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第一話 「触らないで」が大爆発

 2026年、某総合病院。


如月きさらぎ刹那せつな先生、少しは休憩されてはどうですか?」


 助手が、遠慮がちに声をかけてくる。

 その目が、もう答えを分かっているようで、少しだけ痛かった。


「大丈夫。まだ平気よ。それより、次の患者の確認を――」


 そう言いながら、私はモニターから目を離せずにいた。


 如月刹那。二十七歳。医師三年目。

 周囲からは「早い」「優秀だ」と言われる経歴らしいけれど、正直、実感はない。


 両親はどちらも医者で、気づけば私も白衣を着ていた。

 期待に押されて、流されて――それが、表向きの理由。


 本当は、もっと単純だ。

 私は、自分の正義感から逃げられなかっただけ。


 幼いころ、いじめられている子がいた。

 私は声を上げられず、誰にも見えないところで、ほんの少し手を差し伸べただけだった。


 怖かったのだ。

 次は自分が標的になるかもしれない、その想像が。


 結局、その子は学校に来なくなった。

 泣いていた顔も、私を見たときの目も、今でも頭から離れない。


「……はぁ」


 息を吐いた瞬間、現実に引き戻された。

 次の手術の時間だ。


 病態は、正直に言って重い。

 長くはもたない――そんな予測が、頭をよぎった。


 でも、関係ない。

 救える可能性があるなら、私はそこに立つべきだ。


「……よし。如月、入ります」


 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。



 ◇ ◇ ◇



 ――失敗した。


 頭の中が、真っ白になる。

 何が悪かったのか、即座に言葉にできないのが、余計に苦しかった。


「落ち着いてください、如月さん! あれは誰のせいでもありません。急変なんて、予測できるものじゃ……」


 誰かの声が聞こえる。

 でも、その言葉は、私の中で弾かれるだけだった。


 綺麗事だ。

 もし私じゃなければ。

 もし、もっと早く判断できていたら。


 そんな「もし」が、頭の中を埋め尽くす。


「私が……私が……!」


 喉が詰まって、うまく声にならなかった。


「十時間だぞ。如月先生も限界だ。少し休ませてやれ」


 十時間。

 言われて初めて、その長さを思い出すくらい、感覚が麻痺していた。


 手が震える。視界の端がぼやけている。

 立っているだけで、膝が笑いそうだった。


 いつ寝たのか、もう思い出せない。

 人手不足の現場で、私みたいな未熟者まで引っ張り出される現実が、情けなくて仕方なかった。


「……次も控えてるんです。休んでる場合じゃない。それに……」


 その先が、言えなかった。

 あの人の家族の顔が、脳裏に浮かんだから。


 視界が滲む。

 熱いものが頬を伝って、口の中に塩辛さが広がった。


 助手が、私の前に立つ。


「あなたが自分を責める理由も、分かります。だからこそ、今は寝てください」


 真っ直ぐな視線。


「あなた一人で、この先、何人救えると思ってるんですか?」


 ……分からない。

 そんな未来、想像できるはずがなかった。


 でも――。

 身体が、もう言うことを聞かなかった。

 立っているだけで、限界だ。


「……五分だけ」


 それだけ言って、私は椅子に身を預けた。


 少しだけ、目を閉じよう。

 ほんの少し、現実から逃げてもいい。


 夢を見よう。

 誰かを救えなかった私じゃなくて。


 お姫様みたいに、

 みんなから讃えられる――

 そんな、子どものころからの夢を。


 ピーーーーーーーー



 ◇ ◇ ◇


 

「……っ!?」


 勢いよく目を開けた瞬間、思わず上体を起こした。


「寝過ごしましたわ!」


 反射的に出た声が、自分のものとは思えなくて、喉の奥がひくりと震える。


 ――それだけじゃない。


 胸の奥に、何かが渦巻いている。

 熱いのか、冷たいのか、判別できない「何か」が。

 まるで、高圧の蒸気が身体の中に閉じ込められているような――


 違和感。

 身体全体が、まるで自分のものじゃないみたいに感じる。


 見渡した先にあったのは、見慣れた手術室の白ではなかった。

 天井から吊るされたシャンデリアが、眩しいほどの光を落としている。

 磨き上げられたグラスが並ぶ丸机。花。音楽。ざわめき。


 ……結婚式?

