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第5話 湯けむりの向こうに、潰れかけの現実

 土曜の朝は、思っていたより少しだけ寒かった。


 春になったとはいえ、山の方へ向かう風はまだ冷たい。学園正門前の並木は薄く芽吹き始めているのに、吐く息にわずかに白さが残るくらいには、朝の空気が澄んでいた。


 俺はスマホで時刻を確認する。


 七時二分前。


 集合は七時。

 遅れてはいない。むしろ早い。偉いな、俺。

 逃げ出さず、時間どおりに来ただけで誰か褒めてくれ。


 ……いや、褒められたくないな。

 褒められるとその次が来るから。


「おはようございます」


 背後から静かな声がして、振り向く。


 白雪凛音だった。


 私服、か。


 学園では常に制服姿だったから、少しだけ新鮮だった。白に近い薄灰色のニットに、膝下までの濃紺スカート。派手さはまったくないのに、素材の落ち着いた良さと本人の雰囲気が噛み合っていて、妙に目を引く。肩にかけた小さめのバッグも、飾り気がないのにきちんとしていた。


 相変わらず、きれいな人だ。


 ……と、思ったところで自分の思考に軽く引く。

 朝から何を観察しているんだ俺は。


「おはよう」


「ちゃんと来たんですね」


「だから来るって言っただろ」


「一応、半分くらいは疑っていました」


「信用が地面すれすれなんだよな、お前ら」


 俺が言うと、凛音は少しだけ目を細めた。


「でも、来てくれてよかったです」


「それは、旅館のためか?」


「それもあります」

「……あなたが本当に来る人か、ちゃんと見たかったので」


 朝から変に心臓へ来ることをさらっと言うのやめろ。


 凛音はそんなこちらの内心など知らない顔で、正門前の車道を見る。

 その仕草が妙に自然で、たぶん本人としては何の気負いもないのだろう。

 だから余計にやりにくい。


「で、九条はまだか」


「九条さんなら」


 凛音が言いかけた瞬間、正門前に一台の黒い車が滑り込んできた。


 いや待て。

 何だその“普通の車”は。


 高級感を隠す気のない外装に、静かすぎるエンジン音。黒塗りというほど露骨ではないが、どう見ても「一般家庭の土曜朝送迎」ではない雰囲気をまとっている。


 助手席の窓が静かに下がる。


「お待たせしましたわね」


 九条朱麗が、当然のような顔でこちらを見ていた。


「……普通って何だったっけ」


「普通の車ですわ」


「お前の普通、やっぱり信用ならない」


 朱麗は今日は、白を基調にした上品なワンピースに薄手のロングカーディガンを羽織っていた。学校で見る時より柔らかい印象のはずなのに、なぜか“育ちの良さ”だけは一ミリも隠れていない。髪もきちんと整えられていて、朝から仕上がりすぎている。


 凛音が小さく息をついた。


「やっぱりそうなりますよね」


「何がですの」


「“普通”の認識が違うところです」


「細かいことを気にしすぎですわ」

 朱麗は少しだけ顎を上げる。

「それより、乗ってください。時間が惜しいですもの」


「前に座るのか?」


「私は道案内がありますので助手席ですわ」


 凛音が間髪入れずに言った。


「最初から前を取るつもりだったんですね」


「違いますわ。必要配置です」


「そう言うと思っていました」


「お前ら朝から元気だな……」


 俺がぼやくと、運転席から低く落ち着いた声がした。


「後席は広いです。どうぞ」


 初老の男だった。


 背筋の伸びたスーツ姿。白髪が少し混じっているが、ハンドルを握る手には無駄な揺れがない。運転手というより、古い家に仕える執事みたいな雰囲気がある。


 俺が軽く頭を下げると、男も静かに会釈した。


「九条家の運転を任されております、瀬尾です」


「……どうも、柊木です」


 紹介されてないのにこっちの名前を知っているあたり、すでに少し怖い。

 だが瀬尾さんの目には妙な探りはなく、ただ仕事として人を見る目の冷静さだけがあった。


「後席へどうぞ。酔いやすい方は、進行方向左側のほうが負担が軽いかと」


「え、ありがとうございます」


「何でもありません」


 何でもあるだろ、その気遣い。

 九条家、やっぱり全体的に隙がないな。


 結局、後席は俺が左、凛音が右、その間に妙な空気が流れるまま座ることになった。朱麗は助手席。車が動き出すと、学園の校舎がゆっくり後ろへ流れていく。


 土曜の朝の街は、平日より少しだけ静かだ。開き始めた店先、犬の散歩をする人、コンビニ前で缶コーヒーを飲む男。そんなありふれた風景が続いていたが、やがて市街地を抜けるにつれ、窓の外には低い山並みと田畑が増えてきた。


