第6話 焦げるチーズの誘惑と、公爵様の不器用な独占欲
『陽だまり亭』がオープンして一週間。
私の新しい日常は、バターと小麦粉が焦げる芳ばしい香りと共に回っていた。
「レティシアさーん! こっち注文まだー?」
「俺はいつもの日替わりで頼むよ! 大盛りでな!」
「はいはーい! 少々お待ちくださーい!」
ランチタイムの店内は、まさに戦場のような賑わいだ。
かつては幽霊屋敷と呼ばれていたこの元商館も、今ではベルクの街で一番ホットなスポットになっている。
客層も様々だ。
ご近所の主婦の方々、休憩中の大工さん、そして魔獣討伐から帰ってきた冒険者や騎士様たち。
みんな、冷えた体を温めるために、私の料理を求めてやってくる。
(忙しい……! けど、楽しいっ!)
私は厨房で三つのコンロを同時に操りながら、額の汗をぬぐった。
王城でのデスクワーク地獄とは違う、心地よい肉体疲労だ。
何より、お客さんたちが「美味い!」と笑顔で食べてくれるのが、最高の栄養剤だった。
ただ、一つだけ予想外だったことがある。
「なぁ、レティシアちゃん。今度の日曜日、俺と街へ買い物に行かないか?」
「ずるいぞお前! レティシアちゃん、俺の方が力持ちだぜ。薪割り手伝うよ」
「いやいや、僕が一番この店の常連だし!」
カウンター席に座る若い冒険者たちが、料理を待ちながらそんな声をかけてくるのだ。
どうやら私、料理だけでなく「看板娘」としても認識されているらしい。
前世も含めて恋愛経験値がスライム並みの私は、こういう時どう返していいかわからず、愛想笑いで誤魔化してしまう。
「あはは、お店が忙しいので……。さあ、お待ちどうさま!」
やんわり躱しながら料理を出す。
彼らも本気で口説いているというよりは、美味しいご飯と楽しい会話を楽しんでいるだけのようで、店内は和やかな空気に包まれていた。
――そう、あの瞬間までは。
カラン、コロン……。
ドアベルの音が鳴った瞬間、店内の空気がピキリと凍りついた。
賑やかだった話し声がピタリと止む。
冒険者たちが持っていたスプーンが、カチャリと皿に落ちた。
「…………」
入り口に立っていたのは、この世の冬を擬人化したような男。
氷の公爵、ジークハルト様だ。
今日の彼は騎士団の制服姿だった。
漆黒のマントを揺らし、その美貌には一切の感情がない。
いや、よく見ると――不機嫌だ。
ブルーグレーの瞳が、カウンターで私に話しかけていた冒険者たちを、氷点下の眼差しで射抜いている。
「ひっ……!」
「こ、公爵様だ……」
「やべぇ、睨まれてるぞ……」
冒険者たちが小動物のように身を縮める。
ジークハルト様は無言のまま、コツ、コツ、と軍靴の音を響かせて店を横切った。
そして、いつもの「指定席」である窓際の一番奥へ向かう――が、そこには先客がいた。
のんびりとコーヒーを飲んでいた老夫婦だ。
彼らはジークハルト様に気づくと、慌てて立ち上がろうとした。
「も、申し訳ありません公爵様! すぐに席を……」
「……いや、いい。座っていろ」
ジークハルト様は短くそう告げると、なんとカウンター席の方へと向きを変えた。
そして、私を口説いていた冒険者の隣に、ドカッと腰を下ろしたのだ。
(ええええッ!? そこ座るんですか!?)
