第9話 王都からの理不尽な要求と、とろとろ煮込みの欧風ビーフカレー
その日の朝、辺境伯領の領主館にある執務室は、外の吹雪よりも冷たい空気に支配されていた。
「――それで? 王太子殿下のご命令は、これで全てか?」
重厚な執務机の向こうで、ジークハルト・オルステッド公爵が低い声で問う。
その瞳は、眼前に立つ王都からの使者を射殺さんばかりに鋭い。
使者は王家の紋章が入った豪奢な外套を纏った男で、辺境の寒さに震えながらも、その表情には隠しきれない傲慢さが滲んでいた。
「左様でございます、公爵閣下。直ちに罪人レティシア・ローズブレイドの身柄を拘束し、この馬車に乗せて引き渡すように。これは王命に等しい殿下のご命令ですぞ」
使者は鼻を鳴らし、羊皮紙の書状を指で弾いた。
「もし拒否すれば……わかっておりますな? 王都からこの辺境への食料および物資の輸送ルートを、完全に凍結いたします」
それは、脅迫だった。
北の辺境ベルクは、冬になれば雪に閉ざされる。
穀物や野菜の多くを南方の王都からの輸入に頼っているこの地にとって、物流の停止は死刑宣告に等しい――と、王太子カイルは考えているのだろう。
ジークハルトは、無表情のまま手元の書状を見下ろした。
そこには、震えるような筆跡でこう書かれている。
『レティシアが呪いをかけたせいで王都の機能が麻痺している。彼女を処刑、あるいは再教育して結界を直させるため、即刻返還せよ』
身勝手にも程がある。
自分たちで追放しておいて、都合が悪くなれば呼び戻す。しかも「罪人」扱いのままで。
パキリ。
静寂の中に、乾いた音が響いた。
ジークハルトが手に持っていた高価な万年筆が、へし折れた音だった。
インクが黒い血のように指を汚すが、彼は気にも留めない。
「……物流を止める、だと?」
「ひっ……! さ、左様! 困るでしょう? 民を飢えさせたくなければ、大人しく……」
「勘違いするなよ」
ジークハルトが立ち上がった。
その長身が落とす影が、使者を飲み込む。
部屋の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚。
使者は「ひぃっ」と悲鳴を上げて後ずさった。
「困るのは我々ではない。王都の方だ」
彼は冷たく言い放つと、扉の外に控えていた騎士に目配せをした。
「この使者を客間に案内しろ。……返事は私が直接書く。それまで一歩も部屋から出すな」
「はッ!」
連行されていく使者の背中を見送りながら、ジークハルトは折れたペンをゴミ箱に投げ捨てた。
怒りで腹の底が煮え繰り返っている。
この暴虐な感情を抑えるには、あれしかない。
「……レティシアの店へ行く」
彼はマントを翻し、執務室を出た。
愛しい女性を守るため、そして空腹を満たすために。
◇
一方、そんな不穏な空気が流れているとは露知らず。
『陽だまり亭』の厨房では、私がスパイスの香りに包まれて鼻歌を歌っていた。
「クミン、コリアンダー、ターメリック……それにカルダモンを少々」
カウンターに並べた色とりどりのスパイスたち。
今日のメニューは、寒さが厳しくなってきたこの時期にぴったりの『じっくり煮込んだ欧風ビーフカレー』だ。
この世界にもカレーに似た煮込み料理はあるけれど、香辛料が強すぎて薬臭かったり、逆に味が薄かったりして、なかなか「これだ!」というものに出会えない。
だから私は、スパイスの配合から自分で行うことにしている。
まずはベースとなる玉ねぎの調理から。
薄切りにした大量の玉ねぎを、厚手の鍋で炒める。
強火で水分を飛ばし、焦げる寸前で差し水をして、また炒める。
これを繰り返すこと三十分。
鍋の中の玉ねぎは、濃い飴色のペースト状に変貌する。これがカレーに深いコクと甘みを与える魔法の素だ。
「よし、いい色!」
そこへ、一口大にカットした北行牛のすね肉を投入する。
表面を焼き付けたら、赤ワインをドボドボと注ぎ込む。
アルコールが飛んだら、トマトピューレ、すりおろした人参、リンゴ、そして生姜とニンニクを加える。
さらに、鶏ガラと香味野菜で取ったブイヨンを注ぎ、スパイスを投入。
一気にオリエンタルな香りが厨房を満たす。
コトコト、コトコト。
ここからは時間の仕事だ。
……と言いたいところだけれど、ランチタイムに間に合わせるために、私はここで【時短魔法】と【熟成魔法】のコンボを使う。
圧力鍋の効果と、二日目の味にする効果を同時に付与するのだ。
シュオオオォォォッ……。
鍋から漏れる蒸気が、スパイシーで甘く、そして濃厚な香りを帯びてくる。
