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第2話 氷の美少女は、見逃してくれない

生徒会特別室に連行される前に、俺は一つだけ現実逃避をした。


 購買で紙パックのコーヒー牛乳を買って、人気の少ない中庭のベンチに座ったのだ。


 逃げではない。

 戦略的撤退である。

 人は厄介ごとに巻き込まれる直前、糖分を補給しておくべきだ。そうしないと、ろくでもない提案をろくでもないまま受け入れてしまう危険がある。


 春の風はまだ少し冷たく、校舎の白い壁に反射した日差しだけが妙に明るかった。中庭の真ん中に植えられた若い桜は七分咲きで、花びらがまだ元気に枝へしがみついている。噴水の水音が遠くで鳴っていて、時折、体育館の方からバスケットボールの弾む音が聞こえた。


 いかにも平和な昼下がりだ。


 その平和の中で、俺だけが少しずつ詰んでいる。


「静かに生きたいだけなんだけどな……」


 独り言が口をつく。


 すると、すぐ背後から淡々とした声がした。


「それ、いまさら説得力ありますか」


 紙パックを落としそうになった。


 振り向けば、そこにいたのは白雪凛音だった。


 風に揺れる黒髪は光の加減で少し銀色に見え、整いすぎた横顔は相変わらず近寄りがたい。だが本人はそんな自覚があるのかないのか、いつもの無表情に近い顔でこちらを見下ろしていた。


「……気配消して近づくのやめてくれないか」


「消していません。あなたが考え込みすぎていただけです」


「それはそれで嫌だな。集中力がないみたいじゃん」


「実際、今日はだいぶ乱れていると思います」


 容赦がない。


 俺は小さく息を吐き、ベンチの端へ少しずれる。


「座るか」


「いいんですか」


「立たれてると落ち着かない」


「それは知りませんでした」


 そう言いながらも、凛音は俺の隣へ腰を下ろした。ただし距離はやや広めだ。肩が触れるほど近くはないが、会話するには十分近い。その微妙な距離感が、彼女らしかった。


 中庭を抜ける風が、ふわりと制服の袖を揺らす。


 しばらく二人とも口を開かなかった。


 気まずいわけではない。むしろ、気まずくなる前に、互いに何をどう切り出すべきか探っている感じだ。


 俺は紙パックのストローを噛みそうになるのをこらえながら、先に口を開いた。


「で」


「はい」


「何しに来た」


「確認です」


「何の」


「あなたが逃げないかどうか」


 即答だった。


 俺は思わず空を仰ぐ。


「信用ないなあ」


「今の状況で、ありますか」


「言い返せないのが腹立つ」


 凛音はそこで少しだけ目を細めた。笑ったのかと思ったが、たぶん違う。彼女はたぶん、笑う時も大きくは笑わないタイプだ。


「でも、少し安心しました」


「何が」


「逃げるつもりなら、もっとそれらしい顔をしているはずなので」


「俺、逃げる顔とかあるのか」


「あります」


「そんな分析いらない」


「必要です。あなた、放っておくと本当に勝手に消えそうなので」


 その言い方が妙に引っかかった。


 勝手に消えそう。


 たしかに、それは俺がずっとやってきたことだ。目立ちそうになったら一歩引く。関わりが深くなりそうなら距離を取る。必要以上の期待や注目が集まりそうになったら、少し不格好に振る舞って印象をぼかす。