隣の冒険者は顔面蒼白だ。
「おい、死ぬぞ俺」「心臓止まる」とヒソヒソ声が聞こえる。
ジークハルト様はそんなことお構いなしに、肘をついて私をじっと見つめた。
「……随分と、楽しそうだな」
「い、いらっしゃいませジークハルト様。お昼休みですか?」
「ああ。……ここは飯屋だと思っていたが、いつから男たちの出会いの場になったんだ?」
低い声。
拗ねている。完全に拗ねている。
どうやら、私が他のお客さんと親しく話しているのが気に入らないらしい。
独占欲が強いとは聞いていたけれど(本人から)、ここまであからさまだとは。
「ただの世間話ですよ。それより、今日はお疲れのようですね?」
「……精神的にな。主に今、ダメージを受けた」
彼はチラリと隣の冒険者を見た。冒険者がビクッと震える。
私は苦笑しながら、お冷を置いた。
「そんなジークハルト様には、心も体もトロトロに温まるメニューをご用意しています」
「……ほう」
「少しお時間かかりますけど、待てますか?」
私が小首を傾げると、彼はふいっと視線を逸らした。
耳が少し赤い。
「……君の料理なら、いくらでも待つ」
言質は取った。
私は冒険者さんに「ごゆっくりどうぞ」と目配せして(彼は救いを求めるような目をしていたけれど)、厨房へと戻った。
今日のメインは、北国の冬にぴったりの『熱々・海老マカロニグラタン』だ。
まずは命とも言えるホワイトソース(ベシャメルソース)作りから。
厚手の鍋にバターを溶かす。
焦がさないように、弱火でじっくりと。
そこへ小麦粉を投入。
木べらで丁寧に炒める。粉っぽさがなくなり、ふつふつと泡立って、さらりとした状態になるまで。
ここで手を抜くと、粉臭いソースになってしまう。
そこへ、冷たい牛乳を一気に入れる。
ここからはスピード勝負だ。
泡立て器で絶え間なくかき混ぜながら、火を入れていく。
最初はシャバシャバだった液体が、次第にとろみを帯びてくる。
重くなり、艶が出て、クリーム色に輝き出す。
塩、白胡椒、そして隠し味にほんの少しの味噌を入れる。
これがコクを深め、ご飯にもパンにも合う味にする秘訣だ。
「ソースは完璧。次は具材ね」
隣のコンロでマカロニを茹でている間に、フライパンで具材を炒める。
玉ねぎとマッシュルーム。
そして、ベルクの近郊にある清流で獲れた「川海老」だ。
この海老がすごい。殻が柔らかいので剥く必要がなく、身はプリプリで甘みが強い。
バターでサッとソテーし、白ワインで蒸し焼きにする。
海老の赤色が鮮やかになり、香ばしい香りが立ち上る。
茹で上がったマカロニ、炒めた具材、そしてホワイトソースを大きなボウルで混ぜ合わせる。
この時点でもう美味しそうだが、まだだ。
耐熱皿にたっぷりと流し込む。
そして、その上からこれでもかというほどチーズを乗せる。
ベルク特産の「熟成ゴーダチーズ」と、伸びの良い「モッツァレラチーズ」のダブル使いだ。
仕上げにパン粉をパラパラと振りかけ、オーブン(火魔法を付与した魔導オーブン)へ。
――十分後。
チリチリ……グツグツ……。
オーブンから取り出した瞬間、厨房に幸せな音が響き渡った。
表面のチーズは見事なきつね色に焦げ、所々でホワイトソースが火山のマグマのように噴き出している。
焦げたチーズとバターの香りは、暴力的なまでの食欲刺激臭だ。
この匂いだけで、店内の客が一斉に鼻をひくつかせたのがわかった。
「お待たせいたしました! 『北国の熱々・海老グラタン』です!」
私は木製のトレイに乗せ、カウンターのジークハルト様の前へ運んだ。
彼は目を見開いて、目の前でグツグツと煮えたぎる皿を凝視した。
「……これは、煮込み料理か?」
「オーブン焼きです。器ごと焼いているので、すごく熱いですよ。気をつけてくださいね」
注意を促すと、彼は慎重にスプーンを差し込んだ。
ザクッ。
表面の焼けたチーズとパン粉が、軽快な音を立てて割れる。
その下から、真っ白なソースが湯気と共に顔を出す。
スプーンを持ち上げると――
とろ〜〜〜〜〜り。
チーズがどこまでも伸びる。
糸を引くチーズの中に、プリプリの海老とマカロニが絡み合っている。
ジークハルト様は、ふーふー、と少し不慣れな様子で息を吹きかけ、それから口へと運んだ。
ハフッ。
「んぐっ……!」
熱かったらしい。一瞬眉を寄せたが、すぐにその表情が驚きへと変わった。
口いっぱいに広がるのは、濃厚なミルクの風味とチーズの塩気。
サクサクの表面と、中のトロトロソースの食感のコントラスト。
噛めばマカロニの中から熱いソースが飛び出し、海老の甘みが弾ける。
ハフハフと口を動かしながら、彼は熱さと旨味を堪能している。
飲み込んだ後、ほうっ、と白い息を吐いた。
「……熱い。だが、美味い」
「冬はやっぱりグラタンですよね。体の中から温まりますから」
「ああ……冷え切っていた芯が、溶かされるようだ」
彼は二口目からは、もう止まらなかった。
スプーンですくうたびに伸びるチーズをフォークで巻き取り、パン(グラタンについてくるバゲット)にソースを浸して食べる。
先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。
美味しいものを食べている時の彼は、本当に無防備で、少し幼く見える。
その様子を、隣の席の冒険者が羨ましそうに見ていた。
「いいなぁ……俺もあれにすればよかった」
「お前はさっき生姜焼き定食食っただろ」
「でもあの匂いは反則だよ……」
そんなひそひそ話が聞こえたのか、ジークハルト様の手がふと止まった。
そして、ギロリと横目で冒険者を見た。
「……やらんぞ」
「い、いりませんよ! とりません!」
冒険者が首をブンブンと横に振る。
ジークハルト様は「ふん」と鼻を鳴らし、再びグラタンに向き直った。
(子供か!)