 山へ向かう道だ。

 空気が少しずつ変わっていくのがわかる。


「白鳳館は、創業何年なんだ」


 ふと気になって聞くと、朱麗が助手席から振り返らないまま答える。


「百十七年ですわ」


「重っ」


「ですから簡単には畳めません」

「立地も悪くありませんし、温泉の泉質自体は今でも十分に武器になります」

「……ただ、武器が武器のまま使われていないだけで」


 その最後の一言に、少しだけ熱が混じる。


 凛音が窓の外を見ながら聞いた。


「九条さんは、もともと白鳳館に関わっていたんですか」


「子どもの頃から何度も行っていますわ」

「夏休みも、正月も、家の都合で落ち着かない時も、あそこだけは少し違いました」


「違った、というのは?」


 凛音の問いに、朱麗は少し間を置いた。


「あそこでは、私は“九条の娘”である前に、ただの子どもでいられましたの」


 その答えは、予想よりずっとやわらかかった。


 俺は思わず前を見た。

 朱麗は外を向いたままだ。横顔しか見えない。

 でも、その声だけで十分だった。


 ああ、なるほど。

 この人にとって白鳳館は、単なる不採算資産じゃないのか。


 家の人間として守りたいのではなく、もっと個人的な理由で切り捨てたくない場所なんだ。


「……それ、最初から言えばもう少し印象違ったと思うぞ」


 ぼそりと言うと、朱麗がぴくりと肩を動かした。


「なぜですの」


「少なくとも“使える人材だから来なさい”よりは、人の心に入ってくる」


「そ、それは」

 朱麗が少しだけ言葉を詰まらせる。

「最初からそういう言い方をすると、弱みを見せたみたいではありませんか」


「弱みじゃなくて本音だろ」


「似たようなものですわ」


 凛音が小さく息を吐く。


「やっぱり、そのあたりが不器用なんですね」


「白雪さん、あなた本当に容赦がありませんわね」


「事実なので」


「便利な言葉、覚えてしまいましたのね……」


「九条さんから学びました」


「嫌な継承のされ方ですわ」


 朝の車内に、ようやく少しだけ笑いに近い空気が落ちた。


 それでも完全に和やかではない。

 まだ三人とも、互いとの距離を測っている。

 だが最初の日のような、ただ尖るだけの空気でもなくなっていた。


 しばらく走ると、道はさらに山の方へ入った。


 杉木立が増え、道端には小さな渓流が見える。トンネルを一つ抜けるたびに空気がひんやりして、街の匂いが薄れていく。代わりに土と水と若葉の匂いが濃くなった。


 嫌いじゃない。


 こういう匂いは、むしろ少し落ち着く。


「もう少しで着きます」

 瀬尾さんが静かに言った。


 その言葉どおり、十分ほどして車は細い山道へ入り、やがて緩やかな坂を上がっていく。


 最初に見えたのは、大きな瓦屋根だった。


 木々の切れ目の向こうに、深い色合いの屋根がのぞく。

 続いて石段。門。古い木造建築の輪郭。

 山の斜面に抱かれるようにして、旅館はそこに建っていた。


「……へえ」


 思わず漏れた声に、朱麗が少しだけ振り向く。


「何ですの」


「いや」

 窓の外を見たまま言う。

「思ってたより、ずっといい場所だな」


 それは本音だった。


 白鳳館は、確かに古い。

 だが“古びている”だけではない。“残っている”建物の顔をしていた。


 門から続く石畳はよく手入れされているし、玄関までの植栽も雑には見えない。木造の本館は年季を感じさせるが、柱や庇の線に安っぽさがない。裏手には湯気らしき白さが立ち、山側へ開けた庭もちらりと見えた。


