時に、すごく不器用でもある。
「……何ですの」
朱麗がこちらに気づいて言う。
「いや」
俺は少しだけ笑う。
「お前、思ってたよりちゃんと現場の人に覚えられてるんだな」
「当然でしょう」
朱麗はいつもの調子を取り戻したように顎を上げる。
「わたくしを誰だと思っているんですの」
「そういうとこだぞ」
「何がですの!?」
凛音が静かに口を挟む。
「でも、少し安心しました」
「またですの?」
「はい」
「九条さんが白鳳館を大事に思っているのは知っていましたけど、白鳳館の側にも九条さんの記憶が残っているんですね」
その言い方は、やさしかった。
朱麗は一瞬だけ何かを言い返しかけて、結局何も言わずに魚の並ぶ箱へ視線を落とした。
ほんの少しだけ、頬がやわらいで見えた。
市場を回り終え、最後に軽食屋みたいな小さな茶屋で休憩を取ることになった。
木の椅子と丸テーブルがあるだけの簡素な店だが、出てきたのは温かいお茶と、焼き味噌を塗った小さな団子だった。
「こういうの、旅館のチェックイン後に出してもいいかもな」
俺が何気なく言うと、凛音がすぐ反応する。
「また自然に企画の話をしています」
「いや、今のは感想」
「かなり具体的でした」
「その“かなり”やめろって」
朱麗が団子を上品に口へ運びながら言う。
「でも実際、それはありかもしれませんわね」
「豪華すぎず、この土地の気配がわかる」
「最初の一口としては悪くありません」
「だろ」
俺は頷く。
「最初の印象を土地の味で作れれば、その後の飯にも繋がる」
「白鳳館って、今は“全部それなりにいい”で止まってるから」
「最初と最後に芯を入れると、宿の記憶が締まると思う」
言いながら、自分でもだいぶ踏み込んでいる自覚はあった。
すると凛音が、湯呑みを持ったまま静かに言った。
「もう十分、“視察だけ”の距離じゃないですよね」
それは正しい。
正しすぎて、困る。
俺は団子をひとくち齧りながら視線を逸らした。
「……まだ、何も引き受けたわけじゃない」
「言葉の上では、ですね」
凛音は続ける。
「でも、さっきから九条さんとも普通に相談していますし、市場の人とも白鳳館の先の話をしていました」
「それって、かなり――」
「かなり、だろ」
俺が先に言うと、凛音が少しだけ瞬きをした。
「はい」
「便利なんだろ、その言葉」
「便利です」
凛音はほんの少しだけ口元を緩める。
「でも、今はたぶん、それ以上にぴったりなので」
そのタイミングで、朱麗が小さく咳払いをした。
「お二人とも」
「そこで通じ合った空気を出されると、少し面白くありませんわね」
「何だよ、その言い方」
「事実ですもの」
朱麗は視線をそらし気味に言う。
「今日はわたくしが案内役ですのに、気づけば会話の主導権を二人に持っていかれている気がします」
それはちょっと意外だった。
この人がこういう種類の不満を口にするとは思っていなかった。
「……別に、持っていってないだろ」
「持っていっています」
朱麗は珍しく即答した。
「あなたは市場へ来たら自然に前へ出るし、白雪さんはその横で当たり前のように話を拾うし」
「その結果、わたくしが少し後ろから見ている形になる」
「……あまり気分のいいものではありませんの」
拗ねてる、のか?
いや、そこまで子どもっぽい表現は違うかもしれない。
でも少なくとも、少し置いていかれた感じはあるのだろう。
凛音がそこで、静かに言った。
「では次、九条さんが選んでください」
「何をですの」
「白鳳館で最初に変えたいものを、一つ」
「今日見て、聞いて、それで九条さん自身が一番手を入れたいと思ったことを」
朱麗は言葉を失ったように見えた。
それはたぶん、意外だったからだ。
凛音が自分にそういう球を渡してくるのが。
「……いいんですの?」
「はい」
凛音は頷く。
「白鳳館は、九条さんの場所でもあるので」
「案内役をしたいなら、ちゃんと前に立ったほうがいいと思います」
その言い方は、敵対でも挑発でもなかった。
不器用な背中を押すような、静かな言葉だった。
朱麗は少しだけ目を伏せ、それからまっすぐ前を見た。
「……でしたら」
「最初に変えたいのは、夕食前の迎え方ですわ」
俺と凛音は同時に彼女を見た。
「風呂も料理も大事です。でも、その前に」
朱麗はゆっくりと言葉をつなぐ。
「白鳳館へ着いたお客様が、“ようやく来た”と気持ちを緩められる空気を、もっとはっきり作りたい」
「今は少し静かすぎる」
「落ち着いているのと、気配が薄いのは違いますもの」
それは、かなりいい答えだった。
俺は少しだけ感心してしまう。
「……悪くないな」
「悪くない、ですの?」
「いや、かなりいい」
俺は正直に言う。
「多分それ、白鳳館に足りないものの一つだ」
「料理を変えるにしても、そこから始めるのは筋が通ってる」
朱麗の目が、ほんの少しだけ開かれる。
「そう思いますの?」
「思うよ」
「……そう」
たったそれだけ返して、朱麗は団子へ視線を落とした。
だが耳の先が少しだけ赤い。
褒められ慣れているようで、こういう方向から認められるのには弱いのかもしれない。
凛音がそれを見て、小さく息を吐いた。
「やっぱり、九条さんもちゃんと見てますね」
「当然ですわ」
朱麗はすぐにいつもの顔へ戻る。
「わたくしを誰だと思っているんですの」
「だからそういうところだって」
俺が言うと、今度は三人とも少しだけ笑った。
茶屋を出るころには、朝の市場のざわめきもだいぶ落ち着いていた。
日が高くなり、町の通りには人が増え始めている。
白鳳館へ戻る車の中、俺は窓の外を見ながら考えていた。
仕入れの流れは見えた。
現場の弱り方も見えた。
そして、九条朱麗が何を守りたいのかも少しだけ見えた。
見えたからこそ、もう“ただ見ました”では済まない気がしている。
それが面倒だ。
かなり、面倒だ。
でも。
隣では凛音が静かに窓の外を見ていて、後ろでは朱麗がメモを見返している。
その二人の気配が、なぜか少しだけ落ち着くものになり始めている自分がいる。
それはたぶん、いちばん危ない兆候だった。
静かに生きるはずだった脇役が、気づけば人の隣を“居心地が悪くない”と思い始めている。
そんなもの、ろくな未来に繋がらない。
経験上、そういう確信だけはある。
なのに、車窓に流れる山の色を見ながら、俺は少しだけ思ってしまった。
――白鳳館、立て直せたら、きっとかなり面白い。
その考え自体が、もうだいぶ足を踏み入れている証拠だと知りながら。