私は心の中でツッコミを入れた。
氷の公爵様、独占欲が強すぎる。
でも、それが私の料理に対するものだと思うと、料理人としては悪い気はしない。
綺麗に平らげた後、彼は満足げにナプキンで口を拭った。
そして、私に向かって真剣な顔をした。
「レティシア」
「はい、お粗末さまでした」
「……美味かった。これで午後も働ける」
「それはよかったです。無理しないでくださいね」
私が微笑むと、彼は少し躊躇ってから、ボソッと言った。
「それと……あまり、他の男に笑顔を振りまくな」
「え?」
「……いや、なんでもない。ご馳走様」
彼は逃げるように席を立ち、代金(またしても金貨)を置いて店を出て行ってしまった。
残された私は、キョトンとするしかない。
「振りまくな、って……接客業なんですけど?」
「鈍いなぁ、レティシアちゃんは」
一部始終を見ていた常連のお客さんたちが、ニヤニヤしながら私を見る。
私は首を傾げながら、空になったグラタン皿を片付けた。
皿の底には、焦げたチーズが少し張り付いている。
これをこそげ落として食べるのが一番美味しいのよね、なんて思いながら。
◇
一方その頃、王都。
かつてレティシアが守っていた平和な日常は、音を立てて崩れ始めていた。
「きゃあああああッ!!」
王城の厨房から、悲鳴が上がった。
駆けつけた料理長が見たのは、黒焦げになった謎の物体と、顔を煤だらけにした聖女ミリアの姿だった。
「せ、聖女様!? 何をなされているのですか!」
「うるさいわね! パンケーキを作ろうとしたのよ! あの女が作っていたみたいな、ふわふわのやつを!」
ミリアはヒステリックに叫び、黒焦げのフライパンを投げ捨てた。
王都では最近、「辺境ですごいカフェができた」という噂が流れ始めていた。
それがレティシアの店だと勘付いたミリアは、対抗心を燃やして自ら料理をしようとしたのだ。
しかし、知識だけで技術も魔法もない彼女に、再現できるはずもなかった。
「なんでよ……なんで膨らまないのよ! ただ混ぜて焼くだけじゃないの!?」
「材料を無駄になさらないでください! 今は食糧事情も厳しいのですよ!」
料理長の悲痛な叫びも、ミリアの耳には届かない。
王都の市場では、新鮮な野菜が減り、肉の値段が高騰していた。
レティシアが陰ながら行っていた【保存魔法】による物流支援がなくなったため、腐敗による廃棄が増えたからだ。
さらに、結界の弱体化により魔物の被害も増え、行商人が王都へ来たがらなくなっている。
美味しい食事が消え、不安が蔓延する王都。
その中心で、王太子カイルは執務室で頭を抱えていた。
「書類が終わらない……なぜだ、なぜこんなに決裁事項が多い!? 以前はもっとスムーズだったはずだ!」
机の上に積み上がった書類の山。
それらは全て、かつてレティシアが夜なべして処理していたものだ。
「レティシア……」
無意識に元婚約者の名前を呟き、カイルはハッとした。
いや、そんなはずはない。あんな地味な女に、何の価値もなかったはずだ。
そう自分に言い聞かせても、胃の痛みは増すばかりだった。
王都が崩壊の序曲を奏でる中、辺境の『陽だまり亭』からは、今日も幸せな湯気が立ち上っている。




