第8話 深夜の秘密と、サクサク極厚カツサンド
深夜一時。
『陽だまり亭』のホールは静寂に包まれていた。
魔石ランプの明かりを最小限に絞り、私はカウンターで帳簿をつけていた。
パチ、パチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが、心地よいBGMになっている。
「ふぅ……今月も黒字ね。というか、予想以上の売り上げ」
ペンを置いて、大きく伸びをする。
開店からまだ十日ほどだが、お店の経営は順調そのものだ。
食材の仕入れルートも確保できたし、常連さんも増えた。
これなら、冬の間も暖かく過ごせそうだ。
あとは、あの人がちゃんとご飯を食べていればいいのだけど。
私はふと、窓の外の暗闇に目を向けた。
今日はジークハルト様が来ていない。
「毎日来る」と宣言していた彼が姿を見せないのは、よほどのっぴきならない事情があるのだろう。
噂では、北の山脈で大型の魔獣が出現し、騎士団が総出で討伐に向かったらしい。
無事だろうか。
怪我はしていないだろうか。
そして何より――ちゃんとしたご飯を食べているだろうか。
そんな心配をしている自分に気づいて、私は苦笑した。
いつの間にか、彼の胃袋だけでなく、健康管理までするオカンのような心境になっている。
コン、コン。
その時、裏口のドアが控えめに叩かれた。
こんな時間に?
私は警戒しつつ、護身用のフライパン(アダマンタイト製)を片手にドアへ近づく。
「……誰?」
「俺だ。……すまない、遅くなった」
聞き覚えのある、けれどひどく掠れた声。
私は慌てて鍵を開けた。
ドアを開けると、そこには雪まみれになったジークハルト様が立っていた。
黒いマントはボロボロで、銀髪は濡れて張り付き、顔色は紙のように白い。
まるで雪山で遭難して、やっとの思いでたどり着いた旅人のようだ。
「ジークハルト様!? どうされたんですか、その恰好!」
「……討伐が、長引いてな。報告と事後処理を済ませたら、こんな時間になってしまった」
彼は力なく笑おうとしたが、ふらりと体が傾いた。
私は慌ててその体を支える。
重い。鎧と筋肉の塊だ。
でも、体温が低い。冷え切っている。
「とにかく中へ! 暖炉の前へどうぞ!」
私は彼を店内に引き入れ、一番暖かい暖炉の前のソファに座らせた。
マントを受け取り、温かい毛布を肩にかける。
彼は「すまない」と呟き、深く息を吐いた。
「店はもう閉まっているのに、迷惑だったか」
「そんなことありません。ご飯、食べてないでしょう?」
「……ああ。丸一日、何も」
やっぱり。
この人は放っておくと、すぐに栄養失調になりかける。
魔力を大量消費した後の体は、スポンジのように栄養を求めているはずだ。
「すぐに何か作りますね。ガッツリ食べられますか? それとも軽めがいいですか?」
「……腹は減っているが、ナイフを使うのも億劫だ」
相当お疲れだ。
ナイフとフォークを使う気力もないほど消耗しているなんて。
ならば、片手で食べられて、なおかつエネルギー満点な「アレ」しかない。
「わかりました。座って待っていてください。すぐに出しますから」
私は厨房へ駆け込んだ。
深夜の飯テロ、開始だ。
冷蔵庫から取り出したのは、厚切りの豚ロース肉。
脂身が白く輝く、上質な肉だ。
これを包丁の背でトントンと叩き、繊維を断ち切る。こうすることで、噛み切れるほど柔らかくなる。
塩と黒胡椒を強めに振って下味をつける。
小麦粉、溶き卵、そして生パン粉。
たっぷりと衣をまとわせる。
このパン粉は、食パンの耳を粗く削った特製だ。揚げた時のザクザク感が違う。
揚げ油を百七十度に熱する。
肉を投入。
ジュワアアアアア……ッ!!
