第6話 最初の賄いは、あまりに反則だった
厨房という場所は、その店や宿の本音がいちばん早く出る。
客室やロビーは取り繕える。
笑顔も、言葉遣いも、外に見せる景色も、ある程度は整えられる。
けれど厨房だけはそうはいかない。そこで働く人間の余裕、導線の無理、仕込みの崩れ、現場の疲れ。そういうものが全部、鍋の音と包丁の音と人の足音の間に滲む。
白鳳館の厨房は、決定的に壊れているわけではなかった。
むしろ逆だ。
壊れずにここまで耐えてきたことのほうが驚きだった。
「お嬢さま、お越しになるなら先に一言いただければ……!」
奥から飛んできた声は、怒鳴っているというより焦りで上ずっていた。
志摩さんがすぐに前へ出る。
「ごめんなさい、早坂さん。急な案内になってしまって」
「今日は見学だけです。現場の邪魔はしません」
“現場の邪魔はしません”。
その言い方に、今この厨房では見学者が存在するだけで邪魔になり得る、という現実が透けて見えた。
声の主――早坂さんは四十代半ばくらいの男性で、白衣の袖を肘までまくっている。顔立ちは精悍だが、目の下には濃い疲れが見えた。料理人らしい硬い手つきをしているのに、その手を止める一瞬の余裕すらないらしく、挨拶のあともすぐ鍋へ戻っていく。
「申し訳ありません。昼の片づけと夜の仕込みが重なっていて……」
「構いませんわ」
朱麗が言う。
「むしろ、その“重なっている現場”を見に来たのですから」
言葉は相変わらず強いが、学校で聞く時より棘は少なかった。
ここでは彼女も、ただ命令を飛ばしに来たわけではないのだとわかる。
俺は厨房の隅に立ったまま、視線を巡らせた。
広さはある。
設備も極端に古いわけではない。
だが人が足りない。明らかに足りない。
焼き場、煮方、盛り付け、洗い場。どこも最低人数ぎりぎりで回している。しかも一人が二役三役を兼ねていて、結果として動線がぶつかる。たとえば、仕込み台から冷蔵庫に向かう人の通り道に、洗い場から戻る人間が重なる。ちょっとしたことだが、こういう小さな渋滞は一日積み重なると疲労になる。
そして疲労は、必ず味に出る。
「……何か言いたそうですね」
隣で凛音が小声で言った。
「顔に出てるか」
「かなり」
「最近その“かなり”に逃げるの好きだな」
「便利なので」
「学習しやがって」
凛音はほんの少しだけ口元を緩めた。笑っているのだろうが、知らない人が見たらたぶん気づかない程度だ。
「で、どう見えますか」
彼女が続ける。
「きつい」
俺は短く言った。
「技術がないんじゃない。人と時間と余裕が足りてない」
「あと、たぶんずっと“今夜を落とさない”で精一杯だ」
「その状態が続くと、料理はうまくなる方向じゃなくて、失敗しない方向に寄っていく」
「失敗しない方向」
「守りの料理になるってことだよ」
「悪くはない。でも、ここでしか食えないものにはならない」
凛音は俺の言葉を静かに反芻するように視線を落とした。
「それって、結構きついですね」
「宿の飯でそれ言われるのは、たぶんな」
俺たちの会話が耳に入ったのだろう。
鍋を見ていた早坂さんが、少しだけこちらを見た。
「……お若いのに、厳しいことをおっしゃる」
敵意というほどではない。
だが、防御の色はあった。
当然だと思う。
外から来た学生が、数分見ただけで現場に口を出しているように見えるのだから。
俺は軽く頭を下げた。
「すみません。偉そうに言うつもりはないです」
「ただ、そう見えたってだけで」
「見えた、か」
早坂さんは短く息を吐く。
「ええ、そうです。今は“失敗しないこと”が最優先ですよ」
「旅館の料理で冒険して、外したら終わりですからね」
「人手も足りない。仕入れも前みたいにはいかない。だったら、無難でも崩れないものを出すしかない」
その言葉には、言い訳ではなく積み重なった現実があった。
わかる。
わかるからこそ、きつい。
人は余裕がなくなると、正しい選択をする。
だがその“正しい”は、たいてい生き延びるための正しさだ。
人を感動させる正しさとは、少し違う。
朱麗がゆっくりと言った。
「早坂さんを責めに来たわけではありませんの」
「ええ、わかっています」
