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婚約破棄されたので、辺境で『なんでも喫茶店』はじめます。  作者: 九葉


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第5話 月夜の密会と、口どけふわふわスフレパンケーキ

 『陽だまり亭』がオープンしてから三日が過ぎた。

 お店の状況は一言で言えば――「嬉しい悲鳴」というやつだ。


「おーいレティシアちゃん、ランチもう一つ追加!」

「こっちのテーブル、水が空だよ!」

「あいよーっ! ただいま!」


 私は厨房とホールを行ったり来たり。

 元公爵令嬢としての優雅な足運びなんてどこへやら、気つけばすっかり下町の看板娘のような動きが板についてしまっている。


 騎士団の方々が宣伝してくれたおかげで、ランチタイムは連日満席。

 辺境の街ベルクには、これまで「安くて美味くて、しかも可愛い女の子がいる店」なんて存在しなかったらしい。

 労働者のおじさんから、噂を聞きつけた商会の奥様方まで、客層は様々だ。


「ふぅ……やっと一段落ね」


 日が落ち、夜の帳が下りる頃。

 最後のお客さんを見送って、私は重いドアを閉めた。

 「CLOSED」の看板を表に向ける。

 普段ならこれで一日の営業は終了し、私のまったりタイムが始まるところだ。


 けれど、今日はまだ終わらない。

 厨房に戻った私は、乱れたエプロンを直し、少しだけ髪を整えた。

 鏡に映る自分の顔が、なんだかほんのり赤い気がして、パタパタと手で仰ぐ。


「……来るかな」


 昨日の帰り際、氷の公爵様ことジークハルト様が残した言葉。

 『次は夜に来る』。

 あれはただの社交辞令だったのか、それとも本気だったのか。


 いや、あの食への執着を見る限り、間違いなく来るだろう。

 私は彼のために、特別なメニューの準備を始めることにした。

 昼間のようなガッツリ系ではない。

 一日の疲れを癒やし、心まで溶かしてしまうような、優しくて甘い魔法のような一皿を。


 コン、コン。


 控えめだが、意思の強さを感じるノックの音が響いた。

 時計を見ると、約束の時間ぴったりだ。


「はい、どうぞ。開いていますよ」


 私が鍵を開けると、夜の冷気と共に、長身の影が入ってきた。


「……こんばんは」

「いらっしゃいませ、ジークハルト様」


 出迎えた私は、一瞬言葉を失った。

 そこに立っていた彼が、いつもの威圧的な黒い騎士服ではなく、ラフな私服姿だったからだ。

 

 上質な白いシャツに、紺色のベスト。首元にはスカーフを巻いていて、貴族らしい品がありつつも、どこかリラックスした雰囲気だ。

 前髪も少し下ろしていて、昼間の「鬼の騎士団長」とは別人のように幼く見える。

 ……いや、幼いは失礼か。なんていうか、無防備で色っぽいのだ。


「どうかしたか? そんなにジロジロ見て」

「い、いえ! 私服姿を初めて拝見したので、新鮮で」

「そうか。……仕事着で来ると、君が他の客に怖がられると言っていただろう」


 彼は少し気まずそうに視線を逸らした。

 まさか、気を使わせてしまったとは。

 この人、意外と根は優しいのかもしれない。


 私は彼をいつもの特等席――窓際の一番奥の席へと案内した。

 夜の店内は、魔石ランプの暖色の明かりだけに照らされていて、昼間とは違うムーディーな雰囲気が漂っている。


「ご注文はいかがなさいますか? お酒も少しならありますけれど」

「いや、酒はいらない。……今日は、君に任せる」


 ジークハルト様はそう言って、深く椅子に背を預けた。

 その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。

 目の下の隈が昨日より濃い。

 騎士団長という激務に加え、私の知らないところで魔獣討伐の後処理などに追われているのだろう。


「承知いたしました。では、お疲れの体に一番効くものをお持ちしますね」


 私は厨房へ戻り、準備していたボウルを取り出した。

 今夜の主役は、卵だ。

 でも、オムライスのように焼くのではない。


 卵を卵黄と卵白に分ける。

 使うのは卵白。これをキンキンに冷やしておくのがコツだ。

 そこへ砂糖を数回に分けて加えながら、泡立て器で一気に空気を含ませていく。


 シャカシャカシャカシャカ……!


