第7話 氷の美少女、厨房に立つ
白鳳館の厨房で賄いを作ったあと、空気は少しだけ変わった。
劇的に、ではない。
そんなふうに都合よく何もかもが好転するなら、世の中の立て直しなんてもっと簡単だ。
でも、ほんの少しだけ、人の声が前を向いた。
それはたぶん、疲れ切った現場にとって十分大きい変化だった。
「柊木さん」
賄いの器が下げられ、厨房の熱気が少し落ち着き始めたころ、志摩さんが俺に声をかけた。
「もしよろしければ、館内をもう少しご案内します」
「客室や浴場、食事処も見ていただければと」
「……まあ、せっかく来たしな」
本音を言えば、すでにかなり見たい気持ちにはなっていた。
外観、ロビー、厨房。
そこまで見れば、他の場所も気になるに決まっている。
ただ、それをあんまり素直に出すと、横から面倒な二人に“ほらやっぱり”みたいな顔をされるのが嫌だった。
案の定、凛音がすぐに反応する。
「気になるんですね」
「視察に来たんだから当たり前だろ」
「ええ。視察だけ、のはずなのに、ずいぶん真面目です」
「刺し方が細いんだよな、お前は」
凛音は小さく首を傾げた。
「褒め言葉ですか」
「半分くらいは」
「便利な返しを覚えましたね」
「誰のせいだよ」
朱麗がそのやり取りを聞きながら、わずかに目を細める。
「白雪さん、あなた随分と機嫌がよろしいのではなくて?」
「そう見えますか」
「ええ。普段より声が少し柔らかいですわ」
「……そういう九条さんも、さっきから満足そうですよね」
「当然でしょう。白鳳館の厨房が久しぶりに“美味しい顔”をしていましたもの」
その言い方に、少しだけ胸が引っかかった。
美味しい顔。
なるほど、この人はそういう見方をするのか。
高圧的で、強気で、何かにつけて命令口調なのに、こういう時だけ妙に言葉がやわらかい。
本当に、やりにくい人だ。
志摩さんの案内で、俺たちはまず客室棟へ向かった。
白鳳館は本館と別館が渡り廊下でつながっていて、客室の多くは山側に開けている。廊下の窓から見えるのは、春先の山の斜面と、その向こうに流れる川だった。芽吹き前の枝と若葉の混じる景色が、どこか中途半端で、その中途半端さが逆にこの季節らしい。
「景色はいいな」
思わずそう漏らすと、志摩さんが少しだけほっとしたように笑う。
「ありがとうございます」
「紅葉の時期と雪見の時期は、特に好評なんです」
「今の季節でも悪くない」
俺は窓越しの山を見ながら言う。
「むしろ春先の少し寂しい感じが、湯宿には合ってる気がする」
「……そういう見方、するんですね」
凛音が横から言った。
「何だよ」
「いえ。もっと実務的なことばかり見るのかと思っていました」
「導線とか、設備とか、料理とか」
「そっちも見るよ」
「でも宿って、結局“ここにいたい”と思えるかどうかだろ」
「景色がいいって、単に見栄えがいいだけじゃなくて、そこに座って湯冷まししたくなるとか、朝ちょっと早起きしたくなるとか、そういう理由になる」
言いながら、ふと気づく。
今の言い方、だいぶ宿を見る人間のそれだな。
横を見ると、凛音が静かにこちらを見ていた。
「……やっぱり、放っておけないんですね」
「何でもそこに繋げるのやめろ」
「でも事実ですよね」
「うるさい」
朱麗が少し前を歩きながら、くすりと笑う気配を見せる。
「白雪さん、そのあたりで許して差し上げて」
「柊木さん、こう見えて自分のことになると妙に不器用なんですの」
「お前にだけは言われたくないんだけど」
「不本意ですけれど、お互いさまではなくて?」
「最近ほんと、そのへんだけ息が合うな……」
客室のいくつかを見たあと、次に案内されたのは食事処だった。
広間は天井が高く、窓際の席から庭が見える造りになっている。部屋自体は悪くない。いや、かなりいい部類だ。畳と木のバランス、照明の落ち着き方、席間の取り方も丁寧だ。
けれど、どこか惜しい。
「何か気になりますか?」
志摩さんが尋ねる。
「席そのものはいい」
俺はゆっくりと見回した。
「でも、初見の客が入った時に“どこが一番気持ちいい席なのか”が少し伝わりにくい」
「あと、窓の外の庭が売りなら、もう少し見せ方を作ってもいい」
「今だとただ“あります”で止まってる感じだな」
「見せ方、ですか」
「たとえば、朝食の時間帯だけでも外の光が入る席を少し絞るとか」
