③『ルート25の亡霊』
「『ルート25の亡霊』、そんな噂がありましてね」
食事を摂った後、宿の部屋で少し飲みながら細かい予定確認をしているさなか。クライドは冗談交じりにそんな話をし「ご存知ですか?」とジョージに尋ねた。
「部隊長はこちら出身と伺いましたが」
「ええ。 ですが『ルート25の亡霊』ですか。 生憎私は耳にしたことがないですね……派生は戦の名残でしょうか。 この辺りもよく賊が出ましたし、血に塗れた逃走兵が潜んでいてもおかしくない場所でしたから」
「ふふ、部隊長は本当にご存知ないようだ。 確かにこういう噂の多くは事実の誤認からでしょうね。 ですが噂の『亡霊』はそういう、ゾンビみたいのじゃないんですよ」
クライドはほろ酔いなのか可笑しそうに笑い、噂の内容について語っていたけれど。ただでさえ疲労と眠気の取れない怠い身体に、酒が入ったジョージにはどうでもよく、あまり覚えていない。
(『ルート25の亡霊』か)
ただこの名称だけが妙に頭に残り、ひとりになりベッドに横になると、夢と現を行ったりきたりしながらルネへの想いや後悔と共に浮かんできた。今もそうだ。
『ルート25の亡霊』……それはまるで、行き所のないこの気持ちか、或いは惰性のままに生きている自分にあまりにもピッタリな蔑称のようで。
横になってからどれくらい経ったか。
目を覚ますとクライドの姿はなく、相変わらず靄は濃いまま視界の先は白い。木々の隙間を辿るように聴こえてくる波音と潮風がここが『ルート25』であることを伝えていた。
(すっかり寝入ってしまったのか?)
慌てて懐中時計を取り出す。
妻を紹介してくれた上司から結婚と騎士爵の授爵祝いに貰った物。2年もしないうちに、ふたりに肉体関係があることを知って絶望した思い出深いの品だ。
しかしそれなりの高級品である懐中時計の針は止まっており、時計としての機能を果たしていなかった。
(参ったな)
あまり動くのは危険だが、護衛対象を危険に晒す方がまずい。
「副官! どちらですか!!」
立ち上がり声を張り上げて呼びながら、周辺を見渡す。
すると──靄の中、ゆらりと見えた人影。
「副官………………ッ!」
安堵して駆け寄ったジョージは息を呑んだ。
(……ル、ネ……?)
それはクライド・ノエル副官青年ではなく、自分が愛し生活を共にし、捨てた筈の女だったから。
目が合うと彼女はニコリと微笑んで、ターンをするように軽やかに背を向けて駆けていく。
「ルネッ!! 待ってくれ、ルネ!」
ジョージはルネを追う。
合わせる顔がないと思っていたことも、己の職務もすっかり飛んでいた。
絶対に自分の方が速い筈なのに、何故か追いつけないまま。手を延ばしても僅かに届かない、絶妙な距離感で少し前を走るルネの背中で、少しパサついた柔らかな栗色の髪がふわりと揺れる。
残していった王都での土産の香油と髪飾りは、使っては貰えなかったのだろう。喜ぶ顔が見たかったのに。もしあの時に戻れたなら、『約束通り、籍を入れよう』と改めてプロポーズするのに。
そうしたらきっと彼女ははにかんで受け入れてくれた筈だ。翌日には、神殿に行く。柔らかな髪に香油をつけて梳り、バレッタで飾った、いつもより少し華やかな姿の彼女を連れて──
「部隊長! ……ジョージ・プレストン!!」
妄想のようなジョージの思考と足を止めたのは、クライドの怒声のような鋭い声。
「──あ………………?」
気が付くと靄は晴れ、少し高い位置に昇った太陽の光が降り注いでいる。いつの間にか、林を抜けた先にある海側まで出ていたようだった。
「俺……いや、私は……なにを」
ジョージは混乱していた。さながら夢から醒めたばかりの幼子のように。そんな彼を諭すように、クライドは静かに告げる。
「部隊長、見えますか? ほら、その先は崖です」
「……!」
クライドの言う通り、先には崖。
昨夜ぼんやりと聞いていて、あまり覚えていなかった筈のクライドの話。その中の一言だけが、急に鮮明に甦る。
『人心を惑わすらしいですよ』
(あれは……幻だったというのか)
冷静になってみれば、そうとしか言えない。ルネはジョージの知っている8年前の姿のまま、全く変わっていなかった。
「『ルート25の亡霊』。 噂は本当だったんですね。 部隊長、なにが見えました?」
まだ呆然と立ち竦むジョージに、軽い調子でクライドはそう尋ねる。
「申し訳ありません……ありがとうございました」
「行きましょう、ここは危険みたいだ」
