第1話 配信は切ったはずだった
人は一度、派手に失敗するとわかる。
世の中には、取り返しのつく失敗と、どうやっても元に戻らない失敗があるのだと。
テストで赤点を取るとか、寝坊して遅刻するとか、そういうものはまだ可愛い。反省文でも書いて、教師に頭を下げて、友人に昼飯を奢れば、たいていは何とかなる。
だが、取り返しのつかない失敗は違う。
それは、人を失う失敗だ。
信用を失う失敗だ。
そして何より、自分が自分でなくなるような失敗だ。
俺はそれを、一度目の人生で嫌というほど知った。
だから二度目くらい、静かに生きたっていいだろう。
目立たず、騒がれず、期待されず、責任を負わされず。
教室の隅で適当に相槌を打って、提出物は期限内に出して、学園のダンジョン実習でも中の下くらいの働きだけして、誰の印象にも残らず卒業する。
それが俺の理想だった。
なのにどうして、こういうことになるんだ。
「七番通路、前方反応増加! ちょ、待っ――え、えっ、なんでそこから湧くの!?」
耳元のイヤーカフ型端末から、焦った女子生徒の声が飛び込んでくる。
湿った石壁に囲まれた地下通路は、昼だというのに薄暗かった。学園地下第二層、初級者向け実習区画。魔力灯の青白い明かりが床の水気を照らし、じっとりとした冷気が足元から這い上がってくる。石壁には古い苔のような魔力植物が張り付き、かすかに鉄と土の匂いが混じっていた。
本来なら、ここは一年生や二年生の合同実習で使われる、比較的安全な区域だ。
定期的に管理班が巡回し、危険度の高い魔物は間引かれている。
だからこそ、学園の公式配信でも「見栄えのいい実習」としてよく使われる。
そして今日もそうだった。
俺たちは探索実習の班行動中で、各班には簡易配信端末が一台ずつ支給されていた。学校の広報用でもあり、保護者向けの公開授業でもあり、ついでに外部スポンサー向けの「うちの学園は安全ですよ」アピールでもある。
要するに、現代はダンジョン実習まで配信する時代なのだ。
俺からすれば世知辛いにもほどがある。
「下がれ、岸本!」
前方の曲がり角から飛び出してきたのは、犬に似た形の魔物――灰牙犬が三体。
いや、三体ではない。四体だ。奥にもう一匹、気配を殺している個体がいる。
先頭を歩いていた岸本が反射的に短槍を構えるが、足が止まっている。良くない。ああいう止まり方をした時点で、初動は半分失敗だ。
「え、うそ、五体!? 今日の実習って二層手前までのはずじゃ――」
「落ち着け、森野! 詠唱、まだか!」
「無理、今やってる、やってるけど無理!」
班の後衛が半泣きで魔法を組み立てている。
前衛の男子は気合だけはあるが、完全に押されていた。
俺は一歩後ろから、その光景を見ていた。
見ていた、という表現はあまり正しくないかもしれない。
正確には、見ながら、計算していた。
灰牙犬の脚運び。
床の湿り具合。
岸本の槍の癖。
森野の詠唱速度。
左壁のひび割れ。
通路幅。
魔物の呼吸。
奥の一匹が飛び込んでくる角度。
脳が勝手に整理してしまう。
そういうふうにできてしまっている。
それを表に出さないために、俺はこの一年、ずっと気を付けてきた。
実力を殺し、反応を遅らせ、少しだけ鈍いふりをして、少しだけ運が良かったように見せかける。
できることを、できない側に寄せて生きてきた。
それなのに。
「柊木! 何ぼさっとしてんだ、援護!」
岸本が叫ぶ。
俺の偽名――柊木湊。それが今の名前だ。少なくとも、この学園では。
「いや、援護って言われても――」
言いながら、嫌な予感がした。
四体目。
やっぱり来る。
死角から飛び出した灰牙犬が、壁を蹴って森野に食らいつこうとする。森野は詠唱に意識を取られていて、反応が完全に遅れた。
あ、駄目だ。
その瞬間、考えるより先に身体が動いた。
床を蹴る。
一歩で岸本の横を抜く。
二歩目で左壁を踏む。
半身をひねって、腰の訓練用短剣を逆手に抜き、飛びかかってきた灰牙犬の顎下に刃を滑り込ませる。
金属と骨の嫌な感触。
勢いを殺さず、そのまま魔物の体勢を崩して床に叩きつける。
同時に、右から来た別個体の爪を肘で逸らした。
浅い。けれど十分だ。噛みつきに繋がる角度だけ消せばいい。
「は――?」
