二 神と踊る少女
東シナ海と太平洋の狭間に連なる島々、琉球。その鎖の先に、八重山がある。
それは、八重山の最高峰である於茂登岳の山頂で影のように揺れ、すっと空に踏み出した。
雲ひとつない青空に全身が溶けていく。そのまま風に身を委ねると、海岸に面した新川村の上空に差し掛かった。
季節は若夏だ。生まれたての瑞々しい草葉が、それに向かって力強く背を伸ばしている。
百年ほど前、この地では琉球の正史に記された唯一の宗教紛争があった。
三千もの兵を動員したその紛争は、王府が八重山の土着神「火喰いの神」の信仰を禁じたことに端を発した。抵抗する八重山の反乱軍を壊滅させ、首謀者を一族郎党根絶やしにした。
首謀者の名をとり、「オヤケアカハチの乱」と呼ばれている。
紛争後、しばらくは秘密裏に信仰が続いたが、やがて当時生きていた島民がいなくなると、それの存在はすっかり忘れ去られてしまった。
それは空から新川村の一角を見下ろした。何人もの村人が仕事に精を出している中で、畑を耕す赤毛の少女が目についた。着物に袖はなく、ところどころ破れている。
彼女の名は真南風。歳は十二になる。
子供が一人で耕すには広大な畑だ。その証拠に、額の汗を拭う手の皮はめくれ、肉の表面にマメができている。血が出ていないことから、その状態が彼女にとっての常であることがわかる。
表情は晴れやかだ。身の丈ほどもある大きな鍬を手足のように使いこなしている。
土を刺す音の間隔は一定で、一拍の狂いもない。その規則的な律動に蝉の合唱が重なれば、もはや立派な演奏だ。自前の音楽で体を揺らす真南風は、苦役を楽しむ術と精神性を身につけていた。
彼女の微笑しい姿に、通りすがりの薪を背負った青年も思わず笑顔になった。真南風の頭上でふわふわと浮かぶそれもなんだか楽しくなってきて、つい踊り出してしまう。
そんな中、三十代半ばの女性が肩をいからせ足早に歩いてきた。鬼の形相で真南風に詰め寄ると、躊躇いなく顔面を殴った。
「――うっ!!」
骨と骨がぶつかる鈍い音が響いた。真南風の小さな体が土の上を転がる。伴奏を失った蝉の声が虚しく響いた。
青年は思わず立ち止まったが、女性にひと睨みされると震え上がり、逃げるように去っていった。踊りの気配が消えたので、それも風と共に流れていった。
殴られて畑に伏した真南風は、真っ先に「土が冷たい」と思った。
南国の陽射しを浴びた土より、早朝から鍬を振り続けていた自身の肌の方が熱いのだ。やがて土の香りは鉄の匂いに変わり、流れ出る鼻血は畑に吸われた。
「真南風、遊んでないで働きなさい!」
女性の怒鳴り声が降ってきた。真南風は手首で鼻血を拭い、体を起こす。
「伯母さん、私はちゃんと仕事をしておりました」
「足りないね。もっともっと死に物狂いで働くんだ。そんなんじゃ今年の年貢を納められないよ」
「それなら伯母さんも一緒に耕してください……」
「私にはやることがあるんだよ」
――伯母さんのやることとは、蔵元の役人に媚を売ることですか?