早坂さんは疲れたように笑った。
「でも、現場に立ってると、自分でわかるんですよ」
『前はもっとできた』って」
「それがいちばん堪えるんです」
その一言で、厨房の空気が少しだけ沈んだ。
誰も責めていない。
だが、誰よりも本人が自分を責めている。
そういう空気は、外から励ましたくらいではどうにもならない。
俺はしばらく黙っていたが、ふと作業台の隅に目を留めた。
ボウルに余った下処理済みの山菜。
半端に残った鶏肉。
小鍋に取り分けられた出汁。
形の揃っていない温泉卵。
使い切れなかった豆腐。
それから――ダンジョン由来らしい保存素材の瓶。
たぶん、売り物にはしづらい半端もの。
でも、捨てるには惜しいやつらだ。
「これ、賄い用か?」
俺が指さすと、志摩さんが少し驚いた顔をした。
「ええ、そうです」
「といっても、最近はきちんとした賄いを作る余裕もなくて、空いた人が適当に摘まめるものを出すくらいなんですけれど……」
「適当に、か」
早坂さんが肩をすくめる。
「客に出す料理で手一杯ですからね」
「賄いにまで神経は回りませんよ」
それもまた当然だ。
客を優先するのは宿として正しい。
でも現場が疲れている時ほど、最後に効くのは賄いだったりする。
腹を満たすだけじゃない。
自分たちが作るものに、少しだけ誇りを取り戻すための飯だ。
俺は気づけば作業台のほうへ足を向けていた。
「柊木さん?」
朱麗が呼ぶ。
「ちょっと借りていいか」
「何をですの」
「台所」
一瞬、静寂が落ちた。
早坂さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「君が、料理を?」
「まあ少しは」
「っていうか、せっかく半端があるなら、もったいないだろ」
「賄いを作るつもりですの?」
朱麗の声が、わずかに上ずる。
「別に大したもんじゃない」
「疲れてる現場なら、派手な料理より帰ってこられる味のほうがいい」
言ってから、またやってしまったと思った。
こういう言い方をすると、だいたい面倒な顔をされる。
案の定、凛音がじっと俺を見る。
「その言い回し、好きですね」
「好きで言ってるんじゃない」
「必要だからそうなるだけだ」
「そういうところです」
「最近その返し多くない?」
朱麗が志摩さんと早坂さんを見る。
「お借りしてもよろしくて?」
早坂さんは明らかに戸惑っていた。
当然だ。いきなり学生が来て、見学だけのはずが賄いを作ると言い出したのだから。
「……失礼ですが」
早坂さんが俺を見る。
「料理は本当にできるんですか」
「まあ、食うのは好きだし作るのも嫌いじゃない」
「その答え方、不安しかありませんわ」
朱麗が即座に突っ込んだ。
だが俺は肩をすくめる。
「じゃあ逆に聞くけど、今ここで俺が派手なフルコース作るって言ったら信用するか?」
「しません」
「だろ?」
「だから賄いでいいんだよ。賄いなら、うまくてちゃんと腹に落ちればそれで十分だ」
早坂さんは数秒黙り、それから小さく息を吐いた。
「……好きにしてください」
「ただし、現場の邪魔だけはしないでくださいよ」
「しない」
「あと、味見はします」
「どうぞ」
「妙に自信ありますのね」
「ない」
「でも腹減ってる人間に何が要るかくらいは、だいたいわかる」
そこまで言うと、早坂さんは少しだけ目を細めた。
まだ完全には信用していないだろう。
けれど、完全に拒絶もしていない。
それで十分だった。
俺は手を洗い、借りられる包丁を確認する。
少し重いが悪くない。砥ぎは甘いが、賄いなら足りる。
使える鍋の位置、火口、調味料の並び、器の棚。
一度視線を巡らせれば、だいたいの配置は入る。
凛音がその様子を見て、ぽつりと言った。
「自然ですね」
「何が」
「ここに立つのがです」
「気のせいだろ」
「そうは見えません」
朱麗も腕を組んだまま言う。
「ええ。少なくとも、“初めて台所に立つ人”ではありませんわね」
「それはそうだろ。初めてなら賄い作るとか言い出さない」
「そういう問題ではなくてですわね……」
俺は返事をせず、まず小鍋の出汁を確かめた。
一口。
やはり弱い。
悪くはないが、疲れた舌には少し遠い。
「昆布あるか」
「あります」