深夜の静けさに、油の音が心地よく響く。
泡がシュワシュワと肉を包み込み、衣がきつね色に変わっていく。
香ばしいラードの匂いが漂い始める。これはもう、香りだけでご飯が食べられるレベルだ。
その間に、ソースの準備。
ウスターソースにケチャップ、すりごま、そして隠し味にマスタードを混ぜ合わせた『特製カツサンドソース』だ。
酸味と甘み、そしてスパイスの刺激。
キャベツは千切りにする。
水にさらしてシャキッとさせ、水気をしっかり切る。
パンは、六枚切りの食パンを使う。
軽くトーストして、表面をカリッとさせるのがポイントだ。
片面にバターと辛子を薄く塗る。
「よし、揚がった!」
油から引き上げたカツは、黄金色に輝いている。
包丁を入れると、ザクッ、という素晴らしい音がした。
断面からは透明な肉汁がじわりと滲み出し、中心はほんのりピンク色。完璧な火入れだ。
この熱々のカツを、ソースの海にドボンとくぐらせる。
衣がソースを吸って、黒光りするような照りを帯びる。
トーストしたパンの上に、山盛りのキャベツ。
その上に、ソースをたっぷり纏った極厚カツを鎮座させる。
そして、もう一枚のパンで蓋をして、掌でギュッと押さえる。
パンと具材を馴染ませる、愛のプレスだ。
最後に、食べやすい大きさに三等分にカット。
断面は、白、緑、黄金色、茶色の美しい層になっている。
「お待たせしました! 『深夜の背徳・極厚カツサンド』と、ホットコーヒーです」
私はお皿とマグカップを持って、ジークハルト様の元へ戻った。
彼は暖炉の火を見つめながらぼんやりしていたが、カツサンドを見た瞬間、瞳に光が戻った。
「……これは」
「手で持ってそのままかぶりついてください。その方が美味しいですから」
彼は頷き、一切れを手に取った。
ずしりとした重み。
パンの間から、分厚いカツが自己主張している。
彼は大きな口を開けて、ガブリとやった。
ザクッ、バリッ。
静かな店内に、衣とトーストが砕ける音が二重奏を奏でた。
「――んッ」
ジークハルト様が目を丸くする。
噛み締めた瞬間、まず感じるのはトーストの香ばしさと、ソースの酸味。
そして次に、分厚い肉の弾力。
歯を入れると、スッと噛み切れるほど柔らかく、そこから溢れ出す肉汁が口内を洪水にする。
ソースを吸って少ししんなりした衣と、まだサクサク感が残っている部分のコントラストがたまらない。
シャキシャキのキャベツが油っこさを中和し、辛子バターがピリッと味を引き締める。
ジャンキーでありながら、計算し尽くされた味のバランス。
深夜にこれを食べる罪悪感が、さらにスパイスとなって美味しさを加速させる。
ジークハルト様は無言で咀嚼し、飲み込んだ。
そして、すぐに二口目へ。
止まらない。
あんなに疲れていたはずなのに、食べる手が加速していく。
「……美味い」
一言だけ漏らして、彼は夢中で食べた。
口の端にソースがついているのも気にせず、子供のように頬張る。
合間に、私が淹れた濃いめのブラックコーヒーを飲む。
カツサンドの脂とソースの濃さを、コーヒーの苦味がさっぱりと流してくれる。
最高の組み合わせだ。
あっという間に三切れ全てを完食した彼は、ふぅ、と深く長い息を吐いた。
顔には赤みが差し、目の下の隈も薄らいだように見える。
枯渇していた魔力が、食事によって満たされた証拠だ。
「……生き返った」
「よかったです。おかわり、ありますよ?」
「いや、十分だ。これ以上食べると動けなくなる」
彼は微かに笑い、ソファの背もたれに体を預けた。
暖炉の火が、彼の端正な横顔をオレンジ色に照らしている。
張り詰めていた空気が緩み、穏やかな時間が流れる。