真南風はそう尋ねようとして、やめた。そんなことを言ったらまた殴られてしまう。
蔵元とは、琉球から派遣された役人が常駐する出先機関だ。彼らが何より重視するのは、王府に捧げる貢物の取り立てである。
伯母は真南風に仕事を押し付け、よく蔵元に出入りしている。日中はほとんど家にいない。噂によると役人の愛人をしているらしい。村の者が、伯母が役人へ贈り物として八重山上布を手渡しているところを見たという。
伯父は海人だ。年の三分の二は海にいるので、伯母の不貞に気付くことはない。
「畑を耕した後は水汲みだよ。その後は薪拾い。墓掃除もある。帰ったら夕餉の支度だ。日が暮れる前に全て終わらなかったら飯抜きだよ。ほら、いつまでも座ってないで立ちな。本当に出来の悪い子だね」
真南風は無言で立ち上がった。実の子も持たず、真南風に仕事を押し付け、不貞の恋に胸を躍らせながら織物をする伯母を想像すると反吐が出そうだった。
「何だいその顔は、不満でもあるのかい? 両親が死んで孤児になったお前をわざわざ育ててやってるというのに」
「……申し訳ありません」
真南風が頭を下げると、伯母はふんと鼻を鳴らし去っていった。真南風は作業を再開したが、鍬捌きに先程までの小気味良さはない。彼女を取り巻く空気が澱んでいた。
畑作業を終えた真南風の次の仕事は水汲みだ。桶を抱え、勾配の険しい坂道を上る。
井戸に到着すると、玉皿が水を汲んでいる最中だった。生後七ヶ月の息子を背負っている。
隣の家に住む玉皿は、真南風の姉のような存在だ。伯母に虐められる真南風をよく助けてくれる。
「顔色が悪いねえ。これ食べなさい」
玉皿は真南風のやつれた顔を見て、月桃の葉に包まれた餅を渡した。
「いいの? ありがとう! お腹が空きすぎて倒れそうだったの」
月桃の葉を剥いた途端、解き放たれた芳醇なもち粉の香りが鼻腔をくすぐる。昨夜から何も食べてない真南風は、勢いよく餅を頬張った。
「おいしい……! さすが玉ねえ、むぐっ」
喉を詰まらせる真南風の背中を、玉皿が笑いながら叩く。完食するのがもったいなくて、真南風は半分だけを食べ、残りは懐にしまった。
水汲みを終え、玉皿と一緒に井戸の横にある御嶽に御拝した。
御嶽は琉球における聖域で、主に木や石などが神の依代とされる。この真乙婆御嶽の依代はアコウの木で、細い幹が複雑に絡み合った樹齢百年の大木だ。
八重山の御嶽としては比較的歴史が浅い。百年前のオヤケアカハチの乱で手柄を挙げた神女、真乙を祀っている。
御拝を終えて帰ろうとした真南風を、玉皿が呼び止めた。
「真南風、忘れてるよ」
「……うん」
真南風は御嶽の横にある蝸牛墓を踏んだ。
八重山では、真乙婆御嶽で御拝したらこの墓を踏むのが慣例となっている。ここで眠るのは真乙の妹、古乙。かつて王府に反旗を翻した反乱軍の賊将、オヤケアカハチの妻だ。
真南風はこれをするたびに胸がざわついた。本来、先祖崇拝が根強い島人は、死者の尊厳を生者よりも丁寧に扱う。しかし幼い頃から義務として繰り返すと、人は思考を放棄し、罪悪感は薄れてしまう。
姉妹でありながら姉の真乙は神として祀られ、妹の古乙は反逆者の妻として墓を踏まれている。真南風はその不条理に慣れた島民たちが、そして何より慣習に従ってしまう自分が怖かった。
「今夜、毛遊びするんだ。真南風もおいでよ」
帰路につく道中、玉皿が楽しげに言った。毛遊びとは男女が浜辺に集まって歌や踊りを通し交流を図ることだ。現代で言うビーチパーティーである。
「玉ねぇ、旦那さんの喪中じゃないの?」
玉皿の夫は子供が生まれた直後、海難事故で亡くなっていた。
「そんなこと気にしてられないさ。この子を食わしていかなきゃならないもの。島の男はどいつも情に厚いから、一度親しくなってしまえば勝手に世話を焼いてくれるのさ」
背中の息子はすやすやと寝息を立てている。玉皿は夫を失った悲しみをとっくに乗り越え、したたかに、この幸せな寝顔を守っているのだ。
「そうだ真南風、二人で男たちをおだてて魚を獲らせよう。わざと男同士が競うように仕向けるのがコツさ。お腹いっぱい食べられるよ」