早坂さんが無意識に返してから、少しだけ悔しそうな顔をした。
「……そこの引き出しです」
「サンキュ」
まずは出汁を少しだけ立て直す。
昆布をほんのわずか足して、火を入れすぎないように調整する。鰹は足さない。今あるベースを崩したくないし、賄いで香りを暴れさせる必要もない。
山菜はさっと湯に通して、えぐみを逃がしすぎない程度に止める。
鶏肉は細かく刻んで、軽く塩を当てる。
豆腐は崩してもいい。むしろそのほうが今の気分に合う。
温泉卵は最後だ。
「何を作るつもりなんですか」
凛音が訊く。
「雑炊に近い」
「でもただの雑炊じゃつまんないから、少しだけ汁を立てて、山菜と鶏の旨味を前に出す」
「最後に温泉卵を落として、食う時に崩してもらう」
「……賄いの説明にしては、ちょっと美味しそうすぎません?」
「美味くなきゃ意味ないだろ」
「そういう意味ではなく」
朱麗が不満そうに言う。
「私にも後でちゃんと一人前くださいまし」
「賄いだって言ってるだろ」
「構いませんわ。賄いでも食べます」
「経営者が“でも”って言うな」
厨房の空気が、少しだけ変わる。
最初は“学生が余計なことを始めた”という視線だったものが、だんだん“何をするつもりだ”に変わっていくのがわかった。
包丁を動かす音。
鍋に米と出汁を入れる音。
鶏を落とした瞬間に立つ香り。
山菜を加えた時の青い匂い。
人は腹が減っている時、匂いに正直だ。
「……いい匂いですね」
洗い場の若い従業員が、ぽつりと漏らした。
「そりゃそうだろ」
俺は鍋を見たまま言う。
「疲れてる時の飯なんだから、匂いが先に“食わせるぞ”って言わないと駄目だ」
「その言い方、わりと好きです」
凛音が言う。
「お前、ほんとにそういうとこ拾うよな」
「見えてしまうので」
「最近それで全部押し通してるだろ」
「便利なので」
「認めたな」
最後に火を落とし、器へよそう。
崩した豆腐を底へ少し、上に雑炊、山菜、刻み葱、温泉卵。
薬味は控えめ。主役はあくまで疲れた胃へ落ちていく熱と出汁だ。
派手さはない。
だが、今の白鳳館の厨房にはたぶんこれがいちばん効く。
「できた」
振り返ると、朱麗が真っ先に立ち上がった。
「早いですわね」
「賄いだからな」
「では味見を」
「だから食い気が早いって」
早坂さんが、やや警戒を残しつつも器を受け取る。
志摩さん、洗い場の若い従業員、焼き場の補助に入っていた女性にも、できる範囲で小さくよそう。
そして最後に、朱麗と凛音の分。
「いただきます」
先に口をつけたのは凛音だった。
ふう、と静かに息を吹き、ひと匙。
その瞬間、ほんのわずかに目が見開かれる。
「……あ」
小さな声だった。
けれど、それだけで十分だった。
続いて朱麗が、慎重にひと口食べる。
彼女は表情を崩さないようにしているのがわかった。だが、二口目が少し早かった時点で、たぶん答えは出ている。
早坂さんは、最初こそ職人の顔で味を探っていた。
塩気、出汁、火入れ、食感。
そういうものを確かめる目だ。
だが、三口目あたりでその目つきが少し変わる。
「……これ」
先に言葉にしたのは、洗い場の若い従業員だった。
「すごい普通なのに、めちゃくちゃ沁みる……」
「普通って何だよ」
俺は苦笑する。
「いや、違う、普通じゃないんですけど」
「なんか、胃に落ちた瞬間に“あ、生き返る”ってなるというか……」
志摩さんも、少し遅れて息をついた。
「やさしいですね」
「なのに、ちゃんと物足りなくない」
「温泉卵を崩すと、そこで少しだけ丸くなるからな」
「最初から全部甘やかしすぎると、逆に疲れてる時は飽きる」
凛音が器を見下ろしたまま言う。
「……悔しいですけど、言葉を選んでる余裕がありません」
「ただ、美味しいです」
「悔しい必要ある?」
「あります」
「なんだか、最初からこうなる気がしていたので」
「意味がわからん」
朱麗も静かに匙を置いた。
「反則ですわね」
「何が」
「賄いの顔をして、こういうものを出してくるところがです」
「豪華ではない。派手でもない。でも、こういう一杯を出された現場が、何も感じないわけがないでしょう」
その言葉に、ふと厨房の奥を見た。
みんな食べる手を止めていなかった。