答えの代わりにまず礼をと謝罪を述べたジョージに、その場では戻ろうと促したクライドだったが。やはり気になるようで、暫くしてから馬上で再び同じように聞かれ、ジョージは重い口を開く。
「戦が終わったら、結婚をするつもりでいた女がいたのです。 自分が捨てた癖に、未練がましくて恥ずかしいのですが」
「……後悔してらっしゃる?」
「ええ、浅ましいことです」
「浅ましい、ですか」
「現状に不満がなければ、もしかしたら思い出さなかったかもしれませんから。 まあ、意味のない仮定ですけれど」
(そういう意味では、幸せになれなくて良かったかもしれないな)
ルネを捨てたことを忘れて──忘れるばかりか、もしかしたら幸せな日々の中で彼女とのことを、いい思い出としてしみじみ振り返っていたかもしれない。
そんな自分を想像し、ゾッとした。
人生における選択の中で、意識的無意識的に他人を踏みつけるなど誰にでもあることかもしれないが、してはいけない相手というのはいる。
ジョージにとってルネはそうだった筈の……自分が幸せにする筈の女性だった。
過去の選択は変えられない。
自業自得のような現状の中、付き纏う後悔とルネへの罪悪感。だがそれらを忘れないでいられることは、唯一の救いかもしれない。
そうこうしているうちに、西部辺境伯──ジョシュア・トゥイガーの居城に着いた。
国境を守る強固な城壁から、更に堀を挟んだ内側の壁の跳ね橋が下がる。何度も見た光景だが、通ったことは片手で数えられる程度。
書簡を渡す任務だが、勿論渡して終わりなわけではない。ジョージは内容を知らないが今回の場合、急務ではあったけれど『即座に返事を貰い、急いで王宮へ戻る』といったものではないようで、副官青年はトゥイガー辺境伯とそれについて話をする必要があるそう。
今夜はここに泊まるらしく、客室へ案内された。
ジョージはクライドの隣の従者用の部屋で、華美ではないが上品で過分な程の設い。余程大事な要件か、或いは青年が重用されているのかはジョージにはわからないが、おそらく客室でもいい部屋なのはなんとなくわかる。
「部隊長、どうぞ帰りまで楽になさって下さい。 邸内はこのフロアのみですが、庭などは自由に散策していいそうですよ」
そう言ってクライドはメイドに目配せし、宛てがわれた客室へと入る。食事やその他の細かな説明はメイドがしてくれた。門兵に報告をし、帰りの時刻に間に合うなら外出も可能で、本当に帰りまでは自由時間のようだった。
(何故自分がこの任務に選ばれたのだろう……)
流されるだけの日々に鈍さを処世術としてきたジョージだが、流石にこれまで抱きもしなかった疑問が沸く。しかし結局のところ今更であり、もう詮無きことだ。
やることもなく、ジョージは外に出た。
木々のさざめきと調理場から漂ってくる食事の香りに、仄かに混ざる潮の匂い。地元に戻ってきたのだ、そう感じる。
今なら彼女の家に行くこともできるが、行くつもりはない。他人に委ねてばかりの結果が柵にしかならなかったとしても、選んだ自分の責任で。婿入りしたわけではないが、姓を語らせて貰っているプレストンと、妻への責任がある──今は、まだ。
ジョージはルネの家に行く代わりに、持て余していた時間で辺境伯軍の騎士達に交ぜて貰い、久しぶりに目一杯、鍛錬に励んだ。
彼等との会話はそう多くなかったものの、剣を交えるとすぐに打ち解けた空気になった。
剣が好きだと知った17の頃から、戦が終わるまでが鮮やかに思い出され、過去を振り返る。
王都で妻の美しさや権力に目が眩んだのは事実だが、一番心揺さぶられたのは王宮騎士としての職務への期待であり、その後心が折れた一番の原因もそれだ。家では剣を振るうのは『野蛮だ』と許されず、妻がいない間や職務の間に時間を見付けて稽古に励むのが精一杯だった。
(ああ、馬鹿だな俺は……本当に)
ようやく、自分の心と向き合うこと──そして、何もかもを捨てる覚悟ができた。
8年もかかって、ようやく。
『合わせる顔がない』というのは本心で。何もかも捨てた後も、会うつもりはない。謝罪など今更自己満足でしかなく、煩わせるだけだろう。
だが確認しなければ、と思う。
幸せならばいい。ただ……もしそうでないなら、なにかをしなくてはならない。彼女のためでなく、自分自身のために。
しかし、そんな自分本位だとわかってした決意も束の間。
「…………ジョージ?」
部屋に戻ろうとした矢先、ジョージは懐かしい声に勢いよく振り返り、目の前の光景に固まった。
「……ルネ……」
会うつもりのなかった彼女が、突如目の前に現れたのだ。
幻ではなく、自分と同様に8年の月日を感じさせる姿で。