「お腹いっぱい……」
真南風に毛遊びの経験は無いが、たまに遠目に見かけるので興味はあった。お腹も空いている。最後に満腹になったのは遠い過去の話だ。
「真南風は顔立ちが整ってるし、赤毛もかわいらしいさ。おめかししたら絶対美人になるよ。仕事が終わったらウチにおいで。支度してあげるさ」
真南風の野生味のある赤毛はキジムナーを連想させる。一方、玉皿の艶々とした黒髪は木の簪でちょこんと結われ、大人の品を感じさせる。垂らしたままの髪が当たり前の八重山において、玉皿のような身なりに気を遣った女性は珍しい。
真南風が抱える桶の水面に自分の顔が映った。泥だらけの自分と玉皿を見比べ、恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。行ってみたいけど、明日も朝早くから伯母さんに仕事を命じられてるの」
そう言うと、玉皿は「あのあばずれ女、真南風ばかり働かせて本当腹立たしいね」と憤慨した。
自分のために怒ってくれる、その気持ちが嬉しかった。顔も名前も知らない亡くなった両親や意地悪な伯母なんかより、玉皿の方がよっぽど親身に感じられた。
真南風は帰宅するや否や、伯母にぶたれた。着物の内側に隠していた餅の匂いに気付かれたのだ。
「他人から恵んでもらうなんて、まるで私が飯を与えてないみたいじゃないか。これは没収だよ」
真南風はぶたれた拍子に桶を落とした。水が溢れ、再び井戸まで汲みに行かねばならなくなった。もう「日暮れまでに全ての仕事を終わらせる」という要求は守れない。本日の飯抜きが決まった。
「悔しいかい? 恨みたいなら恨めばいいさ」
伯母はそう言って見下ろした。真南風には彼女が何を考えているのか分からない。なぜこんなことをするのだろう。
今すぐ家を飛び出して、逃げ出したかった。でもこの小さな島に逃げ場は無い。一人で生きる強さも生活力もない。山に逃げれば野犬の餌になり、海に逃げれば時化に飲まれて藻屑となる。伯母を恨みながら、真南風はここで生きるしかないのだ。
全ての仕事が終わったのは、とうに日が沈み、梟の鳴き声と鈴虫の音色が交互に聞こえる夜半だ。
真南風はアダンの葉を食べて空腹を紛らわせたが、毒抜きが不充分だったようでお腹を下した。
腹痛で眠れないでいると、どこからか三線の音と笑い声が聞こえてきた。寝ている伯母に気付かれないようにそっと家を抜け出し、木陰から浜辺を覗いた。
玉皿を含めた数人の男女が松明を囲んで踊っている。毛遊び中のようだ。
玉皿の簪が炎を煌々と反射させる。昼間は木の素材のものを刺していたのに、今は上等な真鍮製だ。玉皿の綺麗な黒髪をより美しく彩っている。
真南風には浜辺の景色が滲んでみえた。
青春を謳歌する玉皿たち。一方、自分は木陰で涙をためながら腹痛に悶えている。
「何でこんなに惨めなんだろう……」
玉皿がかわいらしいと褒めてくれた赤毛を指で梳いてみた。何度も枝毛に引っかかり、指は毛先から抜け出せなかった。
男が弾く三味線に合わせて、玉皿が八重山民謡の『桃里節』を歌う。澄んだ音色に乗せた歌詞の一節が、真南風の胸に沁みてゆく。
『赤ゆらぬ花や
二三月どぅ咲ちゅる
我がけーらぬ花や
いつぃん咲ちゅさ』
(でいごの花は
二、三月ごろ真紅に咲くが
私の青春の花は
四季を通していつでも咲いている)
こらえていた涙が溢れ、頬をつたう。
日々労働に追われる真南風に、きっと青春は来ない。来るとしたら伯母が死んだときだけだ。そんなことを考える自分が嫌だった。他人の死を願うくらいなら、自分が死んだほうがましだと思った。
真南風は踊った。身体の内側でじりじりと燻る悲哀の灯火を、手首の返しと共に夜空に吐き出した。
挫けそうな日は月に向かって踊る。誰から教わったでもない、真南風の生きる術だった。
彼女の踊りの気配を察知したそれが、どこからともなく寄ってきた。
人の目には見えないそれが隣で踊っているとはつゆ知らず、真南風は星空の海をゆっくりと渡る三日月だけを見ていた。