「料理が運ばれてきた時、最初に目へ入る景色まで含めて一皿になるようにするとか」
志摩さんは真剣に頷く。
その横で朱麗が、ほんの少し誇らしそうに腕を組んでいた。
「……何だよ、その顔」
「別に?」
朱麗はすました顔で言う。
「見る目のある人材を連れてきた判断が正しかったと、再確認していただけですわ」
「だから人材って言うな」
「適材ですもの」
「それ、褒めてるのに雑なんだよな」
凛音が横で静かに言う。
「でも、九条さんなりにはかなり褒めているほうですよ」
「なんでお前が通訳みたいなことしてるんだ」
「わかりにくいので」
「そこは同意する」
「お二人とも、私の扱いが少し雑ではなくて?」
そう言いながらも、朱麗は本気で怒っているわけではなさそうだった。
むしろ、こうして言い返せる空気自体を少し受け入れ始めているように見える。
館内を一通り見たあと、最後に案内されたのは浴場だった。
白鳳館の温泉は、想像以上によかった。
脱衣所は古さこそあるが清潔で、浴場へ入ると湯気越しに石造りの内湯が広がっている。大きな窓の向こうには山の緑が見え、露天へ続く扉も重たすぎない。温泉の匂いはきつすぎず、でもちゃんと“ここに来た”と思わせるだけの個性がある。
「……これはいいな」
また率直に出た。
朱麗が少しだけ満足げに言う。
「でしょう?」
「泉質は?」
「弱アルカリ性単純泉です」
志摩さんが答える。
「刺激が少なくて長湯しやすいんです」
「料理で攻めるなら、風呂はこれくらい柔らかいほうが合うかもな」
「料理で攻める前提なんですね」
凛音がすかさず拾ってくる。
「仮定の話だよ」
「最近、その“仮定”がずいぶん具体的です」
「お前、ほんとに細かいな」
凛音はそこで、少しだけ真面目な顔になった。
「細かくなります」
「だって、あなたは大事なところほど曖昧にするので」
その言葉に、一瞬返事が詰まる。
大事なところほど曖昧にする。
まあ、そのとおりだ。
認めたくないものほど、言葉を雑にする。
軽口で流す。
話をずらす。
俺はたぶん、ずっとそうしてきた。
朱麗がその沈黙を見て、静かに話題を変えた。
「ひとまず視察としては十分でしょう」
「館内をご覧になって、どうですの?」
問いかけられて、少し考える。
正直に言うなら、思っていた以上に“いい”。
同時に、思っていた以上に“惜しい”。
「素材は本当にいい」
俺はゆっくり言葉を選んだ。
「建物、景色、風呂、歴史。ここじゃなきゃ駄目って言えるものの種はちゃんとある」
「でも、全部が少しずつ“活ききってない”」
「悪くなったっていうより、届かなくなってる感じだな」
志摩さんが息を飲むのがわかった。
たぶんそれが、一番痛い言い方だったのだろう。
悪いと言い切られるより、“届かなくなってる”のほうが現場には刺さる。
「……そう、ですね」
志摩さんは苦く笑った。
「たぶん、まさにその通りです」
「良いものはあるんです。でも、以前みたいに“また来たい”まで繋げられなくなっている」
「原因は一つじゃない」
俺は言う。
「けど、その一つに料理があるのは確かだ」
朱麗が頷く。
「でしたら、このあと厨房へ戻りましょうか」
「早坂さんとも、少し落ち着いて話せるかもしれませんわ」
「そうだな」
そこまで言ってから、凛音がぽつりと呟いた。
「私も、ちょっとだけ料理を見てみたいです」
俺はそちらを見る。
「料理を?」
「はい」
「さっきの賄い、作るところをもっとちゃんと見ていなかったので」
「見るだけなら別にいいけど」
「見るだけ、では駄目ですか?」
言い方が少しだけ違った。
静かだが、わずかに食い下がる気配がある。
「……何がしたいんだよ」
「少し、教えてほしいです」
その一言に、今度は俺が黙る番だった。
教える。
その発想はあまりなかった。
昨日までの俺なら、たぶんすぐ断っていたと思う。面倒だし、責任も増えるし、妙に距離が近くなるから。
でも今は、白鳳館の空気のせいか、すぐに跳ね返せなかった。
「どうしてですの?」
代わりに朱麗が聞いた。
凛音はほんの少しだけ視線を伏せた。
「……知っておきたいからです」
「この旅館を立て直すのに、食が大きいなら」
「それを作る人が、何を見て、何を選んでいるのか」
「それ、かなり真面目な理由に聞こえるけど」
俺は言う。
「半分くらいは、興味本位だろ」