 いや、それよりもっと――浮ついた空気。


 夢、にしては、感触がはっきりしすぎている。


 そして、この胸の奥の違和感。

 何かが、うずうずとうごめいている。


「――おい」


 背後から、空気を叩き割るような怒鳴り声。


「いつまでぼうっとしている。いい加減にしろ、この悪女!」


 悪女。


 その単語に、心臓が跳ねた。


 振り返ると、男が私を指さしていた。

 その仕草が、あまりにも自然で、胸の奥が嫌な音を立てる。


「……え?」


「今日はお前のための社交会だろ。主役がそんな顔でどうする」


 意味が、分からない。

 頭が追いつかない。


 なのに。


 周囲から、拍手が湧き起こった。


「王子様だ!」

「きゃあ、素敵!」


 黄色い歓声が、耳を刺す。


 気づけば、目の前に男が立っていた。

 金髪で、整った顔立ち。いかにもそれらしい服装。


 ――出来すぎている。


「初めまして、セレス」


 男は、不機嫌そうに名乗った。


「アルフォンス・ル・ヴィクトール・ド・マルグリット。政略結婚なんて気が進まないが、父が決めたことだからな」


 そう言って、彼は面倒くさそうに手を差し出してくる。


 ……ああ、なるほど。


 状況は意味不明だけど、一つだけ分かることがある。


 この人、失礼すぎる。


 どう見ても、相手を見下している態度だ。


「おどきなさい。触らないで!」


 考えるより先に、身体が動いた。

 差し出された手を、強く払いのけた。


 ――その瞬間。


 胸の奥で渦巻いていた「何か」が、堰を切ったように暴れ出した。


 熱い。

 いや、冷たい。

 分からない。


 身体の中を、何かが駆け巡る。

 腕に、手のひらに、指先に――


 何、これ。


 反射的に息を呑んだ、その直後。


 私の手のひらから、黒紫の光が弾けた。


 それは稲妻のように会場を切り裂き、

 空気そのものが悲鳴を上げたような音が響いた。


 次の瞬間、男の身体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。


 ドォン、という鈍い音。

 崩れ落ちた彼の頭から、赤い筋が流れ落ちた。


 会場が、一気に静まり返った。


 ――直後。


「きゃああああああ!」

「第一王子が!」

「衛兵! 衛兵を呼べ!」

「魔法だ! あれは攻撃魔法だぞ!」


 悲鳴と怒号が、一斉に爆発した。

 貴婦人たちが椅子から転げ落ち、男たちが剣に手をかける。


 グラスが床に落ちて砕ける音。

 テーブルがひっくり返る音。


 パニックだった。


 ……え。今の、私の――除細動じょさいどう? いや、心静止アジストリでもない相手にこんな高電圧をぶち込むなんて、ただの傷害致死ですわよ……!


 何を冷静に分析しようとしてるのよ、私は。


 私の手が、微かに震えている。

 この感覚、知らない。

 医療器具を握るときの緊張とも、疲労とも、まるで違う。


 これは――

 私の知っている「私」じゃない。


「……え、え!?」


 遅れて、声が出た。


 状況を掴もうと、まずは周りを見渡した。


 さっき吹き飛ばしてしまった、アルフォンスと名乗る男性は床に倒れたまま動いていない。

 頭から血を流し、どう見ても重症。今にも危篤と言われてもおかしくない状態だった。


 ……これは、また。


 反射的に、治そうとして駆け寄ろうとする。

 けれど、フリフリとした見慣れないドレスが足に絡み、思うように前に進めない。


 こんな服装、医療現場では完全に事故だ。


 もたついている間に、一人の女性が彼の元へ駆け寄った。


「きゃああああ! 大丈夫ですか、アルフォンス様!?」


 小柄な女性だった。

 周囲の女性たちよりも服装が控えめで、どこか浮いて見える。


「ああ……だ、大丈夫だよ……」


 アルフォンスは、息も絶え絶えにそう答えた。


 ――よかった。生きてる。


 胸の奥が、少しだけ軽くなる。


「何をやっているんですか、セレスティーヌ様!?」


 甲高い声が飛んでくる。


「いくらなんでも、婚約者を吹き飛ばすなんて……! それに、今のは何なんですか!」


 頭の中が、一気に混線した。


 私の名前は、如月刹那。

 それなのに、セレスティーヌと呼ばれている。


 それに今、婚約者って言った?


 さっきの男の人が、私の……?


 ――悪女、って。


 背筋が、ぞわりとした。


 以前、助手たちが休憩中に話していたことがある。

 異世界転生だの、悪役令嬢だの。


『先生も読んだらハマりますよ! 過労で倒れた主人公が異世界に転生して――』


 正直、そのときは笑って聞き流していた。

 現実逃避の与太話。

 疲れた医療従事者の、ささやかな娯楽。


 ――まさか。


 見知らぬ身体。

 説明のつかない力。

 婚約者、という言葉。

 そして、「悪女」と罵られた自分。


 いや、違う。

 これは夢だ。

 過労で見ている、悪い夢に決まっている。


 でも。


 頬を抓っても、痛い。

 床の冷たさも、リアルすぎる。

 ドレスの重みも、空気の匂いも――


「……嘘、でしょ」


 全部、本物だった。


 混乱する頭で、必死に状況を整理しようとする。


 そんな私の前で、先ほど駆け寄っていた小柄な女性が、そっと前に出た。


「アルフォンス様、お怪我がひどいようです」


「今すぐ、治癒魔法をかけますね」


 彼女が手をかざすと、淡い緑色の光が広がる。

 次の瞬間、傷口から流れていた血が止まり、みるみるうちに――


 ――かさぶたが、できた。


 傷の治癒過程が、一瞬で完了している。


 合理的……いや、待って。

 傷口を洗浄もせずに密閉するなんて、感染リスクは考えないの?