岸本が間の抜けた声を出す。
だろうな。
俺もそう思う。
普通の二年生の動きじゃない。
だが今は、それどころではない。
「森野、撃て!」
「え、あ、う、うんっ!」
慌てた声と一緒に放たれた風弾が、前方の一体の鼻先を弾いた。精度は甘いが、怯ませるには十分。
その隙に岸本が槍を突き込む。
「っしゃあ!」
だが、勝負はまだ終わっていない。
奥にいた五体目――やはりいた。
最初から三体に見せて、遅れて圧をかける習性持ちか。実習区画で出る群れ方じゃない。
そいつは仲間の死骸を踏み越えて、一直線にこちらへ走る。
俺は短剣を持ち直しかけて、――止めた。
違う。
ここでさらにやれば、見せすぎる。
そう思った瞬間だった。
ぐらり、と岸本の足が滑る。
床の水気。
焦り。
体重移動の雑さ。
最悪の組み合わせだった。
灰牙犬の牙が、転びかけた岸本の喉元へ伸びる。
ああ、くそ。
舌打ちしたのは、たぶん心の中だけじゃなかった。
もう一度、床を蹴る。
今度は正面から。
半歩深く踏み込み、灰牙犬の首筋に短剣を打ち込むのと同時に、左手で岸本の襟首を掴んで強引に引き倒す。
魔物の牙が、俺の頬すれすれを切った。
熱いものが一筋だけ走る。たぶん皮が薄く裂けた。
だが、それだけだ。
動きが止まった灰牙犬の身体を足で蹴り飛ばし、俺はその場で息を吐いた。
静かになった通路に、誰かの荒い呼吸だけが残る。
森野が、震えた声で言った。
「……い、今の、見た?」
「見たも何も、目の前だよ!」
「いやいやいやいや、柊木、お前それ――」
岸本が尻もちをついたまま、俺を見上げてくる。
嫌な目だ。
びっくりしている目。
ただのクラスメイトを見る目じゃない。
俺はできるだけ平然と短剣を鞘に戻した。
「反射だろ。たまたまだ」
「たまたまで人が壁蹴ってあんな動きするか!?」
「するやつもいるかもしれない」
「そんな雑な言い訳ある!?」
ある。
今作った。
だが当然、納得される気配はない。
端末の向こうから、実習管理室の教員の声が飛ぶ。
『七班、応答しろ。今の戦闘、どうなってる。映像が少し乱れて――』
映像。
俺はそこで、全身の血が嫌な冷え方をした。
待て。
端末。
配信。
さっき、俺は確かに森野へ指示を飛ばす直前、手元の配信用スイッチを落とした――はずだった。
危険時は自動的に録画保存に切り替わるが、少なくとも公開状態は切ったつもりだった。
つもり、だった。
「森野、端末」
「え? あ、これ?」
「公開ランプ、どうなってる」
森野が慌てて胸元の小型端末を見下ろし、そして顔色を変えた。
「あっ」
短い一音なのに、最悪の意味が全部詰まっていた。
「え、ちょ、うそ、ごめん、切れてない。まだ生きてる。というか途中で通信不安定になって自動復帰してる」
「……は?」
「ご、ごめん! わたし設定いじった時にバックアップ配信のチェック外し忘れてたみたいで、たぶん戦闘の途中からまた――」
頭痛がした。
派手な爆発音より、こういう「たぶん」が一番胃に悪い。
それは過去の人生で何度も学んだ。
『七班、何があった。柊木、応答しろ』
教員の声は続いている。
たぶん向こうは、こちらの会話までは拾っていない。だがそれも時間の問題だ。
俺は短く息を吸った。
「……大丈夫です。群れが想定より多かっただけで、怪我人は軽傷。追加支援はいりません」
『本当か?』
「はい。岸本が少し転びましたけど、生きてます」
「おい、その言い方だと俺がほぼ死にかけたみたいじゃん!」
「ほぼ、だろ」
「今のは助けてもらった側だから強く言えねえ!」
管理室の教員が少し間を置き、それから低く告げた。
『戻ってこい。映像確認をする』
映像確認。
やっぱり来たか。
「了解しました」
端末を切ってから、俺は壁に背を預けた。
気を抜くと、そのまましゃがみ込みたくなる。
森野が、おそるおそるこちらを見る。
「……柊木くん」
「何だよ」
「ごめん。ほんとにごめん。わたし、ちゃんと切れてると思ってて」
「いや、お前だけのせいじゃない。確認しなかった俺も悪い」
「でも、あの」
「今はその話やめよう」
自分でも驚くくらい、声が乾いていた。
岸本が立ち上がり、俺の顔の傷を見て眉をひそめる。
「頬、切れてるぞ」