「ええ」
凛音はあっさり認めた。
「もう半分は、興味です」
「全部じゃねえか」
「違います」
「あと少しだけ……」
そこで、彼女は一拍だけ間を置く。
「あなたが、どうしてああいう味を出せるのか知りたいです」
その言い方は、変に飾っていなくて、だから余計に困った。
凛音の声には、媚びも遠慮もなかった。
ただ、知りたいものを知りたいと言っているだけだ。
そういう真っ直ぐさは、苦手だ。
苦手なのに、断りにくい。
「……ちょっとだけなら」
気づけばそう答えていた。
朱麗がすかさず言う。
「ずいぶんあっさり了承しましたわね」
「今さらな」
「今さら、ですって?」
朱麗は少しだけ眉を上げた。
「私が何か頼む時との差があまりに露骨ではなくて?」
「お前は頼み方が九割くらい命令なんだよ」
「それは」
朱麗が言葉を詰まらせる。
「……少々、否定しづらいですわね」
凛音が横から淡々と追い打ちをかける。
「十割に近いと思います」
「白雪さん、あなた本当に私に厳しいですわ」
「でも、今のは私も思った」
「柊木さんまで!?」
白鳳館の浴場前廊下に、珍しく朱麗の素に近い声が響く。
その反応が少しだけ面白くて、俺と凛音はほとんど同時に目を逸らした。
「……何ですの、その空気」
「別に」
「何でもありません」
「そこで揃わないでくださいまし!」
少しだけ騒がしい空気のまま、俺たちは再び厨房へ戻ることになった。
◇
午後の厨房は、昼の片づけを終え、夜の仕込みへ移る時間帯だった。
昼よりは少し落ち着いているが、それでも余裕があるわけじゃない。魚の下処理、出汁の取り直し、野菜の切り出し、器の準備。ひとつひとつは地味でも、全部が夜の食事へ直結している。
早坂さんは俺たちの姿を見ると、わずかに目を細めた。
「戻ってきましたか」
「邪魔なら帰る」
「いえ」
早坂さんは首を振る。
「さっきの賄いのあとで、それを言うのは卑怯でしょう」
「現場の空気が少し戻ったのは事実ですから」
そこで凛音が一歩前に出る。
「すみません」
「少しだけ、見せてもらえませんか」
「白雪さんが?」
早坂さんが意外そうに目を丸くする。
「はい」
「……できれば、少し教わりたいです」
すると早坂さんは、俺と凛音を見比べた。
それから、妙に納得したような顔をする。
「なるほど」
「君が教える側か」
「いや、別に大したことは」
「そういう言い方をする人ほど、たいていちゃんとできます」
早坂さんは少しだけ口元を緩めた。
「いいですよ。賄いの延長くらいなら」
「ありがとうございます」
凛音が頭を下げる。
その所作がきれいで、でも変に堅苦しくなくて、本人の真面目さがよく出ていた。
俺は作業台へ向かいながら、ちらりと彼女を見る。
「ほんとにやるのか」
「はい」
「包丁、普段どれくらい使う」
「家で少し」
「でも、得意とは言えません」
「正直でよろしい」
「取り繕っても、たぶんすぐ見抜かれますよね」
「まあな」
「そういうところです」
「便利ワードみたいに言うな」
凛音は袖を少しだけまくり、借りた前掛けを結ぶ。
その動作が少しぎこちないのに妙に丁寧で、らしいなと思う。
「まず何からですか」
「今日は派手なのいらない」
俺はまな板の上に春野菜を並べる。
「簡単な汁物と和え物くらいでいい」
「食わせる相手は現場の人間だ。疲れてる時に必要なのは、ちゃんと腹に落ちる味と、手数の多さより無理のない組み立て」
「はい」
「返事はいい」
「包丁持ってみろ」
凛音は言われたとおり包丁を持つ。
すぐわかった。危なっかしくはない。でも慣れている手ではない。
「力入れすぎ」
俺は彼女の手元を見る。
「切るっていうか、押してる感じになってる」
「……難しいですね」
「まあ最初はそんなもんだ」
「指は丸めろ。そこ伸ばしてると、そのうちやる」
「やる、って」
「切る」
凛音がぴたりと指を引っ込めた。
「もっと早く言ってください」
「今言っただろ」
「そういう問題じゃありません」
そのやり取りに、近くで仕込みをしていた若い従業員が思わず笑う。
凛音は一瞬だけそちらを見て、少しだけ頬を染めたように見えた。
珍しい。
普段の彼女なら、こういう反応にもほとんど表情を動かさないのに。
「白雪さんでも、そういう顔するんですね」
思わず言うと、凛音が即座にこちらを見る。
「どういう意味ですか」