私は濡れた布巾で、彼の手や口元のソースを拭いてあげた。
自然とそんなことができるくらい、私たちの距離は近づいていた。
「レティシア」
「はい」
「……俺は、もうダメかもしれない」
ドキッとした。
急に真剣な声で、そんなことを言うから。
「ど、どこか具合が悪いんですか?」
「違う。……君の料理以外、もう喉を通らないかもしれないと言ったんだ」
彼は私の手首をそっと掴み、自分の引き寄せた。
強い力ではない。拒もうと思えば拒める。
でも、私は動けなかった。
彼のブルーグレーの瞳が、熱を帯びて私を捕らえて離さなかったからだ。
「今日の遠征中、携帯食料を口にしたが、泥を食べているようだった。頭の中にあるのは、君の店の匂いと、君が笑って『召し上がれ』と言う顔だけだ」
「それは……お腹が空きすぎていたからじゃ……」
「違う」
彼は断言した。
そして、掴んだ私の手首に、そっと唇を寄せた。
触れるか触れないかの距離で、熱い吐息がかかる。
「これは、呪いだな。君という魔女がかけた、甘くて残酷な呪いだ」
「私は魔女じゃありませんよ。ただの料理人です」
「なら、責任を取ってくれ」
彼は顔を上げ、挑むような、それでいてどこか縋るような目で私を見た。
「俺の専属になってくれとは言わない。だが、俺の帰る場所になってくれないか」
「帰る場所……?」
「ああ。どんなに遠くへ行っても、戦って傷ついても、最後には君の元へ帰ってきて、君の飯を食う。……そうすれば、俺は最強でいられる」
それは、実質的なプロポーズだった。
「毎日味噌汁を作ってくれ」の、異世界バージョンだ。
しかも「最強でいられる」なんて、騎士団長らしい口説き文句つきの。
私の心臓は、早鐘を打っていた。
カツサンドを揚げていた時の油の音よりうるさいかもしれない。
顔が熱い。絶対に赤い。
「……考えて、おきます」
精一杯の強がりで、そう答えるのがやっとだった。
即座に「はい!」と言って抱きつきたい衝動を、必死に理性で抑え込む。
だって、まだ心の準備ができていない。
それに、私にはまだ解決していない過去(王都との因縁)があるのだから。
「……そうか。待つよ」
ジークハルト様は、私の返事を予想していたように穏やかに微笑んだ。
そして、名残惜しそうに私の手を離すと、立ち上がった。
「そろそろ行く。長居してすまなかった」
「いえ、いつでも来てください。夜中でも」
「ああ。……おやすみ、レティシア」
彼は私の頭をポンと撫でて、裏口から夜の闇へと消えていった。
残された私は、彼が撫でた頭を押さえながら、その場にへたり込んでしまった。
「……ずるい」
あんな弱った顔を見せた後に、あんな熱烈な言葉を残していくなんて。
心臓がもたない。
私は誰もいない店内で、一人赤面しながらニヤけていた。
窓の外では、雪が静かに降り積もっている。
とても静かで、幸せな夜だった。
――しかし。
そんな穏やかな夜の裏側で、事態は確実に動き出していた。
翌朝。
ベルクの街に、一台の早馬が到着した。
馬の背に乗っているのは、王家の紋章が入った外套を身につけた使者。
「急使だ! 辺境伯への書状を持っている!」
街の門番たちがざわめく中、使者は真っ直ぐに領主館――つまり、ジークハルト様の屋敷へと向かった。
その書状に記されている命令が、私の、そして『陽だまり亭』の平和を脅かすものだとは、まだ知る由もなかった。
「レティシア・ローズブレイドを、直ちに王都へ送還せよ」
「さもなくば、辺境への物資供給を停止する」
王太子カイルによる、身勝手で愚かな最後通牒。
ついに、王都の闇がこの幸せな食卓へ手を伸ばしてきたのだ。