 興味深く観察していた、そのとき。


「――セレスティーヌ様!」


 突然、強く腕を掴まれた。


「国王陛下がお怒りです! 第一王子を襲うなど、もはやこの国には置いておけぬ!」


「お待ちなさい! わたくしが何をしたと――」


 言いかけて、言葉が止まる。


 ……いや、した。

 思い切り、吹き飛ばしてた。


 投獄。

 処刑。

 追放。


 転生もののテンプレな末路が、頭をよぎる。


 平穏なスローライフはどこへ行ったの。


「お待ちを」


 低く、よく通る声が会場に割り込んだ。


「そちらのセレスティーヌ様――見たこともない膨大な魔力、投獄するには、あまりにも惜しい人材でございます」


 振り返ると、場違いな男が立っていた。

 豪奢なドレスや仕立ての良い服装の中で、彼だけが浮いている。


 少し歪んだ、使い古された鎧。

 装飾も最小限で、実用性だけを残したような姿。


 ……嫌な予感しかしない。


「現在、人手不足の北側最前線へ送ることを、強く進言いたします!」


「ふむ……」


 重々しい声が響く。


「国境付近で魔王軍の動きが活発化しているのは事実。彼女を――盾として使い潰す、か」


 いや、

 無しなんだけど。


 私の腕を掴んだ男は、誇示するように宣言した。


「セレスティーヌ! 貴様を辺境の最前線へ追放する!」


 その言葉に、会場がざわめく。


「二度と、この都の土を踏むと思うな!」


 ――スローライフどころか、

 初手で最前線送り。


 どうして、こうなった。


 ……まあ、いいわ。

 最前線? 辺境? 上等じゃない。


 どうせここは、私の知らない世界。

 あんな王子や、よく分からない取り巻きがうろつく都にいるくらいなら、

 誰も私を知らない僻地のほうが、よほど気が楽よ。


 辺境なら、医局の電話も鳴らない。

 急な呼び出しも、理不尽な残業もない。

 魔物が出たら、さっき目覚めた謎の力で、えいっと追い払えばいいだけだわ。


 そう。

 そこはきっと、私が前世から待ち望んだ――

「安眠の地」に違いない。


 辺境なら、回診もない。論文の締め切りもない。カンファレンスで詰められることもない。

 ……ああ、なんて素晴らしいホワイト職場(パラダイス)ですの……。


 私は差し出された馬車に、

 逃げるように、そして貴族らしく優雅に乗り込んだ。


「……ようやく、寝られますわ……」


 揺れる馬車の中で、私は抵抗もなく、泥のように眠りに落ちた。



 ◇ ◇ ◇



「――様! セレスティーヌ様、起きてください!」


 誰かに肩を揺すられ、私は重たい瞼を持ち上げた。

 五分どころか、数日は眠っていた気がする。頭が鉛みたいに重い。


「……もう、到着しましたの?」


「はい。ここが北方最前線、通称『鉄血の砦』です」


 その瞬間。

 遠くから、怒号が聞こえた。


「――おい、急げ! 重傷者が運ばれてくるぞ!」


 最後の一言が、やけに生々しかった。


 馬車の扉が開いた瞬間。

 私の淡い期待は、爆風に――文字通りの爆風に吹き飛ばされた。


 ゴォォォォン、という轟音が空気を揺らす。

 遠くで、何かが燃えている。


 一歩降りた瞬間、靴底に伝わる大地の振動。

 鼻を突くのは、花の香りではなく、鉄錆じみた血の匂いと硝煙。

 焦げた何かの臭い。


 耳に届くのは音楽ではなく――


「――おい、急げ! 重傷者が運ばれてくるぞ!」

「第三陣、防壁の補修を急げ!」

「魔物の群れだ! 西の監視塔が応答しない!」


 地面を震わせる怒号。

 金属がぶつかり合う音。

 そして、何度も、何度も繰り返される――


「死にたくない……誰か……」


 うわ言のような、命の叫び。


 馬車から降りた私の足元を、

 真っ赤に染まった担架が、無言で通り過ぎていく。


「……は?」


 そこはスローライフとは程遠い。

 前世の救急センターですら、生ぬるく感じるほどの――

 完全なる「戦場の医療現場」だった。


「ちょっと……話が違いますわよ……」


 呆然と立ち尽くす私の前に、片腕を失った兵士が、崩れ落ちるように倒れ込んだ。


 その瞬間だった。


 視界に飛び込んできた断端。

 噴き出す血。

 異常な体位。


 令嬢セレスティーヌの仮面を、前世の私――如月刹那が、力任せに引き剥がした。


「――清潔な布!」

「――止血、早く!」

「――誰か、意識レベルを確認しなさいよ!!」


 口が勝手に動く。

 身体が、勝手に動く。


 医師としての本能が、全てを塗り潰していく。


 ……ああ、もう。


 どうして私は、せっかく悪役令嬢に転生したというのに――

 最前線で、戦うことになってるのよ!


 でも。

 目の前で血を流している人間を、見捨てるなんて――

 やっぱり、私には無理だった。

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