「いや、いつももう少し涼しい顔してるだろ」
「今もしているつもりです」
「いや、ちょっとしてない」
「……そういうの、あまり口にしないでください」
「なんで」
「調子が狂うので」
その返しに、今度はこっちが少しだけ黙る。
調子が狂うのは、お互いさまらしい。
俺は気を取り直して、彼女の後ろに回った。
「ほら、手首」
「こうじゃなくて、もう少しだけ刃先を前に」
「……近いです」
「教えてるんだから仕方ないだろ」
「そうですけど」
凛音の声が、ほんの少しだけいつもより低い。
「もう少し口で説明してもいいと思います」
「口だけで伝わるなら苦労しない」
「理屈はわかります」
「でも、心の準備が」
「何のだよ」
「……知りません」
そこまで言って、凛音は自分で少し困ったように視線を落とした。
近い、か。
たしかに近い。
俺は今、凛音のすぐ後ろに立って、包丁の角度を直すために彼女の手首へ軽く触れている。髪からは、ごく薄い石鹸の匂いがする。甘いとか派手とかじゃない、清潔で静かな匂いだ。
意識した瞬間に駄目になる。
俺は一歩だけ距離を取った。
「……悪い」
「いえ」
凛音も小さく息を吐く。
「私も、変な言い方をしました」
「じゃあおあいこだな」
「そうですね」
少しだけ間が空く。
厨房の奥で鍋の蓋が鳴る音がした。
俺はまな板の上の野菜を指さした。
「もう一回」
「今度は肩の力抜け」
凛音は黙って頷き、今度はさっきより少しだけ柔らかく包丁を動かした。
悪くない。
いや、思ったより覚えが早い。
「上手いじゃん」
「本当ですか」
「一回目より全然いい」
「真面目にやるタイプだろ、お前」
「たぶん」
「雑にやるのが苦手です」
「見てればわかる」
「そういうのも、あまり自然に言わないでください」
「何が」
「褒められると、やっぱり少し調子が狂います」
まただ。
なんだろうな、この会話。
別に特別な言葉なんか何もないのに、妙に距離が近い。
朱麗が少し離れた位置でその様子を見ていて、不意に口を開いた。
「……ずいぶん楽しそうですわね」
声音はいつも通り高飛車気味だが、何かが少し混じっている。
たぶん、面白くなさそうな気配だ。
「楽しそう、か?」
俺が振り返ると、朱麗はふんと鼻を鳴らした。
「ええ。少なくとも、さきほど私が頼みごとをした時より、ずっと自然ですわ」
「だからお前は頼み方が悪いんだって」
「それを今ここで蒸し返しますの?」
「蒸し返される自覚はあるんだな」
凛音が静かに言う。
「九条さんも、やってみますか」
「私が?」
「はい。見るだけより、少しはわかることもあるかもしれません」
朱麗は一瞬だけ言葉を失ったようだった。
だがすぐに顎を上げる。
「……いいでしょう」
「白雪さんにだけ先を越されるのも癪ですし」
「何の勝負なんだよ」
「わかりません」
凛音は淡々と言う。
「でも、たぶん負けたくないんだと思います」
「随分と他人事みたいに言いますわね!?」
厨房に、また少しだけ笑いが広がる。
その空気の中で、俺はふと気づいた。
さっきまで張り詰めていた現場が、ほんの少しだけ息をしている。
料理を習うだの、負けたくないだの、そんなくだらない会話が流れても許されるくらいには。
それが少しだけ嬉しくて、同時に危なかった。
こうやって居場所の空気がやわらぐと、つい長居したくなる。
関わりすぎる。
踏み込みすぎる。
そういう自分を、俺はよく知っている。
「柊木さん?」
朱麗の声で我に返る。
「何だよ」
「野菜、焦げそうですわ」
「うわ、やっば」
慌てて鍋に戻ると、背後で凛音が小さく笑った気がした。
その音が、妙に耳に残る。
俺は鍋をかき混ぜながら、自分の内側に少しだけ嫌な予感を覚えていた。
白鳳館のこと。
この現場のこと。
それから、氷の美少女と悪役令嬢のこと。
どれもまだ始まったばかりなのに、すでに少しだけ近すぎる。
それが心地いいと思い始めたら、たぶん危ない。
危ないのに。
振り返れば、凛音は少しだけ真剣な顔で包丁を握っていて、朱麗はそんな彼女に負けじと前掛けの紐を結んでいる。
その光景が、どうしようもなく自然に見えてしまった。
だから困るんだよな、と俺は心の中で小さく毒づく。
静かに生きるはずだった脇役の二度目の人生は、どうやら思っていた以上に、湯気の向こうで騒がしくなり始めていた。