 これは――素材がいい。


 かなり、いい。


 だが同時に、嫌な気配もある。


 車が玄関前に止まる直前、俺は無意識にいくつかの点を拾っていた。


 玄関周辺に人の気配が薄い。

 到着客を迎える活気がない。

 建物はきれいなのに、空気だけが少し沈んでいる。

 表に立っている仲居の笑顔が、柔らかいけれど疲れて見える。


 旅館そのものは死んでいない。

 でも、中で働く人たちの“もたせ方”が、少しずつ限界へ近づいている。


「嫌な顔しましたね」


 隣で凛音が小さく言った。


「そんなに出てたか?」


「少し」

「でも、興味がない時の顔じゃありませんでした」


 やっぱりこの子、見すぎだろ。


 朱麗がドアを開けて先に降りる。

 瀬尾さんが俺たちの側のドアも開けてくれた。


 外へ出ると、空気は街よりずっと冷たく、澄んでいた。

 水の匂い。

 木の匂い。

 土の匂い。

 そしてごく薄く、硫黄を含んだ温泉の匂い。


 玄関の前には、着物風の制服を着た女性が一人待っていた。三十代半ばほどだろうか。よく整った笑顔を浮かべているが、目の下にうっすら疲れがある。


「お待ちしておりました、朱麗お嬢さま」


「お久しぶりですわ、志摩さん」


 朱麗の声音が、学校で聞くものとほんの少しだけ変わった。

 強さはそのままだが、角が取れている。


「こちらが、今回ご案内する方々ですのね」


 志摩さんは凛音と俺に丁寧に頭を下げた。


「白鳳館の支配人代行を務めております、志摩と申します」

「このたびは、お時間をいただきありがとうございます」


 支配人“代行”か。

 その肩書きだけでも、今の体制が盤石ではないのがわかる。


「柊木です」


「白雪です」


 挨拶を返すと、志摩さんはほっとしたように笑った。


「ようこそお越しくださいました」

「たいしたお構いもできませんが、どうぞ中へ」


 玄関をくぐった瞬間、空気が変わる。


 外より少し暖かい館内。

 磨かれた木の床。

 古い梁の色。

 大きな花が活けられたロビー。

 そして、わずかに漂う畳と湯の匂い。


 いい。


 素直に、いいと思った。


 正面のロビーは開放感があり、山側へ抜ける大きな窓から柔らかな光が入っている。調度品も派手すぎず、品の良い古さで統一されていた。無理に現代風へ寄せていないのがむしろ好感が持てる。


