表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/8

第6話 最初の賄いは、あまりに反則だった

厨房という場所は、その店や宿の本音がいちばん早く出る。


 客室やロビーは取り繕える。

 笑顔も、言葉遣いも、外に見せる景色も、ある程度は整えられる。

 けれど厨房だけはそうはいかない。そこで働く人間の余裕、導線の無理、仕込みの崩れ、現場の疲れ。そういうものが全部、鍋の音と包丁の音と人の足音の間に滲む。


 白鳳館の厨房は、決定的に壊れているわけではなかった。


 むしろ逆だ。


 壊れずにここまで耐えてきたことのほうが驚きだった。


「お嬢さま、お越しになるなら先に一言いただければ……!」


 奥から飛んできた声は、怒鳴っているというより焦りで上ずっていた。


 志摩さんがすぐに前へ出る。


「ごめんなさい、早坂さん。急な案内になってしまって」

「今日は見学だけです。現場の邪魔はしません」


 “現場の邪魔はしません”。

 その言い方に、今この厨房では見学者が存在するだけで邪魔になり得る、という現実が透けて見えた。


 声の主――早坂さんは四十代半ばくらいの男性で、白衣の袖を肘までまくっている。顔立ちは精悍だが、目の下には濃い疲れが見えた。料理人らしい硬い手つきをしているのに、その手を止める一瞬の余裕すらないらしく、挨拶のあともすぐ鍋へ戻っていく。


「申し訳ありません。昼の片づけと夜の仕込みが重なっていて……」


「構いませんわ」

 朱麗が言う。

「むしろ、その“重なっている現場”を見に来たのですから」


 言葉は相変わらず強いが、学校で聞く時より棘は少なかった。

 ここでは彼女も、ただ命令を飛ばしに来たわけではないのだとわかる。


 俺は厨房の隅に立ったまま、視線を巡らせた。


 広さはある。

 設備も極端に古いわけではない。

 だが人が足りない。明らかに足りない。


 焼き場、煮方、盛り付け、洗い場。どこも最低人数ぎりぎりで回している。しかも一人が二役三役を兼ねていて、結果として動線がぶつかる。たとえば、仕込み台から冷蔵庫に向かう人の通り道に、洗い場から戻る人間が重なる。ちょっとしたことだが、こういう小さな渋滞は一日積み重なると疲労になる。