「浅い」
「保健室行けよ」
「ダンジョンから出たらな」
「いやそうじゃなくて……お前、なんか平気すぎて逆に怖いんだけど」
その言葉に、少しだけ笑いそうになる。
平気なわけがない。
ただ、平気な顔をするのに慣れただけだ。
俺たちは無言気味に出口へ向かった。
第二層から地上へ戻るエレベーターホールまでの道は、行きよりずっと長く感じられた。苔むした石壁、床に刻まれた安全誘導の発光ライン、遠くで響く別班の戦闘音。その全部が妙に遠い。
エレベーターの鏡面パネルに映った自分の顔を見る。
頬に薄い傷。
少しだけ乱れた前髪。
そして、自分でも嫌になるくらい冷えた目。
駄目だ。
また、あの顔をしている。
俺は視線を逸らした。
地上へ戻ると、実習棟はいつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
ガラス張りのロビーを行き交う生徒たち。大型モニターに流れる各班のダイジェスト映像。購買コーナーから漂う揚げパンの匂い。春の午後の光が白い床に反射して、地下の湿っぽさが嘘みたいだった。
それなのに、俺の周囲だけ温度が違う。
管理室の前で、岸本たちは先に呼ばれていった。俺は「傷の手当てをしてこい」とだけ言われて、一時的に解放された。たぶん教員側でも整理がついていないのだろう。映像がどこまで映っていたのか、まだ向こうも把握しきれていないのかもしれない。
その不確定さがまた嫌だった。
ロビー脇の洗面スペースで傷口を水洗いし、備え付けの治癒テープを貼る。
鏡の中の自分は、どう見ても平凡な男子生徒だ。
黒髪、少し低めの身長、目立たない顔立ち。
柊木湊。
どこにでもいる二年生。
そう見えるようにしてきた。
そうなるように振る舞ってきた。
なのに、数十秒の配信事故で崩れるのか。
「笑えないだろ、それ」
思わず独り言が漏れた。
「何がですか」
背後から声がして、肩がわずかに強張る。
振り返ると、そこに立っていたのは白雪凛音だった。
同じ二年。
学年でも有名な女子生徒だ。
肩口で揃えた銀色がかった黒髪。淡い光を映すような白い肌。涼しげな目元。整いすぎていて近寄りがたい、という評判がぴたりとはまる顔立ちをしている。
そして何より、無駄なことをあまり言わない。
そんな相手が、今まっすぐこちらを見ていた。
「……何か用か」
「ええ。少し」
短い返答。
だが、その声色には曖昧さがなかった。
嫌な予感がする。
今日何度目だ、この感覚は。
凛音は周囲を一度見回し、それから顎で渡り廊下の方を示した。
「ここでは話しにくいので、移動してもいいですか」
「断ったら?」
「追います」
「即答かよ」
「迷う必要がありますか?」
ないのかもしれない。
少なくとも、彼女の中には。
仕方なく歩き出すと、凛音は一定の距離を保って隣についた。窓の外では、春風に揺れる並木が白く光っている。実習棟と本校舎をつなぐ渡り廊下は人気が少なく、足音だけがやけに響いた。
しばらく無言が続く。
先に口を開いたのは、やはり彼女だった。
「配信、切れていませんでしたよ」
核心だけを、音量ひとつ変えずに言う。
俺は思わず笑いそうになった。
笑えないけれど。
「知ってる」
「想定外でしたか」
「かなりな」
「でしょうね」
凛音はそこで足を止めた。
俺も数歩先で止まり、振り返る。
春の光が彼女の横顔を淡く照らしていた。だが、その目だけは冷たいほどに真っ直ぐだった。
「あれが、たまたまですか」
「何の話だ」
「灰牙犬の群れへの対処です」
「壁を蹴って飛んだことも、死角から来た個体に先に反応したことも、岸本くんを引き倒しながら喉元への噛みつきを逸らしたことも」
細かい。
想像以上に細かい。
「見てたのか」
「見えていました。途中からですが」
「物好きだな」
「そうかもしれません」
「でも、あれを見て何も思わないほど鈍くはありません」
逃げ場を少しずつ潰してくる言い方だ。
責め立てるわけではない。感情的でもない。
ただ静かに、観察した事実を並べていく。
こういう相手は苦手だ。
怒鳴ってくる相手なら、いくらでも受け流せる。
だが、冷静に見抜いてくる相手は面倒だ。
「初心者が偶然うまくやった。それでいいだろ」
