第25話 学園へ来る外部の影
嫌な予感というものは、だいたい当たる。
しかも、こっちが「まだ早いだろ」と思っている時ほど、妙に正確に当たる。
第二章に入ってからずっと、例の切り抜きの件は、学園の外からこちらを覗くような気配を残していた。
誰かが探している。
ただの野次馬ではない。
しかも、“学生にしては上手い”ではなく、“場数を踏んだ動きの人間が混ざっていないか”を嗅いでいる目だ。
凛音も、朱麗も、先生も、そこまでは同じ見立てだった。
だからこそ、月曜の朝、須賀先生から「今日の午後は外部見学が入る」と聞いた瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
「進路講話と、合同見学だ」
先生はホームルームのあと、廊下へ出た俺たちへ向かって事務的に言った。
「大きなイベントじゃない。外部の探索者団体と、装備関係の人間が少し来る」
「変に身構えるなよ」
「その言い方で身構えるなは無理でしょう」
朱麗が即座に返す。
「お前は言うと思った」
須賀先生はため息をつく。
「だから、あらかじめ言ってる」
「現時点で柊木目当てと決まったわけじゃない」
「決まったわけじゃないけど、可能性はある」
俺が言うと、先生は一度だけこちらを見た。
「そうだ」
「だから“いつも通り”でいろ」
「妙に避けるな。妙に前へ出るな。妙に消えるな」
「注文が多いな」
「お前は放っておくと、面倒の時だけ極端に静かになるからだ」
そこまで言われると反論しづらい。
凛音が、先生の横で静かに言った。
「私は見ます」
「そうしてくれ」
先生は頷く。
「九条も、変に前へ出すぎるなよ」
「善処しますわ」
絶対善処しないやつの返事だった。
◇
午後。
合同見学は、思ったより地味な形で始まった。
学園ダンジョンの実習棟前へ、十人にも満たない見学者が集まる。装備メーカーの広報らしいスーツ姿が二人、探索系専門校の教員らしい人間が一人、あとは外部探索者団体の現場寄りの連中が数人。
ぱっと見、そこまでおかしくはない。
むしろ、“こういう日もあるよな”で済ませられる範囲だ。
だからこそ嫌だった。
こういう連中の中に一人だけ“本物の目的が違うやつ”が混じっていても、外からは見分けにくい。
「……いますね」
俺の少し後ろで、凛音が小さく言った。
「どれだ」
振り返らずに聞く。
「茶色のジャケット」
「中央やや右。四十前くらい」
「他の生徒を見ていません」
俺は視線を動かさないまま、周辺視野だけで拾う。
いた。
茶色のジャケット。
立ち姿は一見ラフだが、重心が低い。
無駄に目立たない位置に立ち、周囲の流れへ自然に溶けている。
けれど視線だけが、明らかに一定の線を追っていた。
俺だ。
「……ああ」
小さく吐く。
「気づきましたか」
「うん」
俺は言う。
「見学者っていうより、“来たついでに確認してる”感じだな」
「やっぱり」
凛音の声は、静かだけど少し冷えていた。
そこへ、少し遅れて朱麗が合流する。
「お二人とも」
朱麗は資料を持ったふりをしながら自然に並ぶ。
「どなたですの」
「茶色ジャケット」
俺は短く言う。
「たぶん、当たり」
朱麗は一瞬だけ視線を流した。
その一瞬で十分だったらしい。
「……なるほど」
彼女も声を落とす。
「見ていますわね」
「他の生徒を見ていない」
凛音が言う。
「少なくとも、興味の置き方が不自然です」
「だな」
俺はそこで、改めて相手の立ち方を見る。
派手な威圧感はない。
だが、素人でもない。
“現場にいたことがある”人間の立ち方だ。肩の力の抜き方と、足の置き方が違う。
「……嫌な感じだ」
「知っている種類ですか」
凛音が聞く。
「近い」
俺は低く答える。
「“上手いやつを見つける目”じゃなくて、“隠してるやつがいないか確認する目”だ」
朱麗が小さく息を吐く。
「最悪ですわね」
「かなり」
凛音が言う。
「そこで使うなよ」
だが、本当にかなり最悪だった。
問題は、向こうがこちらを知っているかどうかではない。
“知っていなくても、違和感だけで追える種類の人間”であることだ。
そういう相手は、当たりをつけたら長い。
◇
合同見学そのものは、形式上きちんと進んだ。
学園側の説明。
安全管理の話。
初等実習の見学。
実習棟設備の案内。
俺たち生徒側は、完全な主役ではない。
あくまで“日常の延長”として、何人かが見える位置に立っているだけだ。
だから本来なら、俺も目立たず流れに溶ければよかった。
でも、その日はちょっとした事故が起きた。
いや、事故というより、学園ダンジョンではよくある“雑な現実”だ。
初等実習の見学区画へ移動する途中、階段脇の通路で一人の一年が機材ケースを落としかけたのだ。
転げれば中身が飛ぶ。