 だが。


「……惜しいな」


 また、気づけば口から漏れていた。


「もう始まりましたわね」


 朱麗が言う。


「何が」


「あなたの“放っておけない顔”が」


「やめてくれ、すでにだいぶ不本意なんだ」


 凛音はロビーを見回しながら、静かに聞く。


「どこが惜しいんですか」


「光の入れ方はいい。建物もいい。匂いも悪くない」

 俺は自然と視線を動かしながら答えていた。

「でも、最初の一歩の印象が少し弱い」

「玄関前に着いた時の“迎えられてる感じ”が薄いし、ロビーの見せたい景色に対して導線が散ってる」

「あと、いいものが多いのに、客がどこを見れば“ここの売り”を感じられるのかが曖昧だ」


 言い終わると、志摩さんが目を見開いていた。


「……まだ立ち入って数分ですよね」


「まあ」


「それでそこまで見えるんですか」


「見えるっていうか、目につくっていうか」


「それを“見える”って言うんだと思います」


 凛音が横でさらっと言う。

 朱麗も小さく頷く。


「ええ。そういうところですわ」


 やめてくれ。

 二人に挟まれて“ほらやっぱり”みたいな顔をされるのは、どうにも居心地が悪い。


 志摩さんは戸惑いと希望が混ざったような顔で、こちらを見る。

 その目がまた困る。

 まだ何もしていないのに、そこに“期待”の気配がある。


 だめだ。

 それは良くない。


「いや、あくまで感想だから」

「いきなり何か変えろって話じゃないし」


「もちろんです」

 志摩さんは慌てて頷いた。

「ただ……正直に申し上げると、ここしばらく“ここがどう惜しいのか”を、はっきり言ってくれる方が減っていたので」

「良いところだけでなく、足りないところを見ていただけるのはありがたいです」


 その声音は、どこか疲れていた。


 たぶん、ここではずっと“頑張っているのに結果が出ない”時間が続いていたのだろう。

 そういう場所の空気は独特だ。

 怒号もないし、露骨な荒れもない。けれど、人が少しずつ自信を失っていく匂いがする。


 俺はロビーの奥、売店の方へちらりと目をやった。

 棚の配置、品の並べ方、手書きポップの少なさ。

 いろいろ言いたくなる点はある。


 だが、一番気になるのは別だった。


「料理は、今どんな感じなんだ」


 その問いに、志摩さんの表情がわずかに曇る。


「……やはり、そこを見ますか」


「さっきの資料でも、落ち方が一番気になったからな」


「正直ですわね」

 朱麗が言う。


「取り繕っても仕方ないだろ」

 俺は志摩さんを見る。

「今、料理長は?」


「おります。ですが、少し……難しい状態です」

「腕がないわけではないんです。ただ、人手不足と仕入れの問題、それから厨房内の疲弊が重なって、以前のような質を保てなくなっていて」


 そこだろうな。


 旅館は宿泊業で、接客業で、空間商売でもある。

 だが最後に記憶へ残るのは、意外と食だ。

 温泉が良くても、部屋がきれいでも、飯がぼやけると“また来たい”が細る。


「案内してもらえるか」


 俺が言うと、朱麗がすぐこちらを見る。


「もうですの?」


「むしろ最初に見たい」

「建物や景観が生きてるなら、次は人が疲れてる場所を見るべきだろ」


 言ってから、またやってしまったと思う。

 視察だけのつもりだったのに、言葉の温度が勝手に一段深くなる。


 凛音が静かにこちらを見つめていた。

 朱麗も何か言いたそうだったが、結局は小さく息を吐くだけだった。


「……ええ。そういうと思っていましたわ」


「何だよ、その言い方」


「いえ」

 朱麗はほんの少しだけ、疲れたように、それでいて安心したように笑う。

「あなたは、そういう人だというだけです」


 その評価はやめてほしい。

 やめてほしいのに、完全には否定できないのがまた嫌だった。


 志摩さんの案内で、俺たちはロビー奥の廊下を歩き出した。


 館内は静かだった。

 客がいないわけではないのだろうが、週末にしては人の流れが少ない。中庭へ面した廊下はよく磨かれていて、窓から見える庭石や木々も美しい。けれど時々すれ違う従業員たちの顔には、ほんの一瞬だけ“余裕のなさ”が浮かぶ。


 笑顔は作れている。

 だが、その笑顔を支える土台が少しずつ削れている。


 厨房へ向かう途中、ふいに甘くない出汁の匂いがした。


 俺は足を止める。


「どうしたんですか」


 凛音が聞く。


「今の」

 俺は鼻先を少し上げた。

「昆布と鰹だけじゃないな。干し椎茸、いや、違う……」

「……出汁、ちょっと弱い?」


 志摩さんが振り向く。


「ここからわかるんですか?」


「匂いだけなら何となく」


 何となく、ではない。

 けれど、ここで細かく言う必要もない。


 朱麗が呆れ半分の声を出す。


「あなた、本当に何なんですの」


「ただの脇役志望だよ」


「その自己評価、今となってはだいぶ無理がありますわね」


「同感です」


「白雪まで乗るなよ」


 厨房の引き戸が開く。


 熱気。

 湯気。

 金属音。

 出汁の匂い。

 焦り。

 疲労。


 いろんなものが一気に押し寄せてきた。


 そして俺は、入って数秒でわかった。


 ああ、これは――きつい。


 人が足りない。

 動線が詰まってる。

 仕込みの段階で無理が出てる。

 気持ちが切れてはいないが、切れないように保つので精一杯だ。


 旅館そのものは、まだ終わっていない。

 でも現場は、たぶんずっと限界の手前で踏ん張り続けてきた。


 このままだと、どこかで折れる。


 俺は小さく息を吐いた。


「……放っとけないだろ、こんなの」


 自分でも聞こえるくらいの小声だった。

 だが、隣にいた凛音には届いてしまったらしい。


「やっぱり」

 彼女は、ほとんど囁くように言う。

「あなた、そう言うと思っていました」


 その声音には、責める色はなかった。

 ただ、少しだけやわらかい確信があった。


 前を歩く朱麗は振り向かなかったが、肩の力がほんの少しだけ抜けたように見えた。


 それを見た瞬間、俺は自分の負けを少しだけ悟る。


 白鳳館は、思っていたよりずっといい場所で。

 思っていたよりずっと危うくて。

 そして思っていたよりずっと、人の手が必要な場所だった。


 たぶんこの時点で、俺の中の何かはもう“視察だけ”では済まない方向へ傾き始めていたのだと思う。


 もちろん、その場ではまだ認めなかったけれど。

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