最後に、バターと小麦粉を極限まで炒めて作った「ブラウンルー」を溶かし入れ、隠し味に醤油とインスタントコーヒー(豆を細かく砕いたもの)をほんの少し。
さらにチョコレートをひとかけら。
これで味に奥行きが出る。
「味見、味見っと」
小皿に少し取り、スプーンで口へ運ぶ。
「ん〜〜〜っ!」
口に入れた瞬間、果物と野菜のフルーティーな甘みが広がり、その直後にスパイスのピリッとした刺激が追いかけてくる。
そして、噛む必要もないほど柔らかくなった牛肉の旨味が全体を包み込む。
完璧だ。
これぞ、日本の洋食屋が誇る、白米泥棒な欧風カレー。
付け合わせには、甘酢で漬けた赤い大根の漬物(福神漬け代わり)と、らっきょう……はないので、小玉ねぎのピクルスを用意した。
準備万端。
時計を見ると、開店時間の五分前。
ガチャン。
鍵を開けるより早く、ドアが開いた。
入ってきたのは、黒いオーラを全身から噴出させているジークハルト様だった。
「……おはよう、レティシア」
「おはようございます、ジークハルト様。……あの、何かありました?」
挨拶こそ平静を装っているけれど、彼の様子は明らかに異常だった。
眉間の皺が深いし、拳が白くなるほど強く握りしめられている。
店内の空気がビリビリと震えているのがわかるほどだ。
まるで、これから戦場へ向かう騎士のような殺気。
「……少し、腹が立ったことがあってな。頭を冷やしに来た」
「そうですか。誰かに怒っている時は、辛いものを食べて汗をかくのが一番ですよ」
私はあえて深く追求せず、彼をいつもの席へ促した。
彼はドカリと座り、深く息を吐いた。
その視線が、私をじっと見つめる。
何かを言おうとして、でも言葉を探しているような、そんな目。
「すぐにお持ちしますね。今日は、元気が出るカレーです」
私は厨房へ戻り、深めのお皿にご飯を盛った。
艶々に炊き上がった白米。
その半分を覆い隠すように、漆黒に近い焦げ茶色のカレーソースをたっぷりと回しかける。
ゴロゴロとした肉の塊が、ソースの海から顔を出している。
仕上げに生クリームをたらりと垂らし、乾燥パセリを振る。
湯気と共に立ち上る、食欲を刺激するスパイシーな香り。
これだけで、胃袋がキュッとなる。
「お待たせしました。『とろとろ牛すね肉の・特製欧風カレー』です」
ジークハルト様の前に皿を置く。
彼は香りを胸いっぱいに吸い込み、少しだけ表情を緩めた。
「……香辛料の香りか。独特だが、いい匂いだ」
「辛いですよ? でも、止まらなくなります」
彼はスプーンを手に取り、ルーとご飯、そして肉をすくった。
肉はスプーンの縁が触れただけでホロリと崩れる。
パクッ。
口に入れた瞬間、彼の目がカッと見開かれた。
「――――ッ!」
まずは甘み。
大量の玉ねぎとフルーツが溶け込んだ濃厚な甘みが舌を撫でる。
油断したその時、ガツン!とスパイスの衝撃が脳天を突き抜ける。
辛い。熱い。
けれど、ただ辛いだけじゃない。
複雑に絡み合った香りが鼻腔を抜け、全身の毛穴が開くような感覚。
そして、肉。
繊維の一本一本まで味が染み込んだ牛すね肉が、舌の上でとろけていく。
濃厚な脂の旨味を、スパイスが爽やかに流してくれる。
ジークハルト様は無言のまま、猛烈な勢いでスプーンを動かし始めた。
額にうっすらと汗が滲む。
ハフハフと熱い息を吐きながら、水を飲むのも忘れて食べ続ける。
体の中の澱んだ怒りが、スパイスの熱によって燃焼され、浄化されていくのがわかる。
彼はただひたすらに、「美味い」という感覚だけに没頭していた。
カチャ。
最後の一粒まで綺麗に平らげ、彼はグラスの水を一気に煽った。
「……ふぅ」
深く、満足げな溜息。
その顔からは、先ほどの殺気立った険しさは消え、心地よい疲労感と充足感が漂っていた。
「おかわり、いかがですか?」
「……いや、今はこれで十分だ。腹も心も満たされた」
彼は穏やかな目で私を見た。
そして、真剣な表情に戻り、居住まいを正した。
「レティシア。……大事な話がある」
来た。
私は布巾を持つ手を止めた。
彼がこんな風に切り出す時は、きっと私の「過去」に関することだ。
「王都から、使者が来た」
心臓がドクリと跳ねた。
やっぱり。
あの執拗な王太子殿下が、私をただで逃がすはずがないと思っていた。
「……そうですか。それで、なんと?」
「君を王都へ送還しろと。さもなくば、この領地への物資供給を断つそうだ」
私は思わず吹き出しそうになった。
物資供給を断つ?