後ろの連中が巻き込まれる。
大した怪我にはならないだろうが、見学の流れは確実に止まる。
普通なら、近くの教員か本人が何とかする距離だった。
でも、ケースの重心が変だった。
持ち方が甘く、体勢も崩れている。
あれは間に合わない。
そう思った瞬間には、もう動いていた。
一歩。
二歩。
ケースの下へ足を滑り込ませ、左手で持ち手を支え、右手で一年の肩を押し戻す。
がたん、と鈍い音はした。
だが落ちない。
中身も飛ばない。
「す、すみません!」
一年が真っ青になって頭を下げる。
「前見ろ」
俺は短く言って手を離した。
「次は止まって持ち直せ」
「は、はい!」
それで終わるはずだった。
終わればよかった。
でも、空気が一瞬だけ止まったのがわかった。
教員も、見学者も、生徒も。
“そこまで派手じゃないのに、妙に早かった”動きは、逆に変な印象を残す。
特に。
あの茶色ジャケットの男には、十分すぎた。
視線が来る。
今度は明確に。
しかも、“見た”目だ。
「……まずいですね」
すぐ後ろで、凛音が小さく言った。
「だな」
「今の、完全に目で追われましたわ」
朱麗の声も低い。
「分かってる」
分かってるが、あの場面で見捨てる選択肢はなかった。
しかも厄介なのは、自分でも“反射だった”ことが分かる点だ。
考えて動いたんじゃない。
考える前に動いてしまった。
それがいちばん、染みついたものの証拠だった。
◇
見学終了後、俺たちは人気のない渡り廊下へ移動した。
夕方前のガラス廊下には、少しだけ西日が差している。人の気配は薄い。こういう時だけ、学園も白鳳館みたいに静かな顔をする。
「見ていましたわね」
朱麗が、開口一番に言った。
「ああ」
「かなりはっきりと」
凛音も続ける。
「最初の“確認”から、“やっぱり”へ変わった目でした」
「そこまで分かるのか」
「分かります」
凛音は言う。
「むしろ、分かりやすすぎました」
「最悪だな……」
「ええ、かなり」
「便利ワードが今日は本気で便利だな」
だが冗談っぽく言わないと、少し息が詰まりそうだった。
あの目はまずい。
ただ気になるから見ていた目じゃない。
“さっきので確信を強めた”目だ。
「どうしますの」
朱麗が聞く。
「どうもしない」
俺は壁にもたれながら答える。
「今はな」
「こっちから変に反応すると、向こうに“当たり”を教える」
「でも、もうかなり寄られています」
凛音の言葉は事実だった。
「そうだな」
俺は認める。
「だから余計、今は普通でいるしかない」
「普通、ですか」
「そう」
俺は言う。
「少なくとも学園の中では、“ちょっと動けるが、それだけの学生”を崩さない」
「それ以上に見せると終わる」
「今ので十分崩れてる気もするんだけど」
凛音が珍しく少しだけ刺してくる。
「そこは否定できない」
ほんとうに否定できないのが嫌だ。
「ですが」
朱麗が腕を組む。
「今日の件で、逆に一つ分かりましたわ」
「何が」
「相手は“見つけた”と思い始めていますが、まだ確信はしていない」
朱麗は言う。
「だからこそ、今後も何かしらの形で近づいてくるでしょう」
「言い換えれば、こちらにも観察時間がある」
「なるほど」
たしかにそうだ。
あちらが確信しているなら、もっと別の動きになる。
今はまだ、“近い気がするから見続ける”段階だ。
だったら、その間にこちらも相手の癖を拾える。
「ただ」
凛音が静かに言う。
「一人で先に動こうとするのは禁止です」
「まだ何も言ってない」
「顔です」
「お前らほんとに顔で全部バレてるって言うよな」
「実際、バレていますもの」
朱麗が言う。
「さっきも、相手を追いかけるべきか計算していましたわね」
……そこまで見えてるのかよ。
「一応言っとくけど」
俺は言う。
「追わなかっただろ」
「ええ」
凛音は頷く。
「今日は、かなりえらいです」
「その褒め方、地味に腹立つな」
「でも本気です」
そこだけ妙にまっすぐだから困る。
◇
その日の昼休みは、結局また中庭へ三人で出た。
もうクラスメイトたちも、半分くらい諦めている気がする。
森野なんて「行ってらっしゃい」みたいな顔をしたし、岸本に至っては「今日は購買じゃないんだな」しか言わなかった。
その雑さに少し助かる。
ベンチへ座ると、ようやく少しだけ息がつけた。
「……今日のは、かなり心臓に悪かった」
俺が言うと、凛音が小さく頷く。
「はい」
「でも、たぶん向こうも同じです」
「“あたりかもしれない”相手が実際に動いたのを見たので」
「それ、慰めになる?」
「少しだけは」
「かなり無理があるな」
朱麗が、紙パックの飲み物を机代わりのベンチへ置く。
「ですが、ここからですわね」
「何が」
「白鳳館も」
朱麗は言う。
「学園も」
「もう、“ただうまくいくかどうかを見る段階”ではありません」