 静かな店内に、リズミカルな音が響く。

 魔法を使えば一瞬だが、これだけは手作業でやりたい。

 空気の入り具合を肌で感じたいからだ。


 透明だった卵白が白く濁り、やがて艶やかなクリーム状になり、最後にピンと角が立つ「メレンゲ」になる。

 逆さにしても落ちないくらいの固さが理想だ。


 別のボウルで卵黄と牛乳、小麦粉を混ぜておいた生地に、このメレンゲを合わせる。

 ここが一番の重要ポイント。

 泡を潰さないように、ゴムベラで切るように、ふんわりと混ぜる。

 完全に混ざりきらなくてもいい。白いマーブル模様が残るくらいが、一番膨らむのだ。


 温めておいた厚手のホットプレート(魔石コンロの弱火)に、生地をこんもりと高く落とす。

 一度蓋をして蒸し焼きにし、途中でさらに生地を重ねて高さを出す。


 数分後。

 蓋を開けると、甘く香ばしい香りがふわりと立ち上った。

 生地は倍以上に膨らみ、フルフルと揺れている。

 優しく裏返す。

 キツネ色の焼き目が美しい。


「よし、焼き上がり!」


 お皿に二段重ねにする。

 それだけで塔のようにそびえ立つ迫力だ。

 上から粉砂糖を雪のように降らせ、ホイップした生クリームを添える。

 そして、酸味のアクセントとして、王都から持ってきたベリーのソースをたっぷりと回しかける。

 赤と白と黄金色のコントラスト。


「お待たせいたしました。『雲までとろける・厚焼きスフレパンケーキ』です」


 私が皿を置くと、パンケーキはその衝撃だけでプルン、プルンと可愛らしく揺れた。

 ジークハルト様が目を丸くする。


「……これは、パン、なのか? 俺の知っているパンとは随分形状が違うが」

「食べてみてのお楽しみです。甘いものはお嫌いですか?」

「……普段は食べない。甘ったるいのは苦手だ」

「ふふ、ならきっと気に入っていただけます。甘いだけじゃありませんから」


 彼は少し疑わしそうな目を向けつつも、ナイフを入れた。

 その瞬間、手に抵抗が全くないことに驚いたようだ。

 ナイフの重みだけで、すぅーっと底まで切れてしまう。


 切り分けた一片をフォークで刺し、たっぷりの生クリームとベリーソースを絡めて口へ運ぶ。


 ハフッ。


 焼きたての熱を含んだ生地が、舌の上に乗る。


「――――」


 ジークハルト様が動きを止めた。

 そして、ゆっくりと目を閉じる。


 噛む必要なんてない。

 口に入れた瞬間、シュワワ……と儚い音を立てて、生地が泡のように消えていくのだ。

 後に残るのは、卵の優しい風味と、控えめな砂糖の甘さ。

 そこへ冷たい生クリームのコクと、ベリーソースのキュッとした酸味が追いかけてくる。


 温かいと冷たい。

 甘いと酸っぱい。

 ふわふわとトロトロ。


 全ての要素が口の中で混ざり合い、脳を直接マッサージされるような幸福感をもたらす。


「……消えた」


 ジークハルト様がぽつりと呟いた。


「食べているのに、重さがない。雲を食べているようだ」

「スフレパンケーキといって、メレンゲ――卵の泡の力で膨らませているんです」

「甘いものが苦手だと言ったが……これは、別だ。美味い」


 彼の表情が、ふわりと緩んだ。

 昼間のハンバーグの時の「衝撃」とは違う。

 今は、憑き物が落ちたような、穏やかで優しい顔をしている。

 氷の公爵様が、甘いパンケーキでとろけている。

 そのギャップがたまらなくて、私は思わず胸を押さえた。


(か、可愛い……っ! なんて破壊力なの!)