「初心者は、あの場面で味方の位置と魔物の軌道を同時に処理できません」
「買いかぶりだ」
「そうやって、何度も誤魔化してきたんでしょうね」
俺は黙る。
図星を指されると、人は余計なことを言わなくなる。
それだけの話だ。
凛音は少しだけ視線を緩めた。
「安心してください。私は、すぐ誰かに言いふらすつもりはありません」
「……へえ」
「本当です。そういう趣味はありません」
「じゃあ、何がしたい」
問い返すと、彼女は少しだけ考えるように間を置いた。
そして、いつもよりほんの少しだけ人間らしい声音で言う。
「知りたいだけです」
「何を」
「どうしてそこまで隠れるのかを」
その問いは、想像していたよりずっと深く刺さった。
俺は一瞬、呼吸を忘れる。
どうして隠れるのか。
そんなもの、決まっている。
知られた先にろくなことがなかったからだ。
期待されて、担がれて、利用されて、最後には守りたかったものまで全部こぼしたからだ。
――でも、そんなことを彼女に言う理由はない。
「大した理由じゃない」
「大した理由のない人は、あんな目をしません」
「どんな目だよ」
「上手くいった直後なのに、少しも安心していない目でした」
その言い方に、背中がひやりとした。
見られていた。
動きだけじゃない。表情まで。
「観察しすぎだろ」
「あなたがわかりやすいんです」
「それは嘘だな。俺はむしろ、わかりにくい方に努力してる」
「その努力は認めます」
「でも、完璧ではありませんでした」
なんだその評価。
妙に的確で腹が立つ。
「君、思ったより面倒だな」
言うと、凛音はほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかと思ったが、たぶん気のせいだ。
「よく言われます」
「あなたも十分、面倒ですけど」
「初対面の距離感じゃないだろ、それ」
「秘密を共有した相手に、いまさら初対面も何もないでしょう」
秘密を共有。
その言葉の響きがやけに近い。
俺は視線を逸らして、渡り廊下の窓の外を見た。グラウンドでは体育の授業をしているらしく、遠くで笛の音が聞こえる。あまりにも平和で、ここだけ別の話をしているみたいだった。
「言っておくけど」
俺は低く言う。
「俺は目立つつもりもないし、誰かと組んで何かやるつもりもない。今日のことは事故だ。事故で終わらせたい」
「でしょうね」
「理解が早くて助かる」
「ただし、納得はしていません」
「意味がわからない」
「理解と納得は別です」
「あなたが隠したいのはわかります。でも、私が放っておく理由にはなりません」
その言葉に、思わず眉をひそめる。
「放っておいてくれよ」
「それは、少し難しいです」
「なんで」
問いかけると、凛音は一瞬だけ言葉を探すように沈黙した。
それから、静かに続ける。
「危なかったからです」
「……は?」
「あなたが、です」
「周りも危なかった。でも、あの動きをしたあなたも、たぶん危なかった」
その発想はなかった。
いや、正確には、昔は何度も言われた。
無茶をするな、抱え込むな、一人で前へ出るなと。
だが今の人生では、そんなことを言われる立場にいない。
そう思っていた。
俺が返す言葉を失っていると、凛音は少しだけ視線を逸らした。
「……別に、心配しているわけではありません」
「今の流れでそれを言うのか」
「言わないと、あなたが余計な勘違いをしそうなので」
「しないよ」
「どうでしょう」
「君、ほんとに面倒だな」
「二回目です、それ」
その時、不意に廊下の向こうから硬い足音が近づいてきた。
規則正しく、高いヒールの音。
学園内であの音を立てる人間はそう多くない。
振り向く前から、なんとなくわかってしまう。
今日は本当に嫌な予感がよく当たる。
現れたのは、九条朱麗だった。
艶のある黒髪を整え、制服の着こなし一つとっても隙がない。学園指定のジャケットですら、彼女が着るとどこか舞台衣装じみて見える。長いまつげの下の目はきつめだが、そのぶん意志の強さがはっきりしていた。
名門九条家の令嬢。
生徒会特別顧問補佐。
学園で最も「逆らいたくない」と思われている女子の一人。
俺は小さくため息をつく。
「……次は何だよ」
朱麗は俺と凛音を交互に見た。