「相手がいて、動いて、こちらも選ぶ段階です」
その言い方は、妙にきれいだった。
白鳳館も、学園も。
たしかにそうだ。
白鳳館は、ただ料理を作ればいい時期を過ぎた。
客の反応と運用と再訪で、次の一手を選ぶ段階に入っている。
学園の切り抜き問題も同じだ。
ただ噂をやり過ごすだけでは足りない。
見てくる相手を見て、どこまで普通でいて、どこから備えるかを選ばなければいけない。
どっちも、面倒だった。
「……何だよその顔」
朱麗が聞く。
「いや」
俺は苦笑する。
「ほんとに、二つとも同じくらい面倒だなと思って」
「それ、前より嫌そうじゃないですね」
凛音が言った。
「そうか?」
「はい」
凛音は静かに頷く。
「前は“全部切って逃げたい面倒”って顔でした」
「今は、“抱えるしかないから抱える面倒”の顔です」
「違いが細かいな」
「かなり大きい違いです」
そこへ、風が吹いた。
桜の花びらが舞う。
春の昼休みらしい、穏やかな風だ。
なのに次の瞬間、その穏やかさが少しだけ裏切られる。
ベンチ横に立てかけていた凛音のノートが風で飛ばされかけたのだ。
「あ」
凛音が手を伸ばす。
でも足元が半歩だけ遅い。
また、身体が先に動く。
一歩前へ出て、ノートの角を押さえる。
そのまま風の流れから外すように自分の側へ引く。
ただ、それだけだった。
ただのノートだ。
昨日みたいな階段でも、白鳳館の保冷バッグでもない。
なのに、ノートを渡そうとした瞬間、凛音の指が俺の手に触れた。
一瞬だけ。
でも、妙に長い。
「……ありがとう、ございます」
凛音の声が、ほんの少しだけ遅れる。
「いや、これくらい」
「そういうのが自然なの、やっぱりずるいです」
「昨日も言ってたな、それ」
「今日も思ったので」
朱麗が、そのやり取りを見て、小さく息を吐く。
「お二人とも」
「本当に、油断するとすぐそうなりますのね」
「何が」
「何が、ではありませんわ」
朱麗はやや不満そうに言う。
「こちらは真面目に今後の対応を考えているというのに」
「白雪さんばかり、そうやって自然に守られる流れになるのが面白くありません」
「お前それ、だいぶ嫉妬じゃないか?」
思わず口から出てしまった。
言った瞬間、空気が止まる。
凛音が一瞬目を見開き、
朱麗は完全に固まった。
やばい。
今のは、たぶん口に出すやつじゃなかった。
「……何ですの」
朱麗の声が低い。
「いや、その」
俺は珍しく本気で言葉に詰まる。
「言い方が、少しだけ」
「少しどころではありませんわ!」
朱麗が顔を赤くして言う。
「何を自然に、そんな――」
「事実かどうかはさておいて」
凛音が静かに挟んだ。
「かなり効いてますね」
「白雪さん!!」
だめだ。
完全に流れがラブコメになってる。
しかも学園の切り抜き問題の合間にやる空気じゃない。
でも、そこで少しだけ笑ってしまった自分がいた。
おかしかったから。
それから、こういうふうにぐちゃっと崩れると、逆に“今ここにいる”感じがするからかもしれない。
「……何で笑いますの」
朱麗がまだ赤い顔のまま言う。
「いや」
俺は息を吐く。
「なんか、今日はずっと張ってたから」
「少しだけ助かった」
その言葉に、二人とも黙る。
凛音が最初に言った。
「じゃあ、たまにはこういうのも必要ですね」
「必要の範囲が広すぎるんだよ」
「でも」
朱麗は少しだけ視線を逸らしながら言う。
「……それで少し楽になるなら、悪くはありませんわ」
その言い方が、さっきまでの赤さをまだ引きずっていて、妙に可笑しかった。
◇
放課後、帰り道で俺はふと思った。
今日、学園に外部の影が入ってきた。
明確に、不穏な形で。
たぶんこれから、もっと面倒になる。
白鳳館だって、学園だって、ここから先は“ただ良くしていく”だけじゃ済まない。
でも、そのわりに、俺はそこまで絶望していなかった。
隣に凛音がいて、
少し前に朱麗がいて、
今日の昼休みには変な方向へ空気が崩れて、
それが妙に助かった。
そういうのが、地味に効いているのかもしれない。
「……何ですか」
凛音が聞く。
「いや」
俺は空を見上げる。
「面倒だなって思っただけ」
「かなり?」
「かなり」
「便利ですね」
「感染したんだよ」
朱麗が前を向いたまま小さく笑う。
「ええ、そうですわね」
「でも、今のあなたにはちょうどいいかもしれません」
「何が」
「認め方ですわ」
朱麗は言った。
「全部を否定するのではなく、面倒でもあると認めることが」
その言葉には、少しだけ答えにくかった。
でもたぶん、間違っていない。
ただの脇役ではいられない。
その現実は、もうとっくに始まっている。
だったら少なくとも、面倒であることくらいは認めたほうが、前へ進めるのかもしれなかった。




