第7話 看板娘への求愛と、熱々クリスピーピザの攻防戦
『陽だまり亭』の評判は、私が予想していた速度を遥かに超えて広がっていた。
どうやら「辺境ベルクに、王都の高級店より美味くて安い店がある」という噂は、行商人たちのネットワークを通じて近隣の街にまで届いているらしい。
おかげで、ここ数日の忙しさは尋常ではなかった。
「お姉さん! 噂のオムライス、まだあるかい?」
「俺はハンバーグだ! 王都からわざわざ食べに来たんだぞ!」
ランチタイムのピーク。
客席は満員御礼。外に行列ができるほどの盛況ぶりだ。
私は猫の手も借りたい状況で、厨房の中を回転しながら料理を量産していた。
ただ、最近少しだけ困ったことがある。
それは、私の料理ではなく、「私自身」を目当てにするお客さんが増えてきたことだ。
「ねぇレティシアちゃん。仕事が終わったら一杯どう?」
「そんなに働いてないで、俺の嫁になればいいのに。楽させてやるよ?」
カウンター席に座る、身なりの良い若手商人や、腕に覚えがありそうな冒険者たちが、口々にそんな言葉を投げてくる。
もちろん、彼らに悪気がないのはわかっている。
美味しい料理とお酒が入って気が大きくなっているだけだし、辺境には娯楽が少ないから、若い女性の店主というだけで珍しがられているのだろう。
「あはは、お気持ちだけ受け取っておきますねー。さあ、オーダー入ります!」
私は営業スマイルで華麗にスルーしながら、ピザ生地を宙に投げた。
くるくると回る白い生地。
遠心力で薄く、丸く広がっていく。
今日のオススメは、みんなでシェアして食べられる『窯焼きピザ』だ。
強力粉に、天然酵母、塩、水、そしてオリーブオイル。
シンプルだからこそ誤魔化しが効かない。
一晩寝かせて発酵させた生地は、赤ちゃんの肌のようにすべすべで、触れているだけで愛おしくなる。
これを極限まで薄く伸ばす。
私が目指すのは、耳はふっくら、底はパリパリのナポリ風とローマ風のいいとこ取りだ。
伸ばした生地に、特製のトマトソースを塗る。
完熟トマトを煮詰め、ニンニクとオレガノを効かせたパンチのあるソースだ。
その上に、具材をトッピング。
一枚目は王道の『マルゲリータ』。
フレッシュなモッツァレラチーズをちぎって乗せ、バジルの葉を散らす。
二枚目はガッツリ系の『サラミ&ベーコン』。
薄切りの辛口サラミと、燻製ベーコン、そしてピーマンと玉ねぎ。仕上げにミックスチーズを山のように盛る。
「美味しくなぁれ!」
パーラー(ピザを乗せる大きなヘラ)に乗せて、石窯の中へ滑り込ませる。
この石窯も、元々あった暖炉を土魔法で改造したものだ。
中は四百度を超える高温。
パチパチ、という薪の爆ぜる音。
生地が熱を受けてぷくぅっと膨らみ、チーズがグツグツと沸騰し始める。
一分半。
ピザはスピードが命だ。
「焼き上がり!」
取り出したピザからは、香ばしい小麦の香りと、焦げたチーズの誘惑的な匂いが立ち上る。
ピザカッターでザクッ、ザクッ、と六等分に切り分ければ完成だ。
「お待たせしました! 焼きたてピザです!」
私がカウンターにピザを出すと、男性客たちがわっと歓声を上げた。
「おおー! すげぇ美味そう!」
「でもさ、レティシアちゃんの手料理もいいけど、俺は君の笑顔をおかずに酒が飲みたいなぁ」
一人の商人が、私の手に触れようと身を乗り出してきた。
ちょっと距離が近い。
酒臭い息がかかって、私は思わず半歩下がった。
「あ、あの、お客様。困ります……」
「いいじゃないか、減るもんじゃなし。俺、王都にデカい屋敷持ってるんだぜ? こんなボロ屋で働くより幸せにしてやるって」
しつこい。
笑顔が引きつりそうになった、その時だった。
ガタッ。
入り口の扉が、乱暴に開かれたわけでもないのに、重苦しい音を立てて開いた。
同時に、店内の気温が急激に下がった気がした。