 そして疲労は、必ず味に出る。


「……何か言いたそうですね」


 隣で凛音が小声で言った。


「顔に出てるか」


「かなり」


「最近その“かなり”に逃げるの好きだな」


「便利なので」


「学習しやがって」


 凛音はほんの少しだけ口元を緩めた。笑っているのだろうが、知らない人が見たらたぶん気づかない程度だ。


「で、どう見えますか」


 彼女が続ける。


「きつい」

 俺は短く言った。

「技術がないんじゃない。人と時間と余裕が足りてない」

「あと、たぶんずっと“今夜を落とさない”で精一杯だ」

「その状態が続くと、料理はうまくなる方向じゃなくて、失敗しない方向に寄っていく」


「失敗しない方向」


「守りの料理になるってことだよ」

「悪くはない。でも、ここでしか食えないものにはならない」


 凛音は俺の言葉を静かに反芻するように視線を落とした。


「それって、結構きついですね」


「宿の飯でそれ言われるのは、たぶんな」


 俺たちの会話が耳に入ったのだろう。

 鍋を見ていた早坂さんが、少しだけこちらを見た。


「……お若いのに、厳しいことをおっしゃる」


 敵意というほどではない。

 だが、防御の色はあった。


 当然だと思う。

 外から来た学生が、数分見ただけで現場に口を出しているように見えるのだから。


 俺は軽く頭を下げた。


「すみません。偉そうに言うつもりはないです」

「ただ、そう見えたってだけで」


「見えた、か」

 早坂さんは短く息を吐く。

「ええ、そうです。今は“失敗しないこと”が最優先ですよ」

「旅館の料理で冒険して、外したら終わりですからね」

「人手も足りない。仕入れも前みたいにはいかない。だったら、無難でも崩れないものを出すしかない」


 その言葉には、言い訳ではなく積み重なった現実があった。


 わかる。

 わかるからこそ、きつい。


 人は余裕がなくなると、正しい選択をする。

 だがその“正しい”は、たいてい生き延びるための正しさだ。

 人を感動させる正しさとは、少し違う。


 朱麗がゆっくりと言った。


「早坂さんを責めに来たわけではありませんの」


「ええ、わかっています」

 早坂さんは疲れたように笑った。

「でも、現場に立ってると、自分でわかるんですよ」

『前はもっとできた』って」

「それがいちばん堪えるんです」


 その一言で、厨房の空気が少しだけ沈んだ。


 誰も責めていない。

 だが、誰よりも本人が自分を責めている。


 そういう空気は、外から励ましたくらいではどうにもならない。


 俺はしばらく黙っていたが、ふと作業台の隅に目を留めた。


 ボウルに余った下処理済みの山菜。

 半端に残った鶏肉。

 小鍋に取り分けられた出汁。

 形の揃っていない温泉卵。

 使い切れなかった豆腐。

 それから――ダンジョン由来らしい保存素材の瓶。


 たぶん、売り物にはしづらい半端もの。

 でも、捨てるには惜しいやつらだ。


「これ、賄い用か?」


 俺が指さすと、志摩さんが少し驚いた顔をした。


「ええ、そうです」

「といっても、最近はきちんとした賄いを作る余裕もなくて、空いた人が適当に摘まめるものを出すくらいなんですけれど……」


「適当に、か」


 早坂さんが肩をすくめる。


「客に出す料理で手一杯ですからね」

「賄いにまで神経は回りませんよ」


 それもまた当然だ。

 客を優先するのは宿として正しい。


 でも現場が疲れている時ほど、最後に効くのは賄いだったりする。


 腹を満たすだけじゃない。

 自分たちが作るものに、少しだけ誇りを取り戻すための飯だ。


 俺は気づけば作業台のほうへ足を向けていた。


「柊木さん?」


 朱麗が呼ぶ。


「ちょっと借りていいか」


「何をですの」


「台所」


 一瞬、静寂が落ちた。


 早坂さんが怪訝そうに眉を寄せる。


「君が、料理を?」


「まあ少しは」

「っていうか、せっかく半端があるなら、もったいないだろ」


「賄いを作るつもりですの?」


 朱麗の声が、わずかに上ずる。


「別に大したもんじゃない」

「疲れてる現場なら、派手な料理より帰ってこられる味のほうがいい」


 言ってから、またやってしまったと思った。

 こういう言い方をすると、だいたい面倒な顔をされる。


 案の定、凛音がじっと俺を見る。


「その言い回し、好きですね」


「好きで言ってるんじゃない」

「必要だからそうなるだけだ」


「そういうところです」


「最近その返し多くない?」


 朱麗が志摩さんと早坂さんを見る。


「お借りしてもよろしくて?」


 早坂さんは明らかに戸惑っていた。

 当然だ。いきなり学生が来て、見学だけのはずが賄いを作ると言い出したのだから。


「……失礼ですが」

 早坂さんが俺を見る。

「料理は本当にできるんですか」


「まあ、食うのは好きだし作るのも嫌いじゃない」


「その答え方、不安しかありませんわ」


 朱麗が即座に突っ込んだ。


 だが俺は肩をすくめる。


「じゃあ逆に聞くけど、今ここで俺が派手なフルコース作るって言ったら信用するか?」


「しません」