本気で言っているのだろうか。
「あの……ジークハルト様、ご存知ですよね? この辺境が、実は食材の宝庫だってこと」
「ああ。君が来てから、改めて思い知らされたよ」
ジークハルト様も、皮肉っぽく口角を上げた。
「王都の連中は知らないのだ。この地には極上の肉があり、野菜があり、乳製品があることを。彼らが送ってきていたのは、質の悪い小麦と、しなびた野菜だけだったというのにな」
そう。
王都は「辺境は不毛の地」だと信じ込んでいる。
だから「食料を止めるぞ」と脅せば、私たちが泣いて謝ると思っているのだ。
なんという浅はかさ。
むしろ、今困っているのは王都の方だろうに。
「それで、ジークハルト様は……私をどうされるおつもりですか?」
私は核心を問うた。
もし彼が「領民のために帰ってくれ」と言えば、私は拒否できないかもしれない。
この店を畳んで、またあの地獄へ戻るのか。
不安で胸が締め付けられそうになった、その時。
ダンッ!
ジークハルト様が、テーブルを拳で叩いた。
そして立ち上がり、カウンター越しに私の両肩をガシッと掴んだ。
「渡すものか」
その瞳には、青い炎のような強い意志が宿っていた。
「たとえ王家が相手でも、国中を敵に回しても、俺は君を渡さない」
「ジークハルト様……」
「君は俺の……いや、この街の希望だ。君の料理がない世界になんて、俺はもう戻れない」
彼は痛いくらい真っ直ぐに私を見つめた。
「それに、俺には策がある。王都がその気なら、こちらも相応の対応をするまでだ」
「策、ですか?」
「ああ。君のおかげで、この領地の食糧自給率は上がっている。それに、君が開発した『保存魔法』を使った特産品の輸出計画もある。……王都に頼る必要など、もうないのだ」
彼はニヤリと、悪戯っぽく、しかし冷徹な笑みを浮かべた。
それは「氷の公爵」としての顔。
敵に回せば最も恐ろしい男の顔だ。
「むしろ、困るのは彼らだ。君という支えを失った王都が、あとどれくらい持つか見ものだな」
ああ、この人は強い。
そして、私のことを本当に大切に思ってくれている。
その安心感に、私は目頭が熱くなった。
「ありがとうございます。……私、ここを離れたくありません」
「離させない。約束しただろう? 君は俺の帰る場所だと」
彼は私の頬にそっと触れ、親指で涙を拭ってくれた。
その手は大きくて、温かくて、スパイスの香りがした。
「さあ、開店の時間だ。今日も客が押し寄せてくるぞ」
「はい!」
私は涙を拭いて、笑顔を作った。
外にはもう、カレーの香りに釣られたお客さんたちの行列ができているはずだ。
王都からの脅しなんて、美味しいカレーの前では無力だ。
私たちは、カレーを食べて元気を出し、理不尽な要求を跳ね返すのだ。
◇
その日の午後。
ジークハルトは王都への返書をしたためた。
使者に持たせたその手紙には、ただ一言、こう書かれていた。
『断る。貴殿らが干上がるのが先か、我々が音を上げるのが先か、賭けてみるがいい』
それは事実上の、王都への宣戦布告(経済的な意味で)。
そして、本当の「ざまぁ」の幕開けだった。
使者が真っ青な顔で逃げ帰った後、ベルクの街はいつもの賑わいを取り戻した。
しかし、王都では――。
「な、なんだと!? 断っただと!?」
報告を受けた王太子カイルは、怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
「おのれ、辺境の田舎者が! いいだろう、後悔させてやる! 北への街道を封鎖せよ! 塩の一粒たりとも通すな!」
愚かな王太子は、自らの首を絞めるロープをさらにきつく結んでしまった。
彼はまだ気づいていない。
北からの特産品――上質な肉や乳製品、そして魔法銀などの資源が止まることで、王都の経済が瞬く間に破綻することを。
そして、彼が捨てた聖女(偽)ミリアが、さらなるトラブルを引き起こそうとしていることを。