 消えるように生きる。

 見つからないように生きる。

 二度目の人生を始めてから、ずっとそうしてきた。


 図星を刺されるのは、やっぱり気分が良くない。


「勝手なこと言うなよ」


「勝手ではありません。観察の結果です」


「観察って便利な言葉だな」


「便利です。誤魔化されにくいので」


「誤魔化してる前提なんだ」


「ええ。かなり」


 あっさり頷かれて、俺はコーヒー牛乳を一口吸った。甘い。甘いのに胃が痛い。どういうことだ。


 凛音は噴水の方を見ながら、静かに言った。


「教員には、どう説明するつもりですか」


「どうもこうも、偶然うまくいったで押し通す」


「押し通せると思ってるんですか」


「思ってない」


「正直ですね」


「嘘をついても、君みたいなのがいると無駄だろ」


 すると凛音は少しだけ首を傾げた。


「私みたいなの、とは」


「しつこくて、細かくて、妙に目ざとい」


「ひどい評価です」


「褒めてる」


「褒められている気がしません」


「実際褒めてないからな」


 そこでほんの一瞬、凛音の口元が緩んだ。今度こそたぶん、本当に少しだけ笑ったのだと思う。


 それが妙に意外で、俺はつい見てしまった。


 凛音はすぐに表情を戻したが、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。


 なんだこれ。

 変に調子が狂う。


 相手は学園でも有名な、美人で、無表情で、近寄りがたい氷の美少女だ。そういう認識はちゃんとあった。だが実際にこうして話すと、ただ冷たいだけじゃない。冷たいというより、温度を必要なところにしか使わない人間、という感じがする。


 そして、必要と判断したことには驚くほど踏み込んでくる。


「白雪」


「はい」


「一応聞くけど」


「何でしょう」


「なんで、そこまで俺に構うんだ」


 問いかけると、凛音は少しだけ考えた。

 視線が噴水から桜へ移り、それからようやくこちらへ戻る。


「気になるから、では駄目ですか」


「ふわっとしすぎてる」


「では、もう少し具体的に言います」

「あなたの動きは、実習で身につくものではありません」

「でも、プロの探索者のような見せ方でもなかった」

「隠そうとしているのに、隠しきれていない感じが、すごく中途半端だったんです」


「最後だけ悪口じゃない?」


「分析です」


「分析って言えば何でも許されると思うなよ」


「許されないなら、少し訂正します」

「中途半端というより……」

「諦めたくないのに諦めたふりをしている人の動きでした」


 今度は、胸の奥がひやりとした。


 それはかなり、近い。

 近すぎて、冗談にできない。


 俺は紙パックを握り直す。


「白雪」


「はい」


「君さ、思ってるより人の心臓を刺すの上手いよ」


「そうですか」


「自覚ないだろ」


「少なくとも、喜ばれる特技ではないとは思っています」


 だろうな。

 少なくとも俺は今、全然嬉しくない。


 だが不思議と、腹は立たなかった。

 言葉の選び方に棘はあるが、そこに悪意がないのがわかるからだ。むしろ、変に取り繕わない分だけ誠実ですらある。


 だから余計にやりにくい。


「……まあ、いいや」


「よくない顔ですけど」


「放っとけ」


「放っておけないので困っています」


「それを堂々と言うんだな」


「あなたも、もう少し困ってください」


「なんでだよ」


「私だけ面倒を見ているみたいで不公平です」


「巻き込まれに行ってるの君だからな?」


「それでもです」


 会話のテンポが少しだけ軽くなったところで、中庭の向こうを数人の女子生徒が通り過ぎた。彼女たちはこちらを見て、明らかにざわつく。そりゃそうだろう。学園でも目立つ白雪凛音が、目立たないはずの俺と二人でベンチに座っているのだから。