「だろ?」

「だから賄いでいいんだよ。賄いなら、うまくてちゃんと腹に落ちればそれで十分だ」


 早坂さんは数秒黙り、それから小さく息を吐いた。


「……好きにしてください」

「ただし、現場の邪魔だけはしないでくださいよ」


「しない」


「あと、味見はします」


「どうぞ」


「妙に自信ありますのね」


「ない」

「でも腹減ってる人間に何が要るかくらいは、だいたいわかる」


 そこまで言うと、早坂さんは少しだけ目を細めた。

 まだ完全には信用していないだろう。

 けれど、完全に拒絶もしていない。


 それで十分だった。


 俺は手を洗い、借りられる包丁を確認する。

 少し重いが悪くない。砥ぎは甘いが、賄いなら足りる。

 使える鍋の位置、火口、調味料の並び、器の棚。

 一度視線を巡らせれば、だいたいの配置は入る。


 凛音がその様子を見て、ぽつりと言った。


「自然ですね」


「何が」


「ここに立つのがです」


「気のせいだろ」


「そうは見えません」


 朱麗も腕を組んだまま言う。


「ええ。少なくとも、“初めて台所に立つ人”ではありませんわね」


「それはそうだろ。初めてなら賄い作るとか言い出さない」


「そういう問題ではなくてですわね……」


 俺は返事をせず、まず小鍋の出汁を確かめた。

 一口。

 やはり弱い。

 悪くはないが、疲れた舌には少し遠い。


「昆布あるか」


「あります」

 早坂さんが無意識に返してから、少しだけ悔しそうな顔をした。

「……そこの引き出しです」


「サンキュ」


 まずは出汁を少しだけ立て直す。

 昆布をほんのわずか足して、火を入れすぎないように調整する。鰹は足さない。今あるベースを崩したくないし、賄いで香りを暴れさせる必要もない。


 山菜はさっと湯に通して、えぐみを逃がしすぎない程度に止める。

 鶏肉は細かく刻んで、軽く塩を当てる。

 豆腐は崩してもいい。むしろそのほうが今の気分に合う。

 温泉卵は最後だ。


「何を作るつもりなんですか」


 凛音が訊く。


「雑炊に近い」

「でもただの雑炊じゃつまんないから、少しだけ汁を立てて、山菜と鶏の旨味を前に出す」

「最後に温泉卵を落として、食う時に崩してもらう」


「……賄いの説明にしては、ちょっと美味しそうすぎません?」


「美味くなきゃ意味ないだろ」


「そういう意味ではなく」


 朱麗が不満そうに言う。

「私にも後でちゃんと一人前くださいまし」


「賄いだって言ってるだろ」


「構いませんわ。賄いでも食べます」


「経営者が“でも”って言うな」


 厨房の空気が、少しだけ変わる。


 最初は“学生が余計なことを始めた”という視線だったものが、だんだん“何をするつもりだ”に変わっていくのがわかった。

 包丁を動かす音。

 鍋に米と出汁を入れる音。

 鶏を落とした瞬間に立つ香り。

 山菜を加えた時の青い匂い。


 人は腹が減っている時、匂いに正直だ。


「……いい匂いですね」


 洗い場の若い従業員が、ぽつりと漏らした。


「そりゃそうだろ」

 俺は鍋を見たまま言う。

「疲れてる時の飯なんだから、匂いが先に“食わせるぞ”って言わないと駄目だ」


「その言い方、わりと好きです」


 凛音が言う。


「お前、ほんとにそういうとこ拾うよな」


「見えてしまうので」


「最近それで全部押し通してるだろ」


「便利なので」


「認めたな」


 最後に火を落とし、器へよそう。

 崩した豆腐を底へ少し、上に雑炊、山菜、刻み葱、温泉卵。

 薬味は控えめ。主役はあくまで疲れた胃へ落ちていく熱と出汁だ。


 派手さはない。

 だが、今の白鳳館の厨房にはたぶんこれがいちばん効く。


「できた」


 振り返ると、朱麗が真っ先に立ち上がった。


「早いですわね」


「賄いだからな」


「では味見を」


「だから食い気が早いって」


 早坂さんが、やや警戒を残しつつも器を受け取る。

 志摩さん、洗い場の若い従業員、焼き場の補助に入っていた女性にも、できる範囲で小さくよそう。


 そして最後に、朱麗と凛音の分。


「いただきます」


 先に口をつけたのは凛音だった。

 ふう、と静かに息を吹き、ひと匙。

 その瞬間、ほんのわずかに目が見開かれる。


「……あ」


 小さな声だった。

 けれど、それだけで十分だった。


 続いて朱麗が、慎重にひと口食べる。

 彼女は表情を崩さないようにしているのがわかった。だが、二口目が少し早かった時点で、たぶん答えは出ている。


 早坂さんは、最初こそ職人の顔で味を探っていた。

 塩気、出汁、火入れ、食感。

 そういうものを確かめる目だ。

 だが、三口目あたりでその目つきが少し変わる。


「……これ」


 先に言葉にしたのは、洗い場の若い従業員だった。


「すごい普通なのに、めちゃくちゃ沁みる……」


「普通って何だよ」

 俺は苦笑する。


「いや、違う、普通じゃないんですけど」

「なんか、胃に落ちた瞬間に“あ、生き返る”ってなるというか……」


 志摩さんも、少し遅れて息をついた。


「やさしいですね」

「なのに、ちゃんと物足りなくない」