 彼は無言で、しかし確かなスピードでパンケーキを食べ進めていく。

 合間に私が淹れたブラックコーヒーを飲むと、満足げに息を吐いた。


「……王都の菓子は、砂糖の塊を食べているようで頭が痛くなるものばかりだった。だが、君の料理はどれも、素材の味が生きている」

「素材が良いんですよ。ベルクの卵も牛乳も、最高ですから」

「それを見抜いて、活かせる料理人はそういない」


 彼は最後の一口を名残惜しそうに口に入れ、ナプキンで口元を拭った。

 そして、真っ直ぐな瞳で私を見た。


「レティシア」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

 そういえば、名前を呼ばれるのは初めてかもしれない。


「君がこの街に来てくれて、本当によかった」

「え……」

「俺はずっと、食事という行為が苦痛だった。魔力を消耗するたびに身体が渇き、何を口にしても砂を噛んでいるようだった。……だが、君の料理で初めて、満たされた気がする」


 彼の深いブルーグレーの瞳が、ランプの灯りを反射して揺れている。

 そこには、紛れもない感謝と、そしてもっと熱い何かが宿っているように見えた。


「俺のワガママを聞いてくれるか」

「は、はい。なんでしょう?」

「これからも、俺のために作ってほしい。……他の客のためではなく、俺だけの料理を」


 ドキン、と高鳴る音。

 それは料理人へのスカウトの言葉だ。わかっている。

 公爵家の専属料理人になれという意味だ。

 でも、その声音と眼差しがあまりにも熱っぽくて、まるでプロポーズのように聞こえてしまう。


「あ、あの……お店がありますから、専属にはなれませんけど……」

「わかっている。店に来る。毎日だ」

「毎日!?」

「ああ。朝も昼も夜も食いたいが、公務があるからな。せめて夜は、こうして静かに君の料理を堪能したい」


 彼は少し身を乗り出し、テーブルの上にあった私の手に、そっと自分の手を重ねた。

 大きくて、剣タコのある武人の手。

 でも、驚くほど温かい。


「ダメだろうか」


 上目遣い気味にそんなことを言われて、断れる女性がいるだろうか。

 少なくとも、チョロい私には無理だった。


「……よ、喜んで。お待ちしております」

「ありがとう」


 彼は花が綻ぶように笑った。

 その笑顔の破壊力たるや。

 昼間の冷徹な顔しか知らない騎士団員が見たら、全員気絶するに違いない。


 こうして、夜の密会(?)は終わった。

 ジークハルト様は「明日も来る」と言い残し、軽やかな足取りで帰っていった。

 残された私は、彼が触れた手の甲の熱さを感じながら、しばらく呆然としていた。


「……どうしよう」


 厨房で一人、顔を覆う。

 料理で胃袋を掴むつもりが、私の心臓の方が掴まれかけている気がする。

 

 でも、悪い気分じゃない。

 むしろ、明日は何を作ろうかと考えると、ワクワクしてくる自分がいた。


 ◇


 一方その頃。

 遠く離れた王都の王城では、私の平和なスローライフとは裏腹に、不穏な空気が漂い始めていた。


「おい、どうなっているんだ! 今日の晩餐は!」


 王太子カイルの声が、食堂に響き渡る。

 テーブルに並べられた豪華な料理たち。

 しかし、彼はフォークを投げ捨てて怒鳴り散らしていた。


「味がしない! 肉は硬いし、スープはぬるい! 料理長を呼べ!」

「で、殿下、料理長は変わっておりません。いつも通りの調理法で……」

「嘘をつくな! 先週まではもっと美味かったはずだ!」


 カイル殿下は気づいていない。

 今まで彼が食べていた料理が美味しかったのは、私がこっそりと【保存魔法】で鮮度を保ち、厨房に忍び込んで味の調整をしていたからだということに。

 さらに、彼が苛立っているのは食事のせいだけではない。


 窓の外、王都を覆っていた防御結界が、以前よりも薄く、霞んで見えている。

 聖女ミリアの祈りの力が足りず、結界の維持に綻びが生じ始めているのだ。

 その影響で、人々の心にも余裕がなくなり、城内の空気はピリピリしていた。


「ああ、レティシアお姉様がいなくなって、清々しましたわね」


 隣に座る聖女ミリアは、空気も読まずにニコニコと不味い料理を食べている。

 彼女には味の違いがわからないらしい。

 カイル殿下はそんな彼女を見て、初めて微かな違和感を覚えた。


(……本当に、あいつを追い出して正解だったのか?)


 その疑問が確信に変わる日は、そう遠くない。

 王都の崩壊の足音は、確実に近づいていた。

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