 俺はそっと視線をそらした。


「見られてるぞ」


「見ていますね」


「困らないのか」


「少しは」


「少しなんだ」


「でも、あなたのほうが困っていそうなので、先にそちらを心配します」


「優しいのか意地悪なのか、どっちかにしてくれ」


「その二択しかないんですか」


「今のところは」


 凛音は少しだけ空を見上げた。

 桜の花びらが一枚、ふわりと彼女の肩へ落ちる。


「優しいかどうかはわかりません」

「でも、見てしまった以上、何も知らないふりはしたくないです」


 静かな言葉だった。


 その真っ直ぐさに、俺は少しだけ目を伏せる。


 何も知らないふりはしたくない。

 簡単そうで、実は難しいことだ。

 人はたいてい、面倒な真実より都合のいい曖昧さを選ぶ。俺だってそうだ。今だって、本当はこのまま全部うやむやになってくれと思っている。


 けれど彼女は、それをしない。


「……君さ」


「はい」


「昔からそんな感じなの」


「そんな感じ、とは」


「見て見ぬふりができない感じ」


 凛音は少しだけ首を傾げ、それから小さく息を吐いた。


「できないわけではないです」

「ただ、あとで気になるのが嫌なんです」

「見なかったことにした結果、自分が納得できないのが」


「面倒な性格してるな」


「それはさっきも聞きました」


「本当に面倒なんだもん」


「あなたにだけは言われたくありません」


 その返しに、思わず少しだけ笑ってしまった。


 すると凛音が、わずかに目を見開く。


「今、笑いましたね」


「笑うだろ、その流れは」


「そういう顔、できるんですね」


「どういう意味だ」


「もっとこう、疲れた顔しかできない人かと思っていました」


「失礼すぎる」


「でも、少し安心しました」


「さっきから安心してばっかだな」


「今日は心配する材料が多いので」


 そこまで言ってから、凛音はほんの少しだけ視線を逸らした。

 その一瞬の間に、彼女の無機質さみたいなものが少し薄れる。


 ああ、この人も案外、言葉の置き方に迷うのか。

 そう思うと、ほんの少しだけ距離が近づいた気がした。


 とはいえ、だからといって俺が何かを打ち明ける気にはなれない。


「白雪」


「はい」


「期待してるなら、やめとけ」


「何をですか」


「俺が何か特別な事情を語るとか、すごい過去を打ち明けるとか、そういうの」


「期待はしていません」


「即答だな」


「ただ、無理に聞き出すつもりはないというだけです」


「それは、ちょっと意外かも」


「あなた、無理に引っ張ったら余計に黙るタイプでしょう」


「……そんなにわかりやすい?」


「かなり」


 まただ。

 今日だけで何回「かなり」と断言されればいいんだ。


 だが、それと同時に少しだけ助かってもいた。無理に暴こうとしてくる相手なら、今すぐ距離を取っていたと思う。だが彼女は踏み込んでくるくせに、ぎりぎりで止まる。境界線の見方が上手いのか、単に慎重なのかはわからないが、その加減が妙に絶妙だった。


「じゃあ、何がしたいんだよ」


「さっきも言いました」


「知りたいだけ、だろ」


「はい」

「それと、できれば見ていたいです」


「……は?」


 思わず聞き返してしまう。


 凛音はまっすぐこちらを見たまま、淡々と言った。


「あなたが、これからどうするのか」

「隠したまま沈むのか、それとも何かに巻き込まれるのか」

「そういうのを、ちゃんと見ていたいです」


 言い方だけ切り取ると、だいぶ物騒だな。


「監視宣言?」


「近いかもしれません」


「やめてくれよ。俺にそういうファンはいらない」


「ファンではありません」


「じゃあ何だよ」


「……観測者、でしょうか」


「言い方が中二病すぎる」


「嫌なら別の表現でもいいです」

「でも、見失いたくないのは本当です」


 その言葉に、また一瞬だけ返答が詰まる。


 見失いたくない。

 そんなふうに言われる覚えはない。

 少なくとも今の俺は、誰かにそう言われるような人間じゃないはずだった。


 だから困る。

 困るし、少しだけ、くすぐったい。


 ちょうどその時だった。


 中庭に面した校舎の角から、規則正しい靴音が近づいてきた。聞き覚えのある、無駄にきれいな歩幅の音だ。


 俺は反射的に顔をしかめる。


「来たか」


「来ましたね」


 凛音も同じ方向を見る。


 案の定、姿を見せたのは九条朱麗だった。


 陽射しの下でも崩れない完璧な身だしなみ。制服の着こなし一つにしても、たぶん彼女の中には「美しくあるべき正解」があるのだろう。気の強そうな目元に、隙のない姿勢。名門の令嬢、という言葉が服を着て歩いているような女だ。