「温泉卵を崩すと、そこで少しだけ丸くなるからな」

「最初から全部甘やかしすぎると、逆に疲れてる時は飽きる」


 凛音が器を見下ろしたまま言う。


「……悔しいですけど、言葉を選んでる余裕がありません」

「ただ、美味しいです」


「悔しい必要ある?」


「あります」

「なんだか、最初からこうなる気がしていたので」


「意味がわからん」


 朱麗も静かに匙を置いた。


「反則ですわね」


「何が」


「賄いの顔をして、こういうものを出してくるところがです」

「豪華ではない。派手でもない。でも、こういう一杯を出された現場が、何も感じないわけがないでしょう」


 その言葉に、ふと厨房の奥を見た。


 みんな食べる手を止めていなかった。

 静かに、でも確かに、器の中身が減っていく。

 その顔に少しだけさっきまでとは違う色が戻っている。


 笑顔まではいかない。

 でも、“飯を食った顔”になっていた。


 それだけで十分だと思った。


 その時だった。


「……参りましたよ」


 早坂さんが、小さく言った。


 俺はそちらを見る。


 料理長は器を持ったまま、少しだけ苦笑していた。


「腕を見せつけられた、という意味じゃありません」

「そういう飯を、ここの人間が今いちばん食うべきだったのに、作れていなかった」

「そのことに、ですよ」


 その声音は悔しさ半分、納得半分だった。


 俺は首を振る。


「別に比べるもんじゃない」

「客に出す料理と賄いは役割が違う」


「ええ、そうです」

 早坂さんは頷く。

「でも、“役割が違う”って言い訳にして、現場の腹と気持ちのことを後回しにしてたのも本当です」

「……こんなの出されたら、ちょっと立ち直りたくなるじゃないですか」


 その一言で、厨房の空気が少しだけ緩んだ。


 張り詰めていたものが、ほんの少しだけ。

 本当に、ほんの少しだけ。


 志摩さんが目を潤ませそうになって、慌てて笑う。


「困りますね、こういうの」

「賄い一杯で、人の顔色を変えられると」


「大げさだろ」


「大げさじゃありませんわ」

 朱麗が言う。

「少なくとも私は今、かなり機嫌がよろしいですもの」


「食ったからだろ」


「それもあります」


「あるんだな」


 凛音が器を両手で持ちながら、ぽつりと言う。


「こういう味を知ってる人が」

「“自分は脇役でいたい”って言うの、やっぱり少しずるいですね」


 俺は思わず眉をひそめる。


「何でそうなる」


「だって、こういう時に前へ出られる人なのに」

「それを自分だけ知らないふりして、端にいる顔をするからです」


 言葉は静かだった。

 けれど芯がある。


 朱麗も、珍しくその意見に乗った。


「ええ。非常に不本意ですけれど、今回は同感ですわ」

「あなた、こういう時だけあまりにも自然に“必要な場所”へ立ちますもの」


「褒めてるのか責めてるのかどっちだ」


「両方です」


「便利すぎるだろ、その答え」


 けれど、完全には言い返せなかった。


 たしかに俺は、こういう場所を見ると動いてしまう。

 見捨てたくないとか、役に立ちたいとか、立派な理屈じゃない。

 ただ、目の前に“少し手を入れれば息を吹き返しそうなもの”があると、放っておけないだけだ。


 それはたぶん、一度目から変わらない悪癖だ。


「……ごちそうさまでした」


 凛音が、小さく、でもはっきり言った。


 朱麗も器を返す。


「ええ、ごちそうさまでしたわ」

「今後、これを正式に白鳳館の名物に――」


「しない」


「なぜですの!?」


「賄いだからだよ」

「こういうのは現場で食うから意味があるんだ」

「表に出すなら、また別の設計がいる」


「設計、ですか」


 志摩さんが聞き返す。


「客に出す飯は、味だけじゃない」

「どこで食うか、何の後に食うか、どう運ばれるか、何を期待して一口目を入れるか」

「賄いと違って、“物語”まで一緒に食われる」


 早坂さんが、その言葉に少しだけ目を上げた。


「……面白いことを言いますね、君は」


「別に面白くはない」

「旅館の飯なら、たぶんそうだってだけだ」


 厨房の湯気の向こうで、誰かが小さく笑った。

 さっきより少しだけ、人の声が軽い。


 その変化を見て、俺はようやく肩の力を抜く。


 賄い一杯で全部が変わるわけじゃない。

 そんな都合のいい話はない。


 でも、止まりかけた現場の呼吸を一回だけ整えるくらいなら、できる時もある。

 今日はたぶん、そういう日だった。


 朱麗が静かにこちらを見る。


「……やはり、連れてきて正解でしたわね」


「まだ何も引き受けてないからな」


「ええ、ええ。そういうことにしておきます」


「その言い方やめろって」


 凛音が、ほんの少しだけ笑う気配を見せた。


「でも、もう遅い気がします」


「何が」


「あなたが、この旅館を放っておけなくなるのがです」


 その一言に、俺は返事をしなかった。


 できなかった、のほうが近い。


 だってたぶん、もうその通りだったからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