その視線だけで空気が少し張る。
「ずいぶん親しげですのね、白雪さん」
「そう見えるなら、たぶん見間違いです」
凛音の返しも大概だった。
朱麗はふん、と鼻を鳴らす。
「まあ、どちらでも構いませんわ」
「柊木さん、少しお時間をいただけます?」
「断る」
「では、断りを却下します」
「会話が成立してないだろ」
「成立させる必要がありますの?」
今日の女子はどうしてこうも押しが強いんだ。
朱麗は一歩こちらへ寄ると、俺の頬のテープに目を留めた。
「怪我までして。無茶をなさったようですわね」
「実習でちょっとな」
「ちょっと、で済む顔ではありませんでしたけれど」
ぞくりとする。
その言い方だと、こいつも見ていたのか。
俺は眉を寄せた。
「まさか」
「ええ、まさか、ですわ」
「切り忘れた配信は、思いのほか多くの目に触れていましたの」
最悪だ。
いや、まだ「多く」と言っても、それが本当に広く拡散したわけではないのだろう。だが少なくとも、二人には見られた。しかもよりによって、面倒そうな相手に。
朱麗はあくまで優雅に、しかし逃げ道を塞ぐ声音で言う。
「ここでは人目があります。続きは場所を変えましょう」
「続きって何の」
「もちろん、あなたの今後についてですわ」
「聞きたくない単語ランキング上位だな、それ」
「安心なさい。悪いようにはしません」
凛音が小さく息をついた。
「その台詞、信用しにくいです」
「白雪さんに信用を求めた覚えはありませんわ」
「私も、あなたに好かれたいわけではないので」
ぴり、と空気が鳴った気がした。
ああ、もう駄目だ。
面倒が増える音しかしない。
俺は額を押さえる。
「……頼むから、せめて俺の前で火花散らすのやめてくれ」
すると朱麗がわずかに顎を上げた。
「散らしているのではなく、事実確認をしているだけですわ」
凛音も負けじと静かに返す。
「そういう言い方をする時点で、十分散っています」
「よくわかるな」
「あなたが鈍いだけです」
凛音に言われた。
今日だけで何回刺されればいいんだ。
渡り廊下に春風が吹き抜ける。
誰かが向こうの階段を駆け上がっていく音がする。
日常の音は平和なのに、俺の周囲だけ着実に平穏が剥がれていく。
静かに生きるはずだった。
脇役でいるはずだった。
誰にも見つからずに、二度目の人生を消費するはずだった。
なのにたった数十秒。
たった数十秒の切り忘れで、こうして面倒そうな二人に囲まれている。
笑えない。
ほんとうに、笑えない。
それでも――。
凛音の「危なかったからです」という言葉と、
朱麗の「あなたの今後についてですわ」という言葉が、
妙に頭に残って離れなかった。
どちらも面倒だ。
どちらも関わるべきじゃない。
そう思うのに、心のどこかがそれを即座に切り捨てきれない。
その感覚が、何より嫌だった。
「で?」
俺は観念したように口を開く。
「次はどこへ連行されるんだ」
朱麗は口元だけで、わずかに笑った。
「まずは生徒会特別室へ」
「そこで、あなたにきちんとお願いがありますの」
「お願いって言い方が一番信用ならないんだよな……」
「お気の毒ですけれど、信用の有無に関係なく話は進みますわ」
凛音が一歩前に出る。
「私も行きます」
朱麗の眉がわずかに動いた。
「どうしてですの」
「見てしまった責任があります」
「それに、あなた一人に任せるのは少し不安なので」
「ずいぶんな言いようですわね」
「事実ですから」
また火花の音がした気がした。
俺は深くため息を吐く。
――ああ、終わった。
俺の平穏な脇役生活は、たぶん今日ここで、想像していたよりずっとあっさり終わったのだ。
その予感だけは、どうしようもなく確かだった。
そして俺はまだ知らない。
この配信事故が、ただ「正体の一端がバレた」程度では終わらないことを。
この二人に見つかったことが、後から考えれば不幸ではなく、別の何かの始まりだったことを。
もちろん、その時の俺はそんなもの願い下げだったけれど。
少なくともあの瞬間の俺は、ただ一つしか思っていなかった。
――頼むから、これ以上面倒を増やさないでくれ。
その願いが、このあとまったく叶わないことだけは、皮肉なくらい確定していた。