 朱麗は数歩手前で立ち止まると、俺と凛音を見比べた。


「探しましたわ」


「逃げてないだろ」


「そのようですわね。ひとまず安心しました」


「安心される筋合いある?」


「あります。あなたが想像以上に面倒なタイプだと、先ほど理解しましたので」


「今日の女子、なんでみんなして俺を面倒扱いするんだ」


「事実だからではなくて?」


 凛音が横から静かに刺してくる。

 朱麗はそれに小さく頷いた。


「白雪さんと意見が合うのは癪ですけれど、今回は同感ですわ」


「うわ、最悪の連携だ」


「安心なさい。常時そうなるわけではありません」


「安心材料が一つもない」


 朱麗は俺の向かい側に立ったまま、すっと顎を上げる。


「柊木さん、そろそろよろしいかしら」


「何が」


「特別室へ来ていただきますの」

「そこで、少し正式にお話があります」


「正式って単語が嫌なんだよ」


「でしたら非公式でも構いませんわ」

「要点は変わりませんけれど」


 俺はベンチに深く座り直し、紙パックを見下ろした。もう半分以上なくなっている。心の準備のための糖分は、あまり仕事をしてくれなかったらしい。


「断るって言ったら?」


「さきほども申し上げましたが、却下します」


「横暴だなあ」


「必要な強引さですわ」


「その自己評価、だいぶ危険だぞ」


「危険でも、役に立つなら採用すべきです」


 理屈の通った強引さほど厄介なものはない。


 俺が本気で頭を抱えそうになっていると、凛音が静かに口を開いた。


「私も行きます」


 朱麗の視線がすっと細くなる。


「どうしてですの」


「見ていたので」

「それに、話の内容が彼一人に関わるとは思えません」


「自覚はおありなのですね」


「そちらもでしょう」


 ぴり、と空気が張る。


 校内の中庭でこんなに温度差のある会話を成立させるな。見た目は上品なのに、やってることはだいぶ危険だぞ。


「やめろって、またそこで火花散らすな」


「散らしていませんわ」


「散らしてます」


 凛音が即座に返す。


 朱麗はほんのわずかに眉を動かした。


「あなた、本当に口が減りませんのね」


「必要な時しか喋っていないつもりです」


「それで十分多いのですわ」


「九条さんにだけは言われたくありません」


 なんだろう。

 俺を挟んでいるはずなのに、いつの間にか俺が背景になっている気がする。


「……なあ」


「何ですの」


「何ですか」


 二人同時にこっちを見るの、やめてくれ。

 妙に圧がある。


「俺の意見を聞く気は一応あるのか?」


「ありますわ」


「あります」


「即答すぎて信用できない」

「じゃあ言うけど、俺は行きたくない」


「却下ですわ」


「行くべきです」


「ほらな!?」


 思わず立ち上がると、凛音がわずかに視線を和らげた。


「でも、無理にでも行ったほうがいいです」

「たぶん、今ここで逃げても後で余計に面倒になります」


「それはそうなんだけどさ……」


「それに」


「それに?」


「九条さんが黙って見逃すようには見えません」


 朱麗が涼しい顔で頷く。


「正しい認識ですわ」


「嬉しそうに言うな」


「褒められたので」


「今の文脈でそう受け取るの強すぎるだろ」


 俺はしばらく二人の顔を見比べ、それから諦めたようにため息をついた。


 逃げても追われる。

 逃げなくても面倒。

 だったら早めに済ませたほうが被害が少ない――という判断自体が、すでにだいぶ追い詰められている証拠なのだが。


「……わかったよ」


 そう言うと、朱麗が満足そうに小さく頷く。

 凛音は露骨には表情を変えなかったが、どこか肩の力が抜けたように見えた。


「ただし条件」


「何ですの」


「何ですか」


 また同時だ。ほんと仲悪いのかいいのかどっちなんだ。


「俺に変な期待はするな」

「大した話はできないし、大した人間でもない」


 言い切ると、ほんの短い沈黙が落ちた。


 先に口を開いたのは凛音だった。


「それは、まだ私が判断します」


「は?」


「大した人間かどうかは、本人の自己申告だけでは決まりません」


 続けて朱麗も言う。


「同感ですわ」

「少なくとも、今日の映像を見る限り、“何でもない脇役”という評価は成立しません」


 やめてくれ。

 そういうのが一番困る。


 俺が顔をしかめると、朱麗は不意に少しだけ声音を和らげた。


「安心なさい、柊木さん」

「今すぐあなたをどうこうするつもりはありません」

「ただ、放置しておくには惜しいと判断しただけですわ」


「その言い方、だいぶ嫌なんだけど」


「褒めていますのに」


「褒められてる感じがしないんだよな……」


 凛音が小さく息をつく。


「たぶん、九条さんはもう少し言い方を考えたほうがいいです」


「白雪さんに言葉選びを指摘されるとは思いませんでしたわ」


「私もです」


 こんな時だけ妙に自然に会話を回すの、本当に勘弁してほしい。


 俺たちは中庭を抜け、本校舎へ向かって歩き出した。


 中央通路は昼休みのざわめきに満ちていた。行き交う生徒、窓から差し込む明るい光、掲示板の前で騒ぐ一年生、パンをくわえたまま走る誰か。そんな当たり前の学園風景の中を、俺は学園でも目立つ女子二人に挟まれて歩いている。


 悪夢か?