静かに、でも確かに、器の中身が減っていく。
その顔に少しだけさっきまでとは違う色が戻っている。
笑顔まではいかない。
でも、“飯を食った顔”になっていた。
それだけで十分だと思った。
その時だった。
「……参りましたよ」
早坂さんが、小さく言った。
俺はそちらを見る。
料理長は器を持ったまま、少しだけ苦笑していた。
「腕を見せつけられた、という意味じゃありません」
「そういう飯を、ここの人間が今いちばん食うべきだったのに、作れていなかった」
「そのことに、ですよ」
その声音は悔しさ半分、納得半分だった。
俺は首を振る。
「別に比べるもんじゃない」
「客に出す料理と賄いは役割が違う」
「ええ、そうです」
早坂さんは頷く。
「でも、“役割が違う”って言い訳にして、現場の腹と気持ちのことを後回しにしてたのも本当です」
「……こんなの出されたら、ちょっと立ち直りたくなるじゃないですか」
その一言で、厨房の空気が少しだけ緩んだ。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
志摩さんが目を潤ませそうになって、慌てて笑う。
「困りますね、こういうの」
「賄い一杯で、人の顔色を変えられると」
「大げさだろ」
「大げさじゃありませんわ」
朱麗が言う。
「少なくとも私は今、かなり機嫌がよろしいですもの」
「食ったからだろ」
「それもあります」
「あるんだな」
凛音が器を両手で持ちながら、ぽつりと言う。
「こういう味を知ってる人が」
「“自分は脇役でいたい”って言うの、やっぱり少しずるいですね」
俺は思わず眉をひそめる。
「何でそうなる」
「だって、こういう時に前へ出られる人なのに」
「それを自分だけ知らないふりして、端にいる顔をするからです」
言葉は静かだった。
けれど芯がある。
朱麗も、珍しくその意見に乗った。
「ええ。非常に不本意ですけれど、今回は同感ですわ」
「あなた、こういう時だけあまりにも自然に“必要な場所”へ立ちますもの」
「褒めてるのか責めてるのかどっちだ」
「両方です」
「便利すぎるだろ、その答え」
けれど、完全には言い返せなかった。
たしかに俺は、こういう場所を見ると動いてしまう。
見捨てたくないとか、役に立ちたいとか、立派な理屈じゃない。
ただ、目の前に“少し手を入れれば息を吹き返しそうなもの”があると、放っておけないだけだ。
それはたぶん、一度目から変わらない悪癖だ。
「……ごちそうさまでした」
凛音が、小さく、でもはっきり言った。
朱麗も器を返す。
「ええ、ごちそうさまでしたわ」
「今後、これを正式に白鳳館の名物に――」
「しない」
「なぜですの!?」
「賄いだからだよ」
「こういうのは現場で食うから意味があるんだ」
「表に出すなら、また別の設計がいる」
「設計、ですか」
志摩さんが聞き返す。
「客に出す飯は、味だけじゃない」
「どこで食うか、何の後に食うか、どう運ばれるか、何を期待して一口目を入れるか」
「賄いと違って、“物語”まで一緒に食われる」
早坂さんが、その言葉に少しだけ目を上げた。
「……面白いことを言いますね、君は」
「別に面白くはない」
「旅館の飯なら、たぶんそうだってだけだ」
厨房の湯気の向こうで、誰かが小さく笑った。
さっきより少しだけ、人の声が軽い。
その変化を見て、俺はようやく肩の力を抜く。
賄い一杯で全部が変わるわけじゃない。
そんな都合のいい話はない。
でも、止まりかけた現場の呼吸を一回だけ整えるくらいなら、できる時もある。
今日はたぶん、そういう日だった。
朱麗が静かにこちらを見る。
「……やはり、連れてきて正解でしたわね」
「まだ何も引き受けてないからな」
「ええ、ええ。そういうことにしておきます」
「その言い方やめろって」
凛音が、ほんの少しだけ笑う気配を見せた。
「でも、もう遅い気がします」
「何が」
「あなたが、この旅館を放っておけなくなるのがです」
その一言に、俺は返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。
だってたぶん、もうその通りだったからだ。