賑やかだった喧騒が、水を打ったように静まり返る。
「…………」
入り口に立っていたのは、いつもの黒い騎士服姿のジークハルト様だった。
ただ、今日の彼は機嫌が悪い。
いや、悪いなんてものではない。
氷の彫像のように美しい顔に、能面のような無表情を貼り付け、その瞳からは絶対零度の吹雪が吹き荒れていた。
彼はゆっくりと、店の中を見渡した。
その視線が、私に絡んでいた商人の背中でピタリと止まる。
「……随分と、景気が良さそうだな」
低く、地を這うような声。
商人がビクリと肩を震わせて振り返る。
そして、背後に立つ「氷の公爵」の姿を認めた瞬間、顔から血の気が引いていくのが見えた。
「こ、公爵閣下……!?」
「食事を楽しんでいるところ悪いが、そこは俺の席だ」
ジークハルト様は、商人が座っていた席(正確にはその二つ隣なのだが)を指差したわけでもなく、ただ冷ややかに告げた。
それだけで十分だった。
「ひ、ひぃっ! す、すぐに空けます!」
「邪魔しました!」
商人とその連れたちは、食いかけのピザもそのままに、転がるようにして席を立ち、店の奥へと逃げていった。
彼らだけではない。
下心ありげな視線を送っていた他の男たちも、全員が皿に顔を突っ込む勢いで食事に集中し始めた。
一瞬にして、店内から「ナンパな空気」が消滅した。
残ったのは、純粋に食事を楽しむ健全な空気と、ほんの少しの恐怖だけ。
ジークハルト様は、悠然とカウンター席に座った。
逃げた商人が座っていた席ではなく、いつもの私の作業スペースの真正面だ。
「……いらっしゃいませ、ジークハルト様。お疲れ様です」
「ああ」
「もしかして、怒ってます?」
「……別に」
彼は短く答え、頬杖をついて私を見た。
その瞳はまだ少し剣呑だが、私に向ける視線だけは、どこか拗ねた子供のように甘えているようにも見える。
「ただ、飯を食いに来たのに、店の入り口が下衆な欲望で塞がっていたからな。掃除をしただけだ」
「ふふ、ありがとうございます。助かりました」
私は素直にお礼を言った。
彼がいなければ、もう少し面倒なことになっていたかもしれない。
それにしても、掃除(威圧)の威力が強すぎる。
「お腹、空いてますよね? 今日はピザですよ」
「……ピザ?」
「はい。平たいパンに、具材とチーズを乗せて焼いたものです」
私は商人が残していったピザを片付け(これは後で私がまかないにする)、ジークハルト様のために新しい生地を伸ばし始めた。
彼の視線が、私の手元に釘付けになる。
生地が宙を舞うたびに、彼の目が上下するのが面白い。
「君は、料理をしている時が一番楽しそうだな」
「ええ、大好きですから。美味しいものを作って、誰かが笑顔になってくれるのが、私の生き甲斐なんです」
「……そうか」
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、結局飲み込んでしまった。
その代わり、じっと私を見つめ続ける。
その熱っぽい視線に、私がドギマギしてしまう。
(な、なによもう。早くピザ焼かなきゃ!)
私は照れ隠しのように手早くトッピングを済ませ、窯に放り込んだ。
数分後。
「お待たせしました! 『ジークハルト様スペシャル・クアトロフォルマッジ』です!」
今回出したのは、四種のチーズ(クアトロフォルマッジ)のピザだ。
トマトソースは使わず、ゴルゴンゾーラ、モッツァレラ、パルメザン、そしてゴーダチーズをたっぷりと乗せて焼き上げた、チーズ好きのための逸品。
別添えで、ハチミツの小瓶を添える。
香ばしい小麦の香りと、ブルーチーズ特有の刺激的な香りが混ざり合う。
表面は黄金色に輝き、所々焦げたチーズがクレーターを作っている。
「……具がないな。チーズだけか」
「食べてみてください。飛ぶぞ、ってやつです」
彼は疑わしげにピザの一切れを持ち上げた。
その瞬間。
とろぉぉぉぉぉぉぉっ……!
チーズが伸びる。
どこまでも、どこまでも。
まるで滝のように流れ落ちるチーズの奔流。
重みに耐えきれず、先端がだらりと垂れ下がる。
彼はそれを、パクッ、と迎えに行った。
サクッ。
クリスピーな生地が割れる音が、私の耳にも届いた。
「……んッ」
彼の目が大きく見開かれる。
口の中に溢れ出す、濃厚すぎるチーズのコク。
ゴルゴンゾーラの塩気と癖のある風味が、モッツァレラのミルキーさで中和され、絶妙な旨味となって舌を包み込む。
生地は薄いのに存在感があり、パリパリとした食感が心地よい。
噛めば噛むほど、小麦の甘みとチーズの油分が混ざり合い、脳が痺れるような快楽を生む。
彼は夢中で咀嚼し、飲み込んだ。
「……濃い。だが、止まらない味だ」
「でしょう? 次はこのハチミツをかけてみてください」
私は小瓶のハチミツを、ピザの上にたらりと垂らした。
黄金色の蜜が、熱々のチーズの上で輝く。
塩気のあるチーズに、甘いハチミツ。
邪道に見えて、これこそが王道にして至高の組み合わせだ。
彼は恐る恐る口に入れる。
「――っ!?」
衝撃が走ったようだ。
塩気と甘みの暴力的なマリアージュ。
「甘じょっぱい」という最強の風味が、味覚中枢をダイレクトに殴りつける。
「なんだこれは……酒に合うはずなのに、菓子のような……いや、食事だ。わからないが、美味い!」
クールな公爵様が、混乱しながらピザを頬張る姿は、なんとも愛らしい。
彼は一枚丸ごと、あっという間に平らげてしまった。
もちろん、追加でコーラ(黒い炭酸水に、スパイスと柑橘を混ぜた自家製)も注文して、豪快に喉を鳴らしていた。
食後の余韻に浸りながら、彼はふと真面目な顔に戻った。
「レティシア」
「はい?」
「……あの男たちが言っていたことだが」
「え?」
「王都に屋敷があるとか、嫁になれば楽ができるとか」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、不安のような色が揺らめいている。
「君は……王都に戻りたいと思うか?」
「まさか!」
私は即答した。
あまりの速さに、彼が少し驚いたくらいだ。
「私は今、ここが一番好きです。ベルクの街も、ここに来てくれるお客さんも、食材も。……それに」
「それに?」
「ジークハルト様が、毎日美味しそうに食べてくれるのを見るのが、何より嬉しいですから」
私が屈託なく笑うと、彼は虚を突かれたように固まった。
そして、みるみるうちに耳まで赤く染まっていく。
氷の公爵様が、茹でダコみたいだ。
「……そ、そうか」
「はい!」
彼は咳払いを一つして、視線を逸らした。
そして、ボソボソと呟く。
「……卑怯だぞ、その笑顔は」
「何か言いました?」
「なんでもない。……俺も、君の料理が一番好きだ。他には代え難い」
「料理が」という部分が強調されていた気がするけれど、それでも十分な褒め言葉だ。
私は嬉しくなって、「明日はパスタにしますね!」と宣言した。
ジークハルト様が帰った後、店内の空気が一気に緩んだ。
隠れていたお客さんたちが、ほっと息を吐く。
「いやぁ、怖かった……寿命が縮んだよ」
「でも、公爵様があんな顔するなんてな」
「レティシアちゃん、あの方とどういう関係なの?」
みんな興味津々だ。
私は首を傾げる。
「どういう関係って……常連さんと、店主ですよ?」
「「「いやいやいや!」」」
店中の声がハモった。
え、違うの?
私が不思議そうな顔をしていると、年配の女性客が呆れたように言った。
「あんたねぇ、あれはどう見ても『惚れてる男』の顔だよ。しかも重症のね」
「まさかぁ。公爵様ですよ? 美味しいご飯に惚れてるだけですって」
私は笑い飛ばしたけれど、胸の奥が少しだけ熱くなった。
もし、本当にそうだとしたら。
……いやいや、期待しちゃダメだ。
私は婚約破棄された傷物令嬢。彼は国の英雄。
住む世界が違うのだ。
今はただ、美味しい料理で彼を元気にできれば、それでいい。
そう自分に言い聞かせて、私は片付けに戻った。
◇
その頃。
王都へ向かう街道を、一台の豪奢な馬車が走っていた。
乗っているのは、恰幅の良い行商人と、その護衛たち。
彼らはベルクで仕入れた荷物を運んでいたのだが、その会話の内容は不穏だった。
「おい、聞いたか? ベルクの『陽だまり亭』の話」
「ああ。なんでも、追放された公爵令嬢がやってるって噂だろう?」
「その通りだ。しかも、彼女が作る料理には『特別な力』があるらしい」
「特別な力?」
「食っただけで古傷が治ったとか、魔力が回復したとか……そんな眉唾な話だが、もし本当なら」
商人は下卑た笑みを浮かべた。
「王都の食糧難と、聖女様の力不足。そこに『癒やしの料理を作る元公爵令嬢』が現れたとなれば……これは金になるぞ」
「違いねぇ。王太子殿下や他の貴族に情報を売れば、高くつく」