 いや、夢ならもっと意味不明であってほしい。現実だからこそ、こういう変な生々しさがある。


 周囲の視線が痛い。

 完全に痛い。


「見られてる」


「見られていますわね」


「見られていますね」


「息ぴったりなのが怖いんだって」


 俺が小声で言うと、朱麗はすました顔で返した。


「あなたが注目を集めるのは、ある意味当然ですわ」


「当然じゃない。俺は地味枠だぞ」


「その地味枠の定義、今日で少し見直すべきではなくて?」


 凛音の援護射撃まで飛んでくる。

 最悪である。


「白雪、お前どっちの味方だよ」


「事実の味方です」


「一番厄介なやつじゃん」


 廊下の窓越しに、校庭がちらりと見えた。

 春の陽射しは柔らかく、空はきれいに晴れている。こんな日に限って、俺の人生だけやたら曇っているのが納得いかない。


 それでも、不思議と、完全に嫌なだけではなかった。


 横を歩く凛音は相変わらず静かで、けれどたまにこちらを見る視線がある。

 反対側の朱麗は堂々としていて、何かを決めた人間の歩き方をしている。


 どちらも面倒だ。

 どちらも俺の平穏を壊す側の人間だ。

 それなのに、二人とも、俺を雑には扱わない。


 だからこそ、やりにくい。


 やがて俺たちは、一般の生徒があまり近づかない特別棟の廊下へ入った。床の質感まで少し違う。静かで、無駄な掲示物も少なく、空気が妙によそよそしい。朱麗は迷いなくその先へ進み、重厚な木扉の前で立ち止まる。


 金属のプレートには、小さく「生徒会特別室」と刻まれていた。


 ここまで来ると、さすがに現実感が増してくる。


 俺は立ち止まり、深く息を吐いた。


「最後にもう一回だけ言うけど」


「はい」


「何ですの」


「俺、帰っていい?」


「駄目ですわ」


「駄目です」


「だろうな……」


 朱麗が扉に手をかける。

 凛音はその横で静かに立っている。


 俺の平穏な脇役生活は、どうやら本当に、もう後戻りできないところまで来てしまったらしい。


 扉が開く直前、凛音がふいに小さな声で言った。


「大丈夫です」


「何が」


「少なくとも、今日は一人じゃないです」


 その言葉は、あまりにも自然に置かれたせいで、一拍遅れて胸に届いた。


 俺は返事に困って、ただ小さく眉を寄せる。


「……それ、今言うのずるいだろ」


「そうですか?」


「調子が狂う」


「なら、少しは効いているんでしょう」


 凛音はそう言って、ほんの少しだけ目を細めた。


 たぶん、笑ったのだと思う。

 ほんのわずかに。

 でも確かに。


 その直後、朱麗が扉を開け放つ。


「お二人とも、そこで親しげに会話を完結させないでくださる?」

「私を待たせるなんて、なかなか大胆ですわね」


「親しげじゃない」


「親しげではありません」


 俺と凛音がほぼ同時に返すと、朱麗はじっとこちらを見たあと、なぜか少しだけ面白くなさそうな顔をした。


「……そういうところだけ揃うの、少し腹立たしいですわね」


「お互いさまだろ」


「ええ、認めます」


 その言葉を最後に、俺はついに特別室の中へ足を踏み入れた。


 たぶんここから先、ただの配信事故では終わらない。

 そう思わせるだけの空気が、扉の向こうにはあった。


 そして俺はまだ知らない。


 この部屋で聞かされる話が、俺の二度目の人生にとって、思っていた以上に厄介で、思っていた以上に温かい“面倒”の始まりになることを